第3章 第1話「兄の旅立ち」
結月の終わりの空は、まだ青さの中に、夜の灰色を、薄く残していた。
ヴァルメール邸の玄関先に、雀が二羽、屋根の縁で鳴いていた。
私は妹クララの小さな手を、自分の手の中にしまっていた。
クララの手は、温かかった。
母エリザベートは玄関の上がり框で、兄マルクの旅装の襟元を両手で整えていた。
母の指の動きは、いつもより少しだけ、ゆっくりだった。
「兄さん、襟が、もう少し、立つわね」
「うん」
兄は、短く、答えた。
兄の声は、十一歳になったばかりの、少し低い、けれども、まだ少年の声だった。
父アンリは兄の旅行鞄の前にしゃがんで、書物を一冊、鞄の奥にそっと足していた。
書物の革表紙は暗い緑色で、背に金箔の文字が、ほんの少しだけ光っていた。
私は、その光を、覚えた。
兄が、家を、出る朝だった。
兄マルク・ヴァルメール、十一歳。賢窓塔・導師専攻、予科一年。
首都リューヴェルの、王立学院の、寮へ、これから、行く。
家から、馬車に乗って、四日。
途中で、宿に二度、泊まる。
母が、その宿の名前を、何度も、何度も、繰り返していたのを、私は覚えていた。
私は、六歳だった。
クララは、三歳半だった。
クララの手の中には、私の指が、四本だけ、入っていた。
五本目は、入りきらなかった。
そのことが、なぜか、その朝、私の中で、はっきりと、感じられた。
前の夜のことだった。
兄が自分の部屋から、私を書斎に呼んだ。
書斎には、父も母もいなかった。
暖炉の火だけが、燃えていた。
兄は暖炉の前の椅子に座っていた。
私は絨毯の上に座った。
兄の足元の絨毯は、夏の終わりの夜には、まだ少しひんやりとしていた。
「テオ」
兄は、私を、見ていた。
「お前は、神に、何を、願う」
兄の声は、低かった。
問いかけるというよりも、自分自身に、確かめるような、声だった。
私は、答えに、迷った。
──六歳の私は、何を願えばいいのか、まだ、知らなかった。
──二十八歳の私の中にいる、もう一人の私は、何かを願うべきだ、と分かっていながら、それが、何なのか、まだ、形に、なっていなかった。
「ぼく、まだ、わからない」
私は、正直に、答えた。
幼い言葉で、答えた。
兄は、しばらく、私を、見ていた。
それから、口の端を、ほんの少しだけ、緩めた。
「いい」
兄は、言った。
「今は、考えなくて、いい」
「だが、いつか、考えろ」
それだけだった。
兄は、それ以上、何も、言わなかった。
暖炉の薪が、一度、はぜた。
火の粉が、暖炉の口の奥で、いくつか、舞った。
兄は、自分の手で、それを、目で追っていた。
私は、兄の横顔を、覚えた。
二十八歳の私の中で、その横顔が、深く、残った。
「お前は、神に、何を、願う」
兄の問いだけが、私の中で、繰り返された。
その夜、私は、答えを、見つけられないまま、眠った。
朝に戻る。
兄の旅装の支度が、終わった。
父が立ち上がった。
父は兄の肩に、自分の手を置いた。
それから肩を、軽く一度だけ叩いた。
それ以上の言葉は、なかった。
兄は、頷いた。
母が、兄の頬に、自分の手のひらを、当てた。
「気を、つけて」
「うん」
「お腹を、冷やさないで」
「うん」
「学院で、誰かに、何か、困らせられたら、必ず、手紙を、書きなさい」
「書く」
兄は、その三つの言葉だけ、答えた。
それから、兄は、私の方を、見た。
「お前が、十のとき、来る場所だ」
「寮の同期は、賢者も、魔剣士も、召喚士も、いる、らしい」
「同じ部屋で、稽古を、する、らしい」
兄の声は、自分自身に、確かめるような、声だった。
私は、その「らしい」を、二つ、覚えた。
兄も、まだ、知らないのだ、と、私は、気づいた。
クララが、母の足元から、ぱっと、離れた。
兄の足に、しがみついた。
「にいさま、いかないで」
クララの声は、まだ、子供のものだった。
兄は、しゃがんだ。
クララの背中を、自分の手で、軽く、抱いた。
「クララ」
兄は、言った。
「俺は、行くけれども、また、帰ってくる」
「かみさまの、おまつりの、ころに、帰ってくる」
クララは、兄の襟元に、顔を、押し付けていた。
兄の襟元が、クララの涙で、少し、濡れた。
兄は、それを、気にしなかった。
兄は、ただ、妹の背中を、自分の手で、撫でていた。
その撫で方は、私が、これまで、兄の手で、見たことの、ない、温度だった。
私は、その撫で方を、覚えた。
私の中で、その撫で方が、確かに、残った。
私は、兄の前に、進んだ。
兄が、立ち上がった。
私は、兄を、見上げた。
兄の背は、私の頭の、二つ分、近く、上にあった。
「にいさま」
私は、呼びかけた。
「おからだに、きをつけて」
兄は、頷いた。
頷いてから、私の頭に、自分の手を、置いた。
私の髪は、母が、いつもより、丁寧に、整えた、その朝の髪だった。
兄の手は、その髪を、軽く、撫でた。
「テオ」
兄は、言った。
「お前は、お父さんと、お母さんと、クララを、守れ」
「お前は、もう、六歳だ」
「俺の代わりだ」
私は、頷いた。
頷きながら、私の中で、何かが、揺れた。
──「俺の代わりだ」と、兄は、言った。
──兄の代わりに、私が、家族を、守る。
──六歳の身体で、私が、何を、守れるのか、分からなかった。
けれども、私は、頷いた。
兄が、もう一度、私の頭を、撫でた。
それから、手を、離した。
家族はサヴァン通りを、駅馬車場へ向かって歩いた。
石畳は、朝の光をまだ十分には受けていなかった。
通りの両側の書店の戸は、いくつかもう開いていた。
書店主たちが、父に会釈をした。
父はそれぞれに、軽く頷き返した。
兄も、頷いた。
私は隣の店の店主に、頭を下げた。
クララは母の手にぶら下がるように、ついて歩いていた。
駅馬車場は、サヴァン通りの突き当たりにあった。
すでに馬車は、待っていた。
四頭立ての、長距離馬車だった。
御者は革の上着を着ていた。
御者の頬には、夏の終わりの日焼けが、まだ残っていた。
兄が自分の旅行鞄を、御者に渡した。
御者はそれを、馬車の屋根に固定した。
固定の縄の結び方が、二回、回って、一回、引かれて、最後に、もう一度、引かれて、止まった。
私は、その結び方を、覚えた。
兄が、馬車の、扉に、手を、かけた。
母が、もう一度、兄の名を、呼んだ。
「マルク」
「うん」
「次は、神月の、祭りに、帰っておいで」
「帰る」
兄は、それだけ、答えた。
兄は、馬車に、乗り込んだ。
扉が、閉まった。
御者が、馬車の側面を、二度、叩いた。
馬たちが、首を、軽く、振った。
その瞬間、私の額に、温度が、来た。
──また、来た。
二十八歳の私の中で、それが、はっきりと、認識された。
額の、髪の生え際の、少し下。
──熱、というほどではない、温もり。
──皮膚の上ではなく、皮膚の、二、三層、内側。
額の温度は、いつものように、来て、いつものように、過ぎていく、はずだった。
家族の方針は、決まっていた。
──人の前で、温度が、来た時は、髪を、触る振りをして、俯く。
父が、岳月の夜に、書斎で、私に、見せた、あの動作。
私は、それを、することが、できる、はずだった。
けれども、その朝、私の頭は、兄の馬車に、奪われていた。
私の手は、髪を、触らなかった。
私の顔は、俯かなかった。
私は、ただ、馬車を、見ていた。
馬たちが、一歩、進んだ。
クララが、兄の馬車を、見上げて、泣き始める寸前だった。
その瞬間、クララの目が、隣の私の額に、止まった。
クララの口が、開いた。
「おにいちゃん」
クララは、言った。
「おでこに、なにか、いたの」
母が、私の方を、振り返った。
母の動きは、いつもの母の動きよりも、ほんの一拍、速かった。
母が、私の前に、回り込んだ。
母が、自分の手で、私の髪を、軽く、整えた。
それから、笑った。
「クララ、よく見ていたわね」
母は、言った。
「お父さんに、似てきたわね、額の形が」
「お父さんの額も、ほら、髪の生え際が、こんな形よ」
母は、自分の手を、伸ばして、父の額の生え際を、軽く、指した。
父が、頷いた。
父は、何も、言わなかった。
ただ、頷いた。
クララは、母の指の先を、見上げた。
それから、私の額を、もう一度、見た。
クララの目が、私の額の上で、しばらく、迷った。
私の額の温度は、もう、引き始めていた。
二十八歳の私の中で、それが、認識された。
クララの目が、私の額から、離れた。
ちょうど、その時、馬車が、動き出した。
兄の乗った馬車が、サヴァン通りの、坂の上に向かって、動き出した。
クララの口が、開いた。
「にいさま」
クララは、叫んだ。
「にいさま、にいさま」
クララの目から、涙が、こぼれた。
クララは、私の手を、ふりほどいて、馬車の方へ、二歩、走った。
母が、クララを、追って、抱き止めた。
私の手は、空に、なった。
私は、その空の手を、もう一度、握り直した。
握り直したけれども、空は、空のままだった。
馬車は、坂の上で、一度、止まった。
兄が、窓から、顔を、出した。
兄は、私たちに向かって、手を、振った。
その手は、短く、一度だけ、振られた。
それから、引っ込んだ。
馬車が、再び、動き出した。
馬車は、坂の上の、向こうへ、消えていった。
クララは、母の腕の中で、泣いていた。
クララの泣き声は、サヴァン通りの、まだ眠っている店の戸に、当たって、跳ね返った。
私は、坂の上を、見ていた。
兄が、消えた、坂の上だった。
私の中で、兄の問いが、もう一度、繰り返された。
「お前は、神に、何を、願う」
──二十八歳の私の中の、書庫の、新しい棚に、その問いが、置かれた。
──答えは、まだ、なかった。
父が、私の肩に、自分の手を、置いた。
「テオ」
父は、言った。
「兄さんが行く先は、お前も、いつか、行く場所だ」
私は、頷いた。
父の手の重さは、私の肩で、しばらく、止まっていた。
それから、父は、手を、離した。
「帰ろう」
父は、言った。
母が、クララを、抱いたまま、頷いた。
私たちは、サヴァン通りを、家の方へ、戻り始めた。
私たちの後ろに、兄の馬車が、もう、なかった。
私は、一度だけ、坂の上を、振り返った。
坂の上には、ただ、朝の青さが、広がっていた。
家に帰った私は、その日、自分の実験ノートを開かなかった。
ノートを開いたら、その朝の馬車のことを書かなければならない、と感じたからだった。
書くことが、まだできなかった。
書くためには、その朝のことを自分の中でもう一度、整理しなければならなかった。
整理は、まだ終わっていなかった。
私はノートを、自分の机の引き出しにしまった。
引き出しを、閉めた。
それから書斎に行った。
書斎には父がいた。
父は机に向かって、書類を読んでいた。
私は父の足元の絨毯に座った。
父は私を見て、何も言わなかった。
父はただ、書類を読み続けた。
私は父の靴の縁の、革の色を見ていた。
革は、長く使われた革の艶を持っていた。
私の中で、何かが、ゆっくりと、降りていった。
その「降りる」感じは、これまでに、知らない感じだった。
二十八歳の私の中で、それが、初めて、認識された。
──兄が、家に、いない。
──兄の不在が、家の中に、新しい形を、作っている。
──その形の中に、私は、自分の足を、これから、置いていくのだ。
私は、その「降りる」感じを、覚えた。
その夜、私は、母の腕の中で、眠る前に、一つだけ、自分の中で、問うた。
──兄は、神に、何を、願ったのか。
──兄は、剣を、握りたかったのに、神は、別の道を、示した、と、私は、家族の話の端々で、聞いていた。
──兄は、神の前で、剣を、と、願ったのだろうか。
──願ったとしたら、それでも、別の道を、示されたのだろうか。
──兄が、私に「お前は、神に、何を、願う」と問うたのは、自分が、剣を、願って、別の道を、示された経験の、上に、あるのだろうか。
問いは、まだ、答えに、たどり着かなかった。
六歳の私は、その問いを、抱えたまま、眠った。
二十八歳の私の中で、その問いが、書庫の、新しい棚に、置かれた。
棚の名は、まだ、なかった。
棚の名が、いつか、決まる日が、来るのだろう。
その日のことを、六歳の私は、まだ、知らなかった。
──兄が、何を、願って、何を、授かったのか、私が、それを、本当に、理解するのは、ずっと、後のことだった。
──けれども、その朝、馬車が、消えた、サヴァン通りの、坂の上の、向こうの空の青さが、私の中に、ひとつ、問いの種を、落とした。
──その種は、その後、私の中で、ゆっくりと、しかし、確実に、根を、伸ばしていった。
──根が、最初の葉を、出すのは、四年後の、神月十五日の、私自身の、神託の朝の、ことだった。
──だが、その朝、六歳の私は、まだ、自分の中に、種が、落ちたことを、知らなかった。
──ただ、兄の手が、私の頭の上に、置かれた時の、温度だけが、確かに、私の額の温度と、同じ深さに、降りてきて、そこに、留まったのだった。
第3章「兄の背中」
第1話「兄の旅立ち」 完
次話「読書院」(七歳・鏡月〜結月)へ続く




