第4章 第1話「街路の前夜祭」
灯月の終わりの午後、ヴァルメール邸の窓辺に、私の机があった。
机の上には、読書院の課題のノートがまだ閉じたまま置かれていた。
私はその上に、両手をのせていた。
ノートの革表紙は、母エリザベートが昨年の春に縫い直してくれたもので、角がもう少しだけ丸くなりかけていた。
窓の外、街路から、金槌の音が聞こえてきた。
馬車の蹄が、石畳を、二度、続けて打った。
子供の声が、遠くで、笑った。
私は、ノートを、開かなかった。
街路の音が、今日はいつもより少しだけ密になっていた。
母エリザベートが、二階から階段を下りてくる足音がした。
私の部屋の扉が、控えめに、開いた。
「テオ、課題は、進んでいるの」
母の声には、咎める色はなかった。
「いいえ、母さま。まだ、開けてもいません」
「正直ね」
母は私の机の横に立ち、窓の外を一度、ゆっくり見下ろした。
「そろそろ、街を、見に行きましょうか。神月の準備が、もう始まっているわ」
母の声が、いつもより少しだけ、柔らかかった。
私は頷いて、机の上のノートを、棚の二段目に、戻した。
ノートは、夜、また開けばいい。
母の手が、私の頭に、一度だけ、軽く触れた。
家を出ると、空気が、冷たかった。
灯月の終わりの午後の風は、すでに、神月の気配を含んでいた。
学者街の石畳は、私たちの靴音を、二人分、四人分の数で返してきた。
父アンリは少し前を歩いていた。
母エリザベートは私の隣を歩き、妹クララは母の手を引いていた。
クララは六歳の冬を、まもなく終えようとしていた。
「お兄ちゃん、きょう、おそとで、なにする?」
クララが、母の手を引きながら、私を見上げて聞いた。
「街を、見るんだよ。神月の、準備を」
「じゅんびって、なに?」
「お祭りの、準備」
「ふうん」
クララは、その言葉を、一度、口の中で転がした。
そして、すぐに、別のことに気をとられて、母の手を、もう一度引いた。
私たちは学者街の坂を下りていた。
ヴァルメール邸は、アルセリアの西の丘陵中腹にある学者街の、上から数えて七軒目の家だった。
坂は、ゆるく、東へ向かって下っていた。
両側の家々の窓は、午後の陽の中で、白く光っていた。
書店主のひとりが、自分の店先の看板を、こちらに向けて、軽く一礼した。
父が、それに、目礼で返した。
私は、その所作の交換を、目に留めた。
学者街の交換は、いつも、こうやって、声を出さずに行われる。
坂の中ほどに、アネット・カステルの父オーギュストの古本屋があった。
「メゾン・デュ・リーヴル」と書かれた木の看板は、塗料が少しだけ剥げていた。
店先の台に、祭礼の冊子が、新しく並んでいた。
父が立ち止まり、その一冊を手に取った。
紙の表紙には、神月の月と、六柱の神々を象徴する印が、薄い藍色で刷られていた。
「アンリさん、お久しぶりです。坊ちゃん、大きくなられて」
店の中から、オーギュストが顔を出した。
灰色の前掛けをして、手には鉛筆を握っていた。
「ご無沙汰しています、オーギュストさん。冊子を、一部、いただきましょうか」
「ええ、どうぞ。今年のは、神官団の解説が、少し長くて、面白いですよ」
オーギュストの目が、ふと、私を見た。
「テオ坊ちゃん、神月の十五日には、なるんだったね」
「はい、おじさま」
私は、頭を、軽く下げた。
おじさま、という呼び方は、母が以前、私に教えてくれたものだった。
街の大人に、自分の名を覚えてもらっている家の子供が、その大人を呼ぶ時の、丁寧な、けれども、固すぎない言い方。
「アネットも、来年でね。二人とも、もう、そんな年になったか」
オーギュストは、自分の店の奥の方を、ちらりと見た。
奥の本棚の影に、アネットがいるのかもしれなかった。
私には、見えなかった。
冊子を抱えて、私たちは、また坂を下り始めた。
中央広場に出ると、街の音が、ひとまわり、大きくなった。
サヴァン通りと、東西の大路が交わるここで、街は、平面に広がる。
広場の中央の噴水は、神月の祭礼のため、水を抜かれて、底に、藁が敷かれていた。
藁の上に、祭礼の灯火台が、これから運び込まれる予定だった。
衛兵が、二人、広場の四隅で、通行整理をしていた。
長い槍を、地面に立てかけ、片手で握っていた。
腰の剣の柄は、磨かれて、午後の陽を、薄く返していた。
衛兵のひとりが、馬車の御者に、何かを短く言った。
御者は頷き、馬車を、東の脇道へ、ゆっくり寄せた。
衛兵の声には、力みがなかった。
毎年、何度も、同じことを言っているのだろう、と私は思った。
広場の北側から、伝書役の少年が、走ってきた。
ふくらはぎが、隆々と、引き締まっていた。
肩に、小型獣を一頭、乗せていた。
茶色の毛並みの、足の速い、子犬ほどの獣だった。
伝書役の少年は、私たちの横を、駆け抜けた。
小型獣の足音が、少年の靴音と、少しずれた周期で、石畳を打った。
「鳥より、速いのよ、あの獣は」
母が、私の隣で、短く言った。
「使い手の方が、特別に、契約しているのね。普通の人は、鳩を使うのよ」
私は頷いた。
使い手、というクラスの言葉を、母は、自然に口にした。
街の人が、使い手という言葉を口にする時、それは、特別な称号ではなく、靴屋とか、書記とか、そういう、当たり前の職種の名前だった。
広場の南側に、白い天幕が四つ並んでいた。
天幕の入り口に、丸い緑の印が縫い付けられていた。
癒し手の、祭礼の救護所だった。
天幕の中の若い女が、私の視線に気付いて、目を細めて微笑んだ。
私は軽く頭を下げた。
広場の西側の街灯のそばで、職人風の男が、はしごに登っていた。
街灯の頂部の魔導具を、点検していた。
男の指が、魔導具の表面に、ゆっくり、触れた。
魔導具が、ほんの一瞬、薄い橙色の光を、灯した。
光は、すぐに、消えた。
「付与師よ」と、母が言った。「街灯の魔導具を、毎年、神月の前に、一度、点検するの」
「点検すると、明るくなる、ですか」
「ええ、ほんの少しだけね。あれが、一晩で消える程度の光」
蝋燭一本分以下。
私は、自分の中で、その物言いを、もう一度、繰り返した。
街の魔法は、そういう、つつましい大きさで、できていた。
広場の北東の角で、リュートを抱えた吟遊詩人が、まだ旋律にならない弦を、軽く爪弾いていた。
その隣に、ロランの父の、メゾン・ベルジエの印刷工房の荷車が止まっていた。
荷台に、祭礼の刷り物が、束ねて積まれていた。
私は、それを、心に置いた。
広場の隅、石のベンチに、占い師の老婆が座っていた。
膝の上に、磨いた白い石を、いくつか並べていた。
通りかかった若い夫婦に、老婆は、にやりと笑った。
「明日の神託で、誰がどんな職を、授かるかね。それを、当てるのは、わたしの仕事じゃないんだよ」
老婆の声は、しわがれていたが、よく、通った。
夫婦は、笑って、銅貨を一枚、老婆の前に置いた。
老婆は、その銅貨を、見もせずに、膝の石の隣に、転がした。
街は、そうやって、動いていた。
クラスを持つ大人たちが、それぞれの場所で、それぞれの所作を繰り返して、街を、回していた。
私は、その動きの中に、自分を、まだ、置いていなかった。
ただ、見ていた。
クラスを持つ大人の街は、こうやって、動いている。
私は、その音を、息と一緒に、吸い込んだ。
広場を抜けて、書店街に入った時、声をかけられた。
「テオ!」
ロランだった。
メゾン・ベルジエの息子のロランは、私と同い年の九歳で、髪の色は栗色、肩幅が、私より少しだけ広い。
父の荷車の積み下ろしを、手伝った帰りらしく、シャツの袖を、肘までまくっていた。
「テオ、お前、神月、もう、いよいよだな」
「うん」
「お前は、何になるんだ?」
ロランは、率直だった。
街の同世代の中で、いちばん、率直だった。
「分からない」と私は答えた。「神さまが、決める」
「俺は、印刷工だな。父さんが、そう言ってる」
ロランは、自分の手のひらを、私に見せた。
掌の内側に、薄く、鉛色の汚れが、残っていた。
活字の墨だった。
「俺、もう、ほとんど、機械の動かし方、覚えたぞ。神託で、職工が出れば、すぐ、見習いに入れる」
ロランの言い方は、自慢ではなく、報告だった。
ロランの中で、印刷工になることは、もう、決まっていた。
神託は、その決まりに、名前をつけてくれるだけの、儀式だった。
「お前は、賢者になるんだろ」
ロランが、軽く、笑って言った。
「お前の父さん、王立図書館の副司書長だろ。賢者の家系だ」
私は、頷きも、首も振らなかった。
胸の奥で、何かが、ほんの少しだけ、小さく、揺れた。
賢者、という単語が、ロランの口から、出た時の軽さを、私は、胸に置いた。
それは、伝説の単語というよりは、書記の家系の、長男の進路の予想として、自然に、口にされていた。
ロランの背後から、ピエールが歩いてきた。
ピエールは、街路の衛兵を、真似て歩いていた。
槍の代わりに、長い棒を、肩にかついで、姿勢を正していた。
「ピエール、衛兵かよ」
ロランが、笑った。
「俺は、神託で、衛兵が、出ると、信じてる」
ピエールは、真面目な顔で答えた。
ピエールの家は、サヴァン通りの東の端のパン屋で、家系的に、無冠者が、多かった。
それでも、ピエールは、衛兵になりたかった。
私は、ピエールの棒を、見ていた。
棒の握り方が、衛兵のそれと、よく、似ていた。
毎日、見ていたのだろう、と私は思った。
「ピエール、おまえ、無冠だと、衛兵にはなれない、わけじゃないだろ」
ロランが、控えめに言った。
「うん。けれども、神託で、出れば、はやい」
ピエールは、自分の言い方を、よく、選んでいた。
九歳のピエールの中で、すでに、神託が、人生のすべてを決めるわけではない、という考えが、ちゃんと、置かれていた。
私は、その置かれ方を、目に留めた。
「テオ、お前、いいよな」
ピエールが、ふと、私を見て、言った。
「お前は、たぶん、賢者だ。皆、そう言ってる」
私は、答えなかった。
ロランも、ピエールも、その「皆、そう言ってる」を、悪意なく、口にした。
街の人の口にする「賢者」と、私の額に、年に数回、薄く、灯るものとは、たぶん、違う形をしている。
私は、自分の中で、その違いを、はじめて、はっきりと、置いた。
「テオ!」
別の声が、書店街の路地から、聞こえた。
ニコ・モロワが、本を一冊、胸に抱えて、走ってきた。
ニコは、私の読書院の隣席の友だった。
「父さんが、お前は賢者って言ってた。ほんとう?」
ニコは、走り寄って、息を整えながら、まっすぐに聞いた。
ニコの父は、学者街の中堅の学者で、家系として、賢者という言葉を、より、伝説の単語に近いものとして、扱っていた。
「さあ、どうだろうね」と、私は答えた。
「ふうん」
ニコは、それ以上、追わなかった。
代わりに、抱えていた本を、私に、見せた。
「お父さんが、これを、神月の前に、読んでおきなさいって。難しいのに」
本の背に、神官団の編纂による、神々の名鑑、と書かれていた。
私は、その表紙を、見て、刻んだ。
ニコの父は、ニコに、すでに、自分の家系の延長を、託していた。
ニコは、それを、まだ、嫌がっていなかった。
少し、離れた、書店の店先で、アネットが、いつもの通り、笑っていた。
私と目が合った時、アネットは、軽く、手を振った。
私も、軽く、振り返した。
アネットの目には、二年前の、中庭の鬼ごっこの瞬間の、何かの記憶は、もう、なかった。
母が、あの時、彼女に、「夢でも見たんでしょう」と言った、あの言葉が、彼女の中で、形を、成していた。
私は、安堵した。
その安堵は、しかし、薄い後ろめたさを、伴った。
私は、アネットの中に、自分の額の話を、覚えていない場所を、作って、生きている。
それは、私の選びだった。
家族のための、選びだった。
帰り道、私たちは、坂を、登った。
街の音が、背中から、少しずつ、遠ざかっていった。
学者街の坂の中ほどで、母が、足を、止めた。
「もう少し、下を、見てみる?」
母の指は、坂の下、東の方を、軽く差した。
プチ=ロワ川の方角だった。
印刷工房街が、その川沿いに、低く、広がっていた。
午後の陽の中で、煙突から、薄い煙が、いくつも、上がっていた。
「あそこに、ロランの父さんの工房が、あるのよ」
母が、私の顔を、見ずに、言った。
私は、頷いた。
私たちの家は、丘の中腹にある。
街の声は、丘の下から、登ってくる。
工房の煙は、川沿いから、立ち昇る。
街は、そうやって、上と下に、分かれて、重なり合っていた。
「お兄ちゃん」
クララが、私の袖を、引いた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「うん」
「お兄ちゃんは、何になるの?」
クララの目は、まっすぐ、私を見上げていた。
「お父さまみたいに、書記? それとも、お母さまみたいに、教導者?」
クララの中で、進路の選択肢は、その二つだった。
賢者、という単語は、クララの中には、まだ、なかった。
魔剣士、という単語も、無かった。
それは、伝説の単語で、現実の進路としては、想定されていなかった。
私は、クララの目を、見て、答えた。
「お父さまみたいに、なるかな」
「そう」
クララは、頷いた。
「じゃあ、クララも、お父さまみたいになろうかな」
「うん」
「でも、それは、神さまが、決めることでしょ?」
クララの言葉は、軽かった。
軽さの中に、子供が、知らずに、世界の一番大きな仕組みを、口にしてしまう、あの、独特の、無造作な、確かさが、あった。
私は、クララの手を、握り直した。
クララの掌は、まだ、温かかった。
母が、その様子を、横で見て、何も、言わなかった。
父は、少し前を、歩いていた。
父の背中は、まっすぐで、いつもの通り、静かだった。
坂の上から、街を、見下ろすと、明日からの祭礼の灯が、まだ、灯っていなかった。
広場の藁の上に、灯火台が、これから運ばれてくる。
街灯の魔導具は、付与師が、点検を終えたばかりだった。
衛兵は、明日も、同じ場所で、槍を立てる。
伝書役の少年は、明日も、案内状を、走って届ける。
癒し手の天幕は、もう、立てられていた。
吟遊詩人は、まだ、旋律を、捕まえていなかった。
印刷工の荷車は、もう、別の角に、移っていた。
占い師の老婆は、白い石を、夕陽の中で、磨き直していた。
私は、その全部を、息と一緒に、覚えた。
灯が灯る前夜の、すこしだけ寒い空気の中で、私は、何かを、確かに、覚えていた。
それが、私の中で、何の形になるのかは、明日には、まだ、分からなかった。
クララの手が、私の手の中で、もう一度、強く、握り返してきた。
「お兄ちゃん、おうち、まだ?」
「もう少し、だよ」
「もう少しって、どれくらい?」
「あと、十二段くらい」
「ふうん」
クララは、足元の石畳を、数え始めた。
一、二、三、と、数える声が、坂の途中で、薄く、響いた。
私は、その数えを、覚えながら、坂を、登った。
街は、私の背中で、夕暮れの方へ、ゆっくり、傾いていった。




