第7章 第2話「観察、終わり」
翌日、ナタリは私たちを私室に呼んだ。
机の上に、あの分厚い帳面が置かれていた。
第二のときに、彼女が背表紙だけ見せて開かなかった、あの帳面。神々のおかしいことを数年集めた記録。あのとき彼女は言った。見たければ、先に、あなたたちが何者か見せて、と。
私は第三の夜に、前の生のことを明かした。そして私たちは第六で失敗し、第七で連携を確立した。観察し合ってきた私たちは、もう互いの根を知っていた。
ナタリは、帳面に手を置いた。今日は、開いた。
「全部、見せる」
彼女は言った。いつもの軽さの奥に、何か改まったものがあった。
「第二のときは見せられなかった。会ったばかりだったし。——でも、もう、いいでしょ。あなたたちが何者かは、もう分かった。前の生のことも聞いた。一緒に戦って、一緒に失敗して、一緒に立て直した。——観察、終わり」
彼女は私を見て、にやりとした。
「あなたたちは、合格」
帳面が、開かれた。
何百枚もの紙。びっしりと書き込まれた観察の記録。日付。場所。誰が何を言ったか。色分けされた付箋。前に見たときは背表紙だけだった。今、その中身がすべて目の前にあった。
圧倒された。
これだけのものを、彼女はたった一人で何年もかけて集めたのだ。神殿が書き残さない空白を埋めるために。巡礼や商人の口伝えを一つずつ拾って、点を打ち続けた。私が帳面に点を打つのと、同じことを、彼女はもっと長く、もっと孤独に続けてきた。
書き方にも、彼女の人柄が出ていた。一つの報せに必ず、日付と場所と、誰から聞いたかを添える。確かさの度合いを印で分ける。確かな証言には赤。又聞きには青。怪しいものには灰色。——前の世で、何かを検める仕事をしていたのだろう、と思った。事実と噂を混ぜない。それを徹底する癖。私の研究の流儀と、同じだった。
「これ、どうやって分類してるんですか」
ファルが、付箋の色を指して訊いた。
「確からしさよ。赤は、自分で確かめたか、信用できる人から直接聞いたもの。青は、又聞き。灰色は——眉唾だけど、捨てきれないもの」
灰色の付箋が、いちばん多かった。神々の異変は公には語られない。だから確かな証言は少ない。彼女は、その少なさと戦ってきたのだ。
「すごい……」
ファルが、絶句した。
「これ、ぜんぶ、一人で?」
「ええ。誰も手伝ってくれなかったもの」
ナタリは、軽く言った。けれどその軽さの裏に、長い孤独があった。神を量るのは信仰ではない。兄にそう言われ、神殿に黙殺され、それでも彼女は書き続けた。今、初めて、その記録を見せられる相手ができたのだ。
私は、記録を読んだ。
完全記憶がある。一度目を通した頁は忘れない。私は、彼女の数年を頭の中に写し取っていった。
神々の異変の記録。賢者神の声が痩せた、という各地の証言。契約の神が分裂した、という報せ。導きの神が同じ神託を繰り返す、という記録。——今なら、それを読んでも、私はためらわなかった。総本山で私は確信した。神々は機能していない。だから、この記録の一つ一つが、その確信を裏づける点として読めた。
けれど。
記録の奥に、空白があった。
なぜ、神々がこうなったのか。その原因。それはどこにも書かれていなかった。ナタリも知らないのだ。彼女は何が起きているかは集めた。けれどなぜ起きているかは、まだ分からない。私も同じだった。総本山で私が確信したのは、神々が機能していないという状態だけ。なぜ機能しなくなったのか——その答えは、誰も持っていなかった。
「ここから、先が」
ナタリが、空白の頁を指した。
「分からないの。何が起きてるかは分かった。でも、なぜ、かは。——これはまだ空白。あなたたちと一緒に、埋めたい空白よ」
そして、もう一つ。
記録の束の、いちばん奥に、あの一枚があった。整理されていない走り書き。第二のときに床に落ちた、あの紙。ナタリがノイズ、と呼んだ一枚。
私は今度は、それを見ることができた。けれど——やはり、分からなかった。東のほうの地名。約七年前。一件だけ。前後に似た点がない。神々の異変とも繋がらない。
「それも、まだノイズ」
ナタリが、言った。
「ずっと引っかかってるんだけど。どこにも繋がらないの。だから捨てられない。——いつか、文脈ができるかも、しれないと思って」
私は、それ以上深く追わなかった。彼女が繋げられないものを、私がすぐに繋げられるはずもなかった。ただ私も、自分の帳面の隅に、その一枚のことを書き写した。東。約七年前。一件のみ。——いつか文脈ができる、かもしれない。
ナタリが、帳面を閉じた。
「これで、わたしのぜんぶ。隠し事は、なし」
彼女は伸びをした。長年一人で抱えてきたものを下ろした、ような顔だった。
「ねえ。前の世の、大勢の、狩りでも——」
言いかけて、彼女は止まった。それから言い直した。
「……ええと。大勢で力を合わせる、ああいうのでも。こんなに楽しかったこと、なかった。一人で点を打ち続けるのは、寂しかったの。誰にも見せられなくて。——やっと、見せられる相手ができた」
私は、その言い直しに気づいた。前の世の言葉を使いかけて、彼女はこの世界の言葉に言い換えた。私たちに伝わるように。あるいは——彼女自身が、この世界に馴染み始めている、しるしかも、しれなかった。
「私たちも」
私は、言った。
「お前の点を、一緒に見る。一人で見ていたものを、四人で見れば、線が増える」
ナタリは頷いた。琥珀色の目が少し、潤んでいた。けれどすぐにいつもの軽い顔に戻って、言った。
「じゃ、これでわたしも正式に、組の一員、ってことで、いい?」
「とっくに、そうだ」
アスリさんが、短く言った。
「お前はもう、私たちの戦いの半分を回している。今さら、何を」
ファルも頷いた。
「シェフも、ナタ姉のこと、好きですよ。バフ、気持ちいいって」
「ナタ姉?」
ナタリが目を丸くした。それから、噴き出した。
「なに、それ。——いいわね、それ。ナタ姉。弟が、もう一人、増えたみたい」
聖都に残してきた弟のことが、よぎったのか、彼女の目が一瞬揺れた。けれどすぐに笑った。新しい弟たち。砂の子と、剣の人と、理屈の私。血の繋がりはない。けれど、点を見せ合い、失敗を分け合い、立て直してきた四人。
観察し合ってきた四人が、今、本当にひとつの組になった。第二のときに開かれなかった帳面が、今、開かれた。それが、その証だった。信頼は一足飛びには来なかった。テオが前の生を明かし、四人で失敗し、立て直し、そうしてようやくナタリは最後の扉を開いた。段階を踏んで築いた信頼だった。だからこそ、もう崩れない気がした。
帳面の空白を、私は思った。
なぜ神々は機能しなくなったのか。その答えは、ここには、ない。けれど手記の空白は、東と北を指していた。声を発さない二柱の地。そこに、たぶん、次の点がある。私たちは、その空白を埋めに行くのだ。四人で。いや——もうすぐ、もっと増えるのかも、しれない。




