第7章 第3話「流れの神に近すぎる子」
ナタリの離脱は、簡単ではなかった。
循環の家の娘が、神官を辞める。それも、神を量る旅に出るために。神殿の上層部は、渋った。けれどナタリには、手があった。
「派遣、という形にするの」
彼女は私たちに説明した。
「神官団の名で、わたしを『派遣』する。西の賢者の一行に同行する観察者として。——上は、わたしを手放したくない。なら、繋がりを残したまま出る形にすればいい。神殿の面子も立つ。わたしは自由に動ける。両方、得する」
総司教とのやりとりは、私たちには見えなかった。けれど彼女は、それをまとめてきた。算盤の心は戦いだけではなかった。人と人のあいだの損得も、彼女は計算できた。
正式な手続きが済んだ、その夜。ナタリは家族に告げることになった。
父ボリスの書斎は、二階にあった。
聖典と注解書の並ぶ部屋。荘重な神官の城だった。ナタリは私たちを廊下に待たせて、一人で入った。けれど戸は薄く開いていた。声は聞こえた。
「お父さま」
ナタリの声。いつもの軽さは、なかった。
「私、神官、辞めるわ。——神様を、観察してくる」
長い沈黙があった。
父ボリスの声は荘重だった。娘を咎める言葉が来る、と私は思った。神を量るのは信仰ではない。お前は神官だ。神を量るな。——以前、彼がそう言った、とナタリから聞いていた。
けれど。
聞こえてきたのは、咎めでは、なかった。
「……行きなさい」
ただ、それだけだった。
「お前は昔から、そういう子だった。私には、お前の見ているものが見えなかった。止める言葉も持たぬ。——ならば行きなさい」
断定型の父の、精一杯の譲歩だった。理解はできない。けれど止めない。神官として生きてきた父が、神を量る娘を、黙って送り出す。それは彼にとって、信仰を曲げるほどのことだったのかも、しれない。
ナタリが、戸を開けて出てきた。目が赤かった。けれど何も言わなかった。
母タチアナは、一階の薬院にいた。
薬草と乾物の匂いのする部屋。母は娘の旅装に、薬瓶の並んだ革の帯と、分厚い処方帳を持たせた。
「よく食べて、よく眠りなさい」
穏やかな声だった。
「旅の疲れは溜めると毒よ。この処方帳があれば、たいていの手当てはできる。——あなたは、自分の命を削る癖があるでしょう。だめよ。ちゃんと回復させなさい」
母は娘の弱点を知っていた。リソースを使い切る癖。それは母の薬院で育ったせいかも、しれなかった。効くか効かないか、でしか物を見ない。その見方を娘に教えたのは、母自身だった。
「お母さま……」
「いいから、行きなさい」
母は娘を抱きしめた。短く。それから薬院の奥へ戻っていった。涙を見せないように。
弟のアレクセイは、中庭にいた。十三歳の少年。姉が旅立つと知って、唇を噛んでいた。
「姉さん。本当に、行っちゃうの」
「行くわ」
「……いつ、帰ってくるの」
ナタリは答えなかった。代わりに弟の頭を、くしゃくしゃと撫でた。
「アリョーシャ。あんたは来年、神託でしょ。——立派な神官になりなさい。私のぶんまで」
弟が泣いた。声を上げて。ナタリはその泣き顔をしばらく見て、それからぎゅっと抱きしめた。守るべき弟を残していく。それが彼女の、いちばんの重荷だった。
「姉さんは」
しゃくり上げながら、アレクセイが言った。
「どうして、そんなに神様のこと知りたいの。神様は祈るものだって、イーゴリ兄さんは言うのに」
ナタリは少し考えてから、答えた。弟にも分かる言葉で。
「祈るだけじゃ守れないことが、ある、と思うからよ。——神様が、もし困っているなら。祈るより見て、何が起きてるか知って、それから何ができるか考えたいの。あんたを守るのも同じ。祈るだけじゃなくて、ちゃんと知りたいの」
弟には半分も伝わらなかったかも、しれない。けれど姉の声の真剣さは、伝わったらしかった。アレクセイは涙を拭いて、こくりと頷いた。
私は、そのやりとりを少し離れて聞いていた。神を量るのは信仰ではない。兄はそう言う。けれどナタリの観察の根には、守りたい、という願いがあった。冷めた観察者の顔の奥に。それは私の観察の根とも、どこか似ていた。
最後に、ナタリは祖母に会いに行った。
聖都の北のタイガの奥。隠居した祖母エヴドキアの小屋。私たちも少し離れてついていった。
老いた巫女は、小屋の戸口に立って孫を待っていた。来ることを知っていた、ような顔だった。
「ナターシャ」
愛称で彼女を呼んだ。家族の中で、ただ一人。
「来たね」
「おばあさま。私——」
「言わなくて、いい」
祖母は孫の言葉を遮った。静かな、けれど確かな声だった。
「お前は流れの神に近すぎる、子だ。——昔から、そう言ってきたろう。お前は近すぎて、かえって神をまっすぐには見られない。だから量る。だから観察する。それが、お前の祈りのかたちなのだ」
予言的な声だった。長く神に仕えた者の達観。彼女だけが、孫の異質さを咎めず、受け入れてきた。
「だから」
祖母は孫の頬に手を当てた。
「お前にしか聞こえない声が、ある。ここでは聞こえない声が。——それを聞きに行きなさい。遠くへ。お前は遠くへ行く定めの子だ」
遠くへ行く定め。祖母はそれを直観で知っていた。けれどそれ以上のことは——孫がいったい何者で、どこから来たのかは、彼女にも見えていなかった。ただ、遠くへ行く子だ、と、それだけを静かに見抜いていた。
ナタリが祖母に抱きついた。子供のように。祖母はその背を、ゆっくりと撫でた。
出立の朝が来た。
ナタリは神官服を脱いで旅装になっていた。白と赤と金の刺繍の上に、略式の法衣を一枚だけ羽織って。腰に母の薬瓶ベルト。背に観察の帳面。彼女はもう、聖都の神官ではなかった。観察する旅人だった。
五人——いや、四人と三匹で聖都の門を出た。ナタリが振り返った。金色のタマネギ屋根の丘。生まれ育った都。家族のいる街。長いあいだ彼女を異端と囁いた街。
「行きましょ」
彼女は前を向いた。涙は、もうなかった。
私たちは街道を北へ取った。東と、北。声を発さない二柱の地。そのうちまず北へ。北嶺の工都へ。手記の空白がそこを指していた。半世紀前の研究者の北の友も、そこから来ていた。
私は帳面を開いて書いた。ナタリ・ヴォルコワ、合流。四人になった。
筆を止めて前を見た。北へ続く道。その果てに、まだ見ぬものが待っている。
北に。
まだ、会っていない、知が、二つ、ある。




