82 春の用事(2)
リネン通りは、王都の東側にある布地商の集まる一角だ。
午後の陽光が石畳を温め、通り沿いの店先には色とりどりの反物が並んでいる。行き交う人々の足取りも、冬のそれとは明らかに違っていた。どこか軽やかで、急いていないような、そういう春の空気がそこにはあった。
エマは仕立て屋で色見本の照合を終え、布地を受け取ってから、しばらく通りをゆっくりと歩いた。
「気をつかわせてしまいましたかね……」
キャサリンは夕方と言っていたので、あまりに早いと不審がられるだろう。
ひゅるりと、春の風がエマの頬をなでた。
冷たくはない。
だからと言って温かいとも言い切れない。
季節の変わり目の気候だ。
ダライアスが好きだったのもこの時期だ。
自分を未亡人にしたことは悔み続けていてほしいが、この季節に旅立てたこと自体は本望だったはずだ。
エマの思考が自然とダライアスに向かう。
年に一度、この季節になると、決まって夫を思い出す。とりたてて特別なことをしていたわけではない。まだ出かけるには少し肌寒いので、日差しの中で他愛のない話をすることが多かった。それだけのことが、いつまでも胸の奥に残っている。
心の中でついつい名前を呼んでいたことに気がついたエマが、頭を横に振って雑念を追い払う。
「いっそ、次の恋でもしてみればいいんでしょうかね……なんて」
冗談を口にしてみたはいいものの、行動する気にはなれそうにない。
死別してから、相応の時間は経過している。社会的にも、喪に服す義理は十分に果たしたはずなので、再婚をしたところで咎められることはないだろう。ダライアスだって快く許してくれるはずだ。
だからこそ――である。
平然と笑って送り出してくれそうだからこそ、エマには踏ん切りがつかなかった。
「……」
嫉妬してほしい。
束縛されることを望んでいるわけではないが、だからといって一切やきもちを焼かれないというのも味気ないではないか。そんなのは余計に切なさを感じるだけである。
「それに今はお嬢様のお世話もありますからね。新しい春にうつつを抜かしている場合ではありません」
それは単に依存する先を変えただけだったのかもしれない。
歩みを止めることなく、エマがゆっくりと通りの端に目をやった。春の花が小さな鉢に植えられていて、軒先にいくつも並んでいる。白と黄色と、薄紫。ダライアスはこういう小さな花を愛でていた。当時を振り返ってみれば、自分のことなのにあまりに子供っぽくて呆れてしまうが、背丈の高い自分と比較して、花を憎たらしく思ったものである。
もう何年前のことになるだろうか。
正確な年数は数えていない。
数えるたびに、夫との距離が遠くなる気がして、いつからかやめてしまった。
通りの角を曲がったとき、それは起きた。
前から歩いて来た男性と、真正面からぶつかりそうになったのだ。とっさに荷物を抱え直すと、その拍子に布の包みがわずかに傾いた。
「あっ、ごめんなさい!」
相手の男も、慌てたように手を伸ばして荷物を支えて来たので、落とさずに済んだ。
エマが顔を上げる。
「……」
言葉が出なかった。
30代の後半だろうか。
穏やかな目元に、少しだけ人の良さそうな表情をした壮年が、そこに立っていた。エマが動けないでいることに気づいたらしく、青年は困ったように眉根を下げる。
「荷物が重いのですか? よろしければ――」
「いいえ」
遮るようにエマは答えた。自分の声が、強張ったように固くなっている。
「大丈夫です。ありがとうございます」
丁寧に一礼してから、荷物を引き取る。なおも心配そうな顔をしていた男だったが、ほどなくして「それはよかった」と笑った。
その笑い方が――いや、顔かたちさえもが似ていると思った。
まるで複製品だ。ちょうど、この世にいるはずのない2人目の同じ人間に出会ったかのようである。
不自然な緊張を帯びたまま、エマは踵を返して歩きだす。背中に青年の足音が遠ざかっていくのを感じた。
まもなく、通りの喧噪が戻った。
前だけを見て、まっすぐに歩く。
決して振り返ることはしない。
荷物を抱える手が、ほんのわずかに湿り気をまとっていた。
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夕暮れ前に屋敷へ戻った侍女を、キャサリンは玄関で出迎えた。
「お帰りなさい。確認は取れた?」
「滞りなく。こちらに」
布地の包みをエマが差し出す。
キャサリンが受け取りながら、エマの顔をさりげなく確かめた。
いつもと変わらない。
表情も声音も、整然としている。
――まあ、そうよね。
1人の時間が役に立ったかどうかは、エマ本人にしかわからない。それでいいともキャサリンは思っている。
「変わったことは何かあった?」
「いいえ、特には」
間髪入れずに答えは返って来る。それ以上キャサリンは追及しない。
「そう、ご苦労様」
短く言って、布地に目を落とす。
エマが一礼して、部屋の端に戻っていく。
いつもと同じ、静かな夕方だ。
キャサリンは布地を広げながら、ふと窓の外を見た。
春の夕暮れが、王都をやわらかく染めている。
明日になれば、またいつものように仕事が始まる。
それでいい。
そのはずだった。
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