81 春の用事(1)
春になった。
王都の石畳から雪が消え、代わりに薄い花びらが風に舞うようになった。屋敷の中庭では、冬の間に枝だけになっていた木々が、うっすらと緑を取り戻しつつある。日の差す時間が長くなり、午後の応接室にはやわらかな光が満ちていた。
キャサリンは机の前に座り、書類に目を落としていた。
手を動かしながら、隣の気配をときおり確かめる。
エマは今日、静かだ。
いつもと変わらない所作で部屋の端に控え、必要があれば前に出る。声音も表情も、いつもと変わらない。
変わらないはずなのに、どこかが違う。
――何かしら。
キャサリンはペンを走らせながら、侍女のほうへと横目をやった。
エマは窓の外を見ていた。
視線の先には、中庭の木々がある。
ほんの一瞬のことだったが、確かにキャサリンはそれを見た。
エマが目を細めて、春の緑をじっと見つめていたのだ。
――珍しいわね。
感傷的な顔など、めったにしない侍女だ。
キャサリンは何も言わなかったが、代わりに机の引き出しを開けて、畳んでいた紙を一枚取り出した。数日前から用意していたものだった。
「エマ」
「はい」
すぐに侍女が前に出る。顔には、いつもの無表情が戻っていた。
「今日の午後、少し出かけてもらえるかしら。王都の東側、リネン通りの仕立て屋に布地の確認を頼みたいの。指定の色見本と照合して、問題なければ受け取ってきてちょうだいな」
紙を差し出す。
受け取ったエマが、すぐさま内容に目を通した。
「承知しました。午後の三時までには戻れるかと」
「急がなくていいわ。夕方で十分よ」
エマが小首を傾げる。
普段のキャサリンであれば、用件が終わり次第戻るように指示していたはずだ。わざわざ夕方まで猶予を持たせる理由に、エマには心あたりがないと見える。
「どうかなさったのですか?」
「何も……。ただ、ついでに春の王都でも眺めて来なさいな。あなた、最近ずっと屋敷にこもりっぱなしでしょう?」
ここ数週間、エマは仕事以外ではほとんど外に出ていない。
「外の空気を吸うのも仕事のうちよ。そういうことにしておくわ」
エマがわずかに目を細める。何か言いかけるように口を開いたが、結局は恭しく返事をするだけだった。
「かしこまりました」
短く答えて、一礼をする。
その顔には何も浮かんでいない。
ただ、部屋を出ていく直前に、もう一度だけ窓のほうへと視線をやったのを、キャサリンは見逃さなかった。
扉が閉まる。
静かになった応接室に、キャサリンはペンを置いた。
――今日は、ダライアスの命日だったわね……。
エマの夫だ。
キャサリンがエマを侍女として雇い入れたのは、ダライアスの死から1年が経った頃のことだった。エマはその理由を語ったことがない。だが、エマの生家がひどく没落していたことは、調べればすぐにわかる。ほかに選択肢がなかったのだと、キャサリンは理解していた。
今日という日に、エマが何を思っているのかは知らない。
尋ねるつもりもない。
ただ、1人でいる時間を作ることだけは、キャサリンにもできた。
――まあ……それくらいしか、できないのだけれど。
キャサリンは窓の外に目をやった。
中庭の木が、春風に揺れている。
花びらが1枚、ふんわりと空に舞い上がって、どこかへと消えた。
キャサリンは何も言わずにまたペンを取った。
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