幕間 (後編)私のヒーロー
病院は、長屋からしばらく歩いたところにある。
ビオラは帽子を被り直し、また背中を丸めて路地を歩く。
すれ違う人間は、だれも彼女を見ない。
それでいい。
見られなければ、気づかれないし、たどれもしない。
絶対に知られるわけにはいかないのだ。
何があっても、ハインリッヒとの関係だけは秘密にする。それこそがビオラの執念にも似た行動の動機だった。
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病室は静かだ。
白い天井。
窓から差しこむ冬の薄日。
そして、ベッドの上で目を閉じたままの男。金に糸目をつけず、最先端の治療を施しているが、一向に目を覚ます気配はない。
ビオラは椅子を引いて、その傍らに腰を下ろした。
いつもと同じ動作で、いつもと同じ場所に座る。
「……」
しばらく、ただ黙って横顔を眺めた。
整った顔立ちだ。
目を開ければ、きっと笑うだろう。馬鹿みたいに真っすぐな笑顔で、何か余計なことを言うに違いなかった。
「ねえ……起きてよ」
声は低く、だれにも届かない音量だった。
ふと、脳裏にキャサリンとの会話が蘇る。
『……撤回なさい。たしかに、ベアトリス嬢は少しばかり夢見がちな部分があるかもしれないわ。でも、その純真さと献身さは、自分をお姫様だと思っていてもお釣りが来るほどのもの。ヒーローに助けてもらうだけじゃない。ベアトリス嬢だって、ヒーローの優しさに応えるだけの覚悟を持っているわ。対等のはずよ。ベアトリス嬢を馬鹿にする発言は撤回なさい』
ベアトリスがどういう女性なのかはよく知っていた。ダメ男であっても、奪われれば傷つくだろうことも。
だが、ダメンズ以外には手を出さないこと。それこそがビオラのできる最大限の配慮だった。
確かに、ベアトリスの純真さと献身さは本物なのだろう。それはビオラも積極的に否定しようとは思わない。道徳的に清純であることは美点に違いないはずだ。
それでも、待っているだけではどうにもならない現実がある。淑やかにただずむことが、いったい何になるというのか。
「純粋さなんてもうとっくの昔に売っちゃったわよ、馬鹿女……」
自分が汚れなければ、ずいぶんと前にハインリッヒの命の炎は消えていたはずだった。
恋い慕っている相手を救うためには、絶望的なまでに資金が不足していた。
ビオラは社交の場に出るたびに、今後もそこにいる誰かを傷つけることになる。だが、お姫様のままでいることでヒーローを失うくらいなら、悪女になってでも支えてみせるというのがビオラの偽らざる本心である。
独り言は、静かな病室に溶けていく。
答えはない。
同室の人間は、決して口を開かないのだから、あるはずがなかった。
窓の外では、雪がまた降り始めている。
「……」
ビオラはしばらくその場を離れなかった。
彫像のようなハインリッヒの横顔を、ただじっと眺めていた。ベアトリスのことが無性に羨ましかった。清純なままで、自分の好きな相手と向きあうことのできる彼女のことが憎たらしかった。
だから、傷つけてもいいと思った。
健気さが実を結ぶことなんてないのだと教えてやりたかった。孤児院も同じだ。待っているだけじゃ、どうにもならない。
もしも、そうではないのだとしたら――忠犬のように控えているだけで叶うのならば、いったい自分はどうなるのか。
ビオラとて、貴族の生まれだ。
淑女としての作法は叩きこまれている。
それらすべてをハインリッヒのために変えたのだ。淑やかでいることが幸せの秘訣だというのであれば、ハインリッヒが自殺未遂をすること自体あってはならなかったはずだ。
純粋さでは救われない。
それがビオラの結論だった。
「……」
だが、不安に駆られることもある。
売女・尻軽・あばずれ……。周りの人間にどれだけの罵詈を浴びせられようとも、ビオラにしてみれば屁でもないが、ハインリッヒはどう思うのだろうかと気持ちが落ちこむこともある。
いざ目を覚ましたハインリッヒに、蔑みの視線を向けられてしまったら、心が折れてしまうかもしれない。
どれだけ時間が経ったのかはわからないが、やがてビオラは立ち上がると、帽子を被り直していた。
扉に手をかけるところで、一度だけ振り返る。
「これ以上、何を捧げたら目を覚ましてくれる?」
廊下を歩き、病院の外に出ると、冷たい冬の空気が頬を刺した。
雪はまだ降っている。
ビオラは帽子の鍔を少し下げて、また背中を丸め、王都の通りを歩き始めた。
だれも振り返らない。
だれも気づかない。
白く積もった石畳に、1人分の足跡だけが続いていた。
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次回作へのモチベーションアップにもつながりますので、なにとぞよろしくお願いいたします。(*・ω・)*_ _)ペコリ




