72 二つの準備(3)
キャサリンたちがヒューゴの屋敷を訪れたのは、文を送ってから三日後のことだった。
20代の半ばほどだろうか。
整った顔立ちに、やや陰のある目元。
本来は穏やかな雰囲気の青年なのだろうが、今は疲労の色が全身に滲んでいる。
エルフェルト家のことは知っているようだったが、なぜ来たのかがわからないという顔で、向かいの席に座っている。
「突然のご連絡にもかかわらず、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。公爵令嬢が自分などにどんな御用かと……」
「単刀直入に申し上げますわ」
遮ったキャサリンに、ヒューゴの背筋が少し伸びる。
「あなたが、グリーンフィールド夫人とレイチェル嬢の動きを調べていることは知っています。集めた証拠を、私と一緒に使いませんか?」
沈黙。
ヒューゴがキャサリンを、測るように目を細めた。
「どうして、あなたがそれを」
「私のほうにも、色々と情報が入りますの」
当然の問いだ。
しかし、それ以上の説明をする気はなかった。キャサリンは微笑んだまま、ヒューゴの出方を待つ。
「なぜ、自分に声をかけたのですか?」
「みなまで言わなくともわかるでしょう? アンネ嬢です」
ヒューゴの表情が、かすかに揺れた。
「……アンネからエルフェルト家の名を伺ったことはありませんが」
「最近はフィリップ様との親交が厚く、これを機に私も芸術分野に積極的に携わろうと思いまして」
「ありがたい申し出ですが、自分は1人でも――」
「アンネ嬢の不調を目撃しました」
キャサリンはあえてヒューゴのほうは見なかった。
もちろん、ヒューゴにも理想はあるだろう。好きな相手が困っているのだ。それを救うのは自分でありたいと思っているに違いない。
だが、子供じみた理想論だけでは、手の届かないものがある。
己の感情だけでは達成できないこともある。
やがてヒューゴがため息をついたのは、そのことを自覚しているからに違いなかった。
ヒューゴがテーブルの上に視線を落とす。
「……。たしかに、自分だけでこれ以上あがくのは難しいのかもしれません。証拠は揃えたつもりでしたが発言できる力に乏しく、発表会までに間に合わせられるかどうか……。お力添えをいただけますか?」
「ええ、そのための私ですわ」
キャサリンは静かに言い切った。
「あなたが集めたものと、私が持っているものを合わせれば、十分に足ります。役割を決めましょうか。夫人への対処は私が引き受けます。レイチェル嬢については、あなた自身の口から会場で明かしてくださいまし」
ヒューゴが顔を上げた。
「自分がですか?」
「そのほうが意味がありましょう。家の後継ぎとして、あなた自身が立つからこそ、効果的なのですわ。そのほうがアンネ嬢にも伝わります」
数秒、ヒューゴが目を閉じる。
目を開けたとき、その表情は少しだけ違う色をしていた。
「わかりました」
震えのない声だった。
弱くても誠実な人間が、覚悟を決めたときの声だと、キャサリンには聞こえた。
「それから、もう一つお願いがございます」
ヒューゴが無言で先を促した。
「発表会の前に、アンネ嬢に会ってあげてください。何も話さなくとも構いません。ただ、そばにはいてあげてほしいのです」
ヒューゴが眉間に皺を寄せた。
「それは……できません」
「どうしてですの?」
キャサリンはわずかにむっとしながらヒューゴを見返した。
そんなキャサリンの反応に、ヒューゴは困ったように苦笑する。
「憂うことなく、好きな女性に笑っていてほしいというのは、そんなにもおかしな願いですか?」
余計な心配をかけたくないという配慮だろうが、それはいささか自分本位な態度だ。はっきり言ってしまえば、男の余計なプライドだろう。いくら好きな相手とはいえ、自分に弱音を打ち明けてくれないような間柄では、関係性に意味を見いだせない。
アンネがみずから不満を口にはできないだろうと、キャサリンは一肌脱いでやる。
「あら、知らなかったんですの、ヒューゴ様? 女というものは、惚れた男とは一緒に涙を流したいものなんですわ」
「……」
今度こそヒューゴは黙った。
どや顔で語るキャサリンに、そばに控えるエマが「お前に何がわかるんだ?」と言いたげな視線を向けて来るが、もちろんキャサリンは堂々と無視した。
ヒューゴの喉が動く。
「わかりました。時間を作ります」
キャサリンは立ち上がり、一礼した。
ヒューゴも立ち上がり、向かいで頭を下げる。
扉の閉まる音を背に聞いてから、キャサリンは小さく息をついた。
「アンネ嬢のほうも、頃合いを見てお願いするわ」
「承知しました。フィリップ様が懇意にしている音楽家の方がおります。その方を通じて、後援者として繋いでもらう形でよろしいでしょうか?」
「ええ、十分よ」
白く積もった石畳に、薄日が差した。
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