67 晴れ舞台が崩れる日(1)
王立音楽院の演奏発表会は、昼過ぎから始まった。
院の大ホールは、小ホールとは比べものにならない広さだ。天井が高く、正面の壁には院の紋章が刻まれた大きな石板がある。客席はすでに埋まっており、貴族、研究者、音楽家、院の関係者などが一堂に会していた。
キャサリンは中ほどの席に座り、プログラムに目を落とす。
アンネの出番は後半だ。
「お嬢様、グリーンフィールド夫人がいらしています」
エマが耳元で静かに告げた。
「どのあたり?」
「前方左手、三列目です。レイチェル様も同席されています」
視線をそちらに向けるのは避けた。
夫人がキャサリンの存在を把握しているかどうかはわからないが、こちらの動きを悟られる必要はない。
――さてと、何も起こらないといいのだけれど……。
無茶なことを期待する自分に、キャサリンは苦笑する。
もちろん、なんの希望もないわけではない。今のところ夫人は嫌がらせ程度の動きしか見せていないのだ。あくまでも、今回は念のために張りこんでいるにすぎないとも言える。
「……」
前半のプログラムが順調に進んでいく。
ピアノの独奏。
弦楽の四重奏。
どれも水準の高い演奏だったが、キャサリンの意識はずっと客席に向いていた。
――やはり動くとすれば、アンネ嬢の前後かしら。
後半が始まる頃合いで、エマが小さく声を発する。
「動きました」
レイチェルだ。
席を立ったレイチェルが、何食わぬ顔でホールの端を歩いている。その手に、小さな紙の束が見えた。
「渡す先は何人?」
「数えます」
エマが静かに視線で追う。
レイチェルは関係者らしい人物へと次々に近づいて、耳打ちをしながら紙を手渡していく。
受け取った側の顔が、次第に変わっていくのがわかった。驚きと困惑、そして好奇と疑念が入り混じった視線がある一点に集まりはじめる。
ヒューゴのほうだった。
「7名ですね、確認しました」
「書類の内容も押さえられるかしら?」
「一部であれば」
「お願い」
エマが席を離れる。
その間にも、会場の空気が少しずつ変わっていた。
ひそひそとした話し声が、あちこちで漏れている。まだ表立った騒ぎにこそなっていないが、確実に策謀がうごめいている。
――ドリンクについて、アンネ嬢に警告はしたつもりだけれど……。
ホールの袖口に、アンネの姿が見えた。
出番を待っている。
ここからは彼女の横顔しか見えないが、いつものように目を閉じて、静かに呼吸を整えているようだった。
――はたして、どうかしら?
喉にも妨害がされたならば、それは今朝の段階で仕込まれていたはずだ。
「続きまして、声楽の部。アンネ・マクブライン様のご登壇です」
進行役の声が響く。
拍手が起きた。
アンネが舞台に出てくる。
あの日、小ホールで見たときと同じように飾り気のない装いで、真っすぐに前を向いて歩いて来る。
しかし、キャサリンには見えてしまった。
袖から舞台に出た瞬間、アンネが一度だけ、喉に手をやる仕草を見せた。
――こちらもなのね。
調子が普段と違うことに、アンネ自身も気がついているに違いない。
それでも、アンネは歩みを止めなかった。
前奏が始まる。
アンネが目を閉じる。
キャサリンは息を詰める。
そして、声は出なかった。
「――ッ」
かすれたような喘鳴だけが、虚しくホールにこだまする。
ピアニストが不安げに、アンネを見つめる。
だが、アンネは胸元を搔きむしるだけで一向に声を出せていない。
――そこまでするのか……。
キャサリンは膝の上で拳を強く握った。
アンネが目を開ける。
直後、その口が声を形作った。
〽あなたの腕に飛びこめるなら
私は綿毛になって散ってもいいよ
だみ声のような汚らしい歌声が発される。
――もういいわ、やめなさい!
思わず、キャサリンは立ち上がりそうになる。
まさか、アンネが声を出せるとは思わなかったのだろう。夫人でさえもが、驚いたようにアンネのことを見つめていた。
だが、大抵の聴衆における驚きは、それとは異なる自然な反応だった。
ざわめきが一か所から広がっていく。
きっかけは、レイチェルから書類を受け取っていた1人が、隣の人間に見せたことのようだ。
波紋のように、疑念の視線がヒューゴへと集中していく。その顔が強張るのが、遠目にもわかった。舞台の上でアンネが崩れ落ちる――声は完全に出なくなっていた。伴奏もずいぶん前に止まっている。
夫人が席を立つ。
鷹揚とした足取りで息子のもとへと向かう。
キャサリンは今すぐアンネに駆け寄りたかった。夫人の頬を思いっきり引っぱたいてやりたかった。
だが、それは今、自分のすべきことではない。
胸の奥で夫人のことを睨みつけながらも、キャサリンは眼前の光景を覚えるべく視線を巡らせた。
「……」
夫人がヒューゴに何事かを告げる。ヒューゴの顔がみるみると青ざめていった。自分を冷ややかに見つめる母親に対し、憎しみのこもった視線を向けたヒューゴだったが、やがてはゆっくりと立ち上がっていた。
――アンネ嬢の喉を人質に取られたか……。
「エマ」
キャサリンは侍女の名前を呼ぶ。
しかし、声をかけようとした侍女はまだ戻って来ていなかった。書類の確認に動いたままだ。
ヒューゴが壇上に向かって歩き出す。会場全体が静まっていく。音楽が終わったあとの静寂とはわけが違う。
不穏な期待と好奇心が混じった、息を飲むような沈黙だった。
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