64 義賊という不快(5)
待ち合わせに指定された場所は、音楽院から少し離れた喫茶店だった。
暖炉のそばの小さなテーブルに、アンネは先に来て座っていた。
ドアが開いた瞬間、アンネが顔を上げる。
キャサリンと目が合うと、すぐに立ち上がろうとしたが、椅子に上着の端を引っかけてそのままよろめいた。
「あっ、すみません。大丈夫です、ちょっと待ってください」
独り言なのか、こちらへの声かけなのか。
判断のつきにくい言葉を小さく発しながら、アンネが上着を椅子から外す。
その間、キャサリンは表情を変えずに待った。
――天才ってどうしてこうなのかしら。
ある分野に秀でていると、全体に対する注意が抜けるのはなぜなのか。それとも基本が欠如しているからこそ、特殊な才能が育まれるのか。
詮のないことをキャサリンは考える。隣ではエマが小さくため息をついた気配がした。
「お待たせしてしまいましたか?」
キャサリンが向かいの席に腰をおろせば、アンネが首を横に振る。
「いえいえ、私のほうが早すぎてしまって。その……ご連絡をいただいたとき、あの……少し緊張してしまって。エルフェルト家の方とお会いするなんて思っていなかったので、何度か時計を確認しているうちに」
「早くいらっしゃったのね」
「そうです、そうです」
アンネが少し恥ずかしそうに笑った。
取り繕いのない笑顔だ。
貴族の令嬢であれば、こういう場面でも隙を見せないように訓練されているものだが、アンネにはそういう振る舞いが最初から備わっていない。
――小ホールで見たときとは、随分印象が違うのね……。
あの場での佇まいは荘厳の一言だったが、こうして話してみると、全くもってただの等身大の娘だ。もちろん、それはそれで悪くないのだが、なんだか拍子抜けしてしまう。
「今日はお時間をいただきまして、ありがとうございます。フィリップ様からお名前を伺って以来、是非ともお話ししてみたいと思っていましたの」
「こちらこそ……あの、フィリップ様に親切にしてもらっているのは知っているんですが、本当にエルフェルト家の方にお声がけいただけるとは思っていなかったので、えっと……うれしいです」
とても素直だ。
もう少し警戒してほしいとも思ったが、これがアンネという人間なのだろう。
エマから事前に聞いていたとおり――いや、聞いていた以上だ。
「先日院の小ホールで、み歌を拝聴しましたわ」
アンネの目が、ぱっと輝く。
「本当ですか! あれは非公式の発表で……。どうでしたか?」
「素晴らしかったわ」
短く答えると、アンネはどう受け取っていいかわからなかったのか、少しの間きょとんとした顔をしていた。それから「ありがとうございます」と小さな返事が返って来る。
褒められることに慣れていないらしい。
――あれほどの歌唱力を持っていながら、自己評価が低いなんてことあるのかしら?
まさかキャサリンに読心術を使ったわけではないのだろうが、まもなくアンネが自身の胸のうちを話す。
「でも、本当は私、ずるをしているだけなんです……」
「ずる?」
「はい……。私、本当は全然、歌なんてうまくないんです。ただ、天使様に喉を貸しているだけで……。それはきっと、みなさんもご存じなんです……だから、私のときだけ拍手がもらえない」
喉を貸す。
それはアンネなりの表現なのだろう。実際に、超常の存在に体を譲っているわけではないはずだ。だが、アンネの歌唱には、本当にそうかもしれないと思わせるだけの力がある。
――拍手がないのもそのせい……。
聴衆はかしこまったのだ。
アンネの歌唱がへたくそだったからではないし、ましてや、インチキを看破したからではない。
仮に、アンネが本当に天使に喉を貸しているのだとしても、へりくだる理由はどこにもなかった。
普通の人間に、そんなことはできない。
自分はもちろん、エマやクラリスにだってはできはしないはずだ。出会って来た中で、一番敬虔な婦女子はベアトリスだが、彼女にだって不可能な芸当だろう。
――本当に天使様がいたら……の話だけれど。
人知の及ばない超常の存在がいてくれたほうが、世界がもっとわくわくしたものになると考えるキャサリンだが、真剣に実在していると思っているわけではない。
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