120 過ぎ去りし日々(5)
階段をさらに2階ぶん上がると、廊下の突き当たりでメイド長が足を止めた。
「ここがあなたの部屋さね」
通された部屋は想像していたよりも整っていた。
寝台と机、衣装だんす。
窓は中庭に面していて、午前中はよく日が差しこみそうだ。床は丁寧に掃き清められ、寝台の上掛けは皺ひとつなく整えられている。
「お嬢様つきの侍女には、角部屋をあてるのが慣例でね。お嬢様のお呼びがあれば、すぐに駆けつけられる」
かたじけない配慮だ。
私は荷物を寝台の脇に置き、メイド長に向きなおった。
「ご丁寧にありがとうございます」
「お礼を言われるほどのことではないわ。当然のことだもの」
窓辺に近づいたメイド長が、軽くカーテンの位置を整える。
「お嬢様つきとしての仕事が本格的に始まるのは明日からよ。今日は屋敷の中を歩いて、配置を覚えなさい。何かわからないことがあれば、すれ違った使用人に尋ねても構わないわ。ただし、皆それぞれに仕事を抱えているから、長話は無用に」
「承知しました」
「それから――」
メイド長が振り返る。
まだお小言があるのかと、私は内心でげんなりした。
だが、その目にはあったのは、これまでとは少し違う色だ。
「明後日、当家でちょっとした集まりがあるの。お嬢様にお呼ばれしている方々のもてなしね。あなたには、その日にお嬢様の補佐をお願いしたいのだけれど……いいかしら?」
「……。もちろんです」
「集まりとは言うけれど、お茶を召し上がるだけのささやかな会よ。とはいえ、招待客は皆さま家格のある方々だから、粗相のないようにね」
頼んでおいて失敗するなと言っているのだから、真に受けてはいけないだろう。これは私を試しているのだ。
元子爵の娘として、私に高貴な作法がどこまで身についているのか、それを知りたいのだと察した。
私は何も言わずに、頭を下げる。
部屋を出て行くメイド長の姿を、私はしばらく横目で見送った。
まもなく、扉が閉まる。
私は寝台の縁に腰をおろし、ようやくひと息ついた。
窓の外では、雨上がりの中庭が午後の光を浴びている。木々の若葉が、ぽつぽつと水滴を落としていた。
「明後日……」
元の家にいた頃は、母や乳母から作法を叩きこまれたものだ。
しかし、最後にそうした社交の場に出たのは、いったい何年前のことだろう。
目を閉じ、薄れていく記憶の中から、どうにか関係のある情報を思い出す。お茶の出し方、立ち位置、声のかけ方、給仕の順番。頭の中で一つひとつ確かめてみる。
「大丈夫かしらね」
どうにか体は覚えていそうだ。
以前に、ふざけて主人にエマ・ドミスターだった頃の私で接したことを思い起こした。あれはたしか、主人の作品が表彰されたときだっただろうか。私からも祝ってあげたくて、何かしてほしいことはないかと聞いたときの返事が、昔の私を見てみたいというものだったのだ。
もっとほかにあるだろうと呆れてしまったのだが、どうしてもと頼みこんで来る熱意に負けて、結局は披露することになった。自分の過去を強く求められたことに、悪い気はしない。好きな相手なのだから、当たり前だ。
主人との戯れが、今の私を救っているのかと思うと、なんだか不思議な気持ちにもなる。きっと、あのとき主人につきあっていなければ、作法を思い出すまでに、もっと時間がかかっていたに違いない。
もちろん、主人とのじゃれつきだけで慢心するつもりはない。
今日明日で、屋敷の使用人たちに尋ねて、エルフェルト家の流儀を確認しておこう。家ごとに細かな違いがあることも多い。それを把握しないまま当日を迎えるのは、さすがに避けたい事態だった。
「……」
机の上に視線を落とす。
私物を整理して、夫からの手紙を入れる場所も決めなければいけない。
主人は腕を怪我しているので、しばらくは私に手紙が届くことはないだろうが、向こうも読むことくらいはできるはずだ。定期的に私の近況を報告してあげたい。
窓の外で、若葉がもう一度、水滴を落とした。




