118 過ぎ去りし日々(3)
「キャサリンよ。一応、エルフェルト家の長女になるかしら」
先に名乗らせてしまったことを受けて、私は大慌てで頭を下げた。
なんだか今日は失敗してばかりだ。
「エマです。本日はお時間を頂戴し、誠にありがとうございます」
少女――もといキャサリン様は満足そうに小さくうなずく。その仕草には、まだ少女らしさが色濃く残っていた。
「ご経歴は伺っているの」
キャサリン様が、手元の書類に目を落としながら言った。
紙の束を令嬢自身が確認しているのが意外に感じられた。普通、この手の書類は使用人があらかじめ要約しておくものだろう。
「ご実家のことも存じているわ。気を悪くしないでね、少し心配性な人たちが多いものだから」
キャサリン様は眉をひそめてから、視線を自身の背後に軽く向けた。そこには幾人かの使用人が立ち並んでいる。
「……」
さすがは公爵家。
自分でも追えないような筋の話まで、短期間に把握しているというのだから、その情報網の精度と広さには舌を巻くしかない。
「素敵な女主人の知り合いがいるのね。あなたを雇おうか検討していると話題を出したら、『お貴族様にはもったいない』と使用人の1人が追い返されたそうよ」
合点がいく。
ミリアムさん経由で漏れたのだ。
キャサリン様が口元に手をあてておかしそうに笑っているので、嫌味ではないはずだが、少し面映ゆかった。
「すでに、あなたには新しい場所で働いた実績がある。それだけで私は十分だと考えるわ。商家での仕事も、侍女の仕事とは、あまり変わらないでしょう?」
大貴族の令嬢としては、ずいぶんと屈託のない物言いだった。
身の回りの世話以外にも、色々と求められる職務に違いはあるはずだが、雇用主の身を一番に考えるという点では大きな差はないのかもしれない。
「ありがとうございます」
短く答えて、私は再び頭を下げた。
「もしも、うちで働いてもらうことになったら、基本的にはこちらで部屋を用意することになるのだけれど……しばらくは、自宅のほうがいいかしら? 工房と兼ねているのよね」
まだ世間を知らないだろう令嬢には、職人の暮らしが新鮮なのだろう。私はそういうものだと割り切った。
「いえ、大丈夫です。必要なものは持って来ましたから」
迷いなく答える。
主人は必ず元気になる。あの人は不器用だが、芯のところは丈夫な人だ。腕の怪我くらい、いずれ治るに決まっていた。
キャサリン様も、それ以上は主人について言及しなかった。
書類を膝の上に置き、こちらをまっすぐに見つめて来る。
「私、人を雇うのは初めてなの」
改まった様子で、キャサリン様は告げた。
面接の段取りがややぎこちないのは、すべて令嬢自身が動いているからなのだ。
「お父様にお願いしてね、自分の侍女くらいは自分で選ばせてほしいと頼んだの」
決める人を間違えたくないでしょうと、キャサリン様は笑う。
解雇すればいいだけではないのか。
余程のことがない限り、長く一緒にいるつもりなのだとわかって、私は返事に窮した。
「エマのほうに不都合がなければ、私はあなたに決めたわ」
唐突に告げられた言葉。
私は一拍、反応が遅れる。
まだ面接が始まって、ろくに時間も経っていない。仕事のことを尋ねる質問も、ほとんどなかった。
「……。よろしいのでしょうか? 私の働きを、まだお確かめにも――」
「ええ、いいのよ」
キャサリン様は迷いのない声で答える。
「家族のお話をするときに声音が変わる方は、きっと悪い人ではないわ。それを言えば、たぶんまた怒られちゃうのでしょうけれど」
最後の独白めいた口ぶりは、自身の背後にいる使用人たちのことを慮ってに違いなかった。
貴族の令嬢としては、ずいぶんと感覚的な決め方にも思える。しかし、キャサリン様の目には、確信めいたものが宿っていた。
私は、それに応えるべく一段と深く頭を下げた。
「ありがとうございます。精いっぱい、お務めいたします」
「ええ、お互いに頑張りましょうね」
お互いにという言葉に、私は顔を上げた。
主人である雇用主が、侍女に対して「双方」を示す言葉を使うのは、尋常ではない。
キャサリン様の顔には何の他意もなさそうだった。
本気でそう思って口にしている。
令嬢らしからぬ、けれど、貴族にしか言えない種類の言葉だった。
なおも窓の外では雨が降り続けている。
春の雨だった。
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