112 過去を正す者、過去を汚す者(1)
通りの喧噪が遠くに感じられた。
無論、騒音自体は変わっていないはずだ。リネン通りの石畳の上を、買い物客たちは相変わらず行き交っている。商人の声も、行商人の足音も、いつもどおりに響いていた。
ただ、その音がキャサリンの耳までは届かない。
目の前に立つラグーシアという女性が、五感のすべてを奪っていた。
『タイムリープしている人がいるのよね? それはほかでもなく、キャサリン・エルフェルト――あなたよ』
ラグーシアの言った台詞が、頭の中で残響している。
ジェームズ殿下の婚約破棄の一夜。
牢の中で天井を見上げた瞬間。
すべてやり直したいと願ったあのとき以来、誰にも明かしたことのない秘密だ。エマにさえ気取らせまいと、これまで慎重に隠し通して来た。
それを、初めて会ったはずの女性がこともなげに口にしている。
これで驚くなと言うほうがどうかしている。
「……」
キャサリンは何も答えなかった。
それを見たラグーシアが、おかしそうに笑う。
「別に隠すこともないでしょう? これはあたしたちの才能なんだから、もっと自由に使わないと」
ラグーシアがしゃがんでエマの頬を撫でた。
エマがうっとりと目を閉じる。
苦しさはひと欠片もない。
世界中の幸せを独り占めしているかのような顔だった。
見ていられず、キャサリンは視線を外した。
「やめなさい」
「あたしの面影は、相手が心の奥底から会いたいと願っている姿を、あたしが借りるっていうもの。便利でしょう? 誰の心にも、1人くらいはそういう相手がいるものね。亡くした夫をいつまでも慕っているなんて、素敵だわ」
ラグーシアの発言に、キャサリンの頭に血がのぼった。
「いい夢でも見させているつもり? ふざけないでちょうだい!」
「まさか! 心外だわ。女の中でも、こういう貞潔な女があたしは一番嫌いよ」
軽い口調だ。
社交の場で、雑談を切り出すような気軽さでラグーシアは答えた。
キャサリンの眉がぴくりと動く。
「……なんですって?」
「あら、怒ったの? あたしは自分に正直なだけよ。女の子なら、誰しも一度は思ったことがあるでしょう? 世界中の男性は全員自分だけを見ているべきだし、それを邪魔する女はみんな死ねばいい」
「何を言っているの……?」
これまでキャサリンは多くの悪意ある人物と対峙して来た。
だが、眼前のラグーシアはそのいずれとも似つかない異質な存在だ。
――まさか、本当にそんな理由でエマを?
「ずるいわ。あたし以外の女に夢中になるなんて。ダライアスはいけない人。それをさせている、この女が悪いのよね? 許せないわ。ぐちゃぐちゃになればいい」
ラグーシアはエマの腰を抱き寄せた。
その仕草に、ラグーシアの本性が透けて見えている。完全に所有物の扱いだ。
「だから、こうやってかっさらってあげるの。愛する人が来たと思いこんでくれれば、あとは簡単よ。あたしのために死んでもらうもよし、暴露して心を折るもよし。もちろん、女だから死んでもらうわね」
キャサリンの全身に、震えるような怒りが走った。
エマの胸の奥にある、ダライアスとの数年間。雨の日の店内で受け取ったというガラスの花。プロポーズの場面。それらすべてを、この女は塗り潰そうとしているのだ。
「絶対にあなたを許さないわ」
「ふふ、怖いわね。でも、どのみち、この女からすればダライアスは用済みよ。生きていないのが残念だけれど、これでダライアスを奪う準備が整うってわけね。……もちろん、あなたのことも覚えているわよ」
ラグーシアがキャサリンから視線を外して、髪をかき上げた。
左側から駆け寄って来た人物を認め、キャサリンは素直に驚いた。
――ビオラ嬢?
赤髪の女性はキャサリンのそばまで来ると、口元に手をやって驚愕を露わにしていた。
心なしか、小刻みに手が震えているようにも見える。
「……ハインリッヒ?」
訝しげにつぶやくビオラに、ラグーシアは醜悪な笑みを見せていた。
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