106 悼むべき命日(1)
最初にキャサリンに届いたのは、紅茶の香りだった。
次に窓のほうから差しこむ春の光に気がつく。
寝台脇の卓に置かれたカップから、ほんのわずかに湯気が立っていた。
「……」
キャサリンは身を起こす。
体は重くも軽くもない。
タイムリープの直後にしては、頭の中が静かだった。アンネのときの不安定さが嘘のようだ。
――戻って来たわね。
ベッド脇の卓には、午前中に確認するべき書類の束が置かれている。中身に目を通すまでもなく、日付の感覚はつかめた。ダライアスの命日からは、まだ5日ほど猶予があるはずだ。
頭では理解していても、心のほうがついてこない。手が自然と、上掛けを握りしめていた。
「エマ……」
無事なのだろうか。
名前を呼んでみる。
返事がないのも当然だ。
ここはキャサリンの寝室で、エマがいるとすれば廊下か、使用人部屋のあたりだろう。
身支度もせずに、寝衣の上に薄い羽織りだけかけて、キャサリンは扉を開けた。
静かな廊下。
屋敷の朝はいつもこうだ。使用人たちは音を立てずに動き、必要なところに必要な手だけを差し伸べる。それを統率する人間がいるからこそ、この静寂が保たれているのだ。
階段の中ほどで、キャサリンは足を止めた。
手すりに手をかけ、ホールを見下ろす。
――あっ……。
見たかった人物がそこにはいた。
銀の盆を持ったまま、玄関ホールで使用人の1人に何事かを指示している。声まではこちらに届かないが、相手はすぐにうなずいて持ち場へと戻っていく。
キャサリンの中で、こらえていた緊張が外れた。
「……っ」
声は出ない。
代わりに膝から力が抜けた。
手すりにつかまったまま、その場にへなへなとしゃがみこんでしまう。
どうにか寸前でこらえると、階段の手すりを支えにして、もう一度だけエマの背中に視線を向けた。
いつものエマが立って仕事をしている。それだけで涙が出て来るほど、キャサリンはうれしかった。
「……。お嬢様?」
気配を察したのだろう。
エマが顔を上げ、階段の上のキャサリンを認めた。
軽く一礼して、すぐに階段を上がって来る。
「いかがされましたか。お加減でも?」
うまく言葉が出て来ない。
駆け寄りたかった。
その胸に抱きつきたかった。
無事でよかったと、肩に腕を強く回してしまいたかった。
手が、ほんの少しだけエマのほうへと伸びる。
だが、途中で止まった。
今のエマには理由がわからない。ただ困らせるだけだ。
キャサリンは伸ばしかけた手を、自分の胸元へ戻した。
「なんでもないわ」
「お顔色がよろしくないようですが……?」
「平気よ。少し怖い夢を見ただけ」
エマがじっとキャサリンを見つめる。その視線は、いつもより少しだけ長かった。
「お休みなさいませ。今日のご予定であれば、後ほど調整いたします」
「いいの。もう起きるわ」
キャサリンが背筋を伸ばす。
エマもそれ以上は追及して来なかった。一礼をして、また階下へと戻っていく。
その背中を見送りながら、キャサリンは深く息を吐いた。
――間に合っている。
まだ、何も起こってはいない。
今度こそ食い止めるのだ。
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