102 青くほころぶ(6)
これが新しい恋ならばどれほどよかっただろうか。
浮かれて、ちょっと失敗して、あとで恥ずかしそうに取り繕う。そんな春だったならば、クールな彼女をいくらでもからかうことができたのに。
だが、そうではない。
廊下に出たキャサリンは、扉が閉まった瞬間に足を止めた。
胸の奥が冷たい。
春の陽気とは不釣り合いな、氷のような感覚だった。
――少し思い出せなかっただけ?
そんな言葉で流せるような状況ではなかった。エマが亡き夫の名前を確認するように声に出す。それだけでも十分に異常だ。
キャサリンはすぐに歩き出した。
使用人に命じて、リディアへ至急の文を届けさせなければならない。病か毒か、あるいは香か。まず疑うべきはそこだ。
次に、クラリスにも連絡を取る必要があるかもしれない。魔術的な干渉の可能性も捨て切れなかった。
頭の中で段取りを組みながら、階段へ向かう。
「ギルバート!」
廊下の向こうから、執事がすぐに姿を現す。
「お呼びですか?」
「リディア嬢へ至急の文を。できるだけ早く屋敷へ来てほしいと伝えて。事情は――」
そこまで言ったところで、背後から小さな音がした。
かたり。
何かが倒れたような音だ。
それに続いて、布の擦れる音も聞こえて来る。
キャサリンは振り返った。
「エマ?」
返事はない。
ギルバートの返事を待たず、キャサリンは来た道を駆け戻る。貴族の令嬢として、褒められた振る舞いではなかったが、そんなことを気にしている余裕などすでになかった。
エマの部屋の扉は、完全に閉まってはいなかった。
「エマ!」
押し開けるようにして、キャサリンが部屋へと入る。
その瞬間に、キャサリンは息を飲んでいた。
「――ッ!」
エマが床に膝をついている。
片手で机の縁をつかみ、もう片方の手は胸元にあてられていた。呼吸がひどく浅い。顔色は紙のように白く、額には細かな汗が浮かんでいた。
「どうしたの!?」
駆け寄って肩に触れると、その体が驚くほど熱かった。
「お嬢、様……」
声がかすれている。
「立たなくていいわ。そのまま動かないで」
「申し訳……ございません。少し、眩暈が……」
「少しなわけないでしょう!」
どうしたって声が叱るようなトーンになってしまう。
エマはそれでも、健気に頭を下げようとしていた。その動きが、途中で止まる。
視線が合わない。
キャサリンを見ているはずなのに、エマの瞳はどこか別の場所を映しているようだった。
「……。エマ?」
呼びかけると、侍女の唇が不自然に震える。
「どうして……」
「何?」
「どうして、あなたがここに?」
甘えるような、それでいてすがるような声。
キャサリンの背筋に、ぞっと寒気が走った。
エマの発言が、自分に向けられたものではないとわかってしまったからだ。
「エマ! 私よ、キャサリンよ! 私がわかる?」
問いかけると、エマの表情がふっと緩んだ。
キャサリンが一度も見たことのない顔だ。
きっと、それはエマが女性として、これまでにダライアスにしか見せて来なかったであろうものだった。
「ダミアン様……」
つかの間、世界から音が奪われた気がした。
何を言われたのかはわかったが、脳が理解するのを拒んだ。
その間にも、エマの独白じみた告白は続いていく。
「この身も心もあなた様に捧げます。だからどうか、ダミアン様。私からもう離れないでください……」
「……。違うわ……。エマ、しっかりして!」
震える声でどうにか口にすると、エマの体を強く揺する。
エマの視線がキャサリンと交差する。
一瞬だけ、エマが正気を取り戻したように見えた。
「お嬢様……?」
「そうよ。よく見て!」
エマが苦しげに眉を寄せる。
「でも、違う……。違います。……おかしい。私は……助けて、あなた」
見る間に言葉が崩れていく。
あなたという人称は、いったい誰を指しているのだろう。
亡き夫だろうか。
エマの手が、キャサリンの袖をつかんだ。
普段なら絶対にしない仕草だった。
「お嬢様……」
「ええ、ここにいるわ!」
エマの目元に涙が浮かんでいる。
侍女が泣くところなど、ついぞ見たことがない。
悲しみも怒りも、いつだって胸の奥深くへ沈めてしまう女性だった。
「思い出せないんです。お嬢様……助けてください」
エマの声は悲痛の色を帯びていた。
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次回作へのモチベーションアップにもつながりますので、なにとぞよろしくお願いいたします。(*・ω・)*_ _)ペコリ




