90 遡行する幻影(8)
「……」
エマは視線を帳簿に戻した。
胸の奥で、何か大切なものが揺れ動いたように感じられたが、気のせいだろうとエマは軽く首を横に振る。
男が書き留めると、ペンを返して来る。
「助かりました。では、火曜日に」
「はい、お待ちしております」
男が会釈をして、出ていく。
扉が閉まった。
エマはしばらく、閉じられた扉を見つめいてた。ほどなくして、帳簿に視線を落とす。
向こうは自分の名前を知らないだろう。
工房に注文をしたのだから、こちらはもうダライアスという人名さえ把握しているのに、相手とは接点がなかった。
そういう間柄だ。
ただの来客でいいと、エマも思っていた。
いつまで経っても頼りない。
心の中でおんなじ感想を抱いてから、エマは次の仕事に取りかかる。
ペンを持つ手が、普段よりもほんの少しだけ、早く動いた気がした。
✿✿✿❀✿✿✿
食事会の話を持ち出して来たのは、商家の女主人だった。
「エマさん。今週の土曜日、予定はあるかい?」
帳簿の整理を中断し、エマが顔を上げる。
女主人のミリアムは50を過ぎた、ふくよかな体格の女性だ。商売上手で、人の世話を焼くことを生き甲斐にしている。エマが来てからというもの、本当の娘のように何かと気にかけてくれていた。その口調から嫌な予感はしたのだが、世話になっているだけに断りにくい。
「……特にはございませんが」
「そう! だったらちょうどいいわね。うちの夫の商売仲間が集まる食事会があってね。若い人たちも来るから、一緒にどうかしら」
誘いの意図はエマの推測どおりのものだった。
独り身の若者を集めて、引き合わせようという算段だ。ミリアムの善意は疑わないが、あまり乗り気になれる内容ではない。将来について思いを馳せることができるようになったといっても、自由に恋愛ができるほどではない。第一、没落した家の出では良縁に恵まれることもないだろう。
「お気づかいいただかなくても……」
「遠慮するんじゃないよ。あんた、最近ずっと働きっぱなしじゃないか? たまには気分転換も必要よ」
いい気分がしないというだけで、ミリアムとの関係を冷えこませてまで拒むほど嫌なわけではない。エマは胸中でため息をつくと、彼女の提案に応じていた。
「では、少しだけ」
その答えに、ミリアムがぱっと顔を輝かせる。
「よかった! 楽しみにしていてちょうだいね」
女主人が足取り軽く去っていく。
「……」
期待感など到底わく気がしないが、変な縁談よりはマシかもしれない。
生来のしたたかさで捉え方を改めると、エマは帳簿に視線を戻した。
✿✿✿❀✿✿✿
土曜日の夕方。
指定された食事処はこぢんまりとした店だった。
奥の個室に通されると、すでに数名の男女が集まっている。
ミリアムの夫であるロルフが、主催者として満足げに顔をほころばせている。参加者は全部で8名。そのうち若い者は、エマを含めた5人だ。
「……」
エマは末席に腰を落ち着け、ひとまず場の空気を読むことにした。
集まった顔ぶれは、それぞれ若い商家の子息や職人仲間のようだった。会話が弾みはじめると、エマはいつものように聞き役に回る。話すべきときに話し、余計なことは言わない。そういう立ち居振る舞いは、没落前からの習慣だ。淑女としての教育の賜物と言ってもいい。
エマが端の席に視線を向ける。
空席がまだひとつ残っていた。
どうやら遅れている人がいるらしい。もしくは、土壇場でサボったかだ。
「妙だな、欠席の連絡はなかったんだが……」
ロルフが時計をちらりと確認して、苦笑している。
扉が開いたのは、それからしばらくしてからのことだった。
「申し訳ありません、道を……少々」
入って来た男は、頭を下げながら言葉を濁した。
自然とエマの視線は闖入者へと向く。
「……」
はっとした。
最後の男こそ、工房の職人だったのだ。
いつか商家に現れたときと同じで、困ったような顔をしている。室内を見渡して、空いている席を探しているようだ。
ロルフが手招きする。
「ダライアス君、こっちこっち。ずいぶんと遅かったね。隣が空いているよ」
空いている席はエマの斜め向かい――ロルフの隣だ。
みな遠慮と敬遠から空けていた席だったのだが、ダライアスは躊躇することなく腰をおろした。豪胆なのか、それとも空気が読めないのか。どちらなのかは判断がつかない。
エマと目が合うと、ダライアスの眉が一瞬だけ動いた。
「あの……ロルフさんのところで、帳簿の」
「どこかでお会いしましたか?」
エマが短く答える。
向こうにも見覚えがある以上、エマがダライアスを知っていても不自然ではないはずだが、素直に口にするのはためらわれた。
エマのやや失礼な態度に、ロルフが笑いながら彼女をたしなめる。
「何を言っているんだ、エマ。ビッガーさんのお弟子さんだよ」
「ああ、ガラス工房の……。失礼しました」
「……。いえ……」
特に済まなそうにせずに言ってから、エマは横を向いた。ダライアスはまだ何か言いたそうだったが、ほどなくして料理が運ばれてきたので、うやむやになった。
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