89 遡行する幻影(7)
翌朝も工房の前を通る。目的地までの最短ルートではなかったのだが、半ば習慣のようになってしまっていた。
職人は炉の前にいる。
懲りない人だと思うと、口元がわずかに緩んでいた。
自分は笑ったのだ。
いったいいつぶりだろう。
あの日、馬車でイズルベシアの町を旅立ってから、笑顔になれたときがあっただろうか。
この人に比べれば、まだまだ自分はマシなのかもしれない。
そう思ってから、比較するようなことではないだろうと、すぐにエマは打ち消した。
不思議と足が軽くなっていた。
通りを歩きながら、エマが前を向く。
とにかく今はがむしゃらに動かなければいけない。
それだけのことだ。
「……私も頑張ろう」
やめなければ、何かが変わるかもしれない。
変わらなくても、やめるよりはましだ。
職人街の喧噪が、背中から遠ざかっていく。
エマは振り返らなかった。
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冬が来て、春が過ぎた。
エマはもうずいぶんと商家での仕事にも慣れた。
帳簿の管理。来客の応対。在庫の確認。棚卸しの補佐。
最初のうちは手探りだったことが、今では体が勝手に動いている。生来の手際の良さも関係しているのだろう。
没落してからすでに半年が経っていた。
最初のうちこそ、没落した令嬢が住み込みで働いているという事実が、周囲から好奇の目を集めたが、今ではだれも気にしていない。
仕事ができるようになると、余裕が生まれた。
周囲が見えるようになったのだ。おかげで、目先のことだけでなく、自分の将来についても考えられるようになった。
いつまでも、この家で世話になっているわけにはいかないだろう。
もっと条件のいい仕事を探さなければいけないと、エマは考え始めていた。
朝の通り道は、相変わらず職人街を抜けるほうを選んでいる。
習慣というのは恐ろしいもので、ほとんど無意識に近い。工房の前を通るたび、炉の前の背中を確かめた。
相変わらず、失敗していることが多い。
全く懲りていなかった。
毎朝、微苦笑を浮かべながら、エマは職人の横を通り過ぎた。
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その日の午後に、商家に来客があった。エマが応対に出ると、入り口には男が立っていた。
「あの……注文いただいた食器の件でして……」
聞き覚えのある声に、エマが顔を上げる。
間違いない。
工房の職人だった。
「……」
毎朝、炉の前で見ていた背中の持ち主だ。
エマは驚いたように目を数度しばたたいたが、男のほうはエマを見て、少し困ったような顔をしている。
「えっと……こちらで、注文を受けていただけるとのことだったのですが……」
「はい、承っております」
エマは表情を変えずに答えた。内心で動揺していたが、そのことを相手には悟られたくなかった。
「あっ……よかったです」
「納期のご確認ですか?」
「そうです、そうです。来週の頭でも間に合いますか? 親方に確認して来るよう言われたものでして……」
言われなければ来なかったのかもしれない。
そういう男だろうとは、なんとなく思っていた。作品を仕上げることばかりに夢中になっていて、自作をどう扱うのかというブランディングの視点がまるで抜けている。余計なお世話だとは思うが、たとえ独立して工房を持てたとしても、優秀な右腕がいなければやっていけないだろう。自分に代わって財布を握ってくれる人が必要なはずだ。
「少々お待ちください」
エマは帳簿を取り出して、依頼の内容を確認した。
硝子の食器が6客。納品先は、この商家の得意先になる。工房への発注は先月のうちに済んでいた。
「……そうですね、火曜日の午前中までにお持ちいただければ間に合うかと存じます」
「火曜日の午前中……ですね。わかりました」
男がくり返しながら、懐から紙を取り出した。
書き留めるつもりらしいが、いつまで経ってもペンを取り出さない。上着のあちこちを叩いているので、見つからないようだ。
「……。よろしければお使いください」
エマはカウンターの羽根ペンを差し出す。
「あ、ありがとうございます」
顔を上げた男が、照れたように笑った。
目元がくしゃっと縮んだ。




