88 遡行する幻影(6)
その夜のことだ。
就寝前の習慣どおり、エマは1日を振り返った。
薬草の買いつけ。市場でのひと騒動。管理人への根回し。
仕事に抜かりはなかった。
ところが、思考がそこで止まらない。
ダミアンの顔が浮かんだ。
爽快感がありますと言ったときの声。
惜しいと感じてしまった、あの一瞬。
「……」
エマは目を開けて、天井を見た。
蝋燭の火はすでに消してある。暗い天井が、静かに広がっている。
会いたい。
そう思ってから、エマは自分の額に手をあてた。
どうかしている。
センチメンタルな言葉が、自分の中から出て来るなんて思ってもいなかった。
夫が亡くなってから、特定の異性に会いたいと感じることは一度もなかった。
「疲れているのかもしれないわね……」
いつもの結論を出そうとしてみたものの、今夜はどうにも据わりが悪い。
疲労が無意味に人恋しさを導くものだろうか。
エマはしばらく黙ったまま天井を見つめていた。
やがて目を閉じる。
暗闇の中に、浮かんで来る顔がある。
ダライアスの顔だ。
7年間、隣にいた人間……。
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没落というものは、音もなく来る。
もう何年も前の話だ。
19歳のエマが実家の没落を知ったのは、秋の終わりのことだった。知らせを受けてから屋敷を出るまでの時間は、驚くほど短かった。長年仕えてくれた使用人たちに別れを告げ、身の回りのものだけを鞄に詰めて、馬車に乗った。
西部の都市に出て来たのは、ほかに行く場所がなかったからで、深いゆえあってのことではない。
遠縁の伝手を頼って、とある商家に住み込みの仕事を得た。帳簿の管理と来客の応対。子爵とはいえ、貴族令嬢としての教育が、思わぬ形で役に立った。
だが、それだけだ。
「……」
朝に起きて、仕事をして、夜に眠る。
自分が何のために動いているのかが、わからなくなることがあった。
このまま、ずっとこうなのだろうか。
そう思いながら通りを歩いていたある日のことだ。
職人街の外れに差しかかったとき、工房の前で人影が動いているのに気がついた。
通りに面した引き戸が開け放たれていて、中の様子が丸見えになっている。
工房の中には炉があり、その前に男の職人が立っていた。
吹き竿の先に、溶けたガラスの塊がついている。
職人が息を吹きこむと、ガラスが膨らんでいく。
だが、次の瞬間に形が崩れた。
「てめえ! おんなじことを何度やりやがるんだ」
奥から別の声が飛んで来る。親方だろう。太くて、よく通る声だった。
エマは眼前の人間がどれだけ怒っていようが、縮みあがることはない。元とはいえ貴族の自覚があったし、そもそも怒鳴り散らすような男を下品だと思っていた。
下品な相手を前にして感じるのは、不愉快さであり、恐怖ではない。憐れに思うことがあったとしても、怯えることは決してなかった。
だが、かわいそうなことに職人は違うらしい。
「すいません!」
短く答えると、竿を持ちなおして、また炉に向かう。
親方がため息をついて、引っこんでいく。
少しの間、エマは足を止めた。
「……」
職人の横顔が見える。20代の前半だろうか。
眉根を寄せて、唇を真一文字に引き結んでいる。難しい顔だ。あまり格好いいとは言いがたい。ただ、真剣なのだということだけは、遠目からでも伝わって来た。
また息を吹きこむ。
膨らんでいく。
今度は形が保たれるも、竿から外す段で歪んだ。
「ふぅ……」
職人は歪んだガラスをしばらく眺めてから、また炉に向かった。
捨てない。
諦めない。
何度も同じことをくり返している。
翌日もエマは同じ場所を通った。
職人は今日も失敗して、親方に怒鳴られていた。
3日目も変わらない。
4日目に工房の前を通りかかると、職人の姿が外にあった。
完成した作品を木箱に入れているので、納品に出かけるところらしい。
エマはそのまま通り過ぎたのだが、少しだけ気になったので帰りに寄ってみることにした。
職人は木箱を抱えて、とぼとぼと歩いていた。横目でちらりと箱の中を覗いてみれば、作品がそのままだった。
突き返されたのだと直感で理解した。
職人の肩が落ちている。
足取りは重い。
それでも、木箱を抱きかかえる腕は丁寧だった。商品にならなくとも、乱暴に扱うつもりはないらしい。
エマは立ち止まって、その背中を見送った。
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