第204話 こちらの制度を売らず、相手の利益だけ見せる
領外との支払いに手を付けるなら、今までと同じやり方では駄目だった。
領内なら、最悪こちらで試験を止められる。市場ごとの締め時刻も、三町間の相殺も、参加した商会が嫌なら元の現金払いへ戻せばいい。
だが、今回の相手は違う。
西の領外商人。
その商人たちが仕入れを行っている王都。
そして、王都から商品代金を受け取っているこちら側。
地図の上では綺麗な輪に見えても、三つの場所を同じ規則で動かす権限など俺たちにはない。
「だから提案書を送る?」
フィンが聞いた。
朝の会議室には、昨日レイナが見つけた大きな支払いの輪がまだ残されていた。こちらから西へ塩や金属材の代金が流れ、西の商人は王都へ別の商品代を支払い、王都の商人からはこちらへ売上代金が戻ってくる。
数字だけ見れば、銅貨や銀貨が大きな三角形を回っている。
しかし俺は首を横へ振った。
「提案書にすると、こっちのやり方を使ってくれって話に見える」
領主もすぐ意味を理解したようだった。
「相手の帳簿の付け方も、支払日も知らないからな」
「はい。それに相手が今の貨幣輸送で困っていないなら、こちらに合わせる理由もありません」
効率がいいから変えるべきだ。
こっちではうまくいったから、そっちもやればいい。
それは、今まで一番避けてきた考え方だった。
改善は、相手にとっても改善でなければ続かない。
こちらの仕事だけ減って、向こうの仕事が増えるなら、それは改善ではなく押し付けだ。
レイナが地図の横へ新しい紙を一枚置いた。
「制度、説明しない」
「何を送る?」
「数字だけ」
それが一番よかった。
相殺票の様式も送らない。
三町相殺の手順も送らない。
領主府でどう管理したかも書かない。
まず送るのは、もし相手側にも同じ支払いが存在するなら、どれだけ貨幣輸送が重複している可能性があるか、その数字だけにする。
ブラントとミナが、こちらで確認できる範囲を整理した。
直近四週間。
こちらから西の商人へ支払った額。
銅貨換算で十二万八千六百枚。
王都からこちらへ届いた売上代金。
十五万四千二百枚。
もちろん全部が同じ商人の金ではないし、同じ日でもない。そのまま相殺できる数字ではない。
だが、西の商人が王都へどれだけ支払っているかさえ分かれば、輪が存在するかどうかは確認できる。
そこで手紙には、こう書いた。
こちらから西へ、過去四週間に十二万八千六百枚相当の支払いがあった。
同期間、王都からこちらへ十五万四千二百枚相当の支払いがあった。
もし西から王都にも一定額以上の確定支払いがあるなら、三者間で反対方向へ運んでいる貨幣の一部を、実際に運ばずに済ませられる可能性がある。
参加や制度変更を求めるものではない。
こちらでは領内三町で、支払期限の同じ確定取引だけを対象に試験し、貸付・支払延期・公的保証なしで貨幣輸送を削減できた。
興味があれば、西から王都へ実際にどれだけ支払っているかだけ確認してほしい。
それだけだった。
「具体的なやり方を書かなくていいのか?」
領主が尋ねる。
「最初は要らないと思います。向こう側に輪がなければ、やり方を説明する時間まで無駄になります」
「輪があったら?」
「その時に初めて話せばいいです」
領主は少し笑った。
「最近、お前たちは説明まで後回しにするようになったな」
「必要になったものから出した方が読まれますから」
長い説明書を送っても、相手に利益がなければ読まれない。
逆に「貨幣輸送が何台減るか」が見えれば、必要な人間の方から仕組みを聞きに来る。
手紙は二通送った。
一通は、西との取引量が多い商人組合へ。
もう一通は王都側。
王都については、すでに店を開いている関係で連絡経路がある。第181話で王都店を始めた時には、ここまで別の仕事へ繋がるとは思っていなかった。
王都店の責任者へ頼んだのは、制度交渉ではない。
西から王都へ実際にどれだけ貨幣が入っているのか、取引先が分かる範囲で聞いてもらうことだけだった。
返事を待つ間、俺たちは何もしなかった。
新しい帳票も作らない。
部署も作らない。
担当者も置かない。
レイナがそれを確認して満足そうに言った。
「待つ仕事も作らない」
「返事が来なかったら?」
フィンが聞く。
「今まで通り」
「それで終わり?」
「ああ」
昔なら、せっかく見つけた改善案を何とか実現しようとしたかもしれない。
だが相手が必要としていないなら、それ以上の仕事を増やす意味はない。
三日後。
最初に返事を寄越したのは、西の商人組合だった。
封を開いたブラントが、途中で読み上げるのを止めた。
「どうした?」
「向こうでも調べたようです」
差し出された紙には、こちらが聞いていなかった細かい数字まで書かれていた。
西の商人組合から王都方面への貨幣支払い。
直近四週間。
銅貨換算で十三万七千九百枚。
フィンが椅子から身を乗り出した。
こちらから西へ十二万八千六百。
西から王都へ十三万七千九百。
王都からこちらへ十五万四千二百。
輪はあった。
しかも小さくない。
単純に一番小さい額だけを見れば、四週間で十二万八千六百枚分。
三方向合計なら三十八万五千八百枚分の貨幣移動が、理屈の上では輪の中に入っている。
もちろん、実際には支払日も取引相手も違う。
全部消せるわけではない。
それでも、西側の返事には続きがあった。
《毎週、王都方面への貨幣輸送に荷車二台から三台を使用している。護衛費と宿泊費が高く、特に冬季は街道状況によって遅延する。もし支払期限を変えずに輸送量を減らせるなら、詳細を聞きたい》
フィンが俺を見る。
「向こうも困ってた」
「みたいだな」
レイナは数字を見て、短く言った。
「これで説明する価値ができた」
翌日には、王都からも返事が来た。
こちらはさらに分かりやすかった。
王都側の商人の中には、西から金を受け取り、その数日後にこちらへ代金を払っているところが複数あった。
王都の一商会が、自分たちの直近一か月分だけを試算している。
西から受け取った額。
二万二千四百枚。
こちらへ支払った額。
一万九千八百枚。
その間、受け取った貨幣を金庫へ入れ、数日後にまた出している。
数え直し。
保管。
護衛。
王都内での移送。
全部発生していた。
そして返事の最後には、
《支払い済みの証明が確実に残るなら、試験参加を検討する》
と書かれていた。
ここまで来て、ようやくやり方を送った。
ただし領内で使っている制度を、そのまま押し付けはしない。
共通にするのは、最低限だけ。
対象は支払期限の同じ、すでに確定した取引だけ。
未来の売上は数えない。
借金の期限は延ばさない。
一度相殺した支払いは元へ戻さない。
参加者全員が、自分の残額を確認してから成立させる。
それぞれが自分の取引記録を保管し、共通する照合番号だけを記す。
誰か一者の数字が合わなければ、その組み合わせは相殺しない。
領主府も王都も西の組合も、他人の支払いを保証しない。
そこから先――帳面の形、確認票の書式、担当者の呼び方、締め作業のやり方――は、それぞれ好きにしてもらう。
必要なのは、最後に数字が一致することだけだ。
「同じ紙を使わなくてもいいの?」
フィンが尋ねた。
「向こうの帳簿まで変えてもらう必要はない」
「書き方が違っても?」
「最終的に、誰が誰へいくら払うかが確認できればいい」
これはかなり大事だった。
仕組みを広げようとすると、つい全員に同じ帳票を使わせたくなる。
同じ書式。
同じ箱。
同じ番号位置。
同じ締め方。
確かに管理はしやすい。
だが、他所ですでに回っている仕事を全部こちらへ合わせさせれば、それだけ変更コストが発生する。
欲しい結果が同じなら、途中は違っていい。
試験対象は、三地域からそれぞれ三商会ずつ。
合計九商会。
いきなり全体へ広げなかった。
支払期限が五日後に揃っている取引だけを選ぶ。
こちらから西へ。
一万二千六百枚。
西から王都へ。
一万五千百枚。
王都からこちらへ。
一万三千四百枚。
輪として消せる最大額は、一万二千六百枚。
三方向すべてから同じ額を消す。
残るのは、
こちらから西へ、零。
西から王都へ、二千五百枚。
王都からこちらへ、八百枚。
本来なら三方向合計四万千百枚分の貨幣移動。
相殺後。
三千三百枚。
貨幣移動削減率、約九十二パーセント。
数字だけなら圧倒的だった。
だが今回は、計算より確認に時間がかかった。
三地域で帳簿の書き方が違う。
西では商品単位でまとめている。
王都は取引日ごと。
こちらは相手別合計を出している。
最初の照合で、二件数字が合わなかった。
一件は王都側が輸送費を商品代へ含めていた。
もう一件は西側が荷造り費を別請求にしていた。
どちらも不正ではない。
計算方法の違いだ。
同じ言葉を使っていても、含めているものが違う。
だから総額だけを合わせようとしなかった。
異なる二件を輪から外す。
残った一致分だけでも、一万千四百枚あった。
三方向で三万四千二百枚分。
それを消す。
残りの不一致二件は、今まで通り現金で払う。
「全部合わせないの?」
フィンが聞いた。
「合わせるために三地域の商習慣を統一する方が高い」
「一万千四百枚分だけでも減るから?」
「十分だろ」
百点を取るために仕事を十倍にするより、簡単に取れる八十点を毎週取れる方が強い。
レイナが満足そうに頷いた。
「完璧より、継続」
試験日。
こちらから西へ向かう貨幣荷車は、本来なら二台だった。
実際に出たのは一台。
しかも積載量は半分以下。
西から王都へ向かう便も三台予定から一台へ。
王都からこちらへ送られる貨幣は、商品輸送の荷車一台へ同載できる量まで減ったため、貨幣専用便そのものが消えた。
三地域合計。
本来の貨幣専用荷車、七台。
試験後、二台。
五台減。
専用御者、七人から二人。
護衛、十四人から四人。
宿泊が必要な人員も大きく減った。
それでも、誰も支払期限を延ばしていない。
誰も借りていない。
こちらの領主府が領外商人の金を保証したわけでもない。
王都がこちらの商会を信用認定したわけでもない。
ただ、同じ期限に確定していた三方向の支払いを、運ぶ前に差し引いた。
夕方、西の商人組合から届いた短い返事をブラントが読み上げた。
「《次週も継続を希望する》」
フィンが笑う。
「制度を勧めてないのに、向こうから続けたいって来た」
「向こうの荷車も減ったからな」
その方がいい。
こちらが便利だと説明し続けなければ使われない仕組みは、広がるたびに説明担当が必要になる。
向こう自身が数字を見て使いたいと思うなら、こちらが営業しなくても続く。
領主は今日の結果を前に、しばらく黙っていた。
「領外相手でも、領主府は何も保証していないのだな」
「はい」
「共通帳簿も作っていない」
「作ってません」
「向こうへこちらの書式を押し付けてもいない」
「数字が一致するところだけです」
「それなのに、貨幣輸送が五台減った」
レイナが訂正する。
「試験対象だけで」
「そうだったな」
領主は笑いながら言い直した。
「試験対象だけで、五台減った」
今日の結果をまとめる。
三地域。
試験参加九商会。
試験対象となった一致済み支払い、一方向あたり一万千四百枚分。
三方向合計で三万四千二百枚分の貨幣移動を省略。
貨幣専用荷車、七台から二台。
専用御者、七人から二人。
護衛、十四人から四人。
王都からこちらへの貨幣専用便、一便削減。
支払期限変更、零。
貸付、零。
公的保証、零。
共通帳簿、零。
統一書式、零。
不一致だった二件については無理に制度へ合わせず、従来通りの支払いへ戻した。
そして一番重要なのは。
こちらから「使ってくれ」と言わなくても、西側から次週継続の希望が届いたことだった。
仕組みが相手側にも利益を出した。
それなら、少なくとも今回の改善はこちらだけの都合ではない。
報告を書き終えた頃、ゼフが外から戻ってきた。
最近は紙が来るたび次の問題だと思っていたが、今回は違った。
ゼフは少し困ったような顔で、それでもどこか笑っている。
「街道の護衛組合から問い合わせが来た」
フィンが身構える。
「仕事を減らしたから?」
「半分正解だ」
貨幣専用便が減った。
当然、その護衛も減る。
ここまでは予想していた。
だがゼフが続けた内容は、その先だった。
「空いた護衛と荷車を使えるなら、西からの金属材輸送を増やせないかって商会から相談が来てる」
俺は一瞬、地図を見た。
貨幣輸送を減らした。
荷車が空いた。
御者も空いた。
護衛も空いた。
その結果。
今度は、今まで輸送力が足りずに発注を抑えていた金属材を増やせる。
ミナが早速、過去の発注記録を開く。
「金属材は直近六週間、希望量に対して平均十三パーセントほど発注を落としています。輸送枠不足が理由です」
「貨幣便五台のうち、何台を商品便へ回せる?」
ゼフが答えた。
「全部は無理だ。道と帰り荷の都合がある。ただ、三台はすぐ使える」
フィンが笑った。
「まただ」
「何が?」
「お金を運ばなくしたら、物を運べるようになるやつ」
前にも木材で起きた。
今度は領外交易で、もっと大きく起きようとしている。
相殺そのものは、利益を生み出しているようには見えない。
売上が増えるわけでもない。
商品が増えるわけでもない。
ただ、必要のない貨幣輸送を減らしているだけだ。
だがそこで空いた荷車と人間が、生産に必要な物を運び始める。
効率化の効果が、帳簿から現物へ戻ってくる。
俺は報告書の最後へ、一行を追加した。
《貨幣輸送から空いた荷車三台を商品輸送へ回した場合、金属材不足をどこまで解消できるか》
金を運ぶ仕事は減った。
次は久しぶりに。
運ぶ物を増やす仕事へ戻れそうだった。




