第202話 六万六千枚運んでいた道を、二千四百枚まで減らす
半日離れた町から来た商人が持っていたのは、昨日聞いた三台分だけではなかった。
「毎週、この三冊です」
翌朝、彼が宿から持ってきた帳簿を机へ置く。そこには自分の商会だけではなく、同じ町からこちらへ支払いを送る商会が共同で使っている輸送記録まで写されていた。
もちろん原本ではない。
誰が、いつ、いくら積んだか。
どの荷車へ載せたか。
護衛は何人だったか。
受取確認が戻ったのはいつか。
長年同じ経路を使っているだけあって、記録はかなり揃っている。
ブラントが先週分を拾い上げた。
「向こうの町からこちらへ運ばれた貨幣は、銅貨換算で三万四千二百枚。荷車三台、御者三人、護衛六人です」
昨日聞いた通りだった。
問題は、その横にミナが置いた別の記録だった。
こちらの町から、同じ町へ支払われた分。
二日前。
貨幣輸送用の荷車、二台。
御者二人。
護衛四人。
銅貨換算、三万千八百枚。
フィンが二つの数字を見比べ、しばらく黙った。
「……同じ週?」
「同じ週です」
「同じ道?」
ユハが地図を確認する。
「ほぼ同じです。分岐は町の手前だけですね」
「じゃあ三万四千二百枚がこっちへ来て、その少し前に三万千八百枚が向こうへ行った?」
「そうなるな」
フィンの顔が、理解したくないものを理解した時のものになった。
「道の途中ですれ違ってない?」
ゼフが輸送日時を確認し、少し考えた。
「時間まで一致していれば、街道の中ほどで会っている可能性は高い」
部屋が静かになった。
三万千八百枚を積んだ二台が向こうへ走る。
その二日後には、三万四千二百枚を積んだ三台がこちらへ走る。
護衛は合計十人。
御者五人。
盗難対策までして。
同じ種類の貨幣を。
同じ街道で。
反対方向へ運んでいた。
領主が額へ手を当てた。
「これは……今まで誰も気づかなかったのか?」
商人が苦笑する。
「私どもから見れば、こちらへ支払う金は運ばなければならない金です。こちらの商人が向こうへ何枚送っているかまでは知りませんでした」
当然だった。
一つの商会だけ見れば間違っていない。
こちらへ三百枚払う必要があるなら、三百枚運ぶ。
向こうへ五百枚払う商人も、自分の五百枚を運ぶ。
全員が自分の仕事を正しくしている。
それを街道全体から見た時だけ、同じ銅貨が反対方向へ大量に移動していることが分かる。
レイナが二つの数字の差を書いた。
三万四千二百。
三万千八百。
差額。
二千四百。
「必要なのは、これだけ」
「理屈の上ではな」
俺は頷いた。
先週と同じ取引があり、双方の支払いを同じ精算日にまとめられるなら、向こうからこちらへ二千四百枚動けば最終的な貨幣量は同じになる。
六万六千枚分の移動。
それが二千四百枚。
九割以上消える。
数字だけなら、昨日までの市場内相殺よりさらに大きい。
だが、すぐ実施とはいかない。
フィンも最近はそこへ気づくようになった。
「でも、町が違うよね。昨日みたいに夕方に紙を集められない」
「そこを見る」
まず確認したのは、今の支払い周期だった。
毎日なのかと思っていたが、違う。
距離があるため、ほとんどの商会はもともと週一回まとめて支払っていた。商品を受け取るたび銅貨を半日運んでいては、それだけで商売にならない。
つまり今回、精算を週一回にしても支払いを遅らせることにはならない。
ここは大きかった。
昨日まで避けてきた「未来の入金を使う信用取引」とは違う。
すでに同じ週の支払日が決まっている。
その日に払うことが確定した取引だけを、運ぶ前に差し引く。
新しく支払いを待ってもらうわけではない。
「なら、町ごとの帳面を一冊にする?」
領主が尋ねた。
「しません」
今回は即答した。
町全体の帳簿など作ったら、誰が管理するのかという話になる。
一商会の間違いで町全体の数字が合わなくなり、そのたびに全商会の帳面を開くことになる。
それに「こちらの町が向こうの町へ三万千八百枚借りている」という形にしてしまうのも違う。
借りているのは町ではない。
商会同士だ。
だから個々の取引関係は、そのまま残す。
変えるのは最後の運び方だけにした。
こちらの町で、向こうへ支払う予定額を合計する。
同時に、向こうから受け取る予定額も合計する。
向こうの町でも同じ計算をする。
双方の数字が一致した時だけ、差額分の銅貨を街道へ出す。
一致しなければ?
その週は相殺しない。
あるいは一致している取引だけを対象にする。
無理に合わせない。
ゼフがそこを確認した。
「差が一枚でもあれば荷車を止めるのか?」
「全件じゃない。どの商会同士が違うか分かるように、相手別合計は残す」
昨日の日次精算票と同じ考え方だ。
最初から全帳簿を突き合わせない。
こちらの合計。
向こうの合計。
一致すれば終わり。
合わなければ、相手別。
そこでも分からなければ、その取引の確認票まで降りる。
正常な取引を毎週全部読み直す必要はない。
「紙はどうやって合わせる?」
フィンが聞いた。
半日離れている。
今日出した数字を今日中に往復させるのは難しい。
そこも、すでにある流れを使えた。
貨幣輸送日の前日には、向こうの町から通常の荷馬車が来る。
こちらから向こうへも、空箱と注文書を返す定期便がある。
その便へ精算票を一枚載せればいい。
専用の早馬はいらない。
新しい連絡係もいらない。
締め日は貨幣輸送の二日前。
そこまでに確定した取引だけを今回分とする。
締め後の取引は次週。
これは今までの貨幣輸送でも同じだった。荷車へ積み込んだ後に成立した取引を、走っている荷車へ追加することはできない。
レイナが一連の流れを見て頷いた。
「新しく増えた仕事は?」
ブラントが数える。
「各町で相手町向けの合計を出すこと。精算票を一枚作ること。届いた数字と照合すること。それだけです」
「減る仕事は?」
今度はゼフが答えた。
「うまくいけば、貨幣荷車四台分。御者四人、護衛八人」
五台すべてが消えるわけではない。
先週の数字なら差額二千四百枚は向こうからこちらへ運ぶ必要がある。
だが二千四百枚なら、一台で十分だった。
三台こちらへ。
二台向こうへ。
五台が、一台。
専用護衛十人が、二人。
しかも運ぶ貨幣量は六万六千枚から二千四百枚。
約九十六パーセント減る。
フィンが思わず笑った。
「市場の七割削減が小さく見えてきた」
「距離が長いほど、運ばない効果が大きいからな」
町の中で百枚を運ばなくても、減るのは数十分の仕事だ。
半日離れた場所へ一万枚を運ばなければ、荷車、人、護衛、餌、宿、事故、盗難の危険までまとめて減る。
同じ「一回運ばない」でも価値が違う。
だから遠い場所ほど、先に消せる移動がないか見る意味がある。
翌日。
向こうの町へ戻る商人に、試験用の精算票を持っていってもらった。
ただし、いきなり今週の支払いには使わない。
まず先週分を使った再計算だけをする。
こちらで出した数字は、
こちらから向こう。
三万千八百枚。
向こうからこちら。
三万四千二百枚。
差額、向こうからこちらへ二千四百枚。
向こう側にも、こちらの数字を見せずに同じ計算をしてもらう。
答えを先に見せれば、無意識に数字を合わせる可能性があるからだ。
次の日の昼。
通常便で返事が届いた。
ブラントが封を開け、全員の前で読み上げる。
向こうからこちら。
三万四千二百枚。
こちらから向こう。
三万千八百枚。
差額。
二千四百枚。
一致。
フィンが机を軽く叩いた。
「本当に五台いらなかったんだ」
先週は必要だと思っていた。
実際には必要なかった。
そこで初めて、今週分を試験対象にする。
参加するのは、両方の町で記録方法を確認できた二十八商会だけ。
全商会ではない。
一度に広げない。
今週の締め時点。
向こうからこちらへの支払い。
四万千六百七十枚。
こちらから向こうへの支払い。
三万八千九百二十枚。
差額。
二千七百五十枚。
双方で独立計算する。
翌日。
返ってきた精算票。
四万千六百七十。
三万八千九百二十。
二千七百五十。
一致。
ただし一件だけ、相手別合計が違っていた。
こちらでは百六十四枚。
向こうでは百六十枚。
全体合計まで一致していたのは、別の商会で逆向きに四枚の転記間違いがあり、偶然打ち消し合っていたからだ。
以前なら全取引を止めていたかもしれない。
今回は違う。
数字が違う二商会だけ確認票を開く。
一件目。
百六十枚が正しい。
一件目のこちら側転記が四枚多い。
もう一件。
九十二枚が正しい。
向こう側が九十六枚と転記していた。
二つ訂正する。
全体差額は変わらない。
確認した原票は四枚。
残りの取引は開かなかった。
修正後、今週の貨幣輸送量は二千七百五十枚に確定した。
翌朝。
いつもなら三台並ぶはずだった貨幣輸送用の荷車が、一台だけ門前へ来た。
革袋も少ない。
護衛は二人。
御者は一人。
ゼフが積荷と封を確認する。
「二千七百五十。記録と一致」
以前なら、この道を反対方向へ走る二台もあった。
今日はない。
向こうへ払うはずだった三万八千九百二十枚は、こちらの町の中で、向こうから金を受け取る予定だった商人への支払いに組み替えられた。
向こうの町でも同じことをしている。
町同士がお金を借りたわけではない。
領主府が預かったわけでもない。
誰かが他人の借金を保証したわけでもない。
同じ週。
同じ支払期限。
確定済みの取引。
その中で、反対方向へ通り過ぎるはずだった銅貨を、通り過ぎさせなかっただけだ。
荷車が門を出る。
一台。
それで終わった。
フィンはしばらく街道を見ていた。
「今まで五台だったんだよね」
「両方向合わせればな」
「今日は一台」
「そうなる」
「御者五人が一人」
「ああ」
「護衛十人が二人」
ゼフが補足する。
「しかも襲われた時に失う額も小さい」
そこも数字に入れるべきだった。
輸送回数が減る。
輸送人数が減る。
運ぶ金額も減る。
盗難される機会と、一回の被害額が両方下がる。
さらに荷車四台が空いた。
御者四人。
護衛八人。
その人たちは消えない。
別の荷物を運べる。
別の街道を守れる。
本来の仕事へ戻れる。
夕方、ブラントが実際の費用まで持ってきた。
「貨幣輸送一往復に使っていた御者、護衛、馬の餌、宿泊費、それから荷車の使用料を合わせると、五台分で週に銀貨換算二十七枚相当でした」
「一台なら?」
「六枚弱です」
週に二十一枚程度。
一年続けば。
フィンが計算し始めたが、途中でミナが答えた。
「同じ水準が続けば、年間で銀貨千枚を超えます」
領主が目を見開いた。
「銅貨を増やす話だったはずなのだが」
「増やしてません」
「両替所も作っていない」
「はい」
「金庫も作っていない」
「作ってません」
「それで今度は、年間銀貨千枚分の輸送まで消えた?」
レイナが淡々と訂正する。
「消える可能性。取引量は変わる」
領主は笑った。
「そこは厳しいな」
「数字だから」
今日の結果をまとめた。
二町間。
参加二十八商会。
今週の相互支払い総額、八万五百九十枚分。
相殺後の街道輸送、二千七百五十枚。
街道上の貨幣移動削減、約九十六パーセント。
貨幣輸送荷車、両方向合計五台から一台。
御者、五人から一人。
専用護衛、十人から二人。
領主府による貨幣保管、零。
貸付、零。
信用保証、零。
支払期限延長、零。
専用連絡便、零。
新設部署、零。
必要だったのは、すでにある定期便へ精算票を一枚載せることと、二つの町で同じ数字になっているか確認することだけだった。
領主は報告書を読み終えたあと、地図を見た。
昨日まで二つだった丸がある。
この町。
半日離れた町。
その間に一本の線。
「これを他の町にも使えるのか?」
「同じ条件なら」
「同じ条件?」
「互いに支払いがあること。締め日が合わせられること。取引が確定していること。それから、数字が合わない時に追える記録があることです」
一方向にしか金が流れていない町なら、相殺しても減らない。
毎日支払いと半年後の支払いを混ぜることもできない。
何でもまとめればいいわけではない。
反対方向の確定済み支払いがある場所だけ、ぶつける。
するとユハが地図の端を見ながら言った。
「それなら、確認しておいた方がいい場所があります」
また何か見つけたらしい。
最近は、この言葉を聞くと少し楽しみになってきた。
ユハが三つ目の町へ丸を付ける。
今いる町から北へ一日。
昨日試験した町からなら、半日ほど東。
三つの町を線で結ぶと、ちょうど三角形になった。
「ここから北の町へは、毎週かなりの支払いがあります」
「向こうからこっちは?」
「少ないです」
それだけなら相殺効果は小さい。
だがユハは、昨日の町から北の町へ伸びる道を指した。
「昨日の町は、北の町から大量に買っています」
俺は三本の線を見る。
こちらから北へ金が流れる。
北から昨日の町へ金が流れる。
昨日の町から、こちらへ金が流れる。
フィンも気づいた。
「これ……三つで回ってない?」
一対一で見れば、どの道にも支払いがある。
だが三町まとめて見れば。
銅貨が三角形を一周して、元の近くへ戻っている可能性がある。
二つの町なら。
反対方向を差し引けばよかった。
三つの町なら。
反対方向でなくても、消せるかもしれない。
レイナが地図の三角形を指でなぞった。
「次は、道じゃなくて輪」
俺は今日の報告書の最後へ一行を書き足した。
《三つの町を一周する銅貨は、本当に一周させる必要があるか》
五台あった貨幣輸送は、一台になった。
次は。
その最後の一台まで、走らなくてよくなるかもしれなかった。




