第200話 預からない。それでも銅貨を持ち帰らなくていい
翌朝、最初に確認したのは昨日最後に出た提案だった。
精算で受け取った銅貨を、そのまま翌日まで置いておけないか。
一見すると合理的だ。
今日受け取った銅貨を店へ持ち帰り、一晩保管し、翌日また支払いに使うなら、最初から精算場所へ置いておけば往復が一つ消える。
だが、レイナが昨日言った通り、それを始めた瞬間に仕事の種類が変わる。
俺は机の上へ八十六枚の代わりになる木札を並べた。
「仮に、昨日の布商が八十六枚をここへ置いて帰ったとする」
フィンが頷く。
「そのうち七十枚くらいを今日使うんだったね」
「でも夜中に盗まれたら?」
「ここが弁償する?」
「誰が?」
そこでフィンの動きが止まった。
領主府が弁償するなら、領主府が商人の財産を保証することになる。
では、保管手数料を取るのか。
誰が鍵を持つのか。
毎晩何枚あるか数えるのか。
朝になって「八十六枚預けた」「いや八十五枚だった」という争いが起きた時、何を証拠にするのか。
さらに布商が昼前になって「やっぱり四十枚返してくれ」と言えば、引き出しにも対応しなければならない。
ブラントが途中から紙へ必要業務を書き出していたが、しばらくして筆を止めた。
「保管記録、入出庫確認、鍵の管理、夜間警備、残高確認、紛失時の責任……」
領主がその紙を見て苦笑する。
「昨日まで減らしていた仕事が、まとめて帰ってきたな」
「しかも今度は他人の財産です」
ミナが言う。
間違えたから書き直す、では済まない。
銅貨一枚足りなければ、本当に誰かが損をする。
レイナが木札を一つ動かした。
「預かるから、管理が必要になる」
なら。
預からなければいい。
俺は昨日の日次精算票を広げた。
二十三商会、七十一取引。
取引総額三千六百八十四枚分。
相殺後に実際に移動した銅貨は千百四枚。
昨日の時点では、この千百四枚をどう減らすかばかり見ていた。
だが、よく考えると問題は枚数ではない。
布商が嫌がったのは、八十六枚を受け取ることではなく、それをわざわざ持ち帰り、また翌日に持ち出すことだった。
「昨日、八十六枚はどこで受け取った?」
ブラントが記録を確認する。
「精算の組み替え後、支払い側から受け取り側へ渡しています。ただ、受け渡し場所については統一していません」
「じゃあ、布商の店で受け取ればいい」
フィンが一度瞬きをした。
それから、机の上の紙を見直す。
「……そしたら、もう持ち帰ってる?」
「店に届いた時点でな」
精算する場所と、銅貨を受け渡す場所を同じにする必要はない。
むしろ昨日、帳面を一か所へ集めなくていいと決めたばかりだ。
紙だけで計算できるなら、銅貨まで計算場所へ寄せる理由はなかった。
レイナがすぐに理解した。
「精算場所は、数字だけ」
「そうする」
「銅貨は?」
「最後に必要な相手へ直接」
領主が椅子へ深く座り直した。
「つまり領主府は、一枚も預からない?」
「預かりません」
「一晩どころか?」
「一分も」
その方がいい。
俺たちが知る必要があるのは、最終的に誰がいくら払い、誰がいくら受け取るかまでだ。
その後の銅貨は商人同士で渡せばいい。
問題は、誰から誰へ渡すかだった。
昨日は支払額と受取額を大きい順に組み合わせていた。
計算だけならそれで早い。
だが地図の上に線を引いてみると、妙なことになっていた。
東市場の商人が南市場へ六十枚を運び、そのすぐ近くにいる別の南市場の商人が中央市場へ五十五枚を運ぶ。
中央市場からは、また東市場へ七十枚が戻っている。
帳面上では全部正しい。
だが、人間が歩く経路としては正しくない。
ゼフが地図を見て顔をしかめた。
「金が町を回っているな」
「必要ないのにね」
フィンが三本の線を指でなぞった。
昨日は取引の無駄を消した。
今日は精算後の経路に無駄が残っている。
なら、近いところから合わせればいい。
東市場の支払いと、東市場の受け取りを先にぶつける。
中央市場も同じ。
南市場も同じ。
その市場だけでは差し引きできなかった分だけを、別の市場へ動かす。
まず昨日の数字で試した。
東市場。
支払い総額、三百七十六枚。
受取総額、三百二十一枚。
市場内で三百二十一枚分を処理すれば、外へ出す必要があるのは五十五枚だけ。
中央市場。
支払い二百九十八枚。
受取三百九十一枚。
市場内で二百九十八枚まで処理でき、外から必要なのは九十三枚。
南市場も同じように差し引く。
個々の商会単位では千百四枚を動かす必要があっても、市場の境を跨ぐ銅貨はずっと少なくできる。
ミナが昨日の受け渡し記録から歩行距離まで概算した。
「昨日は十二件の現金移動のうち八件が別市場でした」
「今日の組み方なら?」
「三件です」
フィンが笑った。
「銅貨の枚数は同じなのに、人が歩かなくなる」
「同じ市場の中では動くけどな」
「それでも近いよ」
その通りだ。
俺たちは二十三商会へ、新しい方法を伝えた。
難しい規則は増やさない。
日次精算票は昨日と同じ。
確認票も同じ。
締めた後、まず同じ市場内の支払いと受け取りを合わせる。
市場内で余った支払額と、不足している受取額だけを他市場と組み合わせる。
受け取り側は自分の店で銅貨を受け取る。
精算場所へ来る必要はない。
領主府職員が銅貨に触れることもない。
布商は説明を聞いたあと、自分から昨日の質問を持ち出した。
「では、昨日の八十六枚をここへ置くのではなく、私の店へ直接持ってきてもらう?」
「そうなります」
「それなら店の金庫へ入れて終わりですな」
「翌日使うなら?」
「店から出せばいい」
少し考えてから、布商自身が笑った。
「……最初からそうすればよかったのか」
そういうことは多い。
一つの作業を減らそうとして、その作業を便利にする仕組みを考え始める。
保管が面倒だから、優れた保管制度を作ろう。
運搬が面倒だから、速い運搬方法を作ろう。
もちろん必要な時もある。
だが、その前に確認した方がいい。
そもそも、その作業をする必要があるのか。
午後、二十三商会で新方式を試した。
取引件数は昨日より増えて八十三件。
取引総額、四千二百三十六枚分。
各商会で日次精算票を作り、午後の連絡便で回収する。
受取総額と支払総額は一致。
相手別合計も一致。
今日は転記間違いもなかった。
そこから市場ごとに差し引く。
最終的に実際に受け渡す銅貨は千二百六十一枚。
取引総額の約三割。
ここまでは昨日と大きく変わらない。
変わったのは、その先だった。
市場を跨いだ現金移動は四件。
昨日の八件から半分。
受け取りのために別市場まで移動した商会、零。
精算場所へ来た商会、零。
領主府が預かった銅貨、零。
保管用金庫、零。
保管担当、零。
夜間の残高確認、零。
布商の八十六枚に相当する今日の受取分は、夕方には直接店へ届いた。
店の金庫へ入れる。
そこで終わりだ。
翌日使うなら、その店自身の金として使う。
誰かに預けているわけではない。
だから引き出し手続きもない。
レイナが数字を眺めながら言った。
「預かり制度を作った場合と比較したい」
「何を?」
「減らせる移動と、増える管理」
ブラントがすぐ計算を始めた。
仮に二十三商会のうち、今日受け取った銅貨を翌日まで置いておきたいと答えた商会は七つ。
その七商会のために保管制度を始めれば、少なくとも夕方と翌朝の残高確認が必要になる。
二人確認にすれば一日十四確認。
入出庫があれば、そのたびに追加。
さらに夜間警備と鍵の管理。
それに対して、今日の新方式なら。
保管業務そのものが存在しない。
「制度を効率化したのではなく、制度を作らなかったことで全部消えたわけですか」
ブラントが自分で計算しておきながら、少し驚いた顔をした。
「そうなるな」
領主は今日の報告書を読み、以前なら出ていたはずの質問をしなかった。
「では、領主府で金庫を用意しよう」とは言わない。
代わりに別のことを聞く。
「商会が増えても、領主府が預かるものは増えないのだな?」
「紙は増えます。でも銅貨は増えません」
「紙も昨日、一枚にしたばかりだったな」
「はい」
「なら、今のところは増やさなくていい」
その判断が自然に出てくるようになった。
俺たちが領地へ来た頃なら、便利な仕組みを一つ作るたび、それを維持するための仕事も一緒に作っていたかもしれない。
今は逆だ。
できるだけ、持たない。
できるだけ、預からない。
できるだけ、確認しない。
ただし、必要な時には追えるようにする。
その方が規模を大きくしやすい。
夕方、今日の結果を一枚へまとめた。
参加二十三商会。
八十三取引。
取引総額四千二百三十六枚。
実移動千二百六十一枚。
市場間現金移動四件。
受取側の市場間移動、零。
領主府の現金保管、零。
保管担当、零。
残高確認、零。
保管用設備、零。
制度を一つ作らなかったことで、将来まで続く仕事もまとめて作らずに済んだ。
「今日はこれで終わり?」
フィンが珍しく警戒しながら聞いた。
最近、終わりそうな時ほど何か来る。
俺も入口を見た。
ブラントはいない。
紙も来ない。
「たぶん」
言い終わる前に、ユハが入ってきた。
フィンが天井を見上げた。
「やっぱり」
ユハは申し訳なさそうに地図を一枚広げた。
「問題というほどではないんですが、参加希望がまた増えました」
「何商会?」
「今日の時点で四十一です」
昨日二十三。
一日で十八増えた。
それだけなら、まだ想定の範囲だった。
だがユハが指したのは商会数ではない。
地図の上には、三つの市場の閉まる時刻が書かれていた。
東市場は日暮れ前。
中央市場は日暮れ頃。
南市場は、それより少し遅い。
さらに倉庫街の商会は、荷馬車の到着に合わせて夜まで取引するところがある。
「今まで全部、同じ締め時刻で日次精算票を作ってもらっていました。でも南市場と倉庫街から、『その時間より後にも商売している』と言われています」
ブラントも遅れて入ってきた。
手には、やはり紙がある。
「締め時刻を遅くしてほしいという要望が九件。逆に東市場からは、遅くすると担当者が帰れないという意見が六件です」
領主が地図を見た。
「では中間にすれば?」
そこで止まった。
自分で気づいたらしい。
東には遅い。
南には早い。
全員に同じ時刻を押し付ければ、誰かが無駄に待つことになる。
フィンが笑った。
「今度は時間を一つにしない方がいい?」
レイナも地図を見ながら頷いた。
「たぶん」
俺は今日の報告書の下へ、次の問題を書いた。
《四十一商会。市場ごとに営業時間が違うのに、一日の締め時刻は一つである必要があるか》
銅貨を一か所へ集めるのをやめた。
帳面も集めなくなった。
人も集めなくなった。
そして次は。
時間まで一か所へ揃えなくてよくなりそうだった。




