第198話 信用を増やさず、使える取引だけ増やす
翌朝、昨日の試験に参加を希望した五商会のうち、支払いを一日待ってもらっている商会の主人が自分からやって来た。
年は四十前後。乾物と保存食を扱っており、店の規模は小さくない。ブラントが持ってきた帳簿を見る限り、売れていないわけでもなかった。
むしろ逆だ。
商品在庫はある。昨日までに売った代金も、まだ受け取っていない分がかなり残っている。
問題は、今日すぐ使える銅貨だった。
「先に言っておきますが、踏み倒すつもりはありません」
主人は椅子へ座るなり、少し硬い声でそう言った。
「昨日待ってもらった支払いも、明日には入ってくる代金で払えます。ですが、昨日の仕組みなら、今手元に銅貨がなくても商売を止めずに済むと聞きまして」
やはり、そこだった。
昨日まで俺たちが試していたのは、百三十七枚分の支払いを三十三枚の移動だけで済ませる方法だ。
だが、この主人が期待しているのは違う。
今日払えない六十枚を帳面に書き、明日入ってくる予定の七十枚で払う。
それを許せば、貨幣移動の省略ではなくなる。
一日とはいえ、信用を使った取引だ。
「明日入る予定の代金は、いくらです?」
「七十二枚です」
「確定していますか?」
「相手は老舗です。十年以上付き合っていますから、払わないことはまずありません」
「まず、なんですね」
主人は言葉を止めた。
信用がないわけではない。
十年間一度も支払いを遅らせていない取引先なら、俺だってかなり信用する。
だが、その信用を誰が判断するのかが問題だった。
領主府が「この商会なら明日の七十二枚を今日使っていい」と決めれば、その瞬間から別の仕事が始まる。
過去の取引履歴を調べる。
借金を調べる。
在庫を調べる。
売掛金を調べる。
相手先の信用まで調べる。
さらに、昨日まで優良だった商会が今日倒れたら、誰が責任を持つのかまで決めなければならない。
フィンが昨日の確認票を指先で押さえながら、顔をしかめた。
「一枚の紙で銅貨を運ばなくてよくなったのに、その紙を使うために人を何人も雇うことになる?」
「そうなる可能性がある」
領主も今回はすぐに理解した。
「つまり、信用を扱うなら信用を調べる仕事が必要になる」
「はい。そこまでやるなら、昨日の仕組みとは分けた方がいいです」
レイナが頷き、机の上の紙を二つに分けた。
左へ、昨日の相殺。
右へ、今日持ち込まれた要望。
「左は、持っている銅貨を動かさない方法。右は、持っていない銅貨を先に使う方法」
フィンが二枚を見比べた。
「紙は似てるのに、全然違うんだ」
「似てるから危ない」
レイナの答えに、商会主も黙ってしまった。
だが、ここで「信用取引は禁止」で終わらせる気もなかった。
信用で商売をすること自体は、すでに世の中にある。
店同士で支払いを数日待つこともあれば、長い付き合いだから先に商品を渡すこともある。
それは当事者同士が判断すればいい。
俺たちが避けたいのは、それを昨日の相殺の仕組みへ混ぜて、参加者全員へ危険を広げることだった。
なら。
混ぜなければいい。
俺は主人へ聞いた。
「今、この場で払える銅貨はいくらあります?」
「十八枚です」
「今日、確実に受け取ることが決まっている代金は?」
主人は少し考えてから、首を横へ振った。
「今日中となると、ありません。明日なら七十二枚です」
「じゃあ、今日この仕組みの中で使えるのは十八枚までです」
主人が目を瞬いた。
「十八枚しか買えない、ということですか?」
「今の時点では。でも、今日この仕組みの参加商会へ商品を売ったら、その分は増やせます」
俺は紙へ数字を書いた。
朝の時点。
手元銅貨、十八枚。
今日払える額、十八枚。
ここで参加商会へ保存食を五十枚分売り、双方の確認票ができたとする。
すると、その五十枚は「明日入る予定」ではない。
今日すでに成立した取引だ。
相殺の時に受け取る権利が確定している。
十八枚に、今日受け取る五十枚分を加える。
今日支払いに回せる上限は六十八枚。
ただし、実際の銅貨を受け取ってから買い直す必要はない。
帳面の中で五十枚を相殺すればいい。
主人はしばらく紙を見ていた。
「つまり……明日の七十二枚は数えない。でも、今日売った五十枚なら、その場で次の仕入れに使える?」
「相手が同じ相殺に参加していて、今日中に精算するなら」
それなら信用を増やしていない。
今日売った事実を、今日の支払いとぶつけているだけだ。
レイナが紙の下へ短く書いた。
《未来の入金は数えない。今日確定した入金だけ数える》
それが一番分かりやすかった。
ただし、もう一つ問題がある。
朝に十八枚しか持っていない商会が、最初から百枚分の商品を買ってしまい、「午後に百枚分売れる予定だから」と言い始めれば意味がない。
そこで参加商会自身が確認できるよう、今日の支払余力を一つの数字にした。
手元で今日払える銅貨。
プラス、今日すでに確定した受取額。
マイナス、今日すでに確定した支払額。
それより大きな買い物をしたければ、まず売るか、銅貨を用意する。
明日の予定は入れない。
在庫価値も入れない。
「たぶん売れる」も入れない。
領主府が商会の信用を採点する必要もない。
フィンは式を見ながら何度か指を動かし、やがて笑った。
「これなら僕でも分かる。今払える十八枚に、今日受け取れる五十枚が増えたら六十八枚。そこから四十枚買ったら、残り二十八枚」
「そういうこと」
「明日もらえる七十二枚は?」
「明日になって、実際に今日の受け取りとして確定したら使う」
「昨日の信用は、今日になれば普通のお金になるんだ」
少し表現は違うが、考え方は合っている。
大事なのは、未来を勝手に現在へ持ってこないことだ。
午後、八商会で実地試験をした。
乾物商会の主人は、最初に欲しがっていた荷を買えなかった。
必要額は四十六枚。
朝の支払余力は十八枚。
だから止まった。
「本当に止めるんですね」
本人は苦笑したが、俺たちは何もしない。
領主府が「この人なら大丈夫」と特例を出した瞬間、さっき捨てたはずの信用審査が戻ってくる。
ところが一時間後、状況が変わった。
トーラ商会から、保存食三十二枚分の注文が入ったのだ。
双方が数量と金額を確認し、確認票を作る。
乾物商会の支払余力は十八枚から五十枚へ増えた。
そこで初めて、四十六枚分の仕入れを行う。
銅貨はまだ一枚も動いていない。
売った三十二枚分と買った四十六枚分が帳面に入り、夕方に差額十四枚を払えば終わりだ。
主人は自分の帳面を見て、何とも言えない顔をした。
「朝は四十六枚を払えなかったのに、今は買えている。でも借りてはいない」
「今日売った分があるからです」
「売った三十二枚の銅貨も、まだ受け取ってませんよね?」
「受け取ってない。でも、今日の精算で受け取ることは双方が確認している。その受け取りと支払いを同じ日に差し引いただけです」
しばらくして、主人が笑った。
「今までなら三十二枚を受け取りに人を出して、店へ戻して数えて、そのあと四十六枚を持たせて別の店へ行かせてました」
「今日は?」
「十四枚用意して、夕方に行けば終わりです」
そういうことだった。
効率化で商売を無理に増やしたわけではない。
払えない人間に金を貸したわけでもない。
今日すでに成立している売買の間から、意味のない貨幣の往復だけを抜いた。
その後も取引は続いた。
八商会。
二十三件。
帳面上の取引総額は九百四十六枚。
もし全部をその都度支払っていれば、九百四十六枚分の銅貨が店と市場の間を行き来する。
夕方に各商会の受け取りと支払いを差し引く。
実際に動かした銅貨は二百八十七枚。
六百五十九枚分の移動が消えた。
約七割。
昨日とほぼ同じ削減率だった。
それでいて、支払不能は零。
翌日への持ち越しも零。
領主府による信用保証、零。
信用審査、零。
貸付、零。
追加鋳造、零。
さらに、朝の時点で支払余力を超えて止まった取引が三件あったが、そのうち二件は午後までに同日売上が確定したことで実行できた。
残る一件は最後まで条件を満たさず、中止。
それでいい。
売れる予定だったから。
明日入金されるから。
昔から信用があるから。
その言葉を理由に無理やり通せば、取引件数は一件増えたかもしれない。
代わりに、今まで存在しなかった危険まで一緒に仕組みの中へ入る。
一件を増やすために全体を不安定にするなら、止めた方が安い。
夕方、乾物商会の主人が十四枚を精算へ持ってきた。
朝は四十六枚を用意できなかった人間だ。
それでも一日の商売を止めることなく、必要な仕入れを終え、借金も増やしていない。
本人が一番驚いていた。
「変な感じですな。金が増えたわけじゃないのに、前より商売がしやすい」
「金を運ぶ時間が減っただけです」
「その『だけ』で、店の若いのが半日空きましたよ。いつもなら集金と支払いで市場を三往復していたんです」
それを聞いていたゼフが、朝からの護衛記録を確認する。
「八商会で、現金運搬の護衛依頼が昨日より五件減っている」
フィンが反応した。
「護衛の仕事を奪ってない?」
「別の仕事に回ってる」
ゼフは別紙を見せた。
現金袋の護衛が減った分、荷物の積み替えと夕方の市場警備へ人が回っている。
商売そのものが減ったわけではない。
むしろ店に残れる人間が増えた分、荷の処理量は少し増えていた。
ミナが今日の数字をまとめる。
「八商会のうち六商会で、集金または支払いのために人を出した回数が減っています。合計十一往復減。空いた時間は、荷受け、在庫整理、店頭対応へ回されています」
領主が報告を読みながら、昨日とは違うところで笑った。
「銅貨が足りないという話から始まって、今度は人手まで増えたように見えるな」
「人は増えてません」
「分かっている。運ばなくていいものを運ばなくした結果、他の仕事をできるようになったのだろう?」
「はい」
最近、領主がこちらの説明を先に言うようになってきた。
レイナもそれに気づいたらしく、小さく頷いている。
今日の結果を一枚へまとめた。
八商会、二十三取引。
取引総額九百四十六枚分。
実移動二百八十七枚。
省略六百五十九枚。
支払不能零。
翌日持ち越し零。
信用保証零。
貸付零。
信用審査零。
現金運搬十一往復削減。
未来の売掛金を支払余力へ入れず、今日確定した受け取りだけを加算したことで、信用取引へ踏み込まずに同日取引だけを増やせた。
書き終えたところで、ブラントが入口から顔を出した。
手に持っている紙の束が、昨日より明らかに厚い。
フィンがそれを見て、嫌そうな顔をする。
「何商会?」
「参加希望が十五増えました」
「合計二十三?」
「はい。それと、今日参加した商会から一つ要望があります」
ブラントは一番上の紙だけを抜いた。
今日の八商会では、夕方の精算に十九分かかった。
二十三商会まで増えれば、確認票の数は単純に三倍では済まない。
取引相手の組み合わせが増えるからだ。
しかも全員が夕方に一か所へ集まれば、今度は人間が列を作る。
銅貨の往復を消した結果。
次に詰まり始めたのは、帳面の方だった。
レイナが紙束の厚みを見て言う。
「成功したから、壊れ始めた」
フィンが首を傾げる。
「成功したのに?」
「成功した仕組みは、人が増える」
俺は二十三商会という数字を板へ書いた。
三商会なら、人間同士で確認できた。
八商会でも、十九分で終わった。
二十三商会。
その次は五十かもしれない。
百になれば、夕方に全員を同じ部屋へ集める方法そのものが限界になる。
貨幣を運ぶ仕事は減らした。
信用を増やさず、取引も回せた。
なら次は。
帳面を一か所へ運ぶ仕事を減らす番だった。




