第197話 百三十枚動かす仕事を、三十枚まで減らす
翌朝、机の上には三つの商会から提出された帳面が並んでいた。
昨日届いた《貨幣移動省略案》を本当に試すなら、まず実際にどれだけ貨幣が無駄に往復しているのかを見なければならない。
ブラントが帳面から昨日一日分だけを抜き出し、別紙へ転記している。
「分かりやすい取引が三件ありました。東市場のヘイル商会が中央市場のマルカ商会へ銅貨六十枚。マルカ商会が南市場のトーラ商会へ四十枚。トーラ商会がヘイル商会へ三十枚です」
フィンが紙の上で指を動かした。
「六十、四十、三十……全部で百三十枚動いてる」
「護衛付きでな」
ゼフが付け加える。
大量の銅貨は重い。
袋に詰めれば終わりではなく、運ぶ人間が要る。市場を跨げば荷車を使うこともあるし、人通りの多い場所では盗難対策も必要になる。
一枚一枚の価値は小さくても、まとまれば立派な財産だ。
だから三商会は昨日、合計百三十枚の銅貨を三方向へ運んでいた。
俺は三本の矢印を書いた。
ヘイルからマルカへ六十。
マルカからトーラへ四十。
トーラからヘイルへ三十。
それを見ていたミナが、別の紙へ数字を書き直す。
「最終的な増減だけで見ると、ヘイル商会は三十枚支払い。マルカ商会は二十枚受け取り。トーラ商会は十枚受け取りです」
つまり。
百三十枚を三回運ばなくても、ヘイル商会から二十枚をマルカ商会へ、十枚をトーラ商会へ渡せば、一日の終わりの残高は同じになる。
実際に動かす銅貨は三十枚。
百枚分の移動が消える。
フィンが二枚の紙を見比べたあと、ゆっくり顔を上げた。
「七割以上、運ばなくていい?」
「この三件だけならな」
「それ、昨日の両替より大きくない?」
大きい。
しかも貨幣そのものを増やしていない。
誰かから借りてもいない。
単に、同じ日に互いへ支払っていた分を差し引いただけだ。
レイナが三本の矢印を見ながら口を開いた。
「計算は簡単。問題は、途中を消していいかどうか」
そこだった。
数字だけなら今すぐできる。
だが、商売では「最後に帳尻が合っている」だけでは足りない場合がある。
ヘイル商会は本当にマルカ商会へ六十枚支払ったことになるのか。
マルカ商会はトーラ商会へ四十枚を払ったと言っていいのか。
途中で誰かが「そんな取引は知らない」と言い出したら、三社全部の帳面が崩れる。
さらに、その数字を領主府の帳簿一冊へまとめてしまえば、今度は領主府が全商人の支払いを保証しているように見え始める。
昨日、公認両替所を作らなかった意味がなくなる。
領主も同じところに気づいたらしく、紙を見ながら言った。
「領主府が三商会の支払いを管理するのでは駄目なのだな」
「管理した瞬間、毎日の確認が領主府の仕事になります」
ブラントが今日持ち込まれた取引票の束を見た。
「三商会でこれです。市場全体なら、専任が何人必要になるか分かりません」
フィンがため息をつく。
「昨日減らした椅子が、机ごと戻ってくる」
だから、領主府が決済所を作る案は最初から外した。
代わりに、実際に三商会を呼ぶ。
昼前、会議室に集まった三人の商人へ、俺は百三十枚と三十枚の二つの数字だけを見せた。
ヘイル商会の主人が最初に身を乗り出した。
「本当に三十枚で済むのか?」
「昨日の取引だけなら」
「だったらやりたい。昨日、銅貨の袋を二人で運ばせたんだぞ」
マルカ商会の女主人も頷いた。
「うちは南市場へ毎日何かしら支払いがあります。往復が減るなら助かります」
一方、トーラ商会の主人はすぐには頷かなかった。
「数字は分かる。ただ、俺がヘイルから受け取る三十枚を『受け取ったことにする』なら、証拠はどうする?」
いい質問だった。
ここを曖昧にしたまま始めれば、ただの口約束になる。
そこで俺たちは、貨幣の代わりになる紙を作らなかった。
「これを持っていけば銅貨十枚として使える」という券にしてしまえば、それは新しい貨幣に近づいていく。
代わりに作ったのは、取引があった事実だけを書く二枚一組の確認票だった。
誰が。
誰へ。
何枚分の支払いをしたか。
何の取引に対する支払いか。
双方が確認したら、それぞれ一枚ずつ持つ。
それだけ。
他の店では使えない。
第三者へ渡して支払いにもできない。
銅貨との交換を領主府が保証することもない。
あくまで「この二商会の間では、この支払いが発生したと双方が確認した」という記録だ。
レイナが確認票を見て、余白を指した。
「期限も」
「今日の相殺に使うなら今日だけでいいな」
翌日に持ち越せば、信用取引になっていく。
一週間。
一か月。
半年。
未精算の数字を積み上げれば、いずれ「今は銅貨を持っていなくても帳面上は払える」という状態になる。
それ自体が悪いとは限らない。
だが今やりたいのは借金を便利にすることではなく、同じ日に往復している貨幣を減らすことだ。
だから最初の試験では、その日の取引だけを、その日の終わりに精算する。
未払いを翌日に繰り越さない。
三商会もそれなら納得した。
午後。
最初の試験が始まった。
昨日とほぼ同じ取引が発生する。
ヘイル商会はマルカ商会から香辛料を仕入れ、六十四枚分。
マルカ商会はトーラ商会へ加工布代として四十二枚分。
トーラ商会はヘイル商会へ木箱代として三十一枚分。
通常なら、合計百三十七枚の銅貨が三つの市場を移動する。
だが今日は、貨幣をその場で渡さない。
三つの取引ごとに二枚一組の確認票を作り、双方が数字を確認する。
夕方、それぞれが持つ確認票を一か所へ持ち寄った。
ここでも領主府職員は計算しない。
三商会自身が読み上げ、互いに照合する。
ヘイル商会。
支払い六十四。
受け取り三十一。
差し引き三十三枚の支払い。
マルカ商会。
受け取り六十四。
支払い四十二。
差し引き二十二枚の受け取り。
トーラ商会。
受け取り四十二。
支払い三十一。
差し引き十一枚の受け取り。
数字が一致した。
ヘイル商会が銅貨二十二枚をマルカ商会へ渡し、十一枚をトーラ商会へ渡す。
そこで今日の精算は終わった。
実際に動いた銅貨は三十三枚。
本来なら百三十七枚。
百四枚分の運搬が消えた。
荷運びに使うはずだった人員は三商会合計で四人分減り、護衛依頼も二件不要になった。
何より、一日三回あった市場間の貨幣輸送が一回で済んだ。
フィンが結果表を持ったまま、何度も数字を確認した。
「仕事を一つ速くしたんじゃなくて、百四枚分の仕事そのものがなくなったんだ」
「そういうことになる」
俺が答えると、ゼフが腕を組んだ。
「盗まれる機会も減る。銅貨を運んでいないなら襲われても取られん」
それも大きい。
効率化というと、人を急がせたり、一度に多く運んだりする話になりやすい。
だが、一番速い運搬は運ばないことだ。
一番安全な貨物は、荷車に積まれていない貨物でもある。
夕方の時点で、三商会とも翌日も続けたいと希望した。
さらに試験を見ていた別の商会が五つ、参加を申し出る。
そこで、問題が起きた。
「八商会になったら、誰が誰へいくら払うか計算するんです?」
フィンの疑問に、全員が黙った。
三商会なら紙に三本の矢印を書けば済む。
八商会。
二十商会。
五十商会。
互いに取引が増えれば、確認票の数も増える。
貨幣を運ぶ仕事は減っても、計算する仕事が増えすぎれば意味がない。
俺は試しに八商会分の仮取引を書き出してみた。
十七件。
途中までは追える。
だが、一件数字を飛ばすだけで最後の差額が合わなくなる。
ミナなら計算できる。
レイナもできる。
俺でも時間をかければできる。
だが、その三人しか回せない仕組みなら失敗だ。
昨日まで銅貨を運んでいた商人自身が扱えなければ、結局また専門部署が必要になる。
そこで、帳面の形を変えた。
誰から誰へ、という矢印を全部追うのをやめる。
各商会ごとに一枚の紙を置き、
「今日払う合計」
「今日受け取る合計」
その二つだけを足す。
最後に差し引く。
相手別の取引詳細は、それぞれの確認票に残っている。
全体精算で必要なのは、商会ごとの最終差額だけだ。
八商会、十七取引。
試してみる。
最初の方式では確認と計算に二十八分。
新しい方式では十一分。
計算のやり直し、零。
実際に動かす必要がある貨幣は、取引総額七百八十四枚分に対して二百六十二枚。
五百二十二枚分、動かさなくていい。
それを見た領主が、思わず笑った。
「銅貨を作る話から始まったはずなのに、いつの間にか銅貨を運ばない話になっているな」
「足りない場所へ動かすだけで済むなら、増やすより先ですから」
「そして今度は、動かす必要そのものを減らした」
レイナが補足する。
「順番が大事」
そう。
貨幣が足りない。
だから鋳造する。
そう考えていたら、たぶん今ごろ鋳造量の会議をしていた。
実際には貨幣は足りていた。
偏っていただけだった。
だから両替が生まれた。
さらに調べたら、その貨幣自体が同じ商人の間を往復していた。
なら往復を消せばいい。
問題の名前を間違えなければ、解決方法そのものが小さくなる。
夕方、試験結果をまとめる。
参加三商会。
取引額百三十七枚分。
実移動三十三枚。
省略百四枚。
貨幣移動量、約七十六パーセント削減。
仮に八商会まで広げた計算では、七百八十四枚分の取引に対して実移動二百六十二枚。
省略五百二十二枚。
追加鋳造、零。
領主府貸付、零。
新貨幣発行、零。
支払券発行、零。
公的保証、零。
翌日への未精算持ち越し、零。
領主府がやったのは、試験場所を貸し、結果を観察しただけだった。
「これなら広げてもいいのではないか」
領主がそう言ったところで、レイナが首を横へ振った。
「まだ」
彼女は三商会の確認票のうち、一枚を持ち上げる。
今日の試験では、全員がきちんと支払った。
だから問題がなかった。
だが、もし最後の精算時にヘイル商会が三十三枚を持っていなかったらどうなる。
確認票の上では、マルカ商会もトーラ商会もすでに商品を渡している。
なのに貨幣は来ない。
三商会なら、その場で話し合える。
だが五十商会を一度に相殺して、その中の一社が払えなければ。
誰が不足分を負担するのか。
どの取引まで巻き戻すのか。
そもそも払えない商会を最初から参加させてよかったのか。
効率を上げた分だけ、一か所の失敗が広く伝わる可能性もある。
ブラントがちょうどその時、新しい報告を持ってきた。
「確認しておいた方がよさそうなことがあります」
嫌な予感はしたが、今度は紙を受け取る前に聞いた。
「どこか払えなかった?」
「今日ではありません。ですが、参加を希望した五商会のうち一社が、昨日の支払いを明日まで待ってもらっています」
フィンの表情が変わる。
「銅貨がない?」
「店には商品があります。売掛金もあります。ただ、今すぐ払える貨幣は少ないようです」
つまり。
商売が駄目なわけではない。
資産もある。
だが今日の支払いに使える銅貨がない。
帳面で相殺する仕組みに入れれば、その商会は貨幣がなくても今日の取引を続けられる可能性がある。
便利だ。
ものすごく便利だ。
だからこそ危ない。
昨日までは「貨幣を運ばなくていい」という話だった。
ここから先は、「今、貨幣を持っていなくても取引できる」という別の話になる。
俺は報告書の最後に線を引いた。
貨幣移動省略試験では、百三十七枚分の取引に対して実移動三十三枚、省略百四枚。取引記録を二者間確認票として残し、第三者へ譲渡不可・領主府保証なし・当日精算・翌日持ち越しなしとしたことで、新しい貨幣を作らずに移動量を約七十六パーセント削減した。八商会の仮計算でも七百八十四枚分のうち五百二十二枚を省略可能。ただし参加希望商会の中に、資産はあるが今日払える貨幣が不足している商会が一社ある。
フィンもその一文を読んだ。
「これを入れたら、今日払えなくても買えるようになる?」
「なるかもしれない」
「それって、便利なの?」
レイナは少しだけ考えてから答えた。
「便利。だから、別物」
俺も頷いた。
貨幣を動かさない工夫と、支払いを先延ばしにする仕組みは似て見える。
だが同じではない。
前者は無駄を減らしている。
後者は信用を使っている。
そこを混ぜれば、たぶん数字だけでは見えない仕事が増える。
明日は、銅貨ではなく信用を数えることになりそうだった。




