すれ違い
楊蘭は、地の傍を離れる前、本当はすぐに気付いて追ってくれると思っていた。
そしてその時に、お互いを見つめて話し合いたいと思っていたのだ。産み出す時、あれほどに傍について一緒に居てくれた相手なのだから、きっと話せば分かると思っていたのだ。
しかし、思いに反して相手は全く追って来なかった。気付いていて放置しているのか、それとも忙しすぎて気付かないのか、楊蘭は悲しかった。人の形をして過ごした数ヵ月、確かに愛されていると思っていたのに。これが人の言う愛情なのだと幸福に思っていたのに。
所詮我は、地を保つ為に子を成すだけの道具だったということか。
楊蘭は途方にくれた。今さら戻る訳にも行かぬが、何事も相手が決めてついて行っていたので、一人でどうすれば良いのか分からなかったのだ。
とにかく、人の形を真似なければと思った。この赤い髪は人には居らぬ。楊蘭は髪も目も色を変え、人里の方へ歩いて行った。
遠目に里を見ていたが、どうしても一人で足を踏み入れる勇気が出ない。仕方なく里の裏を抜け、山の方へ入って行った。いっそ神の世に入ってみようか…。
そのうちに、回復しきれてなかった気が減って、楊蘭はそこへ倒れ込んだ。そして思った。地に、会いたい…。
次に目が覚めた時、何かの気配がする家で寝台に寝かされていた。
まさか地が、と見ると、それは人の男だった。楊蘭は驚いて、身を縮めた。地が居ない所で、人に会うのは初めてであったのだ。
相手はホッとしたように微笑んだ。
「倒れていたので、ここへ運んだんです。汚い所で、驚いたでしょう?」
楊蘭は黙っていた。こんなときは、人はなんと答えるのが普通なのだろうか。人は困ったように微笑んだ。
「お名前は?なぜにこんな所におられたのですか?とても…里の娘には思えないのに。」
名?名などない。そして自分の形を見た。里の娘に見えないとは、どこかおかしいのだろうか。何か言わなければと、楊蘭は口を開いた。
「名は…思い出せませぬ」楊蘭は咄嗟に言った。「我は、なぜにここにおるのか、わかりませぬ。」
相手は同情したような顔をした。
「ああ、やっぱりあの崖から落ちて来たのですね。しかしよく傷も無く…記憶を失われたのでしょう。」
楊蘭はホッとした。よかった、何やら納得している。相手は続けた。
「では…お名前がないと不便です。我の母の名が楊蘭といいました。それでいかがでしょうか?」
楊蘭は頷いた。
「我は、それで良いと思う…。」
正直、何でもよかった。相手は頷いた。
「私は懐と申します。訳あってこんな所に住んでおりますが…良ければ思い出すまで、こちらでお過ごしください。」
楊蘭は嬉しかった。人の世に居場所ができた。
「礼を申しまする。懐。」
それから、二人はそこで生活を始めた。
懐は、森で何かを取ったり、獣を撃ったり、木で薪を作ったりしては、里へ行って必要な物と換えて来た。楊蘭も一生懸命助けて、人になりきろうとしていた。
そんな毎日を過ごしていても、楊蘭は地を想わぬ日はなかった。それでも、相手の心に自分への愛情がないことを思うと、つらくて仕方がなかった。時に月を見上げ、我が子はどうしているのかと考えたりしたが、それもまた、地を思い出させてつらかった。
一年ほど暮らした時、懐が言った。
「私の、妻になってもらえないだろうか。君に何か事情があるのはわかっているが、私は君を愛している。」
楊蘭は、確かに愛されていると感じる事があった。が、地以外の連れ合いなど、考えたことがなく、気付かないふりをしていたのだ。
相手の瞳を見ていると、そこに苦悩の色を感じた。自分と同じように、愛している相手に受け入れられない苦悩…。楊蘭は、気付けば頷いていた。
相手は飛び上がらんばかりに喜んで、楊蘭を抱き締めた。楊蘭は、これでいいと思った。人の一生は短い。ならばこの人を最後まで見て行ってやろう。
結婚をしたと言っても、自分のすることは限られていた。食事の準備は、していたので出来たが、他に掃除や洗濯など、どうすれば良いのかわからなかったのだ。それで、とにかく一つずつこなそうと、その日は洗濯をしてみた。
しかし、懐に止められた。あれほどに頑張って愛してくれる懐をなんとか愛してやりたいと、人のする愛情表現を、考えて表現するようにした。自分を助けてくれた懐を、なんとか幸福にしてやりたかったのだ。
ある日の朝、何かが入って来る気配がした。顔を上げた陽蘭は驚いた。地ではないか!なぜに今頃…。
地は無言で歩み寄ると、その手を取った。
「帰るのだ。己の役目を忘れたのか?」
陽蘭はその言葉に悲しくなった。そうか、我が居らねば地を治めるのに何か不都合が出来たゆえ、今頃になって来たのか。そしてその手を振り払った。
「帰らぬ!主は我の気持ちも考えず、子らを月に上げてしもうて…我がどれ程の思いで、あれらを産み出したことか!」
本当は、子らのことはもう、諦めていた。それが必要なことだと、陽蘭にも理解出来ていたからだ。だが、地が自分を愛していない事実は、胸をえぐるようにつらかった。地は憤った。
「主は何のためにあれらを産み出したか忘れておるのよ!この地上にはびこる霧を、消させなければならぬ。悪い者は排除せねばならぬだろうが!人や神が乱れて良いと申すか!」
陽蘭は顔を背けた。わかっている。だが、我はそんなことより、主が我を道具だと思うておるのが腹が立つし悲しくて仕方ないのよ!しかし、陽蘭は言った。
「…我は帰らぬ。主を片割れと決めたのは我ではない。我らの親よ。我は自分の事は自分で決める。我は一時でも、あの人の男と共にと思うた。主は我が決めたのではない!」
地は、怒ったようだった。なんと頭の弱いワガママなヤツと思われたのかもしれぬな、と、陽蘭は思った。
「人など何の力も持たぬ、神に守られ、我に守られた存在であるに!我、地にあだなし害をなすもの、あまねく消し去ってくれるわ!」
陽蘭はその言葉に腹が立った。人も神も、短い寿命を精一杯生きている。それをそのように簡単に消してしもうて良いことなどない!こんな我を愛してくれている懐も、絶対に殺させはせぬ!
「やってみよ。我はそれを、全力で止めて見せようぞ。あれらは我らより劣るやもしれぬ。だが、主よりずっと、心というものを持っておるわ!」
地は、険しい顔で自分を見た。
「…後悔するぞ。我の子は、我の声を聞き、我に従う。主などひとたまりもないわ!」
背を向けて出て行く地を見て、陽蘭は二、三歩後を追って、思い直した。もう、地は二度と我を許さないだろう。もう、二度と顔を見ることもないだろう。こんなにも想っている、この心をわかってもらうことも出来ないまま、きっとこれを言えば、嘲笑されるのだと思うと、ただ悲しくて、そこへくずおれて、泣けるだけ泣いた。これで地を想い切り、明日からは強くならなければ。人と、神の為に。
維月が涙を流しているのを見て、維心が居間の照明を戻しながらため息をついた。
「…ほんに、女というのはわからぬ。言ってもらわねばわからぬではないか。少なくとも我には、全くわからなかった。」
十六夜も苦笑して頷いた。
「まさかそんな風に思っていたなんて、地の記憶だけじゃわからなかったな。女は難しい…が、維月は小さい時からはっきりものを言うから、わかりやすいぞ。オレには維月だけだから、問題はねぇ。他の女が何を思ってても、気にならねぇもんな。」
維心は維月の涙を拭った。
「まあ、我もそうよ。最初は驚いたが、維月はわかりやすい。たまに拗ねると何も言わぬから困るんだがな。」
「似てると思ったが、陽蘭と維月はそこのところ似てねぇなあ。」
陽蘭は苦笑した。
「我も、あの時言えばよかったと、ヤツの記憶を見て思った。が、ヤツが我の不在に気付いたのが、一年も経ってからとはどう思うのだ?我だって、理由もなくあのように思い込んでおったのではない」とため息をついた。「まあ、今更よの。1500年嫌われて来たのだから、ヤツの気持ちももう無いわ。」
陽蘭が立ち上がると、後ろから低い声がした。
「…なぜに言わなんだ。」
蒼も維心も十六夜も、慌てて立ち上がった。あれは確かに、地の底で会った地の姿。青い髪に青い瞳の、十六夜の父だった。
さすがの陽蘭も、絶句してそこへ立ち尽くした。
「な、なぜに…。」
やっと絞り出したその声は、震えていた。相手はフッと笑った。
「…我が子の気が失われておるのに、駆けつけぬ親は居らぬだろうが」陽蘭と同じことを言った。つまり、あの時から居たということだ。「主らの話を聞いておると、声を掛ける間を逸してしもうた。我は個として人や神を見たことはないゆえ、個々が己の意見を話す様は、珍しかったのよ。」
陽蘭は、その姿を見た。あの折り、見送った背中が最後であった。あれはもう1500年前になるのか。離れていても、会いたいと願っていても、それを口にすることも、そぶりを見せることも出来なかった…しかし、こうして見ると、やはり会いたかったんだと思った。自分はまだ、地を愛しているのだ…。
そう思うと、陽蘭は涙を押さえられなかった。我は、地を、まだ愛している…。
「地よ…。」
陽蘭は、たまらずその場にくずおれた。地はすぐに歩み寄って、抱き留めた。
「どこの女も難しいものであるな…我には何も分からなかったというに。」
陽蘭は涙で言葉が詰まった。
「我は…主に愛情がなくとも、愛しておったのだ。今も変わらぬ。本当に会いたいと思っておったのに…!」
地は陽蘭を抱きしめた。
「我にはその意味がわからなかったが、主らの言うことを聞いておって、この感情の意味がわかった。我も確かに、主を愛しておる。だからこそ、取り返したかった。それが叶わぬと思うと、自分が引き裂かれるかと思った…そして、憎いと思うようになった。主の守るもの、全てが憎かった。我は見ぬのに、それは守るのかと…。」
維月が言った。
「それは嫉妬と申すのです。愛情ゆえに、それは深くなりますでしょう。」
地はそちらを見て、頷いた。
「そうだ、我は…会いたいと思う気持ちと、憎いという気持ち、同じように湧き上ってどうしたものか、ただ耐えるよりなかった。」
陽蘭は地を見上げた。
「では、我にもう愛想を尽かしておるのではないのか?」
地は苦笑した。
「そう出来ておれば、今はもっと、人や神にとって穏やかな世であったろうよ。我に…主以外が居るだろうか。」
陽蘭は地を抱きしめた。地は少し驚いたような顔をした。
「その…我は人や神の世に出ておったのではないゆえ。」と少し慌てている。「どうすればよいのかわからぬ。」
陽蘭は笑った。
「あの折り、毎夜励んだではないか。あれは愛情表現でもあるのだと。」
地は合点がいったという顔をした。
「おお、主が気に入ったと言っておった。我もあれは嫌いではないの。では…」
回りで聞いていた者達がぎょっとした。
「あ、あれは…その、人前では駄目です!」
蒼が叫んだ。地が陽蘭の服に手を掛けてこちらを向いた。
「そうであった。」と陽蘭を見た。「なぜか夜に隠れてしておったの。」
「あんなもの、隠れておるうちに入らぬ。我らには何の意味もなかったではないか。」
地はきょろきょろと回りを見回した。
「そうよの…隠れると申して…」
見かねて維心が言った。
「我が宮の部屋を用意させるので、今夜はそこで休むとよい」と蒼を見た。「あの、東の客間が開いておったの。」
蒼は頷いた。すると、地から光が出て蒼の頭に降りた。蒼はびっくりして身を伏せようとしたが、地はすぐにその光を退いた。
「その部屋、わかった。では、また明日の朝、ここへ戻るゆえ。よく話そうぞ。」
地は陽蘭を抱き上げると、窓から飛んで出て行った。
それを見上げながら、維心は十六夜に言った。
「…主の両親は、やはり主の両親よの。」
「どういう意味でぇ。」
十六夜は少し恥ずかしそうに横を向いた。




