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『KillerWorld ―七つ目の答え―』  作者: ザクロ
カルロス編

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9/57

KillerWorld ―七つ目の答え― カルロス編 第一章「選ばれる人」

双子の兄と比べられ続け、いつも「二番目」にいるような感覚を抱えてきたカルロス。


そんな彼の前に現れた転校生・マースは、失敗しても人が離れず、自然と輪の中心に立つ少年だった。


カルロスはマースを嫌いになれない。

むしろ、その人柄を好ましく思い、憧れてすらいる。


だからこそ思った。


自分にも、マースのような“選ばれる理由”があればいい。


話し方。笑い方。仕草。好み。人との距離。


カルロスは少しずつ、他人から好かれる要素を自分へ取り込み始める。


周囲からは「前より話しやすくなった」と言われた。


確かに、変化は成功しているように見えた。


ただ一人。


幼い頃からカルロスを知るジョナだけは、その変化に違和感を抱き始める。


「カルロスじゃないみたい」


選ばれるために足りないものを埋めるほど、

カルロス自身の輪郭は少しずつ薄れていく。


そして彼は、自分の名前を消した。


残り差分:63。


これは、他人になりたい男の話ではない。


「自分である限り足りない」と思ってしまった人間の物語。

第一章 選ばれる人


 ソルメア共和国。


 一年を通して比較的温暖なこの国では、人はよく外にいた。


 学校が終われば、そのまま家へ帰る者ばかりではない。


 広場。


 店先。


 河原。


 小さな飲食店の前。


 日が傾いてからも、人の声は街に残る。


 誰かが一人で立っていれば、知り合いが声をかける。


 そこへ別の誰かが加わる。


 話して。


 笑って。


 気づけば輪になる。


 家族だけではない。


 友人。


 その友人。


 昔からの知り合い。


 人と人との距離が近い土地だった。


 だから。


 誰が最初に呼ばれたか。


 誰の隣に人が集まったか。


 誰が会話の中心にいたか。


 そんなことを、いちいち気にする人間は少ない。


 誰かが声をかける。


 誰かが返す。


 それだけで。


 次の人間が混ざっていく。


 ソルメアでは。


 それは、ごく普通の日常だった。


 その国の。


 ありふれた学校で。


 そんな一瞬を。


 昔から、よく見ている少年がいた。



カルロスには、双子の兄がいた。


生まれた時間は三分違いだった。


たった三分。


それだけなのに、兄は昔から兄だった。


「兄貴!」


放課後の校門前で、レオの声が飛ぶ。


カルロスと並んで歩いていた兄が振り返った。


カルロスも反射的に顔を上げた。


けれど、レオの視線は最初から兄だけを見ていた。


「今日どうする?」


「何が?」


「昨日お前が遊ぼうって言ったんだろ」


「ああ」


兄は立ち止まり、腕を組んだ。


「どこ行く?」


「それを聞いてんだよ!」


どっと笑いが起きた。


兄も笑う。


「じゃあカルロス決めて」


そこで初めて、何人かの目がカルロスへ向いた。


一拍。


ほんの一拍だった。


けれどカルロスには、その一拍が昔からよく分かった。


最初は兄。


駄目なら自分。


「……俺?」


「お前、こういうの詳しいだろ」


「だったら最初から俺に聞けよ」


口から出た。


少しだけ強かった。


レオが笑う。


「細けえな」


「はいはい。弟は細かいんですよ」


「双子だろ」


「三分遅かっただけで弟だからな」


兄がカルロスの肩を、ぽん、と叩いた。


「三分はでかいぞ」


「三分で何を経験したんだよ」


また笑いが起きる。


カルロスも笑った。


笑わない方が面倒だった。


ジョナも隣で笑っている。


昔からの顔だった。


兄。


ジョナ。


カルロス。


幼い頃から何度も見てきた並びだった。


それなのに。


カルロスは時々、妙なことを考えた。


自分だけいなくても、この二人なら普通に笑っているんじゃないか。


そんな考えが浮かぶたびに、自分で自分を嫌った。


誰もカルロスを除け者になどしていない。


兄はいつも誘う。


ジョナも話しかける。


レオたちだって友人だ。


だからこそ、文句を言う資格がないように思えた。


人が最初に兄を見る。


ただそれだけ。


それだけのことが、何年も積み重なっていた。


ざりっ。


カルロスの靴底が砂を擦った。


「カルロス?」


ジョナが顔を覗き込む。


「何」


「聞いてた?」


「聞いてる」


「じゃあどこ行く?」


「……河原でいいんじゃね」


「また?」


「じゃあ兄貴に決めてもらえば?」


ジョナが瞬いた。


「何で怒ってるの」


「怒ってねえよ」


カルロスはすぐ笑った。


「冗談」


ジョナも笑い返した。


だが、その少し後ろを歩いていたニナだけが、ちらりとカルロスを見た。


カルロスは気づかなかった。


まだ。


誰かに気づかれるほどの変化は、何も起きていなかった。


数日後。


転校生が来た。


「マースです。よろしく」


教壇の横に立った少年は背が高く、髪も制服も特別目立つものではなかった。


ただ、ネクタイが少し曲がっていた。


教師が訊いた。


「前の学校では何をしてた?」


「サッカーです」


「ポジションは?」


「フォワード」


「点取り屋か」


マースは少し困ったように笑った。


「点より怒られた回数の方が多いです」


くすっ。


最初に誰かが笑った。


次にレオ。


「何したんだよ」


「監督に『作戦分かってるか』って聞かれて」


「うん」


「分かってないって答えた」


「馬鹿じゃん」


どっ。


教室が笑う。


「嘘つくよりいいだろ」


マースも笑った。


そして席へ向かう途中。


ガタンッ。


鞄を机の脚へ引っかけた。


筆箱が床を滑った。


カラカラカラ……。


「あ」


エミリアが吹き出す。


「初日から何してんの」


「今のなし」


「全員見たけど」


「じゃあ全員忘れて」


また笑い。


マースはしゃがんでペンを拾った。


格好悪い。


なのに。


空気が悪くならない。


カルロスは窓際の席からそれを見ていた。


隣のダリオが小声で言う。


「こいつ人気出そう」


「何で分かるの」


「何となく」


「便利だな」


「何でちょっと嫌そうなんだよ」


「別に」


トン。


トン。


カルロスの指が机の端を叩いた。


本人は気づいていなかった。


機嫌が悪い時に出る癖だった。


昼休みには、もうマースの周りに人がいた。


レオ。


ダリオ。


エミリア。


ニナ。


そしてジョナ。


誰かが集めたわけではない。


一人が声をかける。


マースが返す。


別の人間が混ざる。


気づけば輪になっている。


カルロスは少し離れた自分の席でパンの袋を開けた。


ビリッ。


妙に大きな音がした。


ジョナが振り向く。


「カルロス、来ないの?」


「狭いだろ」


「椅子持ってくればいいじゃん」


マースもこちらを見た。


「カルロス、ここ空ける」


自分の椅子を横へずらす。


「お前が狭くなるだろ」


「俺細いから」


レオがマースの腹を見る。


「細い?」


「お前よりは」


「喧嘩売ってんの?」


笑い。


カルロスも少し遅れて輪に加わった。


嫌いではなかった。


それが一番厄介だった。


マースが嫌な奴なら簡単だった。


声がでかい。


調子に乗っている。


目立ちたがり。


そう決めつけられた。


でも違った。


マースは人が話せば聞いた。


分からなければ普通に聞いた。


自分が失敗すれば自分で笑った。


そして、人の失敗も馬鹿にするためではなく、一緒に笑える形へ持っていった。


昼休み。


マースの数学のノートは途中から真っ白だった。


カルロスが眉を寄せる。


「授業聞いてた?」


「聞いてた」


「嘘つけ」


「声は聞こえてた」


「それを聞いてたとは言わねえよ」


カルロスがノートを引き寄せた。


さらさら、と式を書く。


「ここを先にまとめる」


「何で?」


「その方が早い」


「先生そうしてなかった」


「先生のでもできる。でも面倒」


マースは素直に覗き込んだ。


「……あ」


「分かった?」


「分かった」


そして、何でもないように言った。


「お前すげえな」


カルロスのペンが止まった。


カチ。


芯が紙へ強く当たる。


「……これくらい普通だろ」


「俺には普通じゃない」


「お前が馬鹿なだけ」


「それはある」


また笑い。


カルロスも笑った。


胸の奥が少しだけ軽くなった。


褒められた。


マースに。


嬉しかった。


そのことに気づいた瞬間。


今度は胸の奥が、ぐしゃ、と潰れたように感じた。


何を喜んでいる。


転校してきたばかりの奴に褒められただけだ。


別にこいつが偉いわけでもない。


自分より数学ができるわけでもない。


なのに。


認めてもらったような気になっている。


そんな自分が。


ひどく安っぽく思えた。


「もう分かっただろ」


カルロスはノートを押し返した。


「ありがと」


「はいはい」


顔を上げなかった。


その日の放課後。


カルロスが帰ったあと、ダリオがエミリアに言った。


「カルロス今日、機嫌よかったな」


「そう?」


「マースに褒められてから」


エミリアは少し考えた。


「ああ」


それだけだった。


カルロスは知らない。


その頃、家の机で小さなノートを開いていた。


最初は、本当に何となくだった。


マース。


声が通る。


初対面でも迷わず話す。


分からないことを聞ける。


失敗しても引きずらない。


人の名前をよく呼ぶ。


そこまで書いた。


カルロスは一度、ペンを止めた。


それから下に自分の名前を書いた。


カルロス。


声は普通。


話しかける前に考える。


分からなくても聞かない。


失敗すると後まで覚えている。


人の名前は知っていても、会話の中ではあまり呼ばない。


並べると。


なんとなく理由が見えた気がした。


人がマースを好きになる理由。


自分が兄のようになれなかった理由。


「……そりゃそうか」


ぽつり。


誰もいない部屋で笑った。


マースの方が好かれる。


当たり前だ。


自分より人間として出来ている。


そう考えると、不思議と楽だった。


理由があるなら直せる。


自分が駄目だから選ばれない。


だったら。


駄目な部分を減らせばいい。


最後に、少し迷ってから一行だけ加えた。


ジョナがよく笑う。


じっ。


カルロスはその文字を見ていた。


数秒後。


シャッ。


上から一本、線を引いた。


消しはしなかった。


翌週。


体育の授業でマースがシュートを外した。


完全なフリー。


ドンッ。


蹴ったボールはゴールの横を大きく抜けていった。


一瞬の静寂。


そのあと。


「どこ狙ったんだよ!」


レオの声。


どっ、と笑い。


マースも両手を広げた。


「今ゴール動いただろ!」


「動いてねえよ!」


ジョナが腹を押さえて笑っている。


マースも笑う。


誰も離れない。


誰も呆れた顔をしない。


失敗したのに。


何も減っていない。


カルロスは少し離れた場所から、それを見ていた。


胸の奥に。


じわ。


黒いものが広がった。


次のプレー。


カルロスがボールを受ける。


一人抜く。


シュート。


バシッ。


ネットが揺れた。


「ナイス!」


真っ先にマースが走ってくる。


手を上げる。


パシンッ。


「やっぱうまいじゃん」


「普通」


「またそれ」


「何が」


「お前、自分のこと褒めたら死ぬの?」


カルロスは笑った。


「死ぬかもな」


レオが吹き出した。


その日の帰り。


ニナが首を傾げた。


「カルロスって、前からあんな言い方してた?」


ジョナが見る。


「どんな?」


「『死ぬかもな』ってやつ」


ジョナは少し考えた。


「……言わないかも」


「マース、昨日似たこと言ってなかった?」


二人の少し前を。


カルロスとマースが歩いている。


さらにその先に双子の兄。


「たまたまでしょ」


ジョナが言った。


「だよね」


ニナもそれで終わらせた。


その夜。


カルロスは鏡の前に立っていた。


「死ぬかもな」


一度。


首の角度。


違う。


「死ぬかもな」


もう一度。


今度は少し笑う。


マースの言い方を思い出す。


あいつはもっと軽かった。


言葉を投げたあと、自分から先に笑った。


「……死ぬかもな」


近い。


カルロスは鏡を見た。


自分の顔なのに。


少しだけ。


さっきより良く見えた。


ノートへ、


『失敗時、自分から笑う。周囲も笑う』


と書いた。


まだ、この頃は練習が必要だった。


観察する。


覚える。


家で試す。


翌日使う。


周囲の反応を見る。


直す。


カルロスは、努力して変わっていた。


数日後。


レオが机の上へ飲み物をこぼした。


バシャッ。


「あっ!」


一瞬。


全員の視線が集まる。


カルロスは考えるより先に口を開いた。


「まあ乾くだろ」


レオが顔を上げる。


「雑!」


笑い。


エミリアも吹き出した。


カルロスも笑った。


その笑いが終わるより先に。


エミリアだけが黙った。


「……今の」


「何」


「マースっぽい」


カルロスの胸が。


どくん。


一度、大きく鳴った。


嫌だった。


真似だと思われたことが。


同時に。


少しだけ。


嬉しかった。


似てきた。


効果が出ている。


「毎日一緒にいりゃ移るだろ」


カルロスは笑った。


エミリアも「まあね」と答えた。


だが、カルロスはその日の夜、ノートへ書いた。


『マース類似指摘あり』


ペンが止まる。


失敗。


そう書きかけた。


やめた。


『定着開始』


と書き直した。


次に変わったのは食べ物だった。


マースがブラックコーヒーを飲んでいた。


「苦くない?」


ジョナが聞く。


「苦い」


「じゃあ何で飲むの」


「眠いから」


「砂糖入れれば?」


「取りに行くの面倒」


ただ、それだけ。


翌日。


プシュッ。


カルロスが缶を開ける。


ブラック。


一口。


舌に苦味が広がった。


「……っ」


顔が僅かに歪む。


向かいにいたダリオが気づいた。


「お前ブラック飲めたっけ?」


「飲めるけど」


「前いつも甘いやつじゃん」


「好み変わった」


ダリオが缶を見る。


次に、少し離れたマースを見る。


「昨日あいつ飲んでたから?」


どくん。


カルロスの目が止まった。


「何でそうなるの」


「いや、タイミング」


「コーヒーくらい誰でも飲むだろ」


声が強くなった。


ダリオが両手を上げる。


「悪いって」


カルロスは缶へ口をつけた。


ごく。


苦い。


ごく。


やっぱり苦い。


それでも。


最後まで飲んだ。


夜。


ノート。


『コーヒー 旧:砂糖2 現:ブラック』


続けて。


『ダリオから違和感指摘』


カルロスは少し考えた。


そして。


『継続すれば定着する』


と書いた。


好みまで。


慣らせば変えられる。


そう思った。


数日後。


朝食の席で兄が言った。


「お前、甘いの食わなくなったよな」


カルロスの手が止まった。


「別に」


「前、飯よりデザート先に食って怒られてただろ」


母親が笑う。


「あったわね」


兄も笑った。


カルロスだけが笑わなかった。


「……いつの話だよ」


「中学くらい」


「覚えてねえ」


兄の笑顔が少し薄くなった。


「お前さ」


「何」


「最近、覚えてないって多くない?」


「昔のことなんかいちいち覚えてねえよ」


「いや」


兄がカルロスの手を見る。


以前なら。


苛立った時。


左の親指を触っていた。


今は違う。


右手で左手首を握っている。


ぎゅっ。


兄はその仕草を知っていた。


昨日、マースが考え込んでいた時。


同じように手首を握っていた。


「……それ」


「何」


「いや」


兄は言わなかった。


カルロスは食事を続けた。


カチャ。


カチャ。


食器の音だけが続いた。


その夜。


カルロスはノートへ、


『カルロス固有?』


と書いた。


甘い物を先に食べる。


緊張すると左親指を触る。


声が小さい。


話す前に間がある。


書き終えたあと。


じっと見た。


どれも。


人から好かれるために必要なものには見えなかった。


むしろ。


邪魔に見えた。


カルロスはその下へ、


『改善可能』


と書いた。


その頃から。


ジョナは、カルロスとの会話で時々黙るようになった。


理由は分からなかった。


カルロスは以前より話すようになっている。


以前より相手の目を見る。


名前も呼ぶ。


話題も振る。


ジョナが困っていれば、以前より早く気づく。


全部。


良くなっているはずだった。


ある日の放課後。


ジョナが机へ突っ伏した。


「疲れた」


カルロスが横へ立つ。


以前なら、


「帰れば」


くらいで終わっていた。


だが今は違う。


人が疲れている時。


マースはすぐ励まさない。


まず相手へ触れる。


軽く。


距離を縮める。


カルロスの手が動いた。


ぽん。


ジョナの頭へ触れる。


「お疲れ」


ジョナの身体が。


ぴたり。


止まった。


カルロスも止まる。


「何」


ジョナはゆっくり顔を上げた。


「……やめて」


「何で?」


「ごめん」


「だから、何で」


ジョナは自分の頭を触った。


そして。


カルロスではなく。


少し離れた席のマースを見た。


カルロスの胸が。


ずくん。


痛んだ。


「それ」


ジョナが言う。


「マースがやるやつじゃん」


カルロスの手が落ちた。


「……だから?」


「なんか」


ジョナは困ったように眉を寄せた。


「カルロスにやられると、変」


「変?」


「うまく言えないけど」


少し間。


「カルロスじゃないみたい」


しん。


教室の音が遠くなった。


カルロスは笑った。


「じゃあもうやらない」


「カルロス」


「いいって」


笑っている。


ちゃんと。


最近覚えた。


空気を悪くしない笑い方で。


ジョナは。


その笑顔を見て。


さらに何も言えなくなった。


夜。


カルロスはノートを開いた。


『接触:頭』


ペンが動く。


『結果:拒否』


次。


『原因:マース模倣認識』


そこで手が止まった。


胸が痛かった。


ジョナに嫌がられた。


本当なら。


それだけを書けばいい。


傷ついた。


悲しかった。


嫌われたかもしれない。


でも。


カルロスは書かなかった。


少し考え。


『使用停止』


と書いた。


さらに。


『別方式検討』


カルロスはノートを閉じた。


感情まで。


改善項目へ変わり始めていた。


数日後。


ジョナはカルロスと話している途中で、突然聞いた。


「カルロス」


「何?」


「今、私が何話してたか分かる?」


カルロスが止まった。


「……何で」


「いいから」


さっきまで。


ジョナは何か話していた。


学校のこと。


たぶん。


ニナのこと。


いや。


違う。


カルロスは覚えていなかった。


ジョナが話している間。


見ていたのは。


笑った回数。


目が合った時間。


返事までの間。


身体の距離。


それだけだった。


「……聞いてなかった?」


ジョナが言った。


カルロスはすぐ答えられなかった。


「聞いてたよ」


「じゃあ何の話?」


沈黙。


ジョナの顔から笑顔が消えた。


「最近さ」


声が少し低くなる。


「私と話してる時、私見てないよね」


「見てるだろ」


「そうじゃなくて」


ジョナはカルロスを見る。


「私がどんな反応してるかは見てる」


カルロスの指が。


ぴく。


動いた。


「でも」


ジョナが続ける。


「私が何話してるか、聞いてない」


カルロスの喉が動く。


言い返したかった。


違う。


そんなことない。


ちゃんと。


ジョナが笑うように。


ジョナが楽しいように。


ジョナに選ばれるように。


ずっと考えている。


なのに。


口から出たのは。


「……じゃあどうすればいいんだよ」


ジョナの目が揺れた。


「何が?」


「どうすれば俺ならいいんだよ」


「カルロス?」


「俺なりに――」


止まる。


言葉が詰まった。


自分が何を言おうとしているのか。


一瞬。


分からなくなった。


ジョナはしばらくカルロスを見ていた。


そして。


静かに言った。


「前は」


カルロスが顔を上げる。


「そんなこと考えてなかったじゃん」


それだけだった。


ジョナは先に帰った。


パタン。


教室の扉が閉じる。


カルロスだけが残った。


窓の外。


夕方。


遠くから。


誰かの笑い声。


カルロスは机へ手をついた。


ぎゅっ。


左手首を握る。


また。


マースの癖。


気づいた。


ぱっ。


手を離す。


では。


昔はどうしていた。


分からない。


右手が宙で止まる。


親指。


どっちだった。


何を触っていた。


どんな顔で。


どう怒っていた。


カルロスは。


思い出せなかった。


「……何だよ」


小さく。


声が漏れた。


「俺、どうしてたんだよ」


誰も答えなかった。


その夜。


カルロスはノートの最初のページを開いた。


マース。


項目が増えている。


兄。


少し。


レオ。


ダリオ。


エミリア。


人の名前が少しずつ増えている。


そして。


カルロス。


そこだけ。


最初に書いた頃から。


ほとんど増えていなかった。


カルロスは自分の名前を見つめた。


カリカリ。


ペン先が紙を擦る。


二本線。


「カルロス」を消した。


下へ。


『改善対象』


と書く。


その瞬間。


胸の奥にあったものが。


少し。


静かになった。


名前だと思うから苦しい。


自分だと思うから。


兄と比べる。


マースと比べる。


ジョナに選ばれないことが痛い。


なら。


直す対象だと思えばいい。


足りないものを足す。


余計なものを消す。


それだけ。


カルロスはページの下へ数字を書いた。


『残り差分:63』


丸で囲む。


〇。


ペンを置く。


数字なら。


減らせる。


カルロスはそう思った。


自分が。


一緒に減り始めていることには。


まだ。


気づいていなかった。






次に変わったのは。


食べ物だった。


昼休み。


開けた窓から暖かい風が入り、机の上に広げられたパンの包みを僅かに揺らしている。


甘い菓子。


果物。


香辛料の匂い。


誰かが売店から買ってきたコーヒー。


その中で。


マースがブラックコーヒーを飲んでいた。


ジョナが缶を見る。


「苦くない?」


マースは一口飲む。


「苦い」


「じゃあ何で飲むの」


「眠いから」


「砂糖入れれば?」


「取りに行くの面倒」


ただ。


それだけ。


誰も気にしない。


ジョナもすぐ別の話を始める。


カルロスだけが。


缶を見ていた。


* * *


翌日。


プシュッ。


カルロスが缶を開ける。


ブラック。


いつもなら。


選ばないもの。


一口。


舌の上に苦味が広がった。


「……っ」


顔が。


僅かに歪む。


向かいにいたダリオが気づいた。


「お前ブラック飲めたっけ?」


「飲めるけど」


「前いつも甘いやつじゃん」


「好み変わった」


ダリオは。


カルロスの缶を見る。


それから。


少し離れた席。


マース。


昨日と同じ。


ブラックコーヒー。


「昨日あいつ飲んでたから?」


どくん。


カルロスの目が止まる。


「何でそうなるの」


「いや、タイミング」


「コーヒーくらい誰でも飲むだろ」


声が。


思ったより強くなった。


ダリオが両手を上げる。


「悪いって」


カルロスは缶へ口をつけた。


ごく。


苦い。


ごく。


やっぱり。


苦い。


それでも。


最後まで飲んだ。


* * *


夜。


机。


窓の外では、近所の食堂がまだ開いていた。


食器の触れ合う音。


人の話し声。


コーヒーと焼いた肉の匂いが、暖かい夜気に混ざっている。


カルロスは。


ノートを開いた。


『コーヒー 旧:砂糖2 現:ブラック』


続けて。


『ダリオから違和感指摘』


ペンが止まる。


今日。


ダリオが最初に見たもの。


自分の缶。


次。


マース。


比較された。


でも。


一日だから目立った。


なら。


続ければいい。


カルロスは。


一行加えた。


『継続すれば定着する』


好みまで。


慣らせば。


変えられる。


そう思った。


* * *


数日後。


朝食。


テーブルにはパンと果物、それから甘い焼き菓子が置かれていた。


以前なら。


カルロスの手は。


食事より先に。


そちらへ伸びていた。


今日は。


伸びない。


兄が気づいた。


「お前、甘いの食わなくなったよな」


カルロスの手が止まる。


「別に」


「前、飯よりデザート先に食って怒られてただろ」


母親が笑った。


「あったわね」


兄も笑う。


カルロスだけは。


笑わなかった。


「……いつの話だよ」


「中学くらい」


「覚えてねえ」


兄の笑顔が。


少しだけ薄くなる。


「お前さ」


「何」


「最近、覚えてないって多くない?」


「昔のことなんかいちいち覚えてねえよ」


「いや」


兄の視線が。


カルロスの手へ落ちた。


以前なら。


苛立った時。


左の親指へ触れていた。


爪の端。


皮膚。


何度も。


昔から。


そうしていた。


今は。


違う。


右手で。


左手首を握っている。


ぎゅっ。


兄は。


その仕草を知っていた。


昨日。


マースが考え込んでいた時。


同じように。


手首を握っていた。


兄の目が。


そこからカルロスの顔へ戻る。


「……それ」


「何」


「いや」


兄は。


言わなかった。


カルロスは。


食事を続ける。


カチャ。


カチャ。


食器の音。


それだけが。


しばらく続いた。


* * *


その夜。


カルロスは。


ノートへ書いた。


『カルロス固有?』


その下。


甘い物を先に食べる。


緊張すると左親指を触る。


声が小さい。


話す前に間がある。


書き終える。


じっと。


見る。


どれも。


人から好かれるために。


必要なものには見えなかった。


むしろ。


邪魔に見えた。


声が小さい。


会話へ入るのが遅い。


失敗を引きずる。


人に触れない。


名前を呼ばない。


マース。


兄。


自分。


三つを並べれば。


違いは。


見える。


なら。


直せる。


カルロスは。


その下へ。


『改善可能』


と書いた。


* * *


その頃から。


ジョナは。


カルロスとの会話で。


時々。


黙るようになった。


カルロスには。


理由が分からなかった。


以前より。


話している。


以前より。


相手の目を見る。


名前も呼ぶ。


話題も振る。


ジョナが困っていれば。


前より早く気づく。


笑う回数も。


増えた。


距離も。


前より近い。


全部。


良くなっているはずだった。


* * *


ある日の放課後。


ジョナが。


机へ突っ伏した。


「疲れた」


窓から差し込む夕方の光が、机の上へ長く伸びている。


校舎の外。


帰る生徒の声。


遠くの通りからは、食堂の呼び込みと車の音。


カルロスが。


ジョナの横へ立つ。


以前なら。


「帰れば」


それくらいで。


終わっていた。


だが。


今は違う。


人が疲れている時。


マースは。


すぐ励まさない。


まず。


相手へ触れる。


軽く。


距離を縮める。


そうすると。


相手が笑う。


カルロスの手が。


動いた。


ぽん。


ジョナの頭へ。


触れる。


「お疲れ」


ジョナの身体が。


ぴたり。


止まった。


カルロスも。


止まる。


「何」


ジョナが。


ゆっくり顔を上げる。


「……やめて」


「何で?」


「ごめん」


「だから、何で」


ジョナは。


自分の頭へ手を当てた。


触れられた場所。


それから。


カルロスではなく。


少し離れた席。


マースを見た。


カルロスの胸が。


ずくん。


痛んだ。


「それ」


ジョナが言う。


「マースがやるやつじゃん」


カルロスの手が。


落ちた。


「……だから?」


「なんか」


ジョナは。


困ったように眉を寄せる。


「カルロスにやられると、変」


「変?」


「うまく言えないけど」


少し。


間。


ジョナは。


カルロスの顔を見る。


「カルロスじゃないみたい」


教室の音が。


遠くなった。


窓の外の声。


椅子を引く音。


全部。


一歩。


遠ざかる。


カルロスは。


笑った。


「じゃあもうやらない」


「カルロス」


「いいって」


ちゃんと。


笑っている。


最近。


覚えた。


空気を。


悪くしない笑い方で。


ジョナは。


その笑顔を見て。


さらに。


何も言えなくなった。


* * *


夜。


カルロスは。


ノートを開く。


『接触:頭』


ペンが動く。


『結果:拒否』


次。


『原因:マース模倣認識』


そこで。


手が止まった。


胸が。


痛い。


ジョナに。


嫌がられた。


本当なら。


それだけだった。


嫌だった。


傷ついた。


悲しかった。


ジョナに嫌われたかもしれない。


そう書けば。


よかった。


でも。


カルロスは。


書かなかった。


少し考える。


『使用停止』


さらに。


『別方式検討』


ペンを置く。


ノートを閉じる。


ジョナが。


嫌がった。


ではなく。


このやり方では。


選ばれない。


それだけ。


感情まで。


少しずつ。


改善項目へ。


変わり始めていた。


* * *


数日後。


ジョナは。


カルロスと話している途中で。


突然。


聞いた。


「カルロス」


「何?」


「今、私が何話してたか分かる?」


カルロスが。


止まる。


「……何で」


「いいから」


さっきまで。


ジョナは。


何かを話していた。


学校のこと。


たぶん。


ニナ。


いや。


違う。


何だった。


カルロスは。


思い出せなかった。


ジョナが話している間。


カルロスが見ていたもの。


笑った回数。


目が合った時間。


返事までの間。


身体の距離。


自分が名前を呼んだ時。


ジョナがどれくらい早く反応したか。


昨日より。


今日。


マースと話す時との違い。


それだけ。


内容が。


ない。


「……聞いてなかった?」


ジョナが言う。


カルロスは。


すぐには答えられない。


「聞いてたよ」


「じゃあ何の話?」


沈黙。


ジョナの顔から。


笑顔が消えた。


「最近さ」


声が。


少し低くなる。


「私と話してる時、私見てないよね」


「見てるだろ」


「そうじゃなくて」


ジョナは。


カルロスを見る。


「私がどんな反応してるかは見てる」


カルロスの指が。


ぴく。


動いた。


「でも」


ジョナは続ける。


「私が何話してるか、聞いてない」


カルロスの喉が。


動く。


言い返したかった。


違う。


そんなことない。


ちゃんと。


見ている。


ジョナが笑うように。


ジョナが楽しいように。


ジョナとの距離が。


縮まるように。


ジョナに。


選ばれるように。


ずっと。


考えている。


なのに。


口から出たのは。


「……じゃあどうすればいいんだよ」


ジョナの目が。


揺れた。


「何が?」


「どうすれば俺ならいいんだよ」


「カルロス?」


「俺なりに――」


止まる。


言葉が。


詰まった。


自分が。


何を言おうとしているのか。


一瞬。


分からなくなる。


ジョナは。


しばらく。


カルロスを見ていた。


そして。


静かに。


言った。


「前は」


カルロスが。


顔を上げる。


「そんなこと考えてなかったじゃん」


それだけだった。


ジョナは。


先に帰った。


パタン。


教室の扉が閉じる。


カルロスだけが。


残った。


窓の外。


夕方。


赤みを帯びた光。


遠くから。


誰かの笑い声。


校門の向こう。


人が。


いくつもの輪になって帰っていく。


カルロスは。


机へ手をついた。


ぎゅっ。


左手首を。


握る。


そこで。


気づいた。


また。


マースの癖。


ぱっ。


手を離す。


では。


昔は。


どうしていた。


分からない。


右手が。


宙で止まる。


親指。


どっち。


何を。


触っていた。


苛立った時。


どんな顔をしていた。


悲しい時。


何と言っていた。


失敗した時。


どれくらい黙っていた。


ジョナと話す時。


どんな距離だった。


カルロスは。


思い出せなかった。


「……何だよ」


小さく。


声が漏れる。


誰もいない教室。


返事はない。


「俺、どうしてたんだよ」


誰も。


答えなかった。


* * *


その夜。


カルロスは。


ノートの最初のページを開いた。


マース。


項目が。


増えている。


声。


話し方。


笑い方。


距離。


触れ方。


失敗した時。


食べ物。


癖。


次。


兄。


少し。


レオ。


ダリオ。


エミリア。


人の名前が。


少しずつ。


増えている。


誰が。


誰を見た。


誰に。


何を言った。


何で笑った。


どんな時に。


距離が縮んだ。


そして。


カルロス。


そこだけ。


最初に書いた頃から。


ほとんど。


増えていなかった。


カルロスは。


自分の名前を見つめる。


マースには。


いくつもある。


兄にもある。


他人なら。


見える。


何が好かれる。


何が嫌われる。


何が足りない。


どこが違う。


自分だけ。


分からない。


カリカリ。


ペン先が。


紙を擦る。


二本線。


『カルロス』


消した。


文字そのものは。


まだ。


下に透けている。


その下。


新しく。


書く。


『改善対象』


その瞬間。


胸の奥にあったものが。


少し。


静かになった。


名前だと思うから。


苦しい。


自分だと思うから。


兄と比べる。


マースと比べる。


ジョナに。


選ばれないことが。


痛い。


なら。


直す対象だと思えばいい。


足りないものを。


足す。


余計なものを。


消す。


マースとの差。


兄との差。


人に選ばれる人間との差。


一つ。


一つ。


減らす。


それだけ。


カルロスは。


ページの下へ。


数字を書いた。


『残り差分:63』


丸で囲む。


〇。


ペンを置く。


数字なら。


減らせる。


一つ直せば。


六十二。


また一つ。


六十一。


終わりがある。


いつか。


差が。


なくなる。


カルロスは。


そう思った。


自分が。


その数字と一緒に。


少しずつ。


減り始めていることには。


まだ。


気づいていなかった。


カルロス編、開幕です。


今回のテーマは、これまでとは少し違う形の「嫉妬」です。


カルロスは最初から誰かを憎んでいるわけではありません。

兄も、マースも、ジョナも大切です。


だからこそ厄介です。


「相手が悪い」のではなく、


「自分が足りない」


と考えてしまう。


そして、足りない部分を他人から学び、取り込み、直していく。


一見すると成長にも見えるその行為が、どこから「自分を消すこと」に変わるのか。


第一章では、その境目がまだ曖昧なところまで描きました。


今後、「残り差分」という数字がどう減っていくのか。


そして数字が減るたびに、何が一緒に消えていくのか。


カルロス編も、最後まで読んでもらえたら嬉しいです。

【KillerWorld ―七つ目の答え― 世界地図】


挿絵(By みてみん)

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