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『KillerWorld ―七つ目の答え―』  作者: ザクロ
菅原編

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8/57

第七章 菅原 ― 残らないもの

日常は、まだそこにある。


全員いる。

昨日の記録も残っている。


なら、何も失っていないはずだった。


けれど。


覚えていることと、

書いてあることが、

少しずつ噛み合わなくなっていく。


残しておけば、なくならない。


そう信じてきた朔が、

最後まで残そうとしたものとは。


菅原編、第三章「残らないもの」。

始まります。


第三章 残らないもの


翌朝。


教室へ入った瞬間。


朔は、何かが違うと思った。


笑い声。


話し声。


椅子を引く音。


窓の外では、いつもの時間に電車が走っている。廊下の時計も、昨日と変わらず秒針を進めていた。


全部。


いつもと同じ。


なのに。


扉を開けた瞬間だけ。


ほんの一瞬。


教室が静かになった。


「……」


朔は中を見る。


美咲。


彼女。


圭介。


拓海。


吉宗。


全員いる。


(いる)


それを確認しただけで。


胸の奥が少し緩んだ。


視線が。


彼女へ向く。


その隣。


いつもなら空いている場所。


今日は。


鞄が置かれていた。


美咲の。


「……」


指が動く。


カリ。


『美咲 彼女の隣』


書いた。


美咲がそれを見る。


何も言わない。


彼女とも。


目が合った。


一瞬。


すぐ。


逸らされた。


胸。


ざら。


「おはよ」


朔から言った。


「……おはよ」


返事はあった。


それだけ。


拓海が。


何か言おうとして。


口を閉じる。


圭介だけは。


いつも通りに片手を上げた。


「朔」


「何」


「昨日さ――」


「いい」


「え?」


「何でもない」


朔は自分の席へ向かう。


椅子。


鞄。


机。


いつもの位置。


カリ。


『全員登校』


その下。


少し迷う。


『会話 少ない』


カリ。


『彼女 目を逸らす』


カリ。


『拓海 話しかけない』


ペンが止まった。


視線を感じる。


吉宗。


ずっと。


こちらを見ていた。


「何」


「いや」


「何だよ」


吉宗は数秒黙った。


「……あとで話そう」


朔の手が動く。


カリ。


『吉宗 あとで話す』


吉宗の眉が。


僅かに動いた。


それだけだった。


* * *


昼。


いつもの机。


ではなかった。


教室の後ろ。


彼女と美咲。


少し離れた場所。


そこに圭介もいる。


拓海も。


吉宗だけが。


朔の前へ椅子を持ってきた。


「食わねえの?」


「食う」


弁当を開ける。


箸。


唐揚げ。


一つ。


口へ入れる。


味が。


しない。


(昨日まで)


拓海が。


勝手に唐揚げを取った。


美咲が怒った。


圭介が笑った。


彼女が。


朔の弁当から卵焼きを取った。


昨日まで。


いや。


本当に。


昨日か。


朔の手が。


メモ帳へ伸びる。


昨日。


一昨日。


ページ。


日付。


ある。


『昼 全員』


『拓海 唐揚げ』


『彼女 卵焼き』


ある。


なら。


あった。


「朔」


吉宗。


「昨日のことだけど」


「俺は何もしてない」


「まだ何も言ってねえよ」


「分かってる」


「分かってねえだろ」


朔の箸が止まった。


吉宗は。


声を落とした。


「……お前も怖いんだろ」


吉宗が黙る。


その沈黙だけで。


朔には十分だった。


「ほら」


「違う」


「何が」


「怖くなかったとは言わねえ」


胸。


ざら。


「でも」


吉宗は。


言葉を探す。


「昨日のお前が怖かったのと、お前が怖いのは……」


「同じだろ」


「違う」


朔の声が。


少し大きくなった。


「何が違うんだよ」


向こう。


彼女が。


こちらを見る。


すぐに。


美咲が何かを言った。


彼女は。


視線を戻す。


朔の指が動く。


カリ。


『吉宗 怖かった』


「おい」


吉宗が。


メモ帳へ手を伸ばす。


朔は。


反射的に引いた。


「触んな」


「それだけ書くな」


「言っただろ」


「続きも言っただろ!」


「覚えてる」


「じゃあ書けよ!」


朔の手が止まる。


覚えている。


吉宗は。


何と言った。


昨日のお前が。


怖かった。


そのあと。


(……何だっけ)


「……」


「朔?」


カリ。


『吉宗 怖かった』


その下。


『続きあり』


「これでいいだろ」


吉宗は。


何も言わなくなった。


* * *


その夜。


眠った。


はずだった。


白い場所。


音がない。


床と壁の境界すら分からない。


そこに。


男が立っている。


白い服。


顔は。


よく見えない。


「またお前か」


返事はない。


朔は周囲を見る。


何もない。


残るものも。


確かめるものも。


「何なんだよ」


男が。


朔を見る。


「残ってほしいのですか」


「……誰が」


「皆です」


彼女。


吉宗。


美咲。


拓海。


圭介。


頭に浮かぶ。


「当たり前だろ」


「そうですか」


それだけ。


朔は苛立った。


「何だよ」


男は。


少しだけ首を傾げる。


「では」


静かな声。


「残ると決めるのは、誰ですか」


「……」


一瞬。


言葉が詰まる。


そのあと。


口から出た。


「俺が残せばいい」


男は。


何も言わない。


「失くしてからじゃ遅いんだよ」


沈黙。


「何か言えよ」


「そうですか」


それだけだった。


* * *


目を覚ました。


朝。


見慣れた天井。


朔はしばらく。


何もない場所を見ていた。


* * *


翌日。


彼女は。


圭介と話していた。


廊下。


二人。


圭介は壁にもたれている。


彼女は。


俯いていた。


朔は。


角の手前で足を止める。


声が。


少しだけ聞こえた。


「無理しなくていいって」


圭介。


「でも……」


「朔のこと嫌いになったわけじゃないんだろ」


「……うん」


「だったら余計、今すぐ答え出さなくていいと思う」


胸。


ざら。


ざら。


ざら。


(何で)


圭介の手が。


彼女の肩へ触れた。


一瞬。


それだけ。


彼女は。


泣いていた。


朔の手は。


もうメモ帳を開いていた。


カリ。


『圭介 彼女の肩に触れる』


カリ。


『彼女 泣いている』


カリ。


『二人 廊下』


ペン先が。


紙へ強く当たる。


点。


小さく。


インクが滲んだ。


少し離れた場所。


自動販売機の横。


一人の男子生徒が。


朔を見ていた。


指。


トン。


トン。


* * *


その日の夕方。


彼女のスマートフォンが鳴った。


『圭介』


メッセージ。


――少し話せる?


彼女は。


しばらく画面を見た。


それから。


返信する。


――うん。


駅裏。


小さな公園。


夕方の遊具は空いている。


電車が通るたび。


フェンスの向こうから金属音が聞こえた。


圭介がいた。


「ごめん」


「ううん」


「昨日のこと」


彼女が口を開こうとする。


でも。


圭介が先に言った。


「朔のこと、嫌いになったわけじゃないんだろ」


彼女が止まる。


「……うん」


「だったらさ」


笑う。


いつもの。


少し困ったような。


圭介の笑い方。


「無理して戻らなくていいと思う」


「え?」


「一回離れてみればいいじゃん」


「でも」


「怖いまま一緒にいても、たぶん余計こじれる」


彼女は。


俯いた。


「私が悪いのかな」


「何で」


「助けてもらったのに」


「それとこれは別だろ」


少し離れた場所。


木の陰。


男が。


笑った。


圭介と。


同じ顔で。


* * *


翌朝。


「昨日?」


本物の圭介が。


首を傾げた。


彼女の顔から。


血の気が引いた。


「……公園」


「何の話?」


「駅裏の」


「俺、昨日バイト」


「……え」


圭介が。


スマートフォンを出す。


シフト。


時刻。


写真。


「ほら」


彼女は。


何も言えない。


美咲が。


横から入る。


「待って」


それから。


彼女を見る。


「じゃあ昨日、誰と話したの?」


答えられない。


少し離れた場所。


朔。


全部。


聞いている。


メモ帳。


開く。


昨日。


『17:41 彼女 圭介と駅前』


その下。


『圭介 昨日はいない』


「……」


ページをめくる。


『圭介 彼女の隣』


さらに。


『圭介 居場所返信は面倒な時ある』


『拓海 圭介に寝取られると言う』


「……」


頭が。


痛い。


「朔?」


吉宗の声。


朔は答えない。


『17:41 彼女 圭介と駅前』


字。


自分の字。


間違いなく。


自分。


(俺が見た?)


思い出そうとする。


公園。


違う。


廊下。


彼女。


圭介。


肩。


泣いている。


そのあと。


(そのあと?)


膜。


白い。


何も。


出てこない。


「……俺が忘れてるだけだ」


「何?」


「何でもない」


朔は。


ペンを取る。


カリ。


『前の記録を信用する』


書き終える。


胸の奥が。


僅かに静まった。


* * *


数日後。


街の外れ。


古い商業施設。


半分以上の店舗はシャッターが降り、色褪せた案内板だけが、かつて人の多かった頃の配置を残している。


拓海が。


スマートフォンを見る。


「ほんとにここ?」


「メッセージ来た」


美咲。


「私も」


圭介。


彼女。


吉宗。


全員。


違う理由だった。


違う相手から。


同じ時間。


同じ場所。


朔も。


一枚のメモを見ていた。


『16:30 行く』


誰と。


何のために。


書いていない。


(俺が書いた)


なら。


行く。


それだけだった。


* * *


遠く。


車の中。


白衣の男が。


モニターを見ていた。


数字。


波形。


映像。


「試作個体、投入」


画面。


商業施設。


人。


「行動傾向確認」


別の研究員が。


画面を見る。


「周囲に民間人が」


「問題ない」


白衣の男は。


視線すら動かさない。


「実地だ」


画面の端。


一つ。


既存のデータ。


適合者。


男の指が。


ほんの少しだけ。


止まった。


「……反応するなら、それも取れ」


* * *


最初に。


悲鳴がした。


「何!?」


美咲が振り向く。


次の瞬間。


ガラス。


割れる。


ドンッ!


何かが。


閉じた店のシャッターを。


内側から突き破った。


人。


に。


見えた。


大きすぎる。


腕。


長い。


皮膚。


ところどころ。


形がおかしい。


関節も。


肩も。


人間の位置から。


少しずつ。


外れている。


「……は?」


拓海の声。


それが。


近くにいた男を。


片手で。


持ち上げた。


投げる。


ドンッ!


身体が。


壁へ叩きつけられる。


「走れ!」


吉宗。


全員。


動く。


彼女の手を。


美咲が掴む。


圭介が。


拓海の背中を押す。


朔も。


走る。


その時。


実験体が。


こちらを見る。


「――!」


踏み込む。


速い。


大きな身体が。


一気に距離を消す。


狙い。


圭介。


腕が。


振り下ろされる。


朔の身体が。


先に動いた。


掴む。


腕。


ドクン。


(止まれ)


ガッ――。


止まった。


「……え」


圭介が。


目の前の腕を見る。


実験体が。


引く。


動かない。


もう一度。


全身。


筋肉が隆起する。


足元。


アスファルトが。


ズッ。


靴の下で削れる。


でも。


腕だけは。


掴まれた位置から。


一ミリも。


動かない。


「朔……?」


実験体が吠える。


空いた腕。


朔へ。


「危な――」


誰かの声。


朔が。


その腕にも。


触れる。


(そこ)


ガッ。


もう片方も。


止まる。


実験体は。


身体だけを。


無理に捻った。


肩。


軋む。


骨。


ミシ。


ミシミシ。


拓海は。


口を開けたまま。


動けない。


実験体の足。


一歩。


前へ出ようとする。


朔の足が。


動く。


蹴る。


違う。


触れる。


(動くな)


ガッ。


足。


固定。


もう片方。


触れる。


ガッ。


首。


振り向こうとする。


朔の手。


顎。


(そこにいろ)


ガッ。


生きている。


呼吸している。


筋肉も。


動いている。


なのに。


位置だけが。


変わらない。


人間の形をした何かが。


その場へ。


縫いつけられていた。


静かだった。


誰も。


すぐには。


声を出さない。


「……」


朔が。


振り返る。


彼女。


一歩。


下がった。


美咲が。


その前へ出る。


圭介は。


自分を助けた朔を。


見ている。


拓海の顔から。


色が消えている。


吉宗も。


同じだった。


「……何だよ」


朔が言う。


誰も答えない。


「助けたんだけど」


彼女の唇が。


震えた。


その時。


後ろ。


「おい!」


知らない男。


「お前、危ないだろ!」


朔が振り向く。


「は?」


「周り見えてんのか!?」


「何言ってんだよ」


「何って……!」


男は。


固定された実験体を見る。


顔。


本気で。


引いている。


「それ何なんだよ!」


別の人間。


「まだ生きてんの?」


「警察呼べ!」


ざわ。


ざわざわ。


人が集まる。


スマートフォン。


カメラ。


「撮るな!」


誰か。


「いや、証拠いるだろ!」


朔の呼吸が。


少しずつ。


荒くなる。


「俺じゃない!」


「分かってる!」


さっきの男。


一歩。


下がる。


「分かってるけど!」


周囲を見る。


「みんな怖がってるだろ!」


空気が。


変わった。


一人が。


朔を見る。


次の人間も。


一歩。


下がる。


男が。


引きつったように笑った。


「……こんなん見て普通でいろって無理だって」


「助けたんだよ!」


朔の声が。


大きくなる。


男が。


びくっと肩を揺らす。


「ほら!」


「何が!」


「そうやって怒るから余計怖いんだろ!」


ざわっ。


彼女。


また。


一歩。


「……朔」


「お前まで何だよ」


その瞬間。


人が。


二人の間を横切った。


女。


彼女の肩へ。


そっと。


近づく。


「……あれ」


耳元。


「あなたにも使えるんだよね」


彼女が。


固まる。


振り返る。


女は。


もう。


人混みの中。


別の場所。


美咲。


誰かが。


横を通る。


「彼女には使わないって、約束してる?」


「……え?」


いない。


圭介。


背後。


声。


「さっき、お前の方も止めようとしてなかった?」


「は?」


振り返る。


知らない男。


人波へ。


消える。


拓海。


肩。


軽くぶつかる。


「……自分じゃなくてよかったな」


「何だよ!」


誰も。


いない。


吉宗。


呼吸。


浅い。


朔を見る。


怖い。


本当に。


怖い。


その耳元。


「……ほら」


声。


吉宗の目が。


見開く。


「やっと全員」


囁き。


「お前と同じ顔になった」


振り向く。


男。


知らない顔。


でも。


指。


トン。


トン。


吉宗の顔が変わる。


「お前……!」


男は。


笑う。


「よかったじゃん」


「待て!」


吉宗が追う。


人混み。


男は。


消えた。


その間。


朔。


一人。


視線。


全部。


自分へ向いている。


「……何だよ」


誰も。


来ない。


「助けただろ」


人が。


また。


横を通る。


肩。


触れる。


耳元。


ほんの一言。


「……助けたのにね」


朔が振り向く。


誰。


どこ。


分からない。


「……」


そうだ。


助けた。


全員。


生きている。


圭介も。


彼女も。


吉宗も。


誰も。


失っていない。


なのに。


何で。


少し離れた場所。


男の声。


「もういいだろ!」


群衆。


「みんな帰ろうぜ!」


誰かが続く。


「離れた方がいい!」


「警察来るし!」


「行こう」


彼女も。


美咲に手を引かれる。


「待てよ」


彼女が止まる。


でも。


戻らない。


「……怖かった」


朔が言う。


「だから助けただろ」


「あいつも怖かった」


彼女の目が。


朔を見る。


「でも……」


言えない。


言わなくても。


朔には。


分かった。


「今の俺も?」


沈黙。


「……」


「言えよ」


「朔」


吉宗。


声が。


震えている。


「今はやめろ」


朔が。


吉宗を見る。


その顔。


吉宗まで。


「……お前も?」


「違う」


「同じ顔してんじゃん」


「朔!」


「俺が何したんだよ!」


誰も。


答えない。


「全員、生きてるだろ!」


静か。


「俺が止めたからだろ!」


彼女が。


泣きそうな顔で。


また一歩。


下がった。


その一歩で。


朔の中の何かが。


切れた。


「……じゃあ」


声。


低い。


「死ねばよかったのかよ」


「そういう話してんじゃねえ!」


吉宗の声。


けれど。


もう。


朔には。


届かなかった。


---


その夜。


昔。


一人の娘がいた。


娘を欲した者は、彼女を光の届かない場所へ連れていった。


地上には帰る場所があった。


待つ者もいた。


けれど、地下の主は考えた。


どうすれば。


娘が二度と自分のもとから完全には去らなくなるのか。


鎖ではなかった。


檻でもなかった。


小さな実を。


食べさせた。


それだけだった。


一度。


口にしたものが。


約束になった。


娘は地上へ帰ることを許された。


ただし。


すべてではない。


一年のうち。


何度かは。


必ず地下へ戻らなければならない。


地下の主は、娘の心を手に入れたわけではなかった。


娘自身に。


自分を選ばせたわけでもない。


ただ。


帰ってくる未来だけを。


失わない形にした。


それで。


十分だった。


* * *


部屋。


カリ。


カリ。


カリ。


朔は机へ向かっていた。


『彼女 怖いと言った』


ペンが止まる。


違う。


線を引く。


『彼女 俺を怖いと言った』


また止まる。


違う。


線。


『彼女 力を怖がった』


「……」


次。


『吉宗 止めた』


次。


『吉宗 怖がっていた』


次。


『圭介 彼女を庇った』


次。


『美咲 彼女を連れていった』


カリ。


カリ。


文字だけが増えていく。


朔はページを戻した。


『17:41 彼女 圭介と駅前』


その下。


『圭介 昨日はいない』


「違う」


ページをめくる。


『圭介 彼女の隣』


「違う」


『圭介 居場所返信は面倒な時ある』


「違う」


『拓海 圭介に寝取られると言う』


「違うって……」


バンッ!


ノートを机へ叩きつけた。


衝撃で。


積まれていた紙が舞った。


一枚。


二枚。


十枚。


床。


机。


壁。


天井。


どこを見ても。


文字。


自分の字。


『母さん 味噌汁は少し濃くする』


『彼女 帰宅18:42』


『父さん 新聞を読む時は左足を組む』


『圭介 嘘』


『全員登校』


『彼女 目を逸らす』


『俺は助けた』


『忘れるな』


『忘れるな』


『忘れるな』


「……うるさい」


両手で。


頭を掴む。


「うるさい……」


息が。


胸まで入らない。


「どれだよ」


壁へ手を伸ばす。


紙を掴む。


ビリッ。


「どれが本当なんだよ!」


ビリッ。


『彼女 帰宅――』


破る。


『吉宗――』


破る。


『母さん――』


手が。


止まった。


「……」


母さん。


何を。


書いた。


思い出そうとする。


出てこない。


「俺が書いたんだろ!」


バンッ!


壁へ拳を叩きつけた。


痛い。


それでも。


止まらない。


「だったら何で覚えてねえんだよ!」


椅子を蹴る。


ガタンッ!


机へ当たる。


紙が落ちる。


また。


文字。


全部。


自分の字。


なのに。


全部。


知らない。


「違う!」


何が。


「違う!」


誰が。


「違うって言ってんだろ!!」


両手で頭を抱え、その場へしゃがみ込む。


呼吸が速い。


胸が痛い。


(俺が忘れてる)


(俺が)


(俺が悪い)


違う。


(助けた)


違う。


(怖がらせた)


違う。


(彼女は圭介と)


違う。


(圭介はいなかった)


「じゃあどっちだよ!」


ノートを掴む。


投げる。


ゴンッ。


鏡へ当たった。


鏡面が揺れる。


そこに。


朔が映った。


その横。


一枚の紙。


『菅原 朔』


「……」


朔は。


鏡の中を見る。


顔。


目。


口。


自分。


「俺だよ」


返事はない。


「……俺だよな?」


ほんの一瞬。


鏡の中の顔が。


知らない人間に見えた。


「……っ!」


両手で鏡を倒す。


ガタンッ!


床へ伏せる。


割れなかった。


でも。


もう自分の顔は見えない。


朔は。


また頭を抱えた。


「何で……」


涙が落ちる。


いつから出たのかも。


分からない。


「何で覚えてねえんだよ……」


ザザッ。


『――朔、ご飯できてるわよ』


「うるさい!!」


叫ぶ。


録音は。


止まらない。


『朔――』


「黙れ!」


近くにあったリモコンを掴み、壁へ投げた。


乾いた音。


ぷつ。


静かになった。


残ったのは。


朔の荒い呼吸だけだった。


* * *


白。


また。


あの男。


朔は。


床へ座り込んでいた。


「……何」


男がこちらを見る。


「書いてあることは」


静かな声。


「あなたの記憶ですか」


「俺が書いた」


「そうですか」


「俺が書いたんだから、俺のだ」


男は。


少し間を置く。


「では」


朔が顔を上げる。


「あなたが覚えていないことを」


感情のない声。


「誰が決めるのですか」


「……」


答えられない。


それでも。


「俺だよ」


男は。


何も言わない。


「俺に決まってんだろ」


沈黙。


「……そうですか」


* * *


目が覚めた。


手元。


メモ帳。


開いている。


一行。


『前の記録を信用する』


朔は。


しばらく。


その文字を見ていた。


そして。


ペンを取る。


カリ。


その下。


『自分より記録』


書き終えた。


* * *


数日後。


彼女が言った。


「もう無理」


静かな場所だった。


美咲はいない。


拓海も。


圭介も。


吉宗も。


二人だけ。


朔の手には。


いつものメモ帳。


「何が」


「全部」


「分かんない」


「……それがもう無理」


「説明して」


彼女が。


一度。


目を閉じた。


「私、朔に守ってほしいんじゃない」


朔は黙る。


「普通に一緒にいたかっただけ」


「一緒にいるために守ってんだろ」


「違う」


「何が」


「それ」


彼女の声が。


震える。


「私じゃなくて」


胸の奥。


ざら。


「私が朔のそばからいなくならないようにしてるだけじゃん」


「同じだろ」


彼女の目から。


涙が落ちた。


「違うよ」


「何が違うんだよ!」


「私が決めるんだよ!」


朔の身体が。


止まった。


「帰るか」


一つ。


「会うか」


一つ。


「誰といるか」


一つ。


「怖いって思うか」


一つずつ。


胸へ刺さる。


「朔と一緒にいるか!」


朔の手が。


メモ帳へ向かった。


「……」


彼女が。


それを見る。


「また書くの?」


「忘れるから」


「今、私が言ったことも?」


「違う」


「じゃあ置いてよ」


「何で」


彼女の声が。


響いた。


「私を見てよ!」


静かになった。


その瞬間。


遠い場所から。


別の女の声が。


一瞬だけ。


重なった気がした。


――私も見てよ。


知らない。


そんな声。


聞いたことがない。


頭。


ズキッ。


「……っ」


「朔?」


反射的に。


メモ帳を開いた。


ページ。


文字。


『彼女 圭介と駅前』


朔の目が止まる。


「いつから」


「え?」


「圭介と」


彼女の表情が変わる。


「何が?」


「いつからだよ」


「違う!」


「書いてある」


「何が!?」


「俺が見た」


「見てない!」


「書いてあるんだよ!」


彼女が。


メモ帳を見る。


そして。


朔を見る。


「……私より」


声が。


小さい。


「そのメモの方を信じるの?」


朔は。


答えるまでに。


少し時間が掛かった。


「……書いてあるから」


彼女の顔から。


何かが。


消えた。


「そっか」


「待てよ」


「もういい」


「何が」


「終わりにしよう」


胸の音が。


消えた。


周囲の音も。


遠くなる。


「……やだ」


彼女が。


歩き出す。


朔の手が。


伸びる。


ドクン。


肩。


背中。


足。


位置。


全部。


見える。


(止めれば)


止められる。


そこに。


残せる。


彼女が。


振り返った。


目。


怖い。


その顔を見た瞬間。


朔の手が。


止まった。


彼女は。


去った。


今度は。


誰も。


追わなかった。


* * *


それから。


拓海からの連絡は減った。


美咲は。


ほとんど来なくなった。


圭介は。


一度だけ。


「話そう」


と言った。


朔は。


断った。


吉宗だけは。


何度か来た。


それでも。


最後。


玄関。


「朔」


「何」


吉宗は。


すぐには言わなかった。


苦しそうに。


言葉を選ぶ。


「俺、一回離れる」


「……お前も?」


「今のお前と話してると」


吉宗は。


目を伏せた。


「何言っても、次の日には違う意味になってる」


「俺が忘れてるって言いたいの?」


「そうじゃない」


「じゃあ何」


「俺まで自分が何言ったか分かんなくなるんだよ」


「……」


「ごめん」


扉。


閉じる。


ガチャン。


朔は。


一人になった。


家だけが。


残った。


ザザッ。


『――朔、ご飯できてるわよ』


「……うん」


返事をした。


* * *


夜。


帰宅。


いつもの道。


いつもの角。


そこを曲がった。


赤い。


「……?」


空。


赤い。


煙。


道路には人が集まっている。


消防車。


回転灯。


サイレン。


朔の足が。


止まる。


家。


燃えていた。


「……え」


ぱち。


ぱちぱち。


火。


壁。


窓。


黒煙。


「……え?」


走る。


「おい! 危ない!」


消防士。


腕を掴まれる。


「離せ!」


「入れません!」


「家族がいる!」


消防士の顔。


「中にいるんだよ!」


「離れて!」


「母さん!!」


ドンッ。


家の中で。


何かが崩れた。


その音で。


世界が。


ひっくり返った。


赤。


煙。


夜。


扉の下から。


揺れる光。


「――朔!」


「……」


喉が。


熱い。


息が。


吸えない。


「朔!」


煙の向こう。


手。


誰か。


母。


顔。


見える。


父。


腕。


妹。


泣いている。


「……あ」


ドンッ。


天井が落ちる。


父の背中。


母の声。


「朔だけでも!」


手。


伸ばす。


指。


あと少し。


届かない。


誰かに。


抱えられる。


外。


冷たい空気。


振り返る。


燃える家。


「戻る!」


暴れる。


「母さん!」


消防士。


「駄目だ!」


「父さん!」


誰かが。


言った。


「もう――」


音が。


途切れた。


現在。


朔は。


燃える家の前に立っていた。


同じ。


まったく。


同じ。


「……」


口が。


震える。


「死んでた」


誰にも聞こえないほど。


小さな声。


「……死んでた」


母さん。


父さん。


妹。


あの日。


全員。


「……俺だけ」


膝が。


落ちる。


「俺だけ……」


両手で。


頭を抱える。


「知ってた」


呼吸が。


壊れる。


「知ってた……!」


家。


人形。


母親の服。


父親の新聞。


妹の椅子。


録音。


メモ。


全部。


母が。


置いたんじゃない。


自分が。


置いた。


母が。


話していたんじゃない。


自分が。


流していた。


「俺が……」


炎。


窓。


そこから。


一枚。


紙が舞った。


燃えながら。


夜の空へ上がる。


落ちる。


朔の前。


『忘れていることを――』


端。


赤くなる。


文字。


黒く。


縮む。


灰。


消えた。


「……やめろ」


手を伸ばす。


触れた瞬間。


灰が。


崩れる。


「やめろ!」


家が。


燃える。


「なくすな!」


ドクン。


能力。


胸の奥。


手を伸ばす。


壁へ。


届かない。


「止まれ!」


炎が揺れる。


「止まれよ!!」


何も。


止まらない。


燃える。


崩れる。


消える。


全部。


二度目。


「いやだ……」


頭を抱える。


「いやだ……いやだ……!」


その時。


「朔!」


声。


人混みの向こう。


一人の男が。


走ってくる。


息を切らし。


人を押し退け。


朔の前へ。


「朔!」


肩を掴む。


「大丈夫か!」


朔が。


顔を上げる。


知っている。


いつから。


知っていたのか。


分からない。


でも。


知っている。


「……死んでた」


男の顔が変わる。


「何が?」


「母さん……」


息。


「父さんも……」


涙。


「妹も……」


男は。


黙った。


朔が。


その服を掴む。


「俺、知ってた」


「……」


「知ってたんだよ」


頭が。


痛い。


「なのに……忘れて……」


炎。


母。


父。


妹。


顔。


ある。


今なら。


見える。


「忘れたくない」


男の目が。


ほんの一瞬。


細くなる。


朔には。


見えない。


「忘れたくない……」


「朔」


声は。


優しい。


「今は考えなくていい」


「駄目だ」


「大丈夫」


「また忘れる」


「大丈夫だよ」


男の手が。


朔の頭へ触れる。


「全部、一度に思い出さなくていい」


「でも……」


男が。


静かに言う。


「僕が覚えてる」


朔が。


止まった。


「……え」


「君が忘れても」


男は。


燃える家を見る。


「僕が覚えてる」


母の顔が。


霞む。


「……待って」


父の声。


遠い。


「待って」


妹。


名前。


「……何だっけ」


呼吸が。


また。


速くなる。


「違う」


頭を掴む。


「今、思い出した」


「うん」


「思い出したんだよ」


「うん」


「なのに……」


男が。


朔の手を取る。


「大丈夫」


「……」


「僕が知ってる」


朔が。


男を見る。


「……本当に?」


「うん」


男が笑う。


「だから」


指。


朔の手の甲。


トン。


トン。


「君は覚えてなくていい」


炎が。


遠くなる。


サイレンも。


遠くなる。


母。


消える。


父。


消える。


妹。


消える。


ただ。


胸の奥。


何かを。


失った感覚だけが残る。


「……俺」


男へ。


縋る。


「何を……」


「大丈夫」


男が。


身体を支える。


「僕がいる」


朔は。


それ以上。


聞かなかった。


* * *


少し前。


誰もいない家。


夜。


男が。


一人。


部屋に立っていた。


人形。


壁。


天井。


文字。


『母さん 味噌汁は少し濃くする』


『父さん 新聞を読む時は左足を組む』


『妹 眠い時は右目を擦る』


男は。


壁へ手を伸ばす。


一枚。


剥がす。


『忘れていることを忘れるな』


読む。


しばらく。


何も言わない。


それから。


小さな火。


紙の端。


赤。


ぱち。


男は。


燃える文字を見る。


「……じゃあ」


指。


トン。


トン。


「思い出そうか」


紙を。


落とした。




ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


忘れたくないから、書いた。


失いたくないから、守った。


変わってほしくないから、残そうとした。


それでも。


人も。

記憶も。

関係も。


同じ形のまま残しておくことはできませんでした。


そして最後に残ったのは、

「何かを失った」という感覚だけ。


「君が忘れても、僕が覚えてる」


その言葉を、

朔は受け入れました。


菅原編、完。

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