↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『KillerWorld ―七つ目の答え―』  作者: ザクロ
菅原編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/57

第六章 菅原 ― 守るということ

あの日から、日常は戻ってきた。


教室にはいつもの顔が揃い、

いつものように笑い声が響いている。


彼女もいる。


だから朔は、もう失わないために記録する。


誰といるのか。

どこへ行くのか。

いつ帰るのか。


守るために。


第二章「守るということ」、始まります。

第一節 戻ってきた日常**


「腕、大丈夫?」


美咲が彼女の袖口を見る。


制服の下、手首から肘の少し下まで薄い包帯が巻かれていた。川沿いで掴まれた場所には、まだ赤黒い痕が残っている。


「まだちょっと痛い」


「病院は?」


「行った。打撲だけ。骨は平気だって」


「よかった……」


美咲が露骨に肩を落とした。


その隣では、拓海が机へ突っ伏したまま右腕を上げる。


「ちなみに俺は全身打撲」


美咲が振り向いた。


「お前は勝手に突っ込んだだけでしょ」


「友達襲われてんのに行くだろ普通!」


「気持ちは分かるけど、あの体格差で真正面から行く?」


「行った結果がこれだよ!」


肩を上げた瞬間。


「いてててて!」


「ほら」


圭介が呆れた顔で笑う。


「警察呼ぶの先だったな」


「お前それ今言う?」


「俺は呼んだ」


「そうだけど!」


吉宗も横から笑った。


「拓海が時間稼いだから、結果的にはよかっただろ」


「ほら!」


「でも次はやるな」


「どっちだよ!」


笑い声が教室へ広がった。


午後の乾いた光が窓から差し込み、机の縁を白く照らしている。廊下の時計はいつも通り動き、遠くでは別の教室の椅子を引く音がした。


朔も笑った。


彼女も。


数日前。


川沿い。


血。


伸びた手。


あの異常な男。


全部が、もう遠い出来事のようだった。


学校へ来ればチャイムが鳴る。


教師は課題を出す。


拓海は騒ぐ。


美咲は怒る。


圭介は横から余計なことを言う。


吉宗は笑っている。


昨日までと同じ順番で。


同じ顔が。


同じ場所にいる。


(戻った)


朔はそう思った。


ちゃんと。


全員いる。


視線が彼女へ向く。


包帯はある。


でも。


いる。


そこに。


いつも通り。


胸の奥が少し緩む。


その瞬間。


カリ。


手元でペンが動いた。


『全員登校』


一行。


さらに。


『彼女 腕の痛み残る』


カリ、カリ。


最後まで書く。


美咲が気づいた。


「また書いてる」


「何?」


「今の」


朔は手元を見る。


「……書いてるな」


拓海が顔を上げた。


「俺の全身打撲もちゃんと残しといて」


「いらんだろ」


「俺の勇姿だぞ?」


圭介が笑う。


「勇姿っていうか、飛んでった記録だろ」


「お前ほんと俺に厳しくない?」


また。


笑いが起きる。


その最中。


ぶっ。


短い振動。


彼女のスマートフォンだった。


画面を見る。


『今日は一人で帰るな』


彼女の視線が上がる。


朔。


目の前にいる。


「……」


もう一度。


画面。


送信者。


朔。


「何?」


彼女が聞く。


「何が」


「これ」


スマートフォンを見せる。


朔は少し首を傾げた。


「何かあった?」


「いや、目の前にいるのにメッセージ送る?」


拓海が横から覗き込む。


「うわ」


美咲も見る。


「朔」


「何だよ」


「いや……」


美咲は言いづらそうに口を閉じた。


朔は気にしない。


「忘れるかもしれないじゃん」


「誰が?」


「俺も、お前も」


彼女が一瞬だけ止まる。


朔は続けた。


「あとで帰る時、俺いないかもしれないし」


「迎え来るの?」


「行く」


「今日も?」


「今日も」


彼女は包帯の巻かれた腕を見た。


「別に大丈夫だよ」


朔の表情が。


ほんの僅かに変わった。


笑みが消える。


「この前、大丈夫じゃなかったじゃん」


教室の空気が止まった。


彼女の顔からも笑みが消える。


拓海は視線を泳がせ、美咲は何も言わない。圭介も吉宗も朔を見る。


朔自身は。


その空気が変わった理由を、すぐには理解できなかった。


(何か間違ったか?)


事実だ。


一人で帰った。


襲われた。


もし。


間に合わなかったら。


また。


その言葉へ触れた瞬間。


赤。


煙。


伸びた手。


頭の奥を。


何かが一瞬だけ掠めた。


朔は眉を寄せる。


「何?」


彼女が先に笑った。


「……分かったよ」


「ん」


「帰る時連絡する」


「あと出る前にも」


彼女の笑みが僅かに固まる。


「……はいはい」


カリ。


『帰宅前連絡』


最後まで書く。


ペン先が止まった瞬間。


胸の奥が。


少し静かになった。


吉宗だけが。


その表情を見ていた。


* * *


昼休み。


いつもの場所。


五人の机へ彼女の椅子も寄せられ、窓から入る光の中で弁当やパンの包装が広がっている。


今日は珍しく、拓海が人の弁当へ手を出さずに自分のパンを食べていた。


「成長したな」


美咲が言う。


「怪我人には優しくしろ」


「お前もう元気じゃん」


「心の傷が」


「ないでしょ」


圭介が菓子を一つ投げる。


拓海が片手で受け取った。


「やっぱ圭介だけが俺の味方」


「静かになるから」


「またそれ?」


彼女が笑う。


朔も笑った。


しばらくして。


美咲が何気なく彼女へ聞く。


「今日このあと?」


「ちょっと寄るとこある」


カリ、と動いていた朔のペンが止まった。


「どこ」


彼女が振り向く。


「駅前」


「何しに」


「買い物」


「誰と」


「美咲」


「何時まで」


彼女は。


少し黙った。


その間。


拓海の視線が朔と彼女の間を往復する。


圭介は、さっきまで開いていた菓子の袋を閉じた。


吉宗は。


何も言わない。


美咲が先に口を挟む。


「私と一緒だから大丈夫だよ」


朔は美咲を見る。


「帰りも?」


「途中まで」


「途中から一人じゃん」


「私、送るよ」


「家逆だろ」


「駅までは一緒」


「駅から」


「朔」


彼女の声が。


少し強くなった。


朔が見る。


「何」


「大丈夫だから」


また。


その言葉。


大丈夫。


胸の奥が。


少しざらつく。


(大丈夫って何を根拠に)


この前も。


そうだった。


普通に帰れると思っていた。


一人で。


大丈夫だと思って。


結果。


もし。


自分が間に合わなかったら。


とん。


とん。


とん。


指が机の端を叩く。


一定の間隔。


まるで、頭の中で足りないものを数えるように。


「……じゃあ駅着いたら連絡して」


「うん」


「美咲と別れたら」


「うん」


「家着いたら」


彼女が笑った。


今度は。


少し苦い。


「三回?」


「念のため」


「分かった」


カリ。


朔が書く。


『駅着 美咲と別れた時 帰宅』


最後の文字。


指が止まる。


美咲が彼女を見る。


ほんの一瞬。


彼女も。


美咲を見る。


何も言わない。


圭介だけが。


そのやり取りを見ていた。


* * *


放課後。


駅前。


決められた時刻に列車が入り、ホームから吐き出された人の流れが横断歩道へ広がっていく。


美咲と彼女は、その人波を避けながら店を見て回っていた。


最初は普通だった。


服。


雑貨。


期間限定の飲み物。


どうでもいい話。


「これ拓海に似合いそう」


美咲が変なサングラスを持ち上げる。


彼女が吹き出した。


「絶対似合う」


「買ってやろうかな」


「喜ぶよ」


「いや、あいつなら普通につけて学校来る」


二人で笑う。


その時。


スマートフォンが震えた。


『駅着いた?』


画面を見る。


時刻。


まだ。


予定より十分早い。


美咲も気づいた。


「……もう?」


「うん」


短く返す。


『まだ』


すぐ。


既読。


『今どこ』


彼女の指が止まった。


美咲は。


何も言わない。


「……店」


送る。


すぐ。


『どの店』


彼女が小さく息を吐いた。


「朔さ」


美咲が静かに言う。


「うん」


「最近、前より増えたね」


「……うん」


否定しなかった。


そのことに。


自分自身が少し驚いた。


少し前なら。


心配してるだけ。


あんなことがあったから。


そう言っていた。


今も。


そう思っている。


でも。


(なんで毎回言わなきゃいけないんだろ)


その考えが出た瞬間。


罪悪感が続く。


あの時。


朔は来てくれた。


怪我までした。


自分を助けた。


それなのに。


(面倒って思うの、最低かな)


画面には。


まだ。


『どの店』


「言っていいと思うよ」


美咲。


「何を?」


「ちょっとしんどいって」


「……でも」


「助けてもらったことと、全部報告することは別じゃない?」


彼女は黙った。


その言葉が。


妙に残った。


* * *


店を出たところだった。


「すみません」


女性の声。


二人が振り向く。


二十代くらい。


見覚えはない。


「この辺にドラッグストアあります?」


美咲が答える。


「駅の向こうです」


「ありがとうございます」


女性が頭を下げる。


その時。


彼女のスマートフォンがまた震えた。


『どこ』


女性の視線が。


ほんの一瞬だけ画面へ落ちる。


「彼氏さん?」


「え?」


「すみません。通知見えちゃって」


「……はい」


「心配性なんですね」


美咲の表情が。


僅かに変わった。


彼女は苦笑する。


「ちょっとだけ」


「いいなあ」


女性は笑った。


「大事にされてる証拠ですね」


彼女も笑おうとする。


そこで。


女性が軽い調子のまま続けた。


「でも」


一拍。


「助けてもらったからって、何でも言うこと聞かなきゃいけないわけじゃないですけどね」


美咲の眉が寄る。


彼女も。


「……何で」


女性が首を傾げる。


「何がです?」


「いや……」


女性は少しだけ笑った。


「ごめんなさい。昔の自分思い出して」


それだけ言って。


頭を下げる。


「ドラッグストアありがとうございました」


人通りの中へ去っていく。


彼女は。


その背中を見る。


美咲も。


少しして。


「……変な人」


「うん」


「なんかさ」


美咲が言いかける。


「何?」


「いや……」


首を振る。


「いい」


でも。


彼女の中には。


言葉だけが残った。


助けてもらったからって。


何でも。


言うことを。


* * *


同じ頃。


学校近く。


朔、吉宗、拓海、圭介の四人が歩いていた。


駅へ続く道には放課後の生徒が流れ、横断歩道の電子音が一定の間隔で鳴っている。


「腹減った」


拓海。


圭介が横を見る。


「さっきパン食っただろ」


「怪我すると腹減る」


吉宗が笑う。


「もう怪我使うな」


朔は。


スマートフォンを見ていた。


既読。


返事なし。


一分。


二分。


指が。


とん。


とん。


画面の縁を叩く。


「返事来ないの?」


圭介が聞く。


「うん」


「買い物中じゃない?」


「そうだけど」


画面。


既読。


「既読ついてる」


拓海が肩をすくめる。


「あとで返すだろ」


「普通すぐ返さない?」


「内容による」


「どこって聞いただけ」


圭介が少し笑う。


「それ、返すのめんどい時ある」


朔の目が。


圭介へ向いた。


「何で」


「え?」


「何がめんどいの」


「いや、店見てる時とか」


「一言じゃん」


圭介は少し困ったように笑う。


「まあ……そうだけど」


胸。


ざら。


圭介は。


そう思う。


それだけ。


ただの会話。


なのに。


どこかへ。


残る。


朔の手がメモ帳へ伸びる。


カリ。


『圭介 居場所返信は面倒な時ある』


圭介が見る。


「それ残す?」


「何となく」


「俺、後で悪者になりそう」


拓海が笑った。


「圭介、彼女に悪影響与えるなよ」


「何もしてねえよ」


「寝取られるぞ朔」


吉宗は。


笑わなかった。


「拓海」


「冗談だって」


「そういうのやめとけ」


「……はい」


朔が拓海を見る。


「何で?」


「何が」


「寝取られるって」


拓海が一瞬固まる。


「いや、ただのノリ」


「圭介と?」


「誰でもいいんだよ!」


圭介がため息をつく。


「俺を巻き込むな」


皆が笑う。


朔も。


少し遅れて。


笑った。


その直後。


カリ。


『拓海 圭介に寝取られると言う』


吉宗の表情が変わった。


「朔」


「何」


「それ消せ」


「何で」


「冗談だろ」


「だから?」


吉宗は。


答えられない。


でも。


嫌だった。


口から出た瞬間なら。


拓海の馬鹿な冗談だった。


笑って。


終わるはずだった。


それが紙へ残った瞬間。


昨日まで残っていた他の記録と。


同じ場所へ並ぶ。


ただの軽口が。


別の何かへ変わったように見えた。


朔は気にせずメモ帳を閉じる。


「別にいいだろ」


その時。


「すみません」


後ろから。


声。


四人が振り向く。


別の学校の制服を着た学生。


知らない顔。


「駅ってこっちで合ってます?」


拓海が答える。


「まっすぐ」


「ありがとうございます」


学生は笑った。


その視線が。


一瞬。


朔のメモ帳へ落ちる。


次に。


圭介。


さらに。


吉宗。


吉宗の表情が固まった。


学生は頭を下げる。


「仲いいんですね」


誰も答えない。


学生は少し笑う。


「友達って、近い分だけ大変ですよね」


吉宗が。


一歩前へ出た。


「お前」


学生の目が。


吉宗へ向く。


「何です?」


顔。


知らない。


声も。


違う。


服も。


違う。


でも。


喉まで。


何かが上がる。


前にも。


どこかで。


違う顔で。


学生が首を傾げる。


吉宗から目を逸らさないまま。


指先。


鞄の持ち手。


トン。


トン。


二度。


吉宗の目が見開く。


「お前――」


学生は。


もう背を向けていた。


「じゃあ」


「待て!」


吉宗が追う。


角。


曲がる。


すぐ。


誰も。


いない。


「……は?」


拓海たちも。


遅れてくる。


「どうした?」


吉宗は周囲を見る。


路地。


店。


歩く人。


制服姿の生徒。


いない。


「今の奴……」


「何」


「前にもいた」


朔が首を傾げる。


「知らない顔だったぞ」


「顔じゃねえんだよ」


「じゃあ何」


吉宗の息が。


少し速い。


「分かんねえ」


自分でも。


何を言っているのか。


分からない。


それでも。


今まで。


気のせい。


そう処理してきたものが。


初めて。


一本へ繋がった。


「……同じだ」


朔が眉を寄せる。


「誰と?」


吉宗は答えない。


代わりに。


朔のメモ帳を見る。


「お前」


「何」


「知らねえ奴に話しかけられた記録、全部残ってるよな」


朔の指が止まる。


「……たぶん」


「見せて」


「今?」


「今」


吉宗は。


笑っていなかった。


朔は少し戸惑いながら。


ページをめくる。


『昼 知らない男子。一年教室』


『駅前 男 大事にされてると言う』


『チラシ 心配性』


『知らない男 「なくすの嫌い」』


『男友達多そうと言う』


ページ。


ページ。


顔は。


書いていない。


服も。


ほとんど残っていない。


あるのは。


言葉。


誰へ。


何を言ったか。


そればかり。


吉宗の表情が。


さらに曇った。


「……これ」


「何」


「お前さ」


指が。


一つ。


次。


また。


別の行。


「こいつら」


吉宗が言う。


「全部、同じことしてない?」


朔がメモを見る。


「同じ?」


「お前か彼女のこと聞いてる」


拓海が横から覗く。


「……あ」


圭介も。


笑みが消える。


朔は。


初めて。


ばらばらに残していた記録を。


同じページの上で。


並べて見た。


全部。


知らない人。


全部。


一度きり。


なのに。


残った言葉は。


彼女。


友達。


失う。


胸の奥。


ざら。


「……偶然だろ」


自分で言う。


吉宗は。


すぐには答えなかった。


「俺もそう思いたい」


その時。


スマートフォンが震えた。


彼女。


『今、美咲と別れた』


朔は画面を見る。


吉宗の話より。


先に。


指が動く。


『どこ』


送信。


吉宗は。


それを見ていた。


朔は。


気づかなかった。


* * *


少し離れた場所。


先ほどの学生が歩いていた。


角。


裏路地。


人通りが途切れる。


歩きながら。


肩。


首。


ほんの僅かに。


輪郭が揺れる。


次の瞬間。


表情が変わる。


いや。


顔そのものが。


違って見えた。


一瞬。


笑う。


人間のものとは思えないほど。


楽しそうに。


けれど。


すぐ消える。


「……いいね」


小さな声。


指先。


トン。


トン。


「やっと見てくれた」


少し。


間。


「でも」


笑う。


「気づくの、君じゃないんだよなあ」


歩く。


「まあいいか」


声が。


路地の奥へ遠ざかる。


「気づいた人間が、信じてもらえるとは限らないし」


その口元だけが。


ひどく楽しそうだった。


「むしろ」


一歩。


「そこからが面白い」


* * *


**第二節 見えないところ**


翌日から。


朔は少しだけ変わった。


少なくとも。


彼女にはそう見えた。


朝。


『着いた』


彼女から先に送る。


少し間。


『おはよう』


それだけ。


昼休み。


『今日は美咲と帰る』


『了解』


追及は。


ない。


「……あれ?」


彼女が画面を見ながら呟く。


美咲がパンの袋を開けながら横を見る。


「何?」


「いや……今日、何も聞かれない」


「何もって?」


「何時とか、どこ寄るとか」


美咲は一瞬考え。


肩をすくめる。


「言ったからじゃない?」


「かな」


少し。


ほっとした。


そして。


そんな自分にも気づいた。


(やっぱり、ちょっとしんどかったんだ)


そこへ。


拓海が机を寄せてくる。


「何の話?」


「お前には関係ない」


「美咲、俺にだけ当たり強くない?」


圭介も椅子を持ってくる。


「普段の行い」


「吉宗、助けろ」


「無理」


「朔!」


朔はメモ帳から顔を上げる。


「何」


「お前だけが俺の友達だ」


「知らん」


「終わった!」


いつもの笑い。


彼女も笑った。


朔も。


普通に笑っている。


美咲が彼女へ目配せする。


――大丈夫そうじゃん。


そんな顔。


彼女も。


小さく頷いた。


ただ。


吉宗だけは。


朔の手元を見ていた。


「……朔」


「ん?」


「今日、それ何ページ目?」


「何が」


「メモ」


朔はページの端を見る。


朝から。


七ページ。


「七」


拓海が吹き出す。


「何書くことあんだよ!」


「普通」


「普通で七ページいく?」


吉宗は。


笑わなかった。


「昨日より増えてない?」


「そう?」


朔は少し考える。


分からない。


ただ。


最近。


書くものが増えた。


誰と誰が話していた。


誰が何時に教室を出た。


彼女が何時にスマートフォンを見た。


美咲と廊下で何分話した。


圭介が一人で教室を出た。


拓海は昼休みにコンビニへ行った。


別に。


疑っているわけではない。


残しているだけ。


そう。


残しているだけ。


知らないより。


知っていた方がいい。


何かあった時。


後から。


確かめられる。


それだけ。


「……必要なんだよ」


ぽつり。


吉宗の眉が動く。


「何が?」


「いや」


朔はページへ戻る。


カリ、カリ。


『昼 全員いる』


最後の文字。


ペン先が止まる。


胸の奥が。


静まる。


吉宗は。


それ以上。


何も言わなかった。


* * *


放課後。


校門。


彼女と美咲が先に出る。


少し後ろから拓海と圭介。


今日は。


朔と吉宗は別方向だった。


「久しぶりじゃん」


美咲が言う。


「何が?」


「朔なし」


彼女が笑う。


「別に毎日一緒だったわけじゃないでしょ」


「最近ほぼ毎日だったじゃん」


「……まあ」


後ろから拓海が口を挟む。


「愛されてんなあ」


美咲が振り返る。


「お前その言い方やめろ」


「何で?」


圭介が苦笑する。


「今のは普通じゃない?」


「こいつの場合余計な一言付くから」


「失礼だな!」


彼女も笑った。


その時。


「ちょっとコンビニ寄っていい?」


圭介。


「飲み物」


「私も」


美咲。


四人で店へ入る。


自動ドア。


電子音。


冷房の乾いた空気。


雑誌棚。


菓子。


パン。


冷蔵庫。


彼女は雑誌棚。


美咲は菓子。


拓海は。


またパン。


圭介は冷蔵庫。


何でもない時間。


その入口から。


一人の男が入ってきた。


大学生くらい。


帽子。


イヤホン。


誰も。


気にしない。


男は飲料棚の前で。


圭介とすれ違う。


「すみません」


圭介が避ける。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


一瞬。


男の目が。


圭介の顔をなぞった。


髪。


目。


輪郭。


声。


立ち方。


「……」


圭介は。


気づかない。


男は一本の水を手に取る。


指。


トン。


トン。


ボトルの側面を。


二度。


叩いた。


* * *


夜。


朔は机へ座っていた。


窓の外。


住宅街の街灯。


遠くを通る電車の音。


決まった時刻。


いつもと同じ。


机の上。


メモ帳。


今日。


昨日。


一昨日。


ページを戻す。


『圭介 居場所返信は面倒な時ある』


『拓海 圭介に寝取られると言う』


その文字で。


指が止まった。


(……何見てんだ俺)


自分でも。


馬鹿らしくなる。


拓海の冗談。


圭介も笑っていた。


彼女だって。


何もない。


分かっている。


ページを閉じようとする。


その時。


スマートフォン。


通知。


彼女。


写真。


美咲。


拓海。


圭介。


コンビニの前。


四人。


笑っている。


『今日はこのメンツ』


胸。


ざら。


でも。


ちゃんと送ってくれた。


なら。


いい。


そう思う。


それなのに。


目が。


写真から離れない。


圭介。


彼女の隣。


距離。


近い。


いや。


写真なら。


こんなもの。


「……何やってんだ」


自分へ言う。


スマートフォンを伏せる。


ペン。


カリ。


『放課後 美咲・拓海・圭介』


止まる。


その下。


『圭介 彼女の隣』


ペン先が止まった。


いらない。


こんなの。


消そうとする。


でも。


もし。


後で。


必要になったら。


何に?


分からない。


それでも。


消せない。


朔は。


そのままページを閉じた。


* * *


**第三節 止まるもの**


翌朝。


拓海がペットボトルを机の端へ置いた。


「眠っ」


美咲が呆れる。


「昨日何時までゲームしてたの」


「二時」


「バカじゃん」


「イベント最終日」


「知らん」


拓海が机へ突っ伏す。


肘。


ペットボトル。


ぐら。


「お」


ボトルが倒れる。


朔の手が伸びた。


掴む。


その瞬間。


ぴたり。


四十五度ほど傾いたまま。


止まった。


「……」


朔が瞬きをする。


拓海も。


美咲も。


「え?」


朔は。


指を離した。


落ちない。


ボトルは。


傾いた状態のまま。


机の上。


ほんの少し浮いた位置で。


固定されている。


「……何これ」


拓海が恐る恐る。


指で押す。


動かない。


「おい」


圭介が立ち上がった。


「触んなって」


吉宗の表情が変わる。


「朔」


「俺じゃない」


そう答えながら。


自分の声に。


自信がなかった。


川沿い。


男の腕。


掴んだ位置。


角度。


止まった。


同じ。


朔は。


もう一度。


ボトルへ触れる。


ドクン。


胸の奥。


あの感覚。


戻れ。


そう思った瞬間。


カタン。


ボトルが。


机へ倒れた。


誰も。


すぐには喋らなかった。


教室では。


少し離れた場所で。


別の生徒が笑っている。


時計も。


普通に進んでいる。


その中。


ここだけ。


止まっていた。


最初に口を開いたのは。


拓海だった。


「……手品?」


美咲が見る。


「そんなわけある?」


圭介は。


朔を見る。


「この前のも」


誰も。


続きを言わない。


川沿い。


全員。


見ている。


忘れていない。


朔は。


自分の手を見る。


握る。


開く。


「……分かんねえ」


吉宗だけが。


近づいた。


「痛くない?」


「何が」


「身体」


「別に」


「変な感じとか」


朔は手を握る。


開く。


何もない。


でも。


頭の中。


別のものが。


もう動き始めていた。


止められる。


落ちる前。


変わる前。


そのまま。


止めれば。


なくならない。


一瞬。


ぞっとした。


誰にでもなく。


自分に。


朔はすぐ。


メモ帳を開いた。


『8:17』


カリ。


『ペットボトル』


カリ、カリ。


『固定?』


書く。


呼吸が。


少しずつ整う。


吉宗は。


それを見ていた。


「……記録するんだ」


「忘れたら困る」


「忘れるようなことじゃないだろ」


「だから何」


吉宗は。


言葉を失った。


朔は続ける。


『触れる』


『解除可能』


カリ。


カリ。


「朔」


吉宗の声。


「何」


「その力」


少し。


迷う。


「便利だと思ってない?」


朔のペンが。


止まった。


「……便利だろ」


考えるまでもなく。


本当に。


自然に。


出た。


吉宗の顔が。


僅かに曇った。




**第四節 境界線**


その日の放課後。


校舎の外では、運動部の掛け声がまだ残っていた。昇降口から出ていく生徒の足音が重なり、駅へ向かう道には制服姿が流れている。


彼女は、朔を呼び止めた。


「ちょっといい?」


少し離れた場所で、美咲たちが待っている。


朔は頷いた。


「何」


彼女は一度、美咲たちを見る。


それから。


朔へ戻る。


「最近さ」


「うん」


「連絡」


朔の表情が、わずかに硬くなった。


「多い?」


「……うん」


「減らしてるけど」


「減らしてるのは分かってる」


「じゃあ何」


少し。


語気が強くなる。


彼女が、一瞬だけ目を伏せた。


「全部知ろうとしないでほしい」


胸の奥。


ざら。


「全部って?」


「誰といるとか。何時に帰るとか。既読ついてるのに何で返さないとか」


「心配だからだろ」


「分かってる」


「じゃあ――」


「分かってるから、言いづらいんだよ」


彼女の声が。


少し震えた。


朔が止まる。


「……」


「あの日、助けてくれたのも本当に感謝してる」


「なら」


「でも」


その一言。


胸の奥で。


何かが縮む。


「助けてもらったからって、全部朔の言う通りにしなきゃいけないわけじゃない」


朔の眉が寄った。


同じ言葉。


どこかで。


『助けてもらったからって――』


知らない女。


彼女。


重なる。


「誰かに何か言われた?」


彼女の顔が変わった。


「何でそうなるの」


「だって今の――」


「私が思ってる」


強い声。


朔が黙る。


遠く。


美咲。


圭介。


拓海。


吉宗。


全員。


こちらを見ている。


(見られてる)


それが。


妙に嫌だった。


「……分かった」


朔が言う。


彼女の表情が。


少し緩んだ。


「ほんと?」


「毎日迎え行かない」


「うん」


「全部聞かない」


「うん」


「……それでいいんだろ」


最後だけ。


少し。


冷たい。


彼女は気づいた。


でも。


「ありがとう」


と答えた。


朔は笑おうとした。


できたかどうか。


自分でも分からなかった。


彼女が離れる。


美咲たちの方へ戻る。


圭介が何かを話しかける。


彼女が笑う。


胸。


ざら。


ざら。


(全部聞かない)


約束。


だから。


聞かない。


聞かないだけ。


知らなくていいとは。


言われていない。


その考えが浮かんだ瞬間。


自分でも。


少し変だと思った。


でも。


消えなかった。


* * *


帰り道。


朔と吉宗は並んで歩いていた。


夕方。


住宅街の信号が赤へ変わり、横断歩道の電子音が止まる。


二人も止まる。


吉宗が、横を見る。


「大丈夫?」


「何が」


「今の」


「別に」


「顔怖かったぞ」


「お前まで何なんだよ」


少し。


強く返した。


吉宗が黙る。


信号が青へ変わる。


歩き出す。


数歩。


朔が小さく息を吐いた。


「……悪い」


「いや」


吉宗は前を見る。


「でもさ」


「何」


「お前、守るって言いながら」


朔の足が。


僅かに遅くなる。


「全部自分で決めようとしてない?」


胸。


ざら。


「は?」


「彼女が大丈夫って言ってんのに、お前が大丈夫じゃないって決めてるじゃん」


「実際襲われただろ」


「一回な」


「一回で十分だろ!」


声が。


思ったより大きく出た。


すれ違った通行人が。


二人を見る。


吉宗も驚いた。


朔自身も。


呼吸。


少し。


速い。


「失ってからじゃ遅いんだよ」


口から。


勝手に出た。


吉宗の表情が変わる。


「……失う?」


朔の足が。


止まった。


何を。


今。


言った。


彼女を。


失う。


その言葉だけが。


妙に。


身体へ馴染む。


火。


伸びた手。


届かなかった指。


何も思い出せないのに。


その言葉だけ。


知っているような。


「……帰る」


朔は。


歩調を速めた。


吉宗は追わなかった。


ただ。


遠ざかる背中を。


ずっと見ていた。


* * *


**第五節 招待**


数日後。


放課後の昇降口には。


いつもの顔が揃っていた。


美咲は靴を履き替えながらスマートフォンを確認している。


拓海はその横で。


「腹減った」


と。


今日何度目か分からない台詞を吐いた。


圭介が笑う。


吉宗は壁にもたれて。


朔を待っていた。


彼女も一緒だった。


ここ数日。


朔との距離は。


少しだけ開いている。


連絡は減った。


迎えも。


毎日ではなくなった。


話せば普通に笑う。


学校にいれば。


以前と変わらないようにも見える。


それでも。


ふとした瞬間。


朔がこちらを見ていることがある。


廊下。


教室。


昇降口。


目が合えば。


笑う。


何でもない顔。


だから。


彼女も。


深く考えないようにしていた。


「今日どうする?」


拓海。


美咲が笑う。


「だからお前は飯以外ないの?」


「人間の三大欲求だぞ」


「お前だけ食欲が八割占めてるだろ」


圭介。


「残り二割は睡眠」


「一個消えてんじゃん」


くだらない会話。


彼女も笑った。


その時。


「あ」


廊下の向こう。


朔が歩いてくる。


「待った?」


「腹が死にそう」


拓海が答える。


「お前には聞いてない」


「冷たっ」


朔が笑う。


そのまま。


彼女を見る。


「今日さ」


「ん?」


「うち来ない?」


一瞬。


彼女は。


聞き返さなかった。


意味を理解するまで。


少し時間が掛かった。


「……朔ん家?」


「うん」


拓海がすぐ食いつく。


「マジ? 俺行ったことねえ!」


「誰もないでしょ」


美咲も驚いている。


圭介が朔を見る。


「珍しいな」


「別に。みんなで来ればいいじゃん」


言い方も。


普通だった。


彼女は。


少し迷う。


朔の家。


今まで。


一度も入ったことがない。


付き合っているのに。


何度か聞いたことはあった。


そのたび。


朔は。


適当に流した。


(……歩み寄ってくれてるのかな)


最近のことを。


気にしているのかもしれない。


自分が。


全部聞かれるのはしんどい。


そう言ったから。


朔なりに。


友達も含めて。


普通に過ごそうとしている。


そう。


思いたかった。


美咲が聞く。


「お母さんとか大丈夫?」


「平気」


「家にいる?」


「いるよ」


その答えに。


吉宗の眉が。


ほんの少しだけ。


動いた。


誰も。


気づかない程度に。


「じゃあ行く!」


拓海が勝手に決める。


圭介が笑う。


「お前ん家じゃねえだろ」


彼女も。


小さく息を吐く。


「……行く」


朔が笑った。


「じゃあ後でな」


それだけ言って。


先に。


廊下を曲がる。


吉宗の視線が。


その背中を追った。


「……」


美咲が見る。


「どうした?」


「いや」


また。


最近。


よくする顔。


何かが引っかかっている。


でも。


自分でも。


正体が分からない時の顔。


「吉宗?」


「何でもない」


廊下の向こう。


もう。


朔はいない。


そのはずなのに。


トン。


トン。


何かを。


指先で。


二度叩いたような音。


吉宗は。


しばらく。


朔が消えた廊下を見ていた。


* * *


三十分後。


六人は住宅街を歩いていた。


夕方。


東嶺の整った住宅街。


似た形の家。


一定の間隔で並ぶ電柱。


路地の向こうでは、自転車に乗った子供が家へ帰っていく。


どこかの家から。


夕飯の匂い。


拓海がスマートフォンの地図を見る。


「ここら辺?」


「もうちょい先」


彼女も。


住所を確認する。


朔から送られてきた場所。


何度見ても。


間違っていない。


少し古い住宅街だった。


壁に染みのある家。


古い植木鉢。


交換されたばかりの街灯。


圭介が。


一軒の家を指す。


「これじゃない?」


「……たぶん」


彼女は。


足を止めた。


二階建て。


一軒家。


カーテン。


閉じている。


特別。


変わった家には見えない。


表札。


住所。


合っている。


拓海が言った。


「普通じゃん」


美咲が笑う。


「何だと思ってたの」


「朔だから壁全部メモとか」


彼女も。


一瞬。


笑った。


吉宗だけは。


笑わなかった。


インターホン。


ピンポーン。


しばらく。


反応なし。


彼女が。


もう一度押そうとする。


その時。


ガチャ。


扉が開いた。


朔。


「……何してんの?」


全員が。


止まった。


「は?」


拓海が。


笑いかける。


でも。


朔の顔を見て。


その笑いが。


消えた。


本当に。


分かっていない顔。


「何でみんないるの?」


彼女の胸が。


小さく鳴る。


「……今日、来いって言ったじゃん」


「俺が?」


「うん」


「いつ?」


「学校出る時」


朔は。


黙った。


自分が?


記憶を探す。


ない。


そんな会話。


した覚えがない。


けれど。


それだけなら。


珍しいことではない。


胸の内側へ。


空白ができる。


何かを。


落としたまま歩いているような感覚。


気持ち悪い。


指が。


僅かに震えた。


それより先に。


身体が動く。


鞄。


メモ帳。


今日。


ページをめくる。


カリカリと書き込まれた文字。


時間。


会話。


昼食。


授業。


その中。


『15:41 全員家へ』


指が。


止まった。


「……」


拓海が。


横から覗く。


「あ、書いてあるじゃん」


美咲も見る。


「じゃあ朔が忘れてるだけ?」


朔は。


その一行を見る。


自分の字。


そう見える。


癖。


払い。


文字の詰め方。


全部。


自分のもの。


書いてある。


なら。


そうなのだろう。


肩から。


少しだけ。


力が抜ける。


「……悪い」


顔を上げる。


「忘れてた」


吉宗だけが。


動かなかった。


「待て」


朔が見る。


「何」


吉宗が。


近づく。


目。


妙に。


真剣。


「そのメモ」


「書いてあるだろ」


「そうじゃなくて」


吉宗は。


一行を見る。


次に。


朔を見る。


「お前、本当にそれ書いた?」


朔の眉が寄る。


「俺の字じゃん」


「それは分かる。でも――」


「俺の字なら俺が書いたんだろ」


吉宗は。


口を閉じた。


何を言えばいい。


証拠はない。


あるのは。


違和感。


それだけ。


朔は。


玄関の扉をさらに開いた。


「せっかく来たんだし、入れば?」


彼女は。


暗い玄関を見る。


それから。


朔。


普通。


少なくとも。


今ここにいる朔は。


いつもの朔。


「……お邪魔します」


一歩。


踏み出す。


その瞬間。


周囲の音が。


すっと。


遠のいた。


* * *


昔。


戦へ向かった男がいた。


男は。


誰よりも早く。


敵地へ降り立った。


そして。


誰よりも早く。


死んだ。


残された女は。


男の帰りを待った。


一日。


また一日。


待った。


待った。


待ち続けた。


やがて。


帰らない。


その事実だけが。


残った。


だから。


女は。


男を作った。


顔。


身体。


姿。


失った者と。


同じ形をしたもの。


女は。


それを抱いた。


語りかけた。


ともに眠った。


まるで。


男が。


まだそこにいるように。


何一つ。


失っていないように。


だが。


その像は。


老いなかった。


話さなかった。


笑わなかった。


変わらなかった。


女が。


覚えている男の姿のまま。


ずっと。


そこにいた。


それで。


女はよかった。


なぜなら。


変わらないものは。


もう二度と。


自分を。


置いていかないから。


* * *


声は。


消えた。


意味は。


語られない。


問いも。


ない。


答えも。


ない。


彼女の足が。


玄関の内側へ。


入る。


続いて。


美咲。


拓海。


圭介。


吉宗。


最後に。


ガチャン。


扉が。


閉じた。


* * *


最初に気づいたのは。


床だった。


見えない。


ほとんど。


箱。


袋。


古い家具。


食器。


積まれた紙。


壊れた家電。


何に使うのか分からない小物。


隙間なく。


物がある。


歩くための細い道だけ。


残されている。


その中に。


黒く焦げたものが。


混じっていた。


「……うわ」


拓海が言う。


いつもの調子を。


保とうとする。


「お前、物多すぎだろ」


誰も。


笑わなかった。


朔は。


気にせず靴を脱ぐ。


「母さんがまた玄関に置きっぱなしにしてんだよ」


美咲の表情が止まる。


「……お母さん?」


「うん」


朔は。


足元の箱を避ける。


「踏まないようにして」


ガサッ。


何かが崩れた。


ころ。


彼女の足元へ。


転がる。


黒く焼けた鍋。


片側が。


熱で歪んでいる。


彼女の目が止まる。


焼けている。


火。


その言葉。


朔が以前。


道端で。


呼吸を乱したこと。


断片的に聞いた。


過去。


胸の奥。


小さな不安。


その時。


家の奥。


ザザッ。


ノイズ。


全員の身体が。


止まった。


『――朔、ご飯できてるわよ』


女の声。


拓海の顔から。


完全に笑いが消えた。


朔だけは。


変わらない。


「今、友達来てる」


普通に。


返した。


圭介が。


吉宗を見る。


吉宗は。


声のした方ではなく。


朔を見ていた。


「……朔」


「何?」


「今の」


「母さん」


それだけ。


* * *


リビングの前。


朔が扉を開けた。


誰も。


すぐには。


足を踏み入れなかった。


食卓。


椅子。


そこに。


人が。


座っていた。


一瞬。


そう見えた。


違う。


人形。


男。


女。


小さな子供。


家族の形。


顔は。


粘土で作られている。


丁寧に。


何度も。


直した跡。


目。


鼻。


口。


生きている人間には。


似ていない。


それでも。


誰を表しているのか。


嫌になるほど。


伝わってくる。


服だけは。


異様なほど。


綺麗だった。


洗われている。


皺。


ない。


汚れも。


ない。


まるで。


今日も。


それを着て生活する誰かのために。


整えられている。


周囲。


黒く焦げた茶碗。


熱で歪んだ時計。


焼けたスリッパ。


縁だけ残った写真立て。


そして。


壁。


天井。


紙。


紙。


紙。


文字。


文字。


文字。


余白が。


ない。


『母さん 味噌汁は少し濃くする』


『父さん 新聞を読む時は左足を組む』


『妹 眠い時は右目を擦る』


『父さん 帰宅18:40』


『この声は母さん』


『前の記録を信用する』


別の紙。


『母さん 甘い卵焼きが好き』


その隣。


『嫌い?』


さらに。


『確認できていない』


少し離れて。


『忘れるな』


その下。


何度も。


何度も。


なぞられた文字。


『忘れていることを忘れるな』


誰も。


声を出さない。


美咲が。


無意識に。


彼女の手を握った。


彼女も。


握り返した。


拓海は。


口を開こうとして。


やめた。


いつもの軽口が。


一つも。


出てこない。


圭介は。


人形を見る。


壁。


最後に。


朔。


「……これ」


続かない。


吉宗だけは。


最初からずっと。


朔を見ていた。


「お前」


「何?」


「これ……いつから?」


朔が首を傾げた。


「何が?」


吉宗の顔から。


血の気が引く。


「何がって……」


朔は。


周囲を見る。


自分の家。


いつもの部屋。


何が。


そんなに。


変なのか。


「昔からだけど」


ザザッ。


『――朔、ご飯できてるわよ』


「分かったって」


当たり前のように。


返す。


彼女の指が。


美咲の手を。


さらに強く握った。


そして。


壁。


一枚。


見覚えのある言葉。


目が止まる。


『23時頃就寝』


別。


『電話なし』


『美咲と駅前』


『帰宅18:42』


『左腕 打撲』


『川沿い 一人』


彼女の呼吸が。


少しずつ。


浅くなる。


次。


『一人で帰らせない』


そして。


その下。


『失わなかった』


「……」


耳の奥。


さっきの昔話が。


勝手に戻る。


失った者と。


同じ形。


変わらない姿。


もう二度と。


置いていかないもの。


朔の声。


「どうした?」


彼女は。


壁を見る。


人形。


焦げた物。


もう一度。


自分について。


書かれた文字。


それから。


朔。


「……私も」


声が。


小さい。


「ん?」


「私も……こうなるの?」


朔の眉が寄る。


「何が?」


本当に。


分かっていない顔。


それが。


怖かった。


「私も」


彼女は。


壁を指す。


「ずっと、朔が知ってる通りにいなきゃ駄目なの?」


「何言ってんの」


「だって……」


「これは家族だろ」


「だから何?」


朔が。


止まる。


だから。


何が違う。


家族。


彼女。


大切な人。


失いたくない人。


その間にある違いを。


言葉にできない。


美咲が。


彼女の前へ出た。


「今日は帰ろ」


朔が。


美咲を見る。


「何で」


「今日は帰る」


「何でだよ」


拓海も。


珍しく。


低い声。


「朔」


「何」


「今日はやめとこうぜ」


「お前まで何なんだよ」


圭介が。


ゆっくり。


口を開く。


「朔、たぶん今――」


「お前は黙ってろ」


強い声。


圭介が止まった。


全員。


一瞬。


固まる。


朔自身も。


(……何で)


圭介。


ただ。


話そうとしただけ。


なのに。


頭。


写真。


メモ。


言葉。


『圭介 居場所返信は面倒な時ある』


『拓海 圭介に寝取られると言う』


意味のないはずの。


記録。


一瞬。


浮かんだ。


彼女が。


朔を見る。


「……帰るね」


「待って」


「今日は無理」


「何が無理なんだよ」


「朔」


声が。


震える。


「今は無理」


一歩。


下がる。


たった。


一歩。


なのに。


朔には。


もっと。


遠くへ行ったように見えた。


離れる。


胸の奥。


ざら。


なんで。


もう一歩。


彼女が。


離れる。


ここにいるのに。


手が。


伸びそうになる。


ドクン。


胸の奥。


力。


川沿いで。


男の腕を止めた。


あの感覚。


彼女の肩。


位置。


距離。


止めれば。


一瞬。


世界が。


静かになったような気がした。


止めれば。


変わらない。


離れない。


そこに。


いる。


朔は。


伸びかけた手を。


もう片方の手で。


掴んだ。


強く。


爪が。


手の甲へ食い込む。


「……帰れば」


吐き捨てるように。


言った。


彼女の表情が。


さらに曇る。


美咲。


拓海。


圭介。


順番に。


玄関へ向かう。


最後に。


吉宗だけが。


残った。


「……朔」


「何」


吉宗は。


答えない。


部屋。


人形。


壁。


彼女についての記録。


最後に。


朔の手にある。


メモ帳。


『15:41 全員家へ』


その一行。


目が。


細くなる。


何も。


言わない。


やがて。


吉宗も。


玄関へ向かう。


扉。


ガチャン。


閉じた。


* * *


家の中。


静かだった。


さっきまで。


六人分あった気配が。


消えている。


ザザッ。


『――朔、ご飯できてるわよ』


「……うるさい」


声が出た。


言ったあと。


朔自身が。


止まった。


初めてだった。


この声へ。


そんな返事をしたのは。


ノイズ。


ぷつ。


返事はない。


当然。


いつも通り。


壁。


『失わなかった』


朔は。


その文字を見る。


彼女は帰った。


でも。


いる。


まだ。


消えてはいない。


別れても。


いない。


(いる)


そう思う。


なのに。


胸が。


苦しい。


(何で帰るんだよ)


視線。


人形。


紙。


変わらない家族。


(ここにいれば)


ドクン。


「……ここにいればいいのに」


自分の声だけが。


部屋に残った。


* * *


家から。


少し離れた場所。


街灯。


その下に。


一人の男がいた。


今日。


学校で彼らへ声を掛けた朔とは。


まるで。


違う顔。


男は。


家の窓を見上げる。


指先。


トン。


トン。


「……なるほど」


口元が緩む。


「これが君の家か」


しばらく。


窓の向こうを眺める。


それから。


小さく笑った。


「いいもの持ってるじゃないか」


歩き出す。


「見せただけだよ」


誰に向けた言葉でもない。


一歩。


「入るって決めたのも」


一歩。


「信じたのも」


さらに。


一歩。


「扉を開けたのも」


肩をすくめる。


「全部、君たちだ」


数歩。


進む。


ふと。


止まる。


ポケットへ手を入れる。


小さな紙。


開く。


そこには。


朔の字によく似た文字。


『15:41 全員家へ』


男は。


それを見る。


笑う。


くしゃ。


紙を。


握り潰した。


「……さて」


指先。


トン。


トン。


目を細める。


「次は」


笑み。


「何を信じてもらおうか」



---

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


守りたい。


その気持ちは、どこから「守る」ではなくなるのか。


忘れないための記録。

失わないための確認。

そして、変わらないもの。


朔にとっては、どれも同じところから始まっています。


だからこそ。


自分が何を守ろうとしているのか、

本人にはまだ分かっていません。


菅原編、次章へ続きます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。