第五章 菅原 ― 残るもの
舞台は変わり、一人の少年の日常へ。
友人と笑い、彼女と過ごし、
目に入ったものをメモ帳へ残していく朔。
忘れてしまうなら、書けばいい。
残しておけば、なくならない。
そんな彼の日常に、
小さな違和感が混ざり始める。
菅原編、第一章「残るもの」。
始まります。
序
火
火は、夜の家をゆっくり食べていた。
最初は、ぱち、ぱち、と乾いた何かが弾ける程度の音だった。
やがて、その間隔が短くなる。壁の内側で木材が軋み、柱の奥で何かが弾けるたびに、家全体が小さく震えた。天井を這った黒い煙は階段を昇り、二階の廊下を満たし、一室の扉の隙間から中へ流れ込んでいく。
布団の中で、少年は眠っていた。
「――朔!」
声がした。
閉じた瞼が、わずかに動く。
「朔!」
今度は近い。
少年が目を開けた時、最初に見えたのは扉の下だった。
いつもなら廊下の暗がりしか見えない細い隙間から、赤い光が差し込んでいる。
ゆら。
ゆら。
眠気の残った頭では、それが何なのか分からなかった。
ただ、昨日の夜にはなかったものだということだけは分かった。
身体を起こす。
「げほっ……!」
喉が焼けた。
息を吸ったはずなのに、胸まで入ってこない。目の奥が痛み、涙が勝手に滲んだ。鼻から入る空気まで熱く、部屋そのものが少しずつ別の場所へ変わっていく。
少年は布団から這い出した。
扉へ手を伸ばす。
触れた瞬間。
「っ!」
反射的に手を引いた。
熱い。
ドンッ。
扉の向こうで何かが崩れた。
床が震え、天井から細かな埃が落ちる。赤い光が一度大きく揺れた。
「朔!」
知っている声だった。
少年は扉へ近づいた。
煙が喉へ入り、また咳き込む。
それでも何かを叫んだ。
誰かの名前だったのかもしれない。
助けて、と言ったのかもしれない。
けれど。
その言葉だけは残らなかった。
ばきっ。
向こう側で木が折れる。
煙の中から、誰かの手が伸びた。
少年も手を伸ばした。
赤い光。
黒い煙。
その間。
指。
指。
あと少し。
ほんの少し。
届く。
その前に。
記憶は途切れた。
* * *
東嶺連邦。
大陸東部に広がる、人口の多い連邦国家。
朝になれば、決められた時刻に電車が走る。駅の表示板には次の列車が来るまでの分数が出て、遅れればその遅れた時間まで数字で示される。
道路には信号があり、横断歩道があり、住宅街には同じ間隔で街灯が並んでいる。
水道の蛇口を捻れば水が出る。
夜になれば家には明かりがつく。
学校へ行けば、同じ制服を着た生徒が、決められた時刻に同じ教室へ集まる。
二分遅れた電車は、二分遅れたと表示される。
閉まった店には、やがて新しい店が入る。
古くなった看板は外される。
壊れたものは。
いずれ誰かが直す。
少なくとも。
多くの人間は、そう思って暮らしていた。
今日と明日が、大きく違うものになるとは考えない。
昨日そこにあったものは。
明日もそこにある。
家。
学校。
駅。
店。
友人。
家族。
それらが残っていることを、毎朝わざわざ確かめる必要はない。
そういう場所だった。
その東嶺連邦の、ありふれた街。
午後。
窓の外では、決められた時刻通りに列車が走っていた。
校舎の時計も、授業終了の時刻へ向かって同じ速度で針を進めている。
その一つの教室で。
少年が机に突っ伏して眠っていた。
* * *
**第一節 いつもの五人**
「……朔。おい、起きろ」
肩を小突かれ、朔はゆっくり顔を上げた。
黒板。
窓。
午後の日差し。
教室。
視界の中へ、いつものものが順番に戻ってくる。
黒板の右上に消し残された文字。
窓際で僅かに揺れるカーテン。
廊下側の時計。
自分の机。
その上のノート。
夢を見ていたような気がした。
熱かった。
息が苦しかった。
それくらいしか残っていない。
(……何だっけ)
拾い上げようとした瞬間。
頭の奥に、薄い膜が張ったような感覚がした。
もう一歩踏み込めば、何か見てはいけないものまで出てきそうな気がする。
朔は自然に考えるのをやめた。
「五限終わったぞ」
吉宗が呆れた顔で立っている。
制服のシャツはいつも通りきちんと入っている。机の脇へ掛けた鞄も、昨日と同じ向きだった。
「……マジ?」
「マジ。頬にノート写ってる」
朔が頬へ手を当てる。
「うそ」
「写真撮る?」
「殺すぞ」
横から拓海が吹き出した。
「撮れ撮れ。クラスのグループに上げようぜ」
朔が拓海を見る。
「お前、先週寝ながら口開いてた写真まだあるからな」
「消せよ!」
「残ってる」
「なんでだよ!」
「消してないから」
「答えになってねえ!」
教室の後ろで美咲が笑った。
「拓海、自分からネタ提供しすぎなんだよ」
「お前も笑うな!」
その横では、圭介が黙って菓子の袋を開けている。
ぱりっ。
その音だけで拓海の顔が向いた。
すぐに手が伸びる。
「一個」
圭介は袋を遠ざけた。
「嫌」
「まだ何も取ってないだろ」
「顔が取る顔してる」
「朔みたいなこと言うな」
朔が眉を寄せる。
「俺そんなこと言った?」
吉宗が即答した。
「前言ってたぞ」
「いつ?」
「先週」
朔の指が自然に机の上へ伸びた。
小さなメモ帳。
表紙の角は擦れて丸くなり、ページの間からは何枚もの紙片が覗いている。何度も開かれた背には癖がつき、置けば勝手に途中のページが開く。
そこには、余白がほとんど残っていなかった。
朝の天気。
電車が三分遅れたこと。
吉宗が昨日と違う靴を履いていたこと。
拓海が一限から消しゴムを二回落としたこと。
美咲が昼までに「眠い」と三回言ったこと。
圭介が新しい菓子を持ってきたこと。
授業の内容とは関係ない。
必要かどうかも分からない。
ただ。
目に入った。
昨日と違った。
誰かが言った。
だから残した。
朔は数ページ戻した。
一枚。
二枚。
指が止まる。
「あった」
拓海が覗き込む。
「何が?」
朔が読み上げた。
「『圭介 取る顔してると言う』」
「マジで書いてんの!?」
教室へ笑い声が広がる。
圭介まで菓子を食べながら肩を揺らしていた。
朔も笑った。
そのまま今日のページへ戻る。
ペンのキャップを外す。
カリ、カリ。
『五限途中から寝た』
最後の文字まで書く。
ふう。
鼻から小さく息が抜けた。
起きてから無意識に机の端を叩いていた指も止まり、肩が少し落ちる。
美咲がそこを見ていた。
「朔ってさ」
「ん?」
「書くと安心するの?」
朔が顔を上げる。
本当に、質問の意味が分からないような顔だった。
「そう?」
「いや、何か毎回そんな感じする」
吉宗が横から口を挟む。
「こいつ自覚ないよ。昨日も廊下の時計二分遅れてるって言いながら書いてた」
拓海が笑う。
「二分くらいどうでもいいだろ」
朔は少し考えた。
教室の時計を見る。
秒針が一つ進む。
「でも明日三分だったら増えてるじゃん」
一瞬。
全員が黙った。
圭介が先に吹き出す。
「そういう問題?」
朔も笑った。
「知らん」
また笑いが起きる。
朔にとっては、それでよかった。
目に入る。
違いに気づく。
口から出る。
手が動く。
紙に残る。
残っていれば、昨日と今日を比べられる。
今日と明日も。
比べられる。
なら。
次へ行ける。
それだけだった。
* * *
昼休み。
五人は教室の後ろへ机を寄せていた。
窓の外では運動場から笛の音が聞こえ、廊下では別のクラスの生徒が購買へ走っていく。
机を寄せた場所だけが、いつもの五人の場所になっていた。
「朔、それ一個くれ」
拓海の箸が、朔の弁当の唐揚げへ伸びる。
ぱしっ。
横から美咲の箸が当たった。
「痛っ!」
「人の弁当取んな」
「お前俺の母ちゃん?」
「お前の母ちゃんに失礼」
「じゃあ美咲一個くれ」
「嫌」
「圭介」
「嫌」
「吉宗」
「自分の食え」
拓海が空の弁当箱を見せた。
「もうない」
吉宗が呆れる。
「早すぎだろ」
圭介がため息をついた。
それから自分の弁当から唐揚げを一個取り、拓海の蓋へ置く。
「ほら」
拓海が両手を合わせた。
「圭介……お前だけが俺の味方だ」
「うるさいから」
「理由ひどくね?」
朔は笑いながら、その横で何かを書いていた。
カリ。
美咲がすぐ気づく。
「また書いてる」
「何を?」
「今の会話」
拓海が慌てて身を乗り出した。
「やめろ! 俺が圭介に告白したみたいになる!」
朔が顔を上げる。
「まだ何も言ってないだろ」
「お前の要約が信用できない!」
圭介が朔のメモ帳へ視線を落とした。
「でも、こういうのって後で見たら一番面白そうだよな」
朔のペンが止まる。
「何が」
圭介は唐揚げを口へ入れながら、少し考える。
「今日何食ったとか、誰がどうでもいいこと言ったとか」
窓の外で笛。
教室では別の誰かが笑っている。
圭介は続けた。
「大事件より、そういうのの方が忘れるだろ」
朔が少しだけ目を細めた。
「……そう?」
「俺ならそう」
カリ。
ペンが動く。
『圭介 どうでもいいことの方が忘れる』
「ほら書いた!」
美咲が笑い。
拓海が机を叩く。
吉宗も笑っていた。
その時。
「すみません」
教室の入口から声がした。
五人の視線が向く。
同じ制服の男子生徒が立っていた。
見覚えはない。
制服の着方もおかしくない。
校章もある。
鞄も学校指定のものだった。
「一年の教室って、こっちですか?」
朔が答える。
「下の階」
「ありがとうございます」
男子生徒は軽く頭を下げた。
それから。
机を寄せている五人を見る。
「仲いいんですね」
「まあな」
吉宗が答えた。
「昔から?」
「俺と朔は中学から。他は高校」
「へえ」
男子生徒の目が。
朔へ移る。
「長い付き合いっていいですね」
柔らかく笑った。
「自分が忘れてても、向こうが覚えててくれそうで」
朔の指が。
一瞬。
止まった。
忘れてても。
覚えている。
さっき。
圭介も。
似た話をしていた。
「……まあ」
それ以上。
何を返せばいいのか分からなかった。
男子生徒は。
「じゃあ」
と手を上げる。
廊下へ。
足音。
遠ざかる。
朔のペンが自然に動いた。
カリ。
『昼 知らない男子。一年教室』
少し間。
もう一行。
『長い付き合い』
美咲が笑う。
「それも書くんだ」
朔も笑おうとして。
気づいた。
吉宗。
笑っていない。
男子生徒が消えた階段の方を。
まだ見ている。
「何?」
吉宗はすぐ答えなかった。
「いや」
さっきまでの笑いが。
少しだけ消えている。
朔が眉を寄せる。
「何だよ」
吉宗は階段から目を離さない。
「……あいつ、うちの制服だったよな」
「だったじゃん」
美咲が答える。
「一年の教室知らねえんだ」
拓海が口を挟む。
「転校生じゃね?」
「この時期に?」
「知らねえよ」
吉宗は数秒だけ考えた。
男子生徒が立っていた場所。
制服。
校章。
鞄。
話し方。
階段へ消えた方向。
どれも。
決定的にはおかしくない。
それでも。
昨日まで学校にいなかった人間が。
今日。
当然の顔をして歩いているような。
そんな引っかかりだけが残る。
「……まあいいか」
吉宗が首を振った。
拓海はすぐに話題を唐揚げへ戻した。
「で、圭介もう一個」
「嫌」
「さっきくれたじゃん!」
「一個だけって言った」
「言ってねえ!」
笑い声も戻る。
朔もメモ帳を閉じた。
ぱたん。
昼休みは、そのまま終わった。
午後には。
あの男子生徒の顔を。
ほとんど思い出せなくなっていた。
目。
鼻。
髪型。
どんな顔だったか。
曖昧。
ただ。
紙には残っている。
『昼 知らない男子。一年教室』
『長い付き合い』
言葉だけは。
消えなかった。




