第四章 カイル ― ネズミ狩り
リナが死んだ。
残されたRATには、少しずつ亀裂が入り始めていた。
誰を信じるのか。
誰の言葉を疑うのか。
そして、自分の判断を誰に委ねるのか。
答えが分からないまま、
カイルはネミティブと向き合うことになる。
第四章「カイル ― ネズミ狩り」、始まります。
第一節 残った銃声
リナが死んでから、RATの空気は変わった。
誰かがネミティブを責め立てたわけではない。
銃を向ける者もいない。
朝になれば食料は運ばれる。見張りは交代し、壊れた扉は別の板で塞がれる。夜になれば、何人かは焚き火を囲んでくだらない話をして笑った。
組織は止まらない。
ラドが死んでも。
リナが死んでも。
生きている人間には、次の日が来る。
それでも。
ネミティブが部屋へ入った瞬間だけ。
会話が途切れた。
ほんの数秒。
誰かの手が止まる。
目が向く。
そして。
ネミティブと合った瞬間に逸れる。
カイルは壁にもたれながら、その光景を何度も見ていた。
壊れた窓から入る昼の光が、床へ長い四角を作っている。積み上げられた木箱の脇には、まだリナが使っていた小さな椅子が残っていた。
誰も使わない。
誰も片づけない。
前は。
こんなんじゃなかった。
ネミティブも気づいている。
気づかないはずがない。
誰が右手で銃を持つか。
誰が嘘をつく時に鼻を触るか。
誰の足音が重いか。
どの扉が軋むか。
そんなものまで覚えている男だ。
なのに。
何も言わない。
それが。
カイルには余計に腹立たしかった。
(気づいてんなら、何か言えよ)
何を言えばいいのか。
自分にも分からない。
ラドが死んだ。
リナも死んだ。
二人とも。
ネミティブの持っていた銃から弾が出た。
理由は違う。
ラドの時は、あの場そのものが滅茶苦茶だった。誰が味方で、誰が仕掛けたのかも分からないまま、人間が押し合い、銃声が響き、その中でネミティブは背中を押された。
リナの時は――。
パンッ。
記憶の中で。
乾いた音が鳴る。
カイルの指先が強張った。
胸の奥に。
また。
穴が開く。
リナの小さな身体が跳ねる。
銃が落ちる。
自分が渡した銃。
(俺が渡さなきゃ)
そこまで考えて。
噛み殺す。
違う。
撃つために渡したんじゃない。
確かめるためだった。
怖がっていたリナが、自分でも確かめられるように。
兄貴へ。
見せるためだった。
そうだった。
そうじゃなきゃ。
困る。
「南は今日から二人増やす」
ネミティブの声で。
カイルは顔を上げた。
中央の机。
地図。
その周囲に古参が四人。
ネミティブは立ったまま、地図へ指を置いていた。
「北の荷は一旦止める。出入りした奴の名前も全部残せ。食料庫も鍵を変える」
古参の一人が眉を寄せた。
「そこまでやるのか?」
「ああ」
「敵が動いてる証拠は?」
「ない」
男が何か言おうとする。
ネミティブは先に続けた。
「ないから確認する」
カイルの胃の辺りが重くなった。
最近。
ネミティブは。
そればかりだった。
確認。
記録。
把握。
誰がどこにいる。
何を持っている。
誰と話した。
何時に出て。
何時に戻った。
以前なら。
頼もしさだった。
兄貴は何でも見ている。
自分が見落としたものまで拾ってくれる。
だから。
任せられる。
今は。
違う。
(見てるんじゃねえ)
カイルは。
地図の前に立つネミティブを見る。
(見張ってる)
古参が小さく鼻を鳴らした。
「……ラドなら、そこまでしなかったけどな」
空気が止まった。
誰かが息を飲む。
カイルの背中へ汗が浮く。
(おい)
今。
それを言うな。
ネミティブが顔を上げた。
「ラドは死んだ」
短かった。
事実。
それだけ。
「……そうだな」
古参は。
それ以上言わなかった。
だが。
目に浮かんだものを。
カイルは見た。
怒り。
ほんの一瞬。
ネミティブはもう地図へ視線を戻している。
その横顔を見て。
カイルの胸へ苛立ちが膨らんだ。
(そうじゃねえだろ)
正しい。
ラドは死んでいる。
だから。
余計に腹が立つ。
その言葉が。
今。
どう聞こえるかまで。
考えてほしかった。
「兄貴」
ネミティブが見る。
「何」
「ちょっと来て」
カイルは先に外へ出た。
数秒。
後ろから足音。
昔より。
聞き慣れた足音。
ラドほど重くない。
リナほど軽くない。
それだけで。
誰か分かる。
建物から少し離れたところ。
カイルが振り返る。
「もうちょい言い方あるだろ」
「何が」
「ラドのことだよ」
「事実だろ」
「そういう話じゃねえ!」
思ったより大きな声が出た。
ネミティブの目が細くなる。
また。
その目。
見る。
測る。
カイルの声。
肩。
指。
呼吸。
全部。
「じゃあ、どういう話」
「皆まだ引きずってんだよ!」
「俺もだ」
カイルの口が止まった。
一瞬。
ネミティブの目が揺れた。
本当に。
ほんの一瞬。
でも。
見えた。
(……引きずってる)
当たり前だ。
分かっていた。
こいつだって。
失っている。
ラド。
リナ。
自分だけじゃない。
なのに。
口から出てくるのは。
事実。
判断。
確認。
そればかり。
「だったら……」
続けようとして。
別の名前が浮かぶ。
「ルイスは?」
ネミティブの顔から。
一瞬だけ。
表情が消えた。
カイルは。
見逃さなかった。
「兄貴も疑ってんだろ」
「何を」
「とぼけんなよ」
カイルが一歩近づく。
「リナが死ぬ前からずっと怪しかった。ラドの偽物が出て、あいつが絡んで、都合よく情報持ってきて」
言葉にする。
ラドの姿。
ルイス。
北。
倉庫。
リナが見た一秒。
並べるほど。
胸の中で。
疑いが。
形になる。
リナは疑った。
自分も疑っている。
そして。
ネミティブも。
だったら。
あいつじゃないのか。
「証拠がない」
ネミティブが言った。
「だからって放っとくのかよ!」
「じゃあどうする」
「調べる!」
ネミティブの目が僅かに動く。
「リナもそう言ってた」
頭の中が。
一瞬。
真っ白になった。
「……それ言うか?」
「事実だ」
また。
事実。
カイルはネミティブの胸を押した。
ドッ。
ネミティブの身体が半歩下がる。
「事実事実うるせえんだよ!」
「カイル」
「リナ死んだんだぞ!」
「分かってる」
「分かってねえよ!」
「分かってる!」
今度は。
ネミティブの声も跳ねた。
二人の間へ。
沈黙が落ちる。
そこで。
カイルは初めて気づいた。
ネミティブの拳。
震えている。
怒っている。
違う。
何かを。
必死に押さえている。
それでも。
カイルは引けなかった。
ここで引いたら。
また。
何も言えなくなる。
「俺はルイスを信用しねえ」
ネミティブは何も返さない。
「兄貴が止めても調べる」
「勝手に動くな」
「嫌だ」
即答。
ネミティブの目が変わった。
カイルの背筋が。
冷えた。
その目。
リナを見ていた。
最後。
同じ目。
「……カイル」
「何だよ」
「俺に隠れて動くな」
カイルの胸へ。
悲しさに似た怒りが込み上げる。
やっぱり。
「だったら最初から全部話せよ!」
背を向ける。
「兄貴だって何も話さねえじゃねえか!」
そのまま歩いた。
後ろから。
呼び止める声は。
来なかった。
それが。
一番。
腹が立った。
* * *
**幕間Ⅰ 守られましたか**
ネミティブは夢を見た。
石の床。
高い天井。
冷えた空気。
足音を立てれば。
何度も返ってきそうな場所。
教会。
そう見えた。
だが。
十字架はない。
聖像もない。
祭壇らしき場所に。
一本だけ。
蝋燭。
その向こう。
白い服の男。
神父。
そう見える。
年齢が分からない。
若くも。
老いても見える。
表情が。
薄い。
「……またお前か」
男は答えなかった。
しばらく。
蝋燭の炎だけが揺れる。
やがて。
「彼女を守ろうとしましたか」
胸が。
強く締まった。
「誰の話だ」
分かっている。
それでも。
聞いた。
男は。
同じ問いを返す。
「彼女を守ろうとしましたか」
「守ろうとした」
考える前に。
答えた。
そこだけは。
疑わない。
自分は。
守ろうとした。
リナ。
RAT。
カイル。
全部。
男が。
僅かに首を傾げる。
「では」
喉が乾く。
「彼女は守られましたか」
パンッ。
夢の中。
銃声。
リナの身体が。
崩れる。
違う。
それは。
結果だ。
判断そのものまで。
間違っていたわけじゃない。
「俺が止めなかったら、もっと酷いことになってた」
男は黙っている。
「リナが撃ったかもしれない」
沈黙。
「ルイスが逃げたかもしれない」
沈黙。
「誰かが死んだかもしれない」
何も。
返らない。
苛立ちが湧く。
責めろ。
間違っていたと言え。
逆でもいい。
正しかったと言え。
どちらかにしろ。
「俺が決めるしかなかった」
男は。
ただ。
見ている。
答えを知っている目ではない。
本当に。
何も。
決めていない目。
「……何だよ」
「何も」
「だったら聞くな」
「私は答えを求めていません」
「じゃあ何のために聞く」
返事はない。
蝋燭が揺れる。
「おい」
ふっ。
炎が消えた。
暗闇。
* * *
ネミティブは目を覚ました。
天井。
荒い呼吸。
湿った布。
夜の臭い。
胸の奥には。
問いだけが残っていた。
――彼女は守られましたか。
「……黙れ」
目を閉じる。
俺は。
間違っていない。
そう思う。
違う。
足りなかっただけ。
もっと早く。
もっと正確に。
もっと全部。
自分が見ていれば。
次は。
間違えない。
* * *
**第二節 火種**
噂は。
噂の形をしていなかった。
だから。
カイルも。
最初は気づかなかった。
酒場。
隣へ座った。
見知らぬ中年の男。
「お前、カイルだろ」
カイルは酒を置く。
「誰だよ」
「昔ラドに世話になった」
ラド。
その名前だけで。
警戒が。
ほんの少し下がった。
男は酒を飲みながら。
何でもない話のように言う。
「ラドが死んでから変わったな」
「何が」
「RAT」
カイルは答えない。
男も。
こちらを見ない。
「昔の連中、お前見てるぞ」
「俺?」
「ラドに近かった若いの、お前だろ」
「違う」
「そうか?」
「違うって」
男は肩をすくめる。
「まあ、俺には関係ねえけどな」
それだけ。
翌日。
市場。
今度は。
知らない女。
「カイルさん?」
「何」
「南の人が探してたよ」
「誰が」
「名前までは知らない」
「何て?」
女は。
少し考える。
「今の頭より、あなたの方が話が通じるって」
胸が。
ざらつく。
「誰だよ、それ」
「知らない」
女は。
それだけ言って。
人混みへ消えた。
さらに二日後。
古参の男。
倉庫裏。
「もしもの話だ」
「嫌な入り方すんなよ」
男は笑わない。
「ネミティブが駄目になったら、お前どうする」
カイルは。
意味を理解するまで。
数秒掛かった。
「……何言ってんだ」
「ラドを撃った」
「それは――」
「リナも撃った」
「事情知ってんだろ!」
「知ってる」
返事。
静か。
「知ってるから飲み込んでる」
その方が。
怖かった。
男が一歩近づく。
「でもな」
声が低くなる。
「二回だ」
カイルは黙る。
「三回目は誰だ」
胸が。
冷えた。
ほんの一瞬。
自分の顔が。
浮かんだ。
俺?
すぐ。
振り払う。
「兄貴はそんな奴じゃねえ!」
自分でも驚くほど。
声が大きかった。
男は目を細める。
「だったらいい」
背を向ける。
それでも。
最後に。
足を止めた。
「ラドが死んだ時、俺はそこにいた」
カイルの指が。
強く握られる。
「忘れてねえ奴は、俺だけじゃねえよ」
男が去る。
一人になったカイルは。
壁を蹴った。
ドンッ。
爪先が。
痛い。
何なんだよ。
腹が立つ。
怖い。
そして。
一番嫌なのは。
ほんの一瞬。
もし。
兄貴が。
また誰か撃ったら。
そう考えた。
自分だった。
* * *
**第三節 ラドの影**
同じ頃。
別の言葉が。
ネミティブへ届いていた。
「最近カイルのところに古参集まってるぞ」
荷を運んできた若い男だった。
顔には見覚えがある。
名前までは。
知らない。
「何の話をしてる」
「知らねえ。ただ……次のこと考えた方がいいとか」
「次?」
「俺は聞いただけだからな」
男は去った。
ネミティブは。
その場から動かなかった。
次。
次の拠点。
次の仕事。
次の。
頭。
自分の。
次。
違う。
カイルは。
そんな奴じゃない。
ラドが死んだ時。
一番泣いた。
自分を。
兄貴と呼ぶ。
リナと。
馬鹿みたいに。
毎日言い合っていた。
だから。
だからこそ。
リナも。
自分に隠した。
カイルも。
協力した。
銃。
旧倉庫。
偽物のラド。
自分だけ。
最後に知らされた。
また。
胸がざらつく。
また。
俺だけ。
最後に知るのか。
証拠はない。
そう。
言い聞かせる。
その夜。
古参二人が。
消えた。
翌朝。
もう一人。
ネミティブは。
カイルを探した。
倉庫。
荷物をまとめている。
「三人どこ行った」
カイルの肩が止まった。
その一瞬が。
ネミティブには。
妙に長く見えた。
「……逃がした」
胸が。
落ちる。
「何?」
「もうここにいたくねえって」
「俺に言ったか」
「言ってねえ」
ほら。
身体の内側が。
冷える。
「何で」
カイルが振り返った。
「言ったら止めただろ」
リナの声。
重なる。
『言ったら止めるでしょ』
「……またか」
「何が」
「また俺に隠れて」
「だから何だよ!」
「勝手に決めるな!」
「俺が決めたんじゃねえ!」
カイルが。
一歩。
踏み込む。
「そいつらが決めたんだ!」
「RATの人間だ!」
「その前に人間だろ!」
胸を。
刺されたように。
痛む。
「一人抜ければ他も動く!」
「だから?」
「組織が崩れる!」
「それが嫌なら!」
カイルの声が震えている。
怒っている。
でも。
目は。
泣きそうだった。
「残りたい場所にしろよ!」
ネミティブは。
言葉を失った。
「逃げたいって言ってんのに、お前が残れって決めるのかよ!」
「全体を見てる!」
「だから何だ!」
「お前には見えてない!」
「見えてねえよ!」
即答。
今度は。
ネミティブが止まった。
「俺には分かんねえ!」
カイルが自分の胸を指す。
「誰が正しいとか! 誰が裏切ってるとか! ルイスが何者かも!」
息を吸う。
「でも、分かんねえからって全部お前に決めてもらう気はねえ!」
ネミティブが言う。
「間違えたら?」
「間違えたっていいだろ!」
身体が。
僅かに固まる。
カイルも。
言った直後。
気づいた。
リナ。
似ている。
それでも。
続ける。
「そいつの間違いまで取んなよ!」
沈黙。
言ったカイル自身も。
胸が痛んだ。
リナ。
でも。
もう。
引っ込めなかった。
* * *
**第四節 昔話――予言を捨てた王**
その夜。
カイルは拠点の屋上にいた。
眠れない。
下では。
まだ人が動いている。
逃げた三人。
古参。
ネミティブ。
ルイス。
考えるほど。
全部。
ぐちゃぐちゃになった。
「昔」
声。
カイルが振り向く。
誰もいない。
「……誰だ」
返事ではなく。
話が続く。
「ある王は、自分の子がいつか自分を殺すと聞いた」
カイルが立ち上がる。
風が。
屋上を抜ける。
「どこにいる」
「王は子を捨てた」
返事にはならない。
「それで未来を避けたと思った」
カイルは。
暗闇を見る。
「……」
「だが、捨てられた子は父を知らずに育ち、やがて道で一人の男を殺した」
眉が寄る。
「その男が父だった」
沈黙。
「……何が言いてえんだよ」
声は答えない。
「兄貴のことか?」
無言。
「俺のことか?」
何もない。
「答えろよ!」
ようやく。
声。
「何も」
「は?」
「昔話だ」
それだけ。
消えた。
カイルは。
しばらく。
暗闇を睨んだ。
「……意味分かんねえ」
それなのに。
胸の奥だけが。
妙にざわついていた。
* * *
**第五節 ネズミ狩り**
RATの弱体化を。
最初に誰が外へ流したのか。
誰にも。
分からなかった。
ただ。
ある夜を境に。
敵対組織の動きが。
一斉に変わった。
長く縄張りを争っていた組織。
ラドに潰された連中。
取引を切られた者。
古い恨みを抱えていた者。
互いに。
繋がってすらいないはずの連中が。
同じ夜。
同じ結論へ。
辿り着いた。
今なら。
潰せる。
最初は。
南。
ドンッ!!
建物が揺れた。
天井から。
埃が落ちる。
「何だ!」
二十分もしないうちに。
西。
パンッ!
パンパンッ!
銃声。
そして。
北。
「北も囲まれた!」
駆け込んできた男の顔が青い。
「何人!」
「分かんねえ!」
「どこの組織だ!」
「一つじゃねえ!」
カイルが窓へ走る。
外。
敵。
腕章が違う。
武器も違う。
立ち方も。
統一されていない。
「何でこいつら一緒に来てんだよ!」
ネミティブが。
別の窓から見る。
位置。
動き。
攻め方。
互いを庇っていない。
連絡も取り合っていない。
「一緒じゃない」
カイルが振り返る。
「は?」
「別々に来てる」
その方が。
悪かった。
同盟。
ではない。
全員が。
別々に。
同じタイミングを。
選んだ。
ネミティブの背筋が。
冷える。
情報を。
流された。
人数。
拠点。
脱退。
内部の不和。
補給。
全部。
「ルイス」
名前が。
口から漏れた。
カイルが振り向く。
「やっぱりお前もそう思うよな!」
「まだ決めてない」
「こんなのあいつしかいねえだろ!」
「決めてない!」
「じゃあ何で名前出たんだよ!」
バンッ!!
扉が。
内側へ吹き飛んだ。
「伏せろ!」
パンッ!
パンパンッ!
木片が飛ぶ。
「クソッ!」
カイルが。
撃ち返す。
パンッ!
一人。
倒れる。
カイルの心臓が跳ねた。
殺した。
でも。
考える暇はない。
「カイル!」
古参。
「こっち!」
見覚えのある顔。
何度も。
一緒に飯を食った。
カイルは。
反射で走る。
「裏口!」
「分かった!」
角。
曲がる。
止まる。
前。
同じ古参。
立っている。
「カイル! 何してる!」
「……は?」
後ろを見る。
誰もいない。
「お前」
男が眉を寄せる。
「何だよ!」
「今俺呼んだ?」
「呼んでねえよ!」
胸が。
冷える。
「嘘つけ」
「こんな時に何言ってんだ!」
どっちだ。
前。
男。
顔。
声。
古い傷。
知っている。
じゃあ。
さっきの。
ドンッ!
壁が揺れた。
「走れ!」
二人が走る。
だが。
カイルは。
もう。
隣の顔を。
完全には信じられなかった。
* * *
**第六節 顔**
ネミティブは。
階段を下りていた。
途中。
足が止まる。
下。
カイル。
敵の男。
向き合っている。
何か。
話している。
何してる。
見る。
敵が。
何かを差し出した。
カイルが。
受け取る。
胸が。
冷える。
やっぱり。
逃がした。
隠した。
古参。
次の頭。
そして。
敵。
ネミティブの手が。
銃へ伸びる。
その瞬間。
後ろ。
「兄貴!」
振り向く。
カイル。
いる。
息を切らして。
「裏口駄目だ! 回られてる!」
ネミティブは。
動けなかった。
前。
もう一度。
見る。
誰も。
いない。
「……」
「兄貴?」
目の前。
カイル。
汗。
呼吸。
目。
声。
全部。
カイル。
本物か?
その疑問が。
浮かんだこと自体に。
寒気がした。
「何だよ」
「……合言葉」
「は?」
「言え」
「こんな時に!?」
「言え!」
カイルが叫ぶ。
「昨日の飯! 干し肉! 俺が焦がしてリナに笑われた! これでいいか!」
リナ。
胸が。
痛む。
本物。
たぶん。
その。
たぶん。
が。
消えない。
乱戦は続いた。
煙。
銃声。
崩れる壁。
逃げる味方。
追う敵。
その中。
妙なことが。
増えていく。
さっき東へ走った男が。
西から出てくる。
死んだはずの女が。
階段を駆け上がる。
敵の服を着た味方。
味方の顔で。
指示を出す誰か。
「お前、本物か!」
「何言ってんだ!」
「合言葉!」
「そんなもん知らねえ!」
「撃つぞ!」
「ふざけんな!」
パンッ!
「うわっ!」
男が。
倒れる。
味方。
撃った方の男が。
銃を落とす。
「ち、違……だって、さっき……」
もう。
遅い。
一度でも。
偽物が混ざれば。
後は。
人間が。
勝手に疑う。
誰も。
何もしていない場所ですら。
* * *
**第七節 ルイス**
カイルは。
煙の向こうへ。
その姿を見つけた。
ルイス。
敵の男と。
話している。
やっぱり。
血が。
頭へ上る。
「ルイス!」
男が振り向く。
逃げる。
「待てコラ!」
カイルが走った。
瓦礫。
飛び越える。
「逃げんな!」
角。
曲がる。
そこ。
ルイス。
壁にもたれている。
「……何?」
カイルが止まる。
「お前」
「何」
「今、誰と喋ってた」
「喋ってないけど」
「嘘つけ!」
胸ぐら。
掴む。
ドンッ。
ルイスの背中が。
壁へ当たる。
「お前ずっとそうだよな!」
「カイル」
「リナの時から何なんだよ! ラドの偽物も! 情報も! 今のこれも!」
ルイスは。
眉を寄せるだけ。
「何の話か分からない」
「それがムカつくんだよ!」
拳が。
上がる。
「カイル!」
ネミティブ。
追いつく。
「兄貴! こいつだ!」
ネミティブは。
ルイスを見る。
顔。
呼吸。
服。
手。
視線。
全部。
「お前、今どこにいた」
「ここ」
「ずっと?」
「うん」
「嘘だ!」
カイルが叫ぶ。
「俺見た!」
ルイスは。
カイルを見る。
「僕じゃない」
「じゃあ誰だよ!」
「知らない」
「殴るぞ!」
「もう掴んでるけど」
「お前マジで――!」
「離せ」
ネミティブの声。
カイルが振り向く。
「は?」
「確認する。離せ」
「またそれかよ!」
「離せ!」
カイルが手を放す。
ルイスが。
服を整える。
その瞬間。
遠く。
「カイル!」
三人とも。
振り向く。
煙。
その向こう。
カイル。
同じ顔。
こちらを見る。
そして。
走る。
本物のカイルは。
ここにいる。
カイル本人の顔から。
血の気が引いた。
「……今の」
ネミティブは。
銃を抜く。
走る。
「待て!」
煙。
瓦礫。
角。
誰も。
いない。
消えた。
ネミティブが。
ゆっくり振り返る。
ルイス。
まだ。
そこにいる。
静かに。
こちらを見ている。
なら。
ルイスじゃない?
違う。
今。
ここにいるルイスが。
本物だと。
誰が証明する。
胸が。
締まる。
リナ。
偽ラド。
カイル。
古参。
ルイス。
顔。
声。
記憶。
何も。
信用できない。
なら。
一つだけ。
残る。
俺が見る。
自分が確認したもの。
自分が判断したもの。
それだけなら。
「兄貴」
カイルの声。
ネミティブが。
振り返る。
ほんの一瞬。
カイルの顔すら。
疑った。
そのことを。
カイルは。
見た。
「……お前」
悲しそうな顔。
「俺まで分かんなくなったのかよ」
ネミティブは。
答えられなかった。
**第八節 昔話――信じられなかった女**
その夜は。
夜と呼べるほど静かではなかった。
遠くでまだ銃声がしている。
パンッ。
間。
また。
パンッ。
燃えた建物から流れてくる煙が、風向きのたびに路地へ入り込む。焦げた木と火薬、それに血の臭いが混ざっていた。
カイルは。
割れた壁の裏へ身体を預けていた。
背中に石の冷たさ。
肺が熱い。
袖で額を拭えば。
煤が黒く伸びる。
「昔」
声。
また。
あの声。
カイルは。
目を閉じた。
「……今かよ」
「未来を見た女がいた」
返事を待たず。
続く。
「女は国が滅びると言った」
カイルの拳が。
ゆっくり握られる。
「……」
「誰も信じなかった」
リナ。
胸が痛む。
『一回だけ、私のこと信じて』
あの声が。
勝手に戻る。
「女は何度も正しいことを言った」
カイルの爪が。
掌へ食い込む。
「それでも、誰も信じなかった」
「やめろ」
声は。
止まらない。
「国は滅びた」
「やめろって」
一瞬。
遠くの銃声だけになる。
そして。
「女が正しかったからではない」
カイルが目を開く。
「女を信じなかったからでもない」
眉が寄る。
「……じゃあ何だよ」
沈黙。
壁の向こう。
炎が揺れる。
赤い光が。
割れた石の隙間から。
カイルの頬へ細く差す。
「何が言いてえんだよ!」
返ってきたのは。
「何も」
「またそれかよ!」
「昔話だ」
カイルは。
壁を殴った。
ドンッ。
拳が痛い。
「だったら最初から話すなよ……」
返事は。
もうなかった。
残ったのは。
煙。
銃声。
そして。
リナの顔。
正しかったか。
間違っていたか。
そんなことじゃない。
最後まで。
自分で見ようとしていた。
それだけは。
分かった。
* * *
**第九節 混ざったもの**
最初に悲鳴が上がったのは。
敵側だった。
「何だこいつ!」
ドンッ!
何かが。
人を壁へ叩きつけた。
カイルが振り向く。
煙の向こう。
男。
裸足。
異様に痩せている。
服は裂け。
肋骨の形まで浮いていた。
それだけなら。
この街では珍しくない。
口。
その周り。
赤い。
手。
握っているもの。
指。
人間の。
指。
「……何だよ」
男が。
それを口へ入れる。
くちゃ。
ごり。
骨が。
歯の間で鳴った。
「足りない」
敵の一人が。
拳銃を向ける。
「止まれ!」
パンッ!
肩へ当たる。
男の身体が。
僅かに揺れた。
止まらない。
「足りない」
一歩。
もう一歩。
撃たれた肩から血が流れている。
本人は。
見てもいない。
「足りない!」
突然。
走った。
速い。
痩せた身体から想像できない速度。
「下がれ!」
人へ飛びつく。
歯。
肉。
悲鳴。
「うわあああ!」
敵も。
味方もない。
近くにいる人間へ。
ただ。
噛みつく。
「何なんだよこいつ!」
カイルが撃った。
パンッ!
腹。
命中。
男の上体が一度後ろへ折れる。
それでも。
顔を上げる。
笑っている。
「もっと」
「化け物かよ……!」
別方向。
ガシャン!
窓が。
内側へ割れた。
何かが。
ガラスごと飛び込んでくる。
人型。
だが。
腕。
関節が一つ多い。
普通なら曲がらない場所で。
もう一度。
折れている。
それが床へ手をつく。
口が開く。
声。
二つ。
同時に重なった。
「い、ら、ない」
カイルの足が止まる。
「は……?」
次の瞬間。
それは。
近くの敵へ飛びかかった。
血。
肉。
悲鳴。
RATを狩りに来た側まで。
逃げ始める。
ネミティブは。
少し離れた場所で。
息を止めていた。
敵じゃない。
RATでもない。
何か。
別のもの。
誰が。
何のために。
考える。
考えろ。
情報。
位置。
数。
目的。
ルイス?
違う。
いや。
分からない。
分からない。
その状態が。
何より。
怖かった。
* * *
**第十節 頭**
南が落ちた。
西も。
北も。
連絡が途切れた。
残った者たちは。
中央拠点の裏へ集まっていた。
崩れた壁。
燃えた梁。
地面には割れた瓶と薬莢。
足元を急ぐたび。
カラッ。
金属が転がる。
「東へ抜けろ!」
カイルが叫んだ。
「でもネミティブが――」
「今はいい!」
「頭は?」
「知らねえ!」
相手が怯む。
カイル自身も。
自分で何を言っているのか分からなかった。
怖い。
誰を信じていいか。
分からない。
ルイスが何者なのか。
分からない。
ネミティブが。
何を考えているのかも。
でも。
目の前の男。
呼吸が速い。
足が。
もう逃げる方向へ向いている。
こいつは。
逃げたい。
それだけは。
分かる。
「死にたくねえなら逃げろ!」
「お前は?」
「残る!」
「何で!」
「兄貴がいる!」
即答。
自分でも。
驚いた。
怒っている。
疑っている。
腹も立っている。
それでも。
兄貴だった。
男が。
少し笑った。
「やっぱ、お前が頭でいいんじゃねえか」
「ふざけんな!」
「ラドも――」
カイルが。
胸ぐらを掴んだ。
「ラドはラドだ!」
男が黙る。
「俺は俺だ!」
手を放す。
「行け!」
男が走る。
それから。
気づいた。
古参が。
何人も。
自分の周りに立っている。
「……何だよ」
誰も動かない。
「見るなよ!」
一人が言った。
「俺ら、お前についてく」
「勝手にしろ!」
「頭は?」
「知らねえって!」
「じゃあ勝手についてく」
カイルは頭を掻いた。
「クソッ!」
その光景を。
ネミティブも。
見ていた。
少し離れた。
崩れた通路の向こう。
古参。
カイルの周囲。
カイルの声。
その一言で。
人が動く。
自分には。
報告されていない。
噂。
次の頭。
ラド派。
リナ。
胸の奥。
声。
やっぱり。
やっぱり。
カイルも。
ネミティブが。
近づく。
「カイル」
カイルが振り向く。
「兄貴」
「何してる」
「逃がしてる」
「俺に言ったか」
カイルの顔が歪む。
「今それかよ」
「俺に言ったか」
「言ってねえよ!」
周囲の古参が。
僅かに動く。
カイルが。
片手を上げる。
「動くな」
全員。
止まった。
ネミティブの目が。
その手を見る。
カイルの一言で。
止まった。
胸が。
冷える。
ほら。
もう。
俺じゃない。
「……随分、言うこと聞くな」
カイルが。
一瞬。
意味を理解できない顔をした。
次に。
目が変わった。
「お前」
一歩。
「俺疑ってんのか」
「聞いてるだけ」
「嘘つけ!」
「ラドの次は俺かよ!」
「何?」
「リナも疑った! 俺も疑う! ルイスは証拠ないから放置! 何なんだよ!」
「ルイスは俺も疑ってる!」
「だったら何で俺止めた!」
「お前が勝手に動くからだ!」
「またそれか!」
カイルが。
ネミティブの胸を押した。
「お前、自分以外が決めるの怖いだけだろ!」
ネミティブの目が。
開く。
「何」
「全部見えてねえと怖いんだろ!」
「黙れ」
「皆がお前に聞かねえと嫌なんだろ!」
「黙れ!」
カイルの目も。
赤い。
「ラド死んで!」
空気が止まる。
「リナ死んで!」
ネミティブの拳が。
震える。
「次は俺か!」
「黙れ!!」
バキッ!
拳。
カイルの頬。
身体が。
横へ流れる。
足がもつれ。
地面へ倒れた。
周囲。
古参。
拳銃。
一斉に手が伸びる。
「おい!」
カイルが。
地面から叫ぶ。
「撃つな!」
古参の手が。
止まった。
また。
カイルの言葉で。
止まった。
ネミティブは。
それを見る。
ほら。
俺じゃない。
こいつを。
見ている。
カイルが。
口元の血を拭う。
立つ。
「……分かった」
「何が」
「兄貴」
真正面から。
見る。
「俺、お前の頭にはならねえ」
ネミティブの眉が寄る。
「でも」
カイルは。
周囲を見る。
「こいつらの頭にもならねえ」
「カイル」
「自分で決めろ!」
怒鳴る。
「俺が言ったから残るとか! 兄貴が言ったから死ぬとか! ラドならどうしたとか!」
息を吸う。
「もう知らねえよ!」
怖い。
間違える。
絶対。
間違える。
それでも。
「逃げたい奴は逃げろ!」
一人が。
動く。
「残りたい奴は残れ!」
別の一人。
「俺について来たいなら勝手に来い!」
さらに。
一人。
「でも!」
カイルが。
自分の胸を叩く。
「俺が正しいなんて思うな!」
ネミティブは。
何も。
言えなかった。
* * *
**幕間Ⅱ 誰が間違えたのですか**
教会。
石の床。
蝋燭。
白い服の男。
ネミティブは。
立っていた。
疲れていた。
怒る力すら。
薄い。
「……今度は何だ」
男が静かに問う。
「あなたが正しいなら」
ネミティブの眉が動く。
「なぜ皆、いなくなるのですか」
「俺が間違えたからじゃない」
即答。
男は。
少し間を置く。
「では」
「誰が間違えたのですか」
「敵」
沈黙。
「裏切った奴」
沈黙。
「カイル」
何も。
「ルイス」
何も。
「リナ」
声が。
止まった。
男が尋ねる。
「彼女も間違えましたか」
喉が詰まる。
「……」
「カイルも?」
「……」
「ラドも?」
拳。
握る。
「……うるさい」
「あなた以外の全員が、間違えたのでしょうか」
「うるさい!」
声が。
高い天井へ返る。
「俺が正しくなかったら!」
息が。
荒くなる。
「誰が決めるんだ!」
男は。
少し考えた。
「分かりません」
ネミティブの顔が上がる。
「何?」
「私は知りません」
「ふざけるな」
「はい」
「じゃあ何で聞く」
男は。
静かに答えた。
「仕事です」
初めて。
その言葉。
ネミティブの目が細くなる。
「誰の」
答えない。
「何の仕事だ」
蝋燭が。
揺れる。
「おい」
暗闇。
男の輪郭が。
少しずつ。
沈んでいく。
「待て」
最後まで。
名前は。
言わなかった。
* * *
**第十一節 昔話――城へ入れたもの**
カイルは。
崩れた路地を走っていた。
後ろ。
銃声。
前。
炎。
息。
肺が痛い。
それでも。
足を止めない。
「昔」
声。
「今度は何だよ!」
走りながら。
叫ぶ。
「長い戦争をしていた城があった」
「知らねえよ!」
「敵が消えた」
足が。
僅かに緩む。
「代わりに、大きな贈り物を残した」
カイルは。
炎の向こうを見る。
「……」
「城の者たちは、それを中へ入れた」
声は。
いつもと同じ。
面白がっているようで。
答えを持っているわけでもない。
「その夜」
一拍。
「城は内側から開いた」
ルイス。
顔。
偽物。
自分。
ネミティブ。
全部。
頭へ浮かぶ。
「だから何だよ!」
声は答えない。
「誰が入れたって言いてえんだ!」
「何も」
「じゃあ黙ってろ!」
「昔話だ」
消える。
「クソッ!」
カイルは。
走った。
* * *
**第十二節 なくなる**
RATは。
朝まで持たなかった。
死んだ者。
逃げた者。
敵へ投降した者。
行方が分からない者。
炎の向こうへ消えた者。
誰も。
同じ場所には。
戻らなかった。
夜明け前。
空は。
まだ青くならない。
火だけが。
街の一部を赤くしている。
カイルも。
最後に。
ネミティブを見つけた。
遠く。
瓦礫の向こう。
一人。
「兄貴!」
ネミティブが振り向く。
カイルの後ろ。
生き残った数人。
怪我をしている。
歩くのも。
ぎりぎりの者もいる。
「来い!」
ネミティブは。
動かない。
「兄貴!」
「お前ら行け」
「何言ってんだ!」
「俺は確認する」
カイルの顔が崩れる。
「まだ言ってんのかよ!」
「誰がやったか」
「今どうでもいいだろ!」
「よくない」
「死ぬぞ!」
「分かってる!」
「だったら来いよ!」
ネミティブは。
動かない。
カイルの歯が軋む。
殴ってでも。
連れていきたい。
昔なら。
そうした。
でも。
後ろ。
怪我人。
怯えている連中。
誰かの肩を借りなければ。
歩けない男。
どっち。
胸が。
痛い。
ネミティブ。
皆。
正解。
分からない。
カイルは。
一度。
目を閉じた。
一秒。
開く。
「……俺、こいつら連れてく」
ネミティブは。
何も言わない。
「兄貴」
声が震える。
「死ぬなよ」
返事。
ない。
カイルは。
背を向けた。
走る。
数人が。
ついていく。
その足音が。
少しずつ。
遠ざかる。
ネミティブは。
その背中を。
見送った。
行った。
胸に。
穴が開く。
カイルも。
ラド。
リナ。
RAT。
カイル。
全部。
いなくなった。
* * *
**第十三節 子供**
朝。
煙。
灰。
誰もいない。
ネミティブは。
一人で。
崩れた拠点を歩いていた。
靴の下。
ぱき。
何かが。
割れた。
見る。
食器。
見覚えがある。
リナが。
よく使っていた。
少し先。
椅子。
ラドが。
よく座っていた。
壁。
小さな傷。
カイルが。
暇つぶしに投げたナイフの跡。
物は。
残っている。
人だけ。
いない。
確認。
しないと。
誰か。
生きているかもしれない。
出口。
人数。
足跡。
血。
見れば。
分かる。
いつも。
そうだった。
見ろ。
身体が。
動かない。
見ろ。
右。
血。
左。
焦げた服。
少し先。
誰かの手。
瓦礫の下。
指。
動かない。
呼吸。
浅い。
胸。
苦しい。
見れば。
分かる。
分かるはず。
なのに。
視界が。
揺れる。
父親。
酒瓶。
足音。
呼吸。
手。
違う。
今じゃない。
昔。
違う。
違う。
肩。
傷。
無意識に。
手が伸びる。
古傷。
掴む。
強く。
痛い。
呼吸が。
乱れる。
「……すみません」
声。
出た。
ネミティブ自身が。
止まった。
違う。
今の声。
自分。
でも。
小さい。
「……僕」
喉が。
震える。
「僕……」
膝。
落ちる。
灰。
手。
汚れる。
「間違えましたか」
誰へ。
聞いているのか。
分からない。
「僕が……悪かったんですか」
ラド。
いない。
リナ。
いない。
カイル。
いない。
皆。
いない。
「僕がちゃんと見てれば……」
傷を掴む。
爪が。
食い込む。
「ちゃんと……見てたんです」
涙。
落ちる。
灰へ。
黒い点。
「ちゃんと……」
父親。
足音。
母親。
閉まる扉。
暗い部屋。
一人。
戻ってくる。
「すみません」
肩が震える。
「ごめんなさい」
呼吸。
吸えない。
「僕、ちゃんとしますから」
足音。
カツ。
身体が跳ねた。
顔を。
上げられない。
カツ。
カツ。
止まる。
目の前。
靴。
「……ネミティブ」
声。
知っている。
「……ルイス」
やっと。
顔を上げる。
ルイス。
立っている。
いつもの顔。
いつもの声。
ネミティブの唇が震える。
「僕……」
ルイスは。
何も言わず。
しゃがんだ。
ネミティブの身体が。
強張る。
触られる。
傷。
反射で。
両手が。
そこを守る。
でも。
ルイスの手は。
傷へ。
行かなかった。
反対側の肩。
背中。
そこだけ。
腕が。
回る。
初めて。
抱いた。
ネミティブの身体が。
固まる。
逃げるべき。
疑うべき。
確認するべき。
頭のどこかが。
まだ。
言っている。
でも。
動けない。
温かい。
それだけ。
本当に。
それだけ。
なのに。
全部が。
崩れた。
「ルイス……」
子どもみたいに。
服を掴む。
「僕……ちゃんと見てたんです」
「うん」
「ちゃんと……間違えないように……」
「うん」
「でも……」
声が。
潰れる。
「みんな……」
ルイスの手。
背中。
傷には。
触れない。
一度も。
「君には僕がいるじゃないか」
ネミティブの指が。
ルイスの服を。
強く掴んだ。
涙が。
止まらない。
ルイスの声は。
優しかった。
「他に何もいらないだろ?」
ネミティブは。
答えなかった。
ただ。
服を掴む指へ。
さらに。
力を込めた。
ルイスは。
その背を抱いたまま。
何も言わない。
ネミティブからは。
見えない位置で。
ほんの一瞬。
その目から。
さっきまでの優しさが。
消えた。
笑ってはいない。
けれど。
口元だけ。
わずかに。
歪んだ。
それが。
ルイス自身のものだったのか。
それとも。
彼の内側にいる何かのものだったのか。
誰にも。
分からない。
次の瞬間には。
いつもの。
穏やかな顔へ戻っていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
「俺が正しいなんて思うな」
誰かに従うのでもなく、
誰かの代わりに正解を決めるのでもなく。
分からないまま、自分で選ぶ。
カイルが辿り着いた答えとは反対に、
ネミティブはさらに「自分が正しくならなければならない」という方向へ進んでいきます。
そして、すべてを失った彼のそばに残ったのは――ルイスでした。
次章へ続きます。




