第三章 リナ ― 一回だけ、私を信じて
ラドが死んだ。
残されたリナは、その事実を受け入れられないまま日々を過ごしていた。
そんな彼女の前に現れたのは――
死んだはずのラドだった。
信じたい。
でも、何かが違う。
怖くても、自分の目で確かめる。
リナ編、始まります。
**空いた場所**
ラドが死んだ。
その事実は、昼間より夜の方が大きかった。
昼ならまだ、人の声がある。
食器がぶつかる音。誰かが椅子を引きずる音。廊下を走るカイルを、別の誰かが怒鳴る声。
RATの拠点は、もともと静かな場所ではない。
人が寝る場所と、飯を食う場所と、武器を置く場所が、ほとんど同じ建物に押し込まれている。誰かが起きれば誰かの毛布を踏み、誰かが怪我をすれば水桶が廊下を行き来する。
だから昼間だけは、考えなくても済んだ。
夜になる。
一つずつ音が消える。
話し声。
食器。
足音。
最後に残るのは、古い建物そのものが鳴る音だけだった。
ギィ……。
リナの目が開いた。
暗い天井。
壁際には丸められた毛布。
向こうには空いた寝床。
誰もいない。
毛布の中で、指先だけが冷えていた。
(風だ。窓が鳴っただけ)
分かっている。
それなのに、胸は速い。
どく、どく、どく。
目を閉じる。
その瞬間。
パンッ。
乾いた銃声が、耳の奥で鳴った。
「――っ」
また目を開ける。
今のは。
ここじゃない。
あの日だ。
倒れるラド。
床に広がった血。
銃を持ったネミティブの顔。
(違う。今じゃない。終わったこと)
「やだ……」
声が漏れた。
毛布を鼻まで引き上げる。
目を閉じない。
閉じれば出てくる。
でも。
開けていても。
部屋の隅の影が、人に見えた。
「……ラド兄」
返事はない。
当たり前だった。
(死んだ。私も見た。分かってる)
それでも頭のどこかが。
もしかしたら。
と言い出す。
扉が開くかもしれない。
廊下から重い足音が聞こえるかもしれない。
「寝ろ、馬鹿」
そう言いながら。
いつもの顔で戻ってくるかもしれない。
リナは強く首を振った。
「死んだんだから……」
言葉の最後が震えた。
涙が一滴落ちる。
拭く。
もう一滴。
また拭く。
止めようとすると。
余計に出た。
(いつまで泣くの)
カイルだっている。
ネミティブだっている。
自分だけが辛いわけじゃない。
そう思った瞬間。
別の恐怖が顔を出した。
次は誰。
父。
母。
ラド。
そこへ。
ネミティブの顔が並びかける。
「やめて!」
自分の声に驚いて。
口を塞いだ。
静寂。
誰も来ない。
そのことが。
今度は怖かった。
誰かに来てほしい。
でも。
何があったと聞かれたくない。
一人にしてほしい。
でも。
一人にはされたくない。
リナは毛布の中で膝を抱えた。
その夜。
ほとんど眠れなかった。
* * *
翌朝。
カイルはリナの顔を見るなり言った。
「ひどい顔」
「うるさい」
「寝てねえだろ」
「寝た」
「嘘」
「寝た!」
思ったより大きな声が出た。
拠点の端で荷をまとめていた少年が、一度こちらを見る。
カイルも黙った。
その顔を見て。
今度はリナの方が視線を落とした。
「……ごめん」
「別に」
カイルはそれ以上聞かなかった。
助かった。
そう思った。
同時に。
少しだけ寂しかった。
(放っておいてほしい。でも、一人にはされたくない)
何なの。
自分でも分からなかった。
* * *
**ルイス**
ラドが死んでしばらくして。
一人の男がRATへ出入りするようになった。
ルイス。
最初から。
目立つ男ではなかった。
誰かの寝床を使わない。
焚き火の一番近くにも座らない。
飯が配られても。
最後の方で適当に取る。
仕事に必要な情報だけを持ってくる。
人手が足りなければ手を貸す。
それでも。
中心へ入ろうとはしない。
いつも。
輪の半歩外にいる。
ある日。
ルイスが机へ地図を置いた。
「東の道、今日は避けた方がいいかも」
ネミティブが顔を上げる。
「何で」
「昼頃、知らない馬車が二台入った」
指先が地図の東側を軽く叩く。
「荷を下ろしてない」
「それだけ?」
「それだけ」
ルイスは笑う。
「怪しいと思っただけだよ。信じなくていい。自分で見れば?」
ネミティブは地図へ視線を落とした。
東。
道幅は狭い。
途中に塞がれれば、逃げ道も少ない。
少し考える。
「西を回る」
仲間の一人が眉を寄せた。
「遠くないか?」
「東で何かあったらもっと遅れる」
結果。
東では別の連中が揉めていた。
西へ回ったRATには被害が出なかった。
別の日。
ルイスは言った。
「明日の取引、人を増やした方がいいかも」
「理由」
ネミティブがすぐ聞く。
「仲介役が変わった」
「それだけ?」
「うん」
ルイスは。
また。
それ以上言わない。
ネミティブは人数そのものは増やさなかった。
代わりに。
出口側へ二人置いた。
翌日。
取引場所。
狭い部屋。
古い机。
椅子。
相手側の人間が一人。
不意に。
上着の中へ手を入れた。
ジャキッ!
刃物。
「伏せろ!」
ガンッ!
ネミティブが机を蹴る。
机の脚が床を擦り。
相手の膝へ当たる。
「っ!」
身体が崩れる。
そこへ出口側へ置いていた二人が飛びついた。
「押さえろ!」
ゴッ!
床へ叩きつける。
刃物が手から離れ。
カランッ。
転がった。
全部が終わったあと。
ルイスは壁際から笑った。
「当たってたね」
「お前の情報がな」
ネミティブが返す。
ルイスは首を振った。
「僕は仲介が変わったって言っただけ」
それから。
ネミティブを見る。
「配置を決めたのは君でしょ」
ネミティブは。
何も言わなかった。
けれど。
少し離れた場所にいたリナには見えた。
その言葉が。
ネミティブの中へ。
少しだけ入った。
同じことが。
何度か続いた。
ルイスは答えを持ってこない。
欠けた材料だけを置く。
ネミティブが見る。
考える。
決める。
そして。
当たる。
(前より迷わなくなった)
最初は。
それがいいことだと思った。
ラドが死んでから。
ネミティブは。
ずっと何かに追われているようだった。
判断を求められても。
答えるまで少し時間が掛かる。
夜。
一人で地図を見ていることも増えた。
それが。
ルイスが来てから。
少し変わった。
迷う時間が短くなった。
決断も速い。
失敗も少ない。
でも。
何度目かの成功のあと。
リナは。
ふと思った。
(前は)
決める前。
ネミティブは。
誰かの顔を見ていた気がする。
ラド。
カイル。
自分。
一人で決める時でも。
最後に一度。
周りを見る。
今は。
見ない。
* * *
夜。
リナが水を取りに行くと。
机で紙を見ていたルイスが顔を上げた。
「おかえり」
足が止まった。
「……何?」
「別に」
その言葉。
胸の中で。
小さく引っかかった。
ラドも。
時々。
そう言った。
もっと雑に。
相手の顔なんて見ず。
帰ってくるのが当然みたいに。
(似てる)
胸の奥が。
きゅっと縮んだ。
「寝てない?」
「寝てる」
「目、赤いよ」
「元から」
「そう?」
ルイスは。
それ以上聞かなかった。
優しい。
なのに。
なぜか。
嫌だった。
(違う)
嫌なんじゃない。
怖い。
でも。
何が?
答えが出ないまま。
リナは部屋へ戻った。
* * *
**ラド**
その夜だった。
遅い帰り道。
雨上がりの石畳は黒く濡れ、軒先から落ちる水が街灯の光を細く切っている。
ぽた。
ぽた。
リナは一人で歩いていた。
「リナ」
足が止まった。
一度目は。
聞き間違いだと思った。
水音。
酔っ払い。
別の誰か。
「リナ」
二度目。
喉が閉じた。
聞き間違えるわけがない。
振り向きたくない。
でも。
その声から逃げる方が。
もっと怖かった。
ゆっくり。
首を回す。
街灯の届かない場所。
一人の男が立っていた。
顔。
肩。
髪。
立ち方。
声。
全部。
「……ラド、兄?」
ラドだった。
「何で……」
一歩。
近づく。
勝手に涙が落ちた。
「生きてたの?」
もう一歩。
「なんで帰ってこなかったの!」
怒鳴りたい。
胸を叩きたい。
抱きつきたい。
それなのに。
足だけが。
途中で止まった。
指先が震える。
(触って違ったらどうしよう)
本物だったら。
じゃあ。
あの日。
死んだと思って泣いていた自分は。
何を見たの。
「リナ」
「死んだって……私、死んだって思って……」
男が言った。
「まず落ち着け」
リナの身体が。
止まった。
「……え?」
「話を聞け」
涙は。
まだ止まらない。
けれど。
胸の奥へ。
小さな棘が刺さった。
(ラド兄なら)
そんな言い方する?
泣いていたら。
『泣くな、馬鹿』
とか。
『うるせえ』
とか。
もっと。
雑に怒る。
「ラド兄……?」
「何だ」
「……ほんとに?」
男の目が。
ほんの少し。
変わった。
「何が」
「……何でもない」
リナは。
一歩下がった。
信じたい。
死んでいなかったと思いたい。
でも。
信じた瞬間。
自分の記憶まで。
全部壊れそうだった。
男は言う。
ネミティブだけを責めるな。
あれは事故に見せかけて作られた。
ネミティブも使われた。
そして。
新しく入ったルイスを見ろ。
「何でルイスなの」
「俺の話を信じろとは言わない」
ラドの顔で。
そう言う。
「自分で見ろ」
「待って」
「一個ずつ確かめろ」
「ラド兄!」
男は。
そのまま。
闇へ消えた。
追おうとした。
足が動かなかった。
「待って……」
声だけが残る。
ぽた。
ぽた。
雨水だけが。
さっきまで男が立っていた石畳へ落ちる。
しばらくして。
リナは。
その場へしゃがみ込んだ。
服が濡れる。
どうでもよかった。
(何なの)
生きててほしい。
でも。
怖い。
偽物なら嫌。
本物でも怖い。
(私、何を望んでるの)
両手で顔を覆った。
「何なのよ……!」
子どもみたいに。
泣いた。
* * *
**最初の一歩**
翌日。
リナはカイルへ話そうとして。
三回やめた。
最初。
声を掛ける直前。
次。
カイルが振り向いた時。
三回目。
「何?」
そう聞かれた時。
「……別に」
「じゃあ何だよ」
「……笑わない?」
カイルが眉を寄せる。
「内容による」
「最低」
それだけで。
涙が出た。
カイルの顔から。
笑いが消える。
「おい、どうした」
「昨日……」
喉が詰まる。
言ったら。
どう思う。
死んだラドが見える。
そんなことを言って。
頭がおかしくなったと思われたら。
カイルまで。
離れたら。
「昨日、ラド兄がいた」
カイルが固まった。
「……は?」
「分かってる!」
リナが先に叫ぶ。
近くにいた数人が振り返る。
「死んだの分かってる! 私もおかしいと思ってる! でもいたの!」
「リナ、声」
「嘘じゃない!」
「嘘って言ってない!」
「だって!」
「言ってねえ!」
カイルが両手を上げた。
リナは。
荒い息のまま。
しばらく何も言えなかった。
「……ほんとに?」
「ああ」
「私のこと、おかしいと思わない?」
カイルは。
困った顔をした。
「ちょっとは思う」
「馬鹿!」
「でも」
カイルの表情が変わる。
「お前が嘘ついてるとは思わねえ」
その一言で。
リナの顔が崩れた。
「……っ」
「泣くなよ」
「泣いてない」
「泣いてる」
「うるさい……」
カイルは。
隣へ座った。
それ以上。
急かさない。
リナは。
途切れ途切れに。
全部話した。
順番も。
何度も崩れた。
同じことも。
何度も言った。
それでも。
カイルは最後まで聞いた。
「じゃあ」
全部聞き終えたあと。
カイルが言う。
「一個だけ確かめよう」
「一個?」
「ラド兄しか知らないこと」
リナが。
少し黙る。
「……私、一人?」
カイルが。
すぐ答えた。
「嫌なら俺もいる」
その瞬間。
胸の奥。
ずっと縮こまっていた場所が。
ほんの少しだけ。
緩んだ。
昨日は。
一人で泣くしかなかった。
今日は。
一人じゃない。
それだけで。
次の一個くらいなら。
確かめられる気がした。
* * *
**二つ目**
三日後。
再び。
ラドの姿をした男が現れた。
夕方。
建物の隙間から差す光が赤い。
リナは水桶を抱えて歩いていた。
ちゃぷ。
歩くたび。
水面が揺れる。
「リナ」
びくっ。
桶が傾いた。
ばしゃっ。
靴へ水が掛かる。
そんなことより。
その声だった。
振り向く。
ラド。
(会いたかった)
その感情が。
先に出た。
次に。
(怖い)
すぐ追いつく。
リナは。
桶を抱えたまま。
男を見る。
「……聞いていい?」
「何」
「私が初めて銃撃った時。覚えてる?」
「ああ」
「何て言った?」
「勝手に触るなって怒った」
胸が跳ねた。
間違ってはいない。
確かに。
怒られた。
「その前」
「前?」
「私が撃って、転んだ時」
男が考える。
一秒。
二秒。
三秒。
「何て言った?」
「昔のことだろ。覚えてない」
指先が冷えた。
出来事は知っている。
でも。
途中を知らない。
あの日。
リナは反動で尻餅をついた。
ラドは。
腹を抱えて笑った。
泣きながら。
『笑うな!』
と怒鳴った。
すると。
『無理だろ、お前今すげえ飛んだぞ!』
そう言って。
さらに笑った。
どうでもいい記憶。
だからこそ。
胸へ引っかかった。
「……違う」
「何が」
「分かんない」
涙を拭く。
「分かんないけど……違う」
男は怒らなかった。
「それでいい」
静かに言う。
「疑え。俺も、ルイスも」
「なんでルイスなの!」
「自分で確かめろ」
「またそれ!」
声が。
狭い道へ響く。
どうして。
この人は。
答えをくれない。
ラド兄なら。
こんな言い方する?
それとも。
自分が。
都合よくラドを覚えているだけ?
「ラド兄なら……そんな言い方しない」
男の眉が動いた。
「じゃあ、どう言う」
その質問が。
嫌だった。
ラドならどう言うのか。
自分から。
教えさせられている気がした。
「……知らない。もう帰る」
水桶を持つ。
腕に力が入らない。
ちゃぷ。
また水がこぼれる。
格好悪い。
でも。
今度は。
逃げるだけでは終わらなかった。
一つ聞いた。
一つ。
違うと思えた。
戻って。
カイルへ話す。
リナは。
「分かんない」
を。
何度も繰り返した。
「言ったこと自体は間違ってないの。だから忘れてるだけかもしれない。私が変なのかもしれない」
「それは知らん」
「カイル!」
「でも」
カイルは。
リナを見る。
「一個じゃ足りねえんだろ」
リナは黙る。
「なら、もう一個」
「また会うの?」
「嫌ならやめる」
怖い。
会いたくない。
でも。
このままの方が。
もっと嫌だった。
「……もう一個だけ」
「じゃあ一個ずつな」
その言葉で。
リナの背筋が。
冷えた。
『一個ずつ確かめろ』
ラドの姿をした男も。
同じ言葉を使った。
また一つ。
気持ち悪いものが増えた。
* * *
**北**
その頃。
RATの北側で。
昔の恨みが動き始めていた。
何年も前に死んだ男の銃が。
突然。
その弟の元へ戻った。
持ってきたのは。
知らない女。
翌日。
顔の半分に火傷のある若い男が現れた。
『RATは中で割れている』
『今なら行ける』
そう吹き込んだ。
さらに別の日。
今度は。
別の男。
顔も。
声も。
年齢も違う。
それでも。
全員が。
同じ方向へ。
北を押した。
北は。
動いた。
* * *
パンッ!
「伏せろ!」
銃声。
馬が暴れる。
ヒヒィンッ!
「右!」
ネミティブの声が飛ぶ。
パンッ!
パンッ!
木箱が弾ける。
バキッ!
リナはしゃがみ込んだ。
頭が。
真っ白になる。
「リナ!」
誰かが呼ぶ。
どこか分からない。
「走れ!」
ネミティブ。
その声だけは。
分かった。
立つ。
足が。
もつれる。
「っ!」
転びかけた腕を。
カイルが掴んだ。
細い身体なのに。
走り出した時の引く力は強い。
「何してんだ!」
「ご、ごめ――」
「謝んな! 走れ!」
ダッ!
カイルが先へ出る。
リナも。
引かれるように走る。
前。
男が飛び出した。
「止ま――」
リナの身体が固まる。
無理。
その一瞬。
カイルが前へ入った。
ドンッ!
肩からぶつかる。
細身の身体全部を。
前へ落とすような当たり方。
男が壁へ叩きつけられた。
「行け!」
「でも!」
「いいから!」
リナは走る。
数歩。
振り返る。
カイルも来る。
その姿を見て。
ようやく。
息が抜けた。
襲撃の被害は。
少なかった。
ルイスが事前に。
「北が動いているかもしれない」
そう伝えていた。
ネミティブが荷を分け。
偵察を置き。
退路も用意した。
そのおかげだった。
拠点へ戻れば。
ネミティブを褒める声が続く。
「荷分けてなかったら終わってたぞ」
「よく気づいたな」
リナは。
少し離れた壁へもたれていた。
膝が。
まだ震えている。
手で押さえても。
止まらない。
自分は。
何もできなかった。
逃げろと言われた。
カイルに助けられた。
それだけ。
「大丈夫?」
横。
ルイス。
「……大丈夫」
「ほんとに?」
「大丈夫って言ってる」
「そっか」
ルイスは。
ネミティブの方へ視線を向けた。
「よかったね」
ネミティブは。
まだ地図を見ている。
「まだ北が動いた理由分かってない」
「調べればいい」
「お前、何で北が動くって思った?」
「最近、知らない顔が何人か北へ出入りしてたから」
リナの膝の震えが。
止まった。
「……何人?」
ルイスが振り向く。
「ん?」
「知らない顔。女いた?」
「いたかも」
「火傷した人は?」
「どうだったかな」
少し考える。
「男なら見た気はするけど」
胸が跳ねた。
女。
火傷した男。
別々の顔。
同じ話。
ラド。
ルイス。
「リナ?」
ルイスが覗き込む。
「顔色悪いよ」
リナは。
一歩下がった。
「平気」
優しい。
その優しさが。
今は。
怖かった。
* * *
**三回**
北へ行こうと思った。
一日目。
入口まで行った。
知らない男が二人立っているのを見て。
帰った。
二日目。
裏道まで行った。
怒鳴り声が聞こえた。
帰った。
三日目。
リナは。
拠点を出る前から。
何度も自分へ言い聞かせた。
行くだけ。
調べるんじゃない。
怖かったら帰る。
逃げてもいい。
それを。
何度も。
何度も。
繰り返した。
夜。
北。
酒。
煙草。
油。
湿った壁。
路地の奥から。
笑い声。
リナは。
壁へ背中をつけた。
冷たい。
心臓だけが。
うるさい。
「……大丈夫」
小さく言う。
誰も。
答えない。
先。
積まれた木箱。
その向こうから。
声がした。
「銃持ってきた女だろ?」
リナの足が止まる。
「何者だよ」
「知らねえ。兄貴のだって言っただけだ」
「火傷のガキは?」
胸が跳ねる。
「そっちは昨日」
「別口か?」
「知らん」
少し。
声が近い。
「どいつもRATが割れてるって同じこと言いやがる」
いる。
本当に。
いる。
女。
火傷した若者。
別の男。
全部。
違う人間。
なのに。
同じ言葉。
もし。
一人が。
顔を変えられるなら。
馬鹿みたいな考えだと思う。
それでも。
死んだラドが。
自分の前へ立っていたことより。
馬鹿げているとは思えなかった。
ミシッ。
木箱が鳴った。
中の声が止まる。
「……誰かいる?」
身体が凍る。
ガタッ。
椅子を引く音。
コツ。
一歩。
コツ。
もう一歩。
逃げなきゃ。
分かっている。
足が。
動かない。
「おい」
木箱の向こう。
近い。
無理。
無理。
無理。
目へ涙が溜まる。
その時。
ガシャーン!!
離れた場所で。
瓶が割れた。
「てめえ何しやがる!」
「はぁ!?」
ドンッ!
何かが倒れる。
木箱の向こうの男が。
振り返る。
「何だ?」
「外だ!」
今。
リナは走った。
ダッ!
木箱の横。
細い道。
「誰かいたぞ!」
見られた。
「やだ!」
走る。
後ろ。
足音。
タッ、タッ、タッ!
速い。
「待て!」
「やだ!」
涙が出る。
右へ。
曲がる。
その先。
壁。
行き止まり。
「嘘……!」
戻る。
足音が近い。
その時。
ガタンッ!!
前方で。
荷車が横倒しになった。
荷が道へ崩れる。
追っ手の足が止まる。
「どけ!」
ほんの。
少し。
隙間。
普通の大人なら。
身体を入れられない。
リナなら。
入る。
身体を横へする。
押し込む。
服が釘へ引っかかった。
ビリッ!
「っ!」
構わない。
抜ける。
前。
男二人が。
殴り合っていた。
「ふざけんな!」
「お前が先だろ!」
人だかり。
その脇。
一人分だけ。
道が空いている。
リナは。
そこへ飛び込んだ。
肩が誰かへぶつかる。
「ごめんなさい!」
走る。
まだ。
走る。
角。
人通り。
ようやく。
壁へ手をついた。
「……っ、は……」
そのまま。
ずるずる。
しゃがみ込む。
追ってこない?
本当に?
怖い。
それでも。
振り返る。
いない。
「怖……」
涙。
鼻水。
顔が。
ぐしゃぐしゃだった。
「怖かった……」
しばらく。
動けなかった。
自分が撒いたんじゃない。
たまたま。
瓶が割れた。
たまたま。
荷車が倒れた。
たまたま。
喧嘩していた。
運が。
良かっただけ。
そう思った。
その夜。
別々の場所で起きた三つの出来事へ。
同じ一人の人間が関わっていたことを。
リナは。
まだ知らなかった。
続き、**「疑う側」からファイル末尾までの統合改修版 2/2**。 :chatgpt-content-reference{index="0"}
**疑う側**
ネミティブは、リナの変化に気づいていた。
帰る時間が遅くなった。
靴に泥が増えた。
以前ならカイルと一緒にいる時間に、一人で外へ出る。
そして。
ルイスを見る時だけ。
ほんの少し。
身体が固くなる。
一度。
何かを隠している。
そう思えば。
次から全部がそう見えた。
視線を逸らす。
返事が半拍遅い。
左手を服の後ろへ隠す。
夜。
足音を殺して廊下を歩く。
今のネミティブには。
そういう小さな違いまで。
嫌というほど見える。
ある日。
リナが部屋へ戻ると。
その後ろからネミティブが入ってきた。
「何持ってる」
リナが振り返る。
「……何?」
「手」
「何で」
「見せろ」
「嫌」
「リナ」
低い声。
胸が縮んだ。
昔なら。
その声へ安心したこともある。
危ない仕事から戻れば。
怒られた。
一人で勝手なことをすれば。
止められた。
今は。
同じ声が。
怖い。
(何で)
ネミティブが。
怖い。
リナは右手を開いた。
何もない。
左手も。
「これでいい?」
ネミティブは答えなかった。
視線が。
部屋へ移る。
次の瞬間。
ばさっ。
布団が捲られた。
「何して――」
ガタッ。
引き出し。
中身。
机。
カラン。
櫛が床へ落ちる。
「やめて!」
ネミティブは止まらない。
「最近何してる」
「何も!」
「嘘」
「なんで!」
「夜出てる。誰と会った」
「……」
「ほら」
その一言で。
目が濡れた。
「なんで……」
ネミティブが手を止める。
「何が」
「なんで私が何言っても、最初から嘘なの?」
「嘘ついてるから」
「全部じゃない!」
声が震えた。
ラド兄がいなくなった。
次は。
ネミティブまで。
自分からいなくなるのか。
「私だって分かんないことあるもん!」
「なら話せ」
リナが。
ネミティブを見る。
「話したら信じる?」
沈黙。
ほんの数秒。
でも。
それで。
十分だった。
「……信じないじゃん」
ネミティブの眉が寄る。
「証拠あれば信じる」
「ないよ!」
涙が落ちる。
「私、お前みたいに全部見つけられない!」
「じゃあ何を信じろって」
リナの顔が。
崩れた。
そっか。
自分じゃ駄目なんだ。
正しく説明できない。
証拠も出せない。
見たものすら。
上手く言葉にできない。
そんな自分の言葉には。
何の価値もない。
「……もういい」
「何が」
「知らない!」
バタンッ!
扉を叩きつける。
廊下を走る。
角まで来て。
壁へ背中をつけた。
息が速い。
涙を拭く。
また出る。
「……馬鹿」
ネミティブへ言ったのか。
自分へ言ったのか。
分からなかった。
* * *
**銃**
「貸して」
カイルが固まった。
夕方。
拠点の端。
武器をまとめていた木箱の前。
カイルの腰には。
いつもの拳銃。
「何を」
リナの視線が。
そこへ落ちる。
カイルの顔が。
すぐ変わった。
「嫌だ」
「まだ何も言ってない」
「銃だろ。嫌」
「お願い」
「何に使う」
答えられない。
リナは。
自分でも。
分からなかった。
ラドの姿をした男へ。
向けるのか。
ルイスへ。
向けるのか。
自分を追ってくる誰かへ。
それとも。
ただ持っていたいだけなのか。
「リナ」
「分かんない」
「は?」
「分かんない!」
カイルが立ち上がる。
細い身体でも。
正面から立たれると。
逃げ道を塞がれたように感じた。
「余計貸せねえよ!」
「じゃあどうすればいいの!」
「何が!」
「また来たら!」
涙が出た。
「またラド兄が来たら!」
「俺呼べよ」
「間に合わなかったら!?」
「逃げろ!」
「逃げられなかったら!?」
「リナ!」
「怖いんだよ!」
声が割れた。
倉庫の隅。
誰かがこちらを見る。
カイルの口が閉じた。
「……怖い」
リナは。
顔を覆った。
銃なんて。
触りたくない。
撃ちたいわけでもない。
でも。
何も持っていない方が。
もっと怖い。
「撃ちたいんじゃない」
指の隙間から。
声が漏れる。
「持ってたいだけ……」
カイルは。
長く黙った。
それから。
腰の拳銃を外す。
金属が。
小さく鳴った。
「使うなよ」
リナが顔を上げる。
「……うん」
「怖くなったら撃つんじゃなくて逃げろ」
「うん」
拳銃が。
手へ乗る。
重い。
冷たい。
持てば安心すると思った。
逆だった。
掌へ重さが来た瞬間。
撃てる。
という事実まで。
一緒に来た。
余計に。
怖くなった。
それでも。
返せなかった。
* * *
**市場**
人。
声。
魚。
布。
肉。
果物。
呼び込み。
「安いよ!」
「こっち見てけ!」
ざわ、ざわ、と。
市場全体が鳴っている。
リナは。
その中を歩いた。
服の下。
腰へ。
カイルから借りた銃。
歩くたび。
硬い感触が身体へ当たる。
向かう先は。
ラドの姿をした男から指定された。
旧RAT倉庫。
(帰りたい)
何度も。
思う。
今なら。
戻れる。
カイルへ返して。
ネミティブへ全部話して。
怒られて。
泣いて。
終わりにすればいい。
でも。
また。
誰かに決めてもらう。
それをしたら。
自分はずっと。
何も分からないままになる。
背後。
足音。
リナの耳が拾った。
右へ曲がる。
後ろも。
曲がる。
胸が速くなる。
気のせい。
そう思って。
振り返る。
男。
目が合った。
「……っ」
男が。
すぐ視線を外した。
歩く。
リナも歩く。
少し。
速く。
後ろも。
速くなる。
「やだ……」
走った。
人へぶつかる。
「おい!」
「ごめんなさい!」
荷車の横。
人の隙間。
後ろ。
足音。
近い。
「待て!」
「やだ!」
涙が出る。
角。
右。
階段。
下。
タッ!
タッ!
タッ!
湿った石。
靴が滑る。
「っ!」
壁へ手をつく。
後ろ。
来る。
その時。
階段の上。
「てめえ!」
ガンッ!
怒鳴り声。
荷車が。
横倒しになった。
「うわっ!」
積荷が崩れる。
人が集まる。
追ってきた男との間を。
塞ぐ。
(今!)
リナは。
壊れた扉へ飛び込んだ。
ギィッ!
暗い。
狭い通路。
抜ける。
向こう。
別の通り。
光。
人。
走るのをやめる。
でも。
呼吸は戻らない。
人混みへ。
紛れる。
追ってきた男が。
少し先を通り過ぎた。
こちらへ。
気づかない。
リナは壁へ手をついた。
「……助かった」
また。
都合よく。
道が開いた。
北でも。
そうだった。
瓶が割れた。
荷車が倒れた。
喧嘩が始まった。
今日も。
同じ。
(なんで)
偶然。
そう思いたかった。
今は。
それ以上。
考えたくなかった。
* * *
**旧倉庫**
鉄。
錆。
埃。
風。
カタ……。
カタ……。
天井から吊られた古い布が揺れている。
昔。
RATがまだ小さかった頃。
何度か荷を置いた倉庫。
今では。
ほとんど使われない。
リナは。
一人で待っていた。
服の下。
銃。
片手は。
ずっとそこへ触れている。
(帰れる)
入口。
見る。
(まだ帰れる)
一歩。
入口へ向かう。
カイルに頼ればいい。
ネミティブに全部話して。
怒られて。
終わりにしてもいい。
コツ。
足音。
身体が止まる。
ギィィ……。
扉。
開く。
男が入ってくる。
ラド。
「来たよ」
その一言で。
用意していた質問が。
全部飛んだ。
「……ラド兄」
会いたかった。
胸が。
痛い。
本物ならいい。
本物なら。
ここ数日の全部が間違いでもいい。
自分が馬鹿だっただけで。
いい。
一歩。
近づく。
「ほんとに……本当にラド兄なの?」
男が笑った。
「何回聞くんだよ」
似ている。
顔。
声。
笑い方。
信じたい。
だから。
確かめる。
「じゃあ……左耳」
男が傷へ触れる。
「これ?」
「ついた日」
リナの喉が鳴る。
「私たちに何て言った?」
「気にすんな」
胸の奥で。
何かが。
落ちた。
違う。
あの日。
血を流しながら。
ラドは笑った。
『これで女にモテるな』
リナは。
こんな時に何を言ってるんだと。
怒った。
「……違う」
「昔だろ」
「違う」
「リナ」
「じゃあネミティブに何て言った!?」
声が。
倉庫へ響く。
「傷触りながら!」
男の目が動く。
ほんの。
僅かに。
「心配すんな」
涙が。
溢れた。
「違う!」
「リナ」
「違う!」
お願いだから。
もう一個くらい。
当てて。
本物だと思わせて。
自分が間違っていたと。
言わせて。
でも。
答えは。
違った。
リナは銃を抜いた。
カチッ。
両手が。
震える。
銃口も。
定まらない。
「来ないで!」
男が。
銃を見る。
「お前、それ」
「来ないで!」
「落ち着け」
「その言い方も嫌!」
涙で。
前が滲む。
「ラド兄そんな言い方しない!」
「リナ」
「お願いだから……もう近づかないで……!」
男は止まった。
ラドの顔。
なのに。
違う。
その瞬間。
もう一つの答えまで。
一緒に来た。
この男が。
ラドじゃないなら。
ラドは。
本当に死んだ。
もう。
二度と。
帰ってこない。
信じたくなかった答えを。
自分で選ぶしかなかった。
「お前……」
声が。
掠れる。
「誰なの……?」
* * *
**カイル**
約束の時間を過ぎても。
リナが戻らなかった。
カイルは。
最初。
いつもの遅刻だと思った。
少し待った。
さらに。
待った。
来ない。
拠点を飛び出した。
知っている場所。
水場。
市場。
裏路地。
北へ続く道。
全部。
いない。
最後に。
ネミティブを見つけた。
「兄貴!」
ネミティブが振り返る。
「何」
「リナがいない!」
顔が。
変わった。
「どこ行った」
「分かんねえ!」
「何で分かんねえんだよ」
「俺だって!」
息が。
切れている。
言いづらい。
でも。
言わない方がまずい。
「でも……銃持ってる」
ネミティブの顔が止まった。
「誰の」
カイルは。
目を逸らす。
「……俺の」
「どこ」
「多分」
息を整える。
「旧倉庫」
次の瞬間。
二人は走っていた。
* * *
**一秒**
旧倉庫へ近づく。
錆びた壁。
割れた窓。
風に揺れる。
古い鉄板。
中から。
声。
『来ないで!』
リナ。
泣いている。
ネミティブの速度が上がった。
その次。
別の声。
『リナ、まず落ち着け』
足が。
止まった。
ラド。
カイルも。
息を呑む。
ネミティブの胸が。
強く鳴る。
違う。
ラドなら。
そんな綺麗な言い方はしない。
倉庫の壁。
隙間。
中を覗く。
いる。
ラド。
本当に。
ラドの顔。
ラドの身体。
リナは。
その正面で。
銃を向けている。
両手が。
震えている。
「兄貴」
カイルが小さく呼ぶ。
「黙って」
中。
リナの声。
「左耳の傷!」
男が答える。
「だから覚えてるって!」
「そのあとネミティブに何て言った!?」
沈黙。
ネミティブは。
覚えている。
血を流していたラド。
耳へ触れる。
笑う。
そして。
『お前の方が痛そうな顔してんじゃねえよ』
男が答えた。
「心配すんなって言った」
違う。
ネミティブの手が。
扉へ伸びる。
ギィィ……。
「ネミティブ!」
リナが振り向いた。
顔は。
涙でぐしゃぐしゃだった。
ネミティブは。
男を見る。
「左耳」
「またそれかよ」
「俺に何て言った」
男は。
少し苛立った顔。
「心配すんな」
違う。
でも。
それだけでは。
証拠にならない。
忘れている。
勘違い。
何とでも言える。
リナが叫ぶ。
「ほら!」
「まだ」
「まだ!?」
「確認してる」
「何個間違えたら信じるの!」
男が。
一歩。
動いた。
リナの銃口が。
跳ねる。
「動かないで!」
「リナ、下ろせ」
「嫌!」
「下ろせ」
「嫌!」
男が。
ほんの僅か。
横。
吊り布の方向へ寄る。
リナが追う。
「動かないでって言ってるでしょ!」
その瞬間。
ガタンッ!!
棚。
倒れる。
ばさっ!
天井から吊られていた布が。
大きく舞った。
ネミティブの視界。
白い布。
一瞬。
切れる。
一秒。
たった。
一秒。
その隙間。
リナだけが。
見た。
ラドの輪郭が。
揺れる。
頬。
鼻。
目。
髪。
顔が。
別の形へ。
崩れていく。
「――っ!」
布が落ちる。
そこに。
ラドはいなかった。
ルイス。
「……は?」
ネミティブが止まった。
「今!」
リナが叫ぶ。
「今変わった!」
ルイスは。
混乱した顔を作る。
「何言ってるの?」
「黙って!」
「リナ」
ネミティブの声が低くなる。
「俺は見てない」
リナの顔が。
崩れた。
「一秒だよ!」
「棚で」
「一秒!」
「分かってる」
「じゃあ!」
「変わるところは見てない」
「でもラドいたでしょ!」
「いた」
「今ルイスいるじゃん!」
「……ああ」
「じゃあ何で!」
ネミティブにも。
説明できない。
リナが正しい?
でも。
自分は。
見ていない。
見ていないものを。
正しいと決めるのか。
欠けた。
一秒。
信じるには。
足りない。
疑うには。
十分。
まるで。
誰かが。
その量だけを。
選んだように。
* * *
**一回だけ**
「ネミティブ……」
リナは泣いていた。
銃も。
まともに持てていない。
「お願い。一回だけ」
ネミティブが見る。
「何」
「一回だけ」
涙を拭く。
「私のこと信じて」
ネミティブは。
答えない。
「私、間違ってるかもしれない」
「……」
「私、頭よくないし。怖いし。もう何が本当かも分かんない!」
本当は。
今すぐ銃を捨てたい。
カイルの後ろへ隠れたい。
誰かに。
全部決めてほしい。
でも。
それをしたら。
また。
誰かが。
自分の代わりに決める。
リナは。
ルイスを見る。
「でも」
次に。
ネミティブ。
「見たの」
震える声。
それでも。
逸らさない。
「だから少しだけ……私にも決めさせてよ」
ネミティブの中へ。
別の言葉が蘇る。
『大丈夫だから』
待った。
任せた。
父。
母。
死んだ。
ラド。
一秒。
遅れた。
死んだ。
「……駄目だ」
リナの口が。
少し開く。
「なんで……」
「また起きる」
「何が」
「分かってたのにって」
「今回違うよ!」
「違わない」
「違う!」
ネミティブは。
自分の目を信じる。
「俺が見てる」
リナが。
叫んだ。
「じゃあ一緒に見てよ!」
声が。
古い倉庫へ響く。
「全部任せろなんて言ってない!」
一歩。
「私が見るから、お前も見ててよ!」
ネミティブの身体が。
一瞬。
止まった。
届きかけた。
その時。
ルイスが。
ほんの僅かに。
重心を変えた。
リナの身体が。
びくりと反応する。
「動かないで!」
銃口が。
追う。
ネミティブの身体も。
同時に動く。
危険。
兆候。
見えた。
今度こそ。
遅れる前に。
止める。
* * *
**選ばせない**
「カイル。入口塞げ」
カイルが振り返る。
「誰を」
「全員」
「兄貴」
「塞げ」
「なんで」
ネミティブの視線が。
カイルへ向く。
「お前は銃渡した。俺に隠した」
カイルの顔が変わる。
「もう判断する側じゃない」
「何それ」
リナが声を上げた。
ネミティブは。
今度はリナを見る。
「銃置け」
「嫌」
「リナ」
「嫌!」
「今のお前に持たせない」
「誰が決めたの」
ネミティブは。
迷わない。
「俺」
リナの目から。
また涙が落ちる。
それでも。
銃は下ろさない。
「私のだよ!」
「関係ない」
「ある!」
「必要ない」
「私が決める!」
ネミティブの声が。
低くなる。
「今は俺が決める」
「なんで!」
「これ以上やったらお前が壊れる!」
リナの口が開いた。
「……私が?」
「ああ」
「もう怖いよ!」
声が裏返る。
「もうずっと怖い!」
「だからやめろ!」
「怖いからって!」
リナが。
銃を握ったまま。
一歩。
前へ。
「私が何していいかまで、お前が決めるの!?」
「ああ」
即答。
リナが。
止まった。
「……私が嫌って言っても?」
「ああ」
「泣いても?」
「ああ」
「お前のこと嫌いになっても?」
ネミティブは。
そこで初めて。
黙った。
嫌だ。
嫌われたくない。
リナにも。
カイルにも。
誰にも。
でも。
生きている方が。
いい。
自分が悪者になればいい。
それで。
死なないなら。
「……ああ」
リナの顔が歪んだ。
「馬鹿……」
入口。
カイル。
「兄貴」
ネミティブが見る。
「それ、ラド兄と違う」
「何が」
「ラド兄も俺らを止めた」
カイルの声にも。
迷いがある。
それでも。
言う。
「でも最後は俺らに決めさせてた」
「だから死んだ」
即答だった。
リナが叫ぶ。
「違う!」
「俺が撃った!」
ネミティブの声が。
倉庫へ響いた。
「俺が間違えた! ラド死んだ!」
胸の中。
血。
銃声。
何度も。
戻る。
「だから今度は、俺が間違えないようにする!」
普通なら。
間違えた。
だから。
一人で決めない。
そうなるはずだった。
ネミティブは。
逆へ行った。
俺が間違えた。
なら。
次は。
もっと。
俺が正しくならないといけない。
「俺だって全部分かるわけじゃない」
息を吸う。
「間違える。でも」
リナ。
カイル。
ルイス。
順番に見る。
「少なくとも、今のお前らより俺の判断の方が正しい」
言った。
リナは。
しばらく黙っていた。
「……分かんないよ」
「何」
「お前が正しいかなんて、私には分かんない」
涙が落ちる。
「私が正しいかも分かんない」
カイルを見る。
「カイルだって間違える」
また。
ネミティブ。
「みんな間違えるじゃん!」
「だから俺が――」
「でも!」
声が裂ける。
「間違えるのまで取らないでよ!」
ネミティブが。
止まった。
リナは。
ずっと怖かった。
誰かがいなくなるのが。
怖かった。
だから。
何も決めたくなかった。
誰かに決めてもらえば。
楽だった。
でも。
それで。
ラドが戻るわけじゃない。
何も見なくて済むわけでもない。
「私が間違えるのも!」
一歩。
足は。
震えている。
「私が怖がるのも!」
もう一歩。
「私が決めたい!」
「リナ」
「ずっと誰かいなくなるの怖かった! だから何もしたくなかった!」
呼吸。
震え。
涙。
全部。
止まらない。
それでも。
前へ出る。
「でも、それでも……!」
ルイスが。
ほんの少し。
横へ動いた。
リナの銃口が追う。
「動かないで!」
「リナ!」
「私も見て!」
涙で濡れた目が。
ネミティブへ向く。
「こいつだけじゃなくて、私も見てよ!」
ルイス。
半歩。
ネミティブには。
逃げるように見えた。
リナが追う。
銃が揺れる。
撃つかもしれない。
危険。
今。
止める。
「リナ!」
最後の警告。
リナが振り返った。
涙で濡れた目。
銃口。
僅かに揺れる。
ネミティブの指が。
動いた。
パンッ!!
* * *
**怖い**
乾いた音が。
倉庫を叩いた。
リナの身体が。
小さく跳ねる。
「……え」
手から。
銃が落ちた。
カランッ。
胸から脇へ。
赤が。
じわりと広がる。
一歩。
後ろ。
足から。
力が抜けた。
ドサッ。
「リナ!」
カイルが走る。
ネミティブは。
動けない。
止めるつもりだった。
銃を。
下ろすだけ。
それだけだった。
「……リナ?」
ようやく。
身体が動く。
膝を床へつく。
抱き起こす。
リナの身体は。
軽い。
こんな時に。
そんなことが。
分かった。
呼吸。
浅い。
「っ……」
吸おうとしている。
でも。
入らない。
「おい」
傷を押さえる。
血。
温かい。
指の間から。
滲む。
「おい!」
「布!」
カイルが。
自分の服を掴む。
ビリッ!
破る。
押し当てる。
リナの身体が。
震えた。
「……やだ」
ネミティブが止まる。
「何」
「やだ……」
涙。
「怖い……」
痛い。
息ができない。
嫌。
まだ死にたくない。
ここで。
終わりたくない。
リナの顔が。
全部。
そう言っていた。
「大丈夫」
ネミティブの口から。
言葉が出る。
リナは。
苦しそうに。
首を振った。
「……分かんない」
「大丈夫だから」
「分かんないって……」
涙が。
頬を伝う。
「私……死にたくない……」
ネミティブの手が震える。
「死なねえ!」
「怖い……」
「大丈夫!」
リナは。
また。
首を振った。
そして。
小さく。
言った。
「決めないで……」
ネミティブの顔が止まる。
「……何」
リナは。
息を吸おうとする。
上手く。
入らない。
それでも。
言う。
「私が……怖いって、言ってんだから……」
胸。
上下。
浅い。
「大丈夫って……勝手に……決めないで……」
ネミティブは。
何も言えなかった。
リナの目が。
横へ動く。
ルイス。
「……見て」
ネミティブが答える。
「いる」
「違う……見て……」
ネミティブは。
ルイスを見る。
普通。
心配そうな顔。
何もしていない。
何も。
その瞬間。
口元。
ほんの。
僅かに。
上がった。
笑った。
ように。
見えた。
「……お前」
次には。
もう。
普通だった。
「何?」
ルイスが。
首を傾げる。
リナが。
小さく息を吐いた。
「……ほら」
ネミティブが。
リナを見る。
「何が」
返事。
ない。
「リナ?」
カイルが。
顔を覗き込む。
「リナ」
返事はない。
「おい」
ネミティブが。
肩へ触れる。
「リナ」
動かない。
「……おい」
倉庫は。
静かだった。
カタ……。
カタ……。
風に。
古い鉄板が鳴る。
ネミティブの手は。
赤い。
ラドの時と。
同じ色だった。
「……違う」
声が。
小さい。
「止めただけ」
誰へ言っているのか。
自分でも。
分からない。
自分が止めなかったら。
リナが撃ったかもしれない。
ルイスが逃げたかもしれない。
何か。
起きたかもしれない。
全部。
かもしれない。
今。
起きたことは。
一つだけ。
リナが。
動かない。
それだけが。
確定している。
なのに。
頭の中では。
もう。
逃げ道が作られ始めていた。
危なかった。
止める必要があった。
俺しか。
できなかった。
その隣。
別の声だけが。
残る。
『私も見てよ』
そして。
『決めないで』
ネミティブは。
ゆっくり。
ルイスを見る。
今度は。
さっきまでとは。
違う目で。
ルイスは。
静かに。
そこにいた。
何も。
言わない。
リナが。
命懸けで見つけたものを。
今度は。
ネミティブ自身が。
確かめる番だけが。
残った。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
「一回だけ、私のこと信じて」
怖くても、間違っているかもしれなくても、
それでも自分で見て、自分で決めようとしたリナ。
そして、彼女が最後に残したもの。
ネミティブ自身が、それを確かめる番が残りました。
次章へ続きます。




