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『KillerWorld ―七つ目の答え―』  作者: ザクロ
ネミティブ編

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第二章 ネミティブ編 ― 傲慢 ― 数年後

あれから、数年。


生きるために人を見ることを覚えた少年は、

もう、ただ守られるだけの存在ではなくなっていた。


RATも、ラドも、そしてネミティブ自身も変わっていく。


それでも、変わらず残っているものがある。


第二章「数年後」、始まります。



数年後


数年が経った。


ヴァルガ南部自治圏の古い地区は、その間にも少しずつ形を変えていた。


閉じた工場が再び動き出したわけではない。錆びた鉄骨はさらに赤黒くなり、割れた舗装には新しい亀裂が増えた。それでも人は残り、空いた倉庫には別の商売が入り、塞がった道には誰かが板を渡した。


直らないなら、そのまま使う。使えないなら、別の用途を見つける。


人間も似たようなものだった。


腹を満たすために市場からパンや果物を盗んでいた子どもたちは、いつしか盗品を流し、違法ドラッグを運び、武器を横流しするようになっていた。金を払わない相手へ脅しを掛けることもある。縄張りを巡って別の組織とぶつかれば、拳だけで終わるとは限らない。


時には、人も死ぬ。


その日の仕事は、貧困街の西端にある倉庫から違法ドラッグを受け取り、街の反対側にいる取引相手まで運ぶことだった。


今のRATでは、それほど珍しい仕事ではない。


だが、軽い仕事でもなかった。


荷を奪われれば金を失うだけでは済まない。取引相手へ届かなければ、どこで止まったのか、誰が失敗したのか、必ず追われる。途中で別の組織に見つかれば、その場で銃が抜かれる可能性もある。


だから古い建物の陰へ集まった少年たちは、いつもより近い位置で輪を作っていた。


頭上では二階同士を結んだ洗濯紐が風に軋み、薄汚れた布がばさりと膨らむ。その影が壁を横切るたび、人が動いたように見えた。


カチャ。


一人が腰の拳銃を押さえる。隣では別の少年が上着の下へ指を入れ、刃物の位置を確かめた。


誰かが生唾を飲み込む。


ごくっ。


少し離れれば市場の怒鳴り声も、荷車の車輪も聞こえている。それでも、この輪の中ではその喉の音まで拾えた。


誰も怯えた顔はしていない。


だが、誰も笑ってはいなかった。


ネミティブも上着の内側へ手を滑らせた。指先へ硬い感触が返る。


拳銃。


そこにある。


確認するだけで手を離す。腰には短刀も一本差してある。


必要にならなければ、それでいい。


必要になった時には、探している暇はない。


そこまで考える自分にも、もう違和感はなかった。


幼い頃の骨ばった身体は消えている。狭い路地を走り、壁を登り、荷を抱え、人と殴り合ってきた身体には、余計な厚みのない筋肉がついた。


大柄ではない。


だから人混みへ身体を滑らせる時も、壁と荷車の隙間を通る時も、自分の肩幅が邪魔になることは少ない。


黒髪は目へ掛からない程度で雑に切っている。擦れた暗い上着の下には、肩から胸へ伸びた古い傷が残っていた。


誰にも見せない。


傷だけではない。


恐怖も。迷いも。


背中を丸めない。先に目を逸らさない。声は低く、言葉は短くする。必要なら荒く言う。


怖くないからではない。


怖いと思われないためだ。


この街では、弱そうな奴から使われる。迷っている奴は判断を奪われ、声の小さい奴は押し切られる。


何年も人を見てきた。


何度も同じことが起こるのを見てきた。


だから、自分の立ち方も、喋り方も変えた。


少し離れたところでは、ラドが片膝をついて石畳へ簡単な地図を描いていた。


ガリ、ガリ。


木の棒が石を擦る。


ラドも、ネミティブを拾った頃の少年ではない。


立てばネミティブより頭一つ近く高い。日に焼けた身体には厚みがあり、片膝をついているだけでも周囲の少年より場所を取る。


左右の長さが揃っていない黒髪。左耳の上には昔からある切り傷。肘と肩へ違う布を縫いつけた上着。


その内側には拳銃。


腰には、何年も使い続けている傷だらけの刃物。


何度か新しいものへ替えろと言った。


そのたびラドは刃を抜き、光へ傾ける。


「まだ切れる」


そう言って笑った。


昔から、そういう奴だった。


ネミティブを拾い、食わせ、仕事を教え、失敗しても殴らなかった。


今でも兄貴分。


少なくとも、ネミティブの中ではまだそういう位置にいる。


ラドが石畳へ引いたのは三本の線だった。


市場へ抜ける東。


建物の隙間を縫う西。


途中で二手へ分かれる南。


その周囲をRATの少年たちが囲んでいる。


誰かの膝が小刻みに揺れ、靴底が石へ、こつ、こつ、と当たった。別の一人は何度も路地の入口を見る。


つう、と少年のこめかみを汗が流れた。


誰も拭わない。


周囲には、いつもの貧困街があった。


崩れかけた建物。割れた窓へ押し込まれた布。扉の代わりに立て掛けられた板。


黒ずんだ水の溜まった石畳には、腐った野菜の切れ端や紙屑が浮いている。


軒下では毛布一枚に包まれた男が眠り、少し先では裸足の子どもが鉄くずを拾っていた。


焚き火の煙。下水。酒。腐った食べ物。どこかの裏工房から流れてくる薬品臭。


全部が混ざり、鼻の奥へ張りついている。


壁際では盗品らしい時計や金具が並び、その数歩先では女が鍋を火へ掛けていた。


生活と犯罪が、同じ道の上にある。


誰もRATをじろじろ見ない。見ても、すぐに目を逸らす。


見ない。聞かない。関わらない。


それも、この街で生きる方法だった。


ネミティブは石畳の地図を見る。


東。


西。


南。


その上へ、昨日見た景色を重ねた。


東の道。


昨日は男が二人いた。


今日は三人。


服は変えている。立つ位置も少しずれていた。


それでも、歩幅が同じだった。


通行人へ目を向ける時も、三人とも首だけを似た角度で動かしている。


胸の奥で心臓が鳴った。


見落としていないか。


別人ではないのか。


もう一度、昨日の道を頭の中で歩く。


違う。


東は駄目だ。


「東は捨てろ」


低く言った。


ガリッ。


ラドの木の棒が止まる。


少年たちの顔が一斉にネミティブへ向いた。


ラドも顔を上げる。


「東?」


声は軽い。


だが、目は笑っていなかった。


ネミティブは地面の線を指した。


「昨日から同じ奴が二人いた。今日は三人いる。服は変えてるけど、歩幅と立ち位置が同じだ」


すぐ横で、小石を弄っていた靴先が止まった。


カイルだった。


ネミティブより二つほど年下。短い赤茶色の髪には強い癖があり、何度直してもどこかが跳ねる。鼻の頭には薄いそばかすがあり、笑えば右の犬歯だけ少し尖って見えた。


細身だ。


けれど脚は強い。


立っている時でさえ重心が少し前にあり、走らせればRATでもかなり速い。


何年もネミティブの近くについて回り、いつの間にか弟分のような存在になっていた。


本人が勝手に「兄貴」と呼び始めた。


何かあれば最初にネミティブへ聞く。何かできるようになれば、真っ先に見せに来る。


周囲も、それを普通のこととして扱うようになった。


今日は腰に小型のナイフ。


危険な仕事だから、拳銃も持たされている。


「見張りか?」


「ああ」


「どこの?」


「分からねえ」


ネミティブは即答した。


「だから余計に使わねえ」


カイルの顔から、わずかに力が抜ける。


分からない相手。


それが一番面倒だ。


目的も、人数も、誰を狙っているのかも分からない。


そんなところへ違法ドラッグを抱えて入る理由はない。


カイルの右手が腰へ下がった。


カチャ。


拳銃へ指が触れる。


「触んな」


指が止まる。


「え?」


「まだ抜くな」


カイルはゆっくり手を離した。


「……分かった」


ごくっ。


喉が鳴る。


緊張している。


本人は隠せているつもりらしい。


ネミティブは何も言わなかった。


怖い。


当然だ。


自分の心臓も同じように鳴っている。


背中を汗が一筋流れた。


服の内側を滑る感触だけが妙にはっきり分かる。


それでも顔は変えない。


「ラド兄は?」


別の声が入った。


ラドの隣に立っていたリナだった。


カイルとほとんど同じくらいの年。肩より少し長い焦げ茶色の髪を、仕事の時だけ後ろで雑に束ねている。


小柄だ。


他の連中が一歩で跨ぐ瓦礫に一度足を掛ける代わり、人一人分もない隙間へ身体を滑り込ませるのは速い。


大きな目には感情がそのまま出た。


腰には小さな刃物。上着の内側には、今日だけ持たされた拳銃。


ネミティブが仕事を教え、危険なら止め、失敗すれば叱る。


立ち位置でいえば妹分に近い。


リナ自身も困ればネミティブを頼る。


だが、一番憧れているのはラドだった。


怪我人を見れば誰より早く寄り、余った食べ物は年下へ渡す。


そういうところまで。


少しラドに似ている。


「東って言ったじゃん」


リナがラドを見る。


ラドは木の棒を肩へ担いだ。


「言ったな」


「どうするの?」


「どうしようかなあ」


わざとらしい。


普段なら、そこで誰かが笑う。


今日は誰も笑わなかった。


リナの眉間だけが寄った。


「真面目にやって」


「やってるって」


ラドは笑った。


口元だけ。


目尻は下がらない。


「で、ネミティブ様は西だって?」


リナの表情がすぐ変わった。


「その言い方やめなよ」


ラドが肩をすくめる。


「何だよ。褒めてんじゃん」


「顔が笑ってない」


ラドの眉が、ほんの一瞬だけ動いた。


ネミティブもそこを見ていた。


最近、こういう笑い方が増えた。


「ラド」


視線がこちらへ来る。


「何だよ」


「東で行きたいなら理由出せ」


こつ。


カイルの靴が止まる。


リナも黙った。


「理由?」


「ああ」


ラドは木の棒の先で、東の線を軽く叩いた。


「お前より長くこの辺見てるから、とかじゃ駄目?」


軽く言う。


昔なら、それで引いていたかもしれない。


年上。


自分を拾った人間。


RATを知っている人間。


だから、自分より正しい。


昔はそう考えた。


今は違う。


「駄目だ」


ラドの口元が止まった。


「今の状況に年数は関係ねえ。東に三人いる。西なら抜け道が二本残ってる。それ以上あるなら言え」


風が止まり、頭上の布も動きを止めた。


急に路地が狭くなったように感じる。


胸が鳴る。


それでもネミティブはラドから目を逸らさなかった。


ラドの指が木の棒を強く握る。


カリッ。


先端が石を擦った。


「……ねえよ」


ラドが先に視線を外した。


ネミティブは西を指す。


「なら西だ」


「了解」


カイルがすぐ頷いた。


その瞬間。


ガシャン!


遠くで何かが割れた。


カイルの肩が跳ねる。


リナの手が上着へ入る。


カチャ。


拳銃へ指が掛かった。


ラドは片膝の姿勢から一気に立ち上がる。


身体に厚みがある分、その影だけで一人増えたように見えた。


ネミティブも反射的に上着へ手を入れかける。


止める。


悲鳴。


ない。


走る足音。


ない。


怒鳴り声。


ない。


一拍。


誰かの喉が鳴る。


もう一拍。


関係ない。


「ただの物音だ」


低く言った。


リナの手が銃から離れる。


カイルも息を吐いた。


ラドは音の方向を一度だけ見てから、地面の地図を靴底で消した。


ザッ、ザッ。


ラドの体重が乗るたび、石へ引いた線が潰れていく。


「残すなよ」


周囲が頷く。


ネミティブは立ち上がった。


「行くぞ」


その一言で、全員が動いた。


* * *


西の道


西へ入ってから、会話はさらに減った。


湿った石畳を靴が叩く。


カイルの足音は軽い。


荷を抱えた連中は、それより重い。


最後尾のラドだけは、一歩ごとに低い音が混じる。


同じRATでも、聞けば誰がどこにいるか、ネミティブには大体分かった。


左右には今にも崩れそうな家が並び、二階から二階へ渡された紐には洗濯物が何枚も吊るされている。


風。


ばさっ。


布が膨らみ、壁へ人型の影を作る。


カイルの顔がそちらへ動いた。


影だけ。


すぐ前を見る。


裸足の子どもが路地を横切る。壁際では女が鍋を火へ掛け、その数歩先では酔いつぶれた男が眠っている。


RATが違法ドラッグを運んでいるすぐ横で。


いつもの生活が続いていた。


荷は三つ。


一人が捕まっても、全部失わないよう分けてある。


カイルが少し前。


身軽で脚が速い。異常があれば先に見つけ、走らせれば最初に抜けられる。


リナは中央。


小柄な身体なら、荷と人の間が詰まっても動ける。


ラドは後方。


大きな身体は狭い路地では速度を落とす。


代わりに後ろから来る相手へ向けば、一人分以上の壁になる。


その配置を決めたのはネミティブだった。


昔なら。


ラドが決めていた。


ネミティブは歩きながら視線を動かす。


二階の窓。


屋根。


積まれた木箱。


開いた扉。


壁と壁の隙間。


路地の奥。


光。


影。


人間が隠れられる場所を拾う。


角が近づく。


ネミティブが片手を上げた。


ザッ。


後ろの足音が一斉に止まる。


ただ、ラドだけは身体が大きい。


最後の一歩を殺し切るまで、靴底が半歩ほど石を擦った。


カイルが振り返る。


リナの大きな目もネミティブへ向く。


最後尾のラドだけは、一度背後を確かめてからこちらを見る。


ネミティブは壁際へ寄った。


肩を当てない。


擦れば音がする。


身体を僅かに出す。


角の先。


男が一人。


壁へもたれ、煙草を咥えている。


それだけなら、この街では珍しくない。


だが。


煙草の先に灰が長く残っていた。


ほとんど吸っていない。


男も通行人を見ていない。


同じ路地の入口ばかり追っている。


待っている。


まだ断定しない。


反対側。


閉じた窓。


その下。


泥。


靴跡。


新しい。


一人分ではない。


さらに。


サッ。


二階のカーテンが、ほんの少しだけ動いた。


奥に人の輪郭。


すぐ消える。


道路の男だけではない。


「……戻る」


声を落とした。


カイルの眉が上がる。


「何かいたのか?」


「前に一人。上にもいる。多分、路地の中にも隠れてる」


ラドが前へ出てくる。


その一歩だけで、後ろにいた少年が身体を避けた。


「俺には一人しか見えねえぞ」


「だから駄目なんだよ」


「何?」


ネミティブは泥を顎で示す。


「一人しかいねえのに、足跡が多すぎる」


ラドの目が泥へ動く。


数秒。


「……確かにな」


「戻るぞ」


ネミティブが身体を引く。


カイルもゆっくり下がった。


リナも合わせる。


走れば。


気づいたと教える。


まず距離。


静かに。


一歩。


二歩。


三歩。


ラドも歩幅を小さくする。


普段の幅で歩けば、他より先に離れすぎる。


カイルは逆に、いつでも走り出せる身体を抑えるように足裏を静かに置いた。


壁へもたれていた男が煙草を口から外す。


視線。


こちら。


ネミティブは気づかないふりをする。


四歩。


五歩。


このまま角を戻れればいい。


「おい」


背後。


全員の身体が僅かに固くなる。


止まらない。


「お前ら」


ザッ。


男が壁から離れた。


カイルの手が腰へ落ちかける。


「まだだ」


指が止まる。


「何で戻る?」


声が近づく。


ネミティブの背を汗が流れた。


やっぱり。


こちらを見ていた。


偶然そこにいた男ではない。


道を変えたことで。


向こうにも、見破ったと伝わった。


「そのまま歩け」


前だけを見る。


一歩。


また一歩。


背後。


ザッ。


別の足音。


右の細い路地から一人。


ガタン。


建物の入口。


もう一人。


暗がりから、人の影が剥がれるように出てくる。


カイルが小さく息を飲んだ。


「兄貴」


「前見ろ」


四人。


最低でも。


待ち伏せ。


誰を狙っていたか。


もう関係ない。


こちらを止めようとしている。


それだけで十分だ。


「止まれ」


低い声。


命令。


ネミティブは角までを見る。


十歩ほど。


「止まれって言ってんだろ!」


背後の足音が速くなる。


追ってきた。


ここで初めて、ネミティブも歩調を上げる。


「カイル」


「分かってる」


荷を抱え直す。


細い身体の重心が前へ沈んだ。


リナも唇を結び、荷へ身体を寄せる。


ラドの手が上着へ入る。


カチャ。


「まだ抜くな」


ラドが横目を向けた。


「向こうが抜いたら?」


「その時だ」


角まで。


六歩。


五歩。


「荷置いて止まれ!」


目的が分かった。


荷。


違法ドラッグだと知っているか。


少なくとも、価値があるものとは分かっている。


四歩。


三歩。


背後。


カチッ。


拳銃。


頭の中で判断が決まった。


「走れ!」


全員が弾けた。


カイルが一番に飛び出す。


リナが続く。


荷を持った少年たち。


ラドは後ろ。


ネミティブはその間。


「止まれ!」


追っ手の足音も一気に増えた。


角。


ネミティブが振り返る。


男の一人が拳銃を上げている。


まだ狙いは定まっていない。


「伏せろ!」


パンッ!


銃声が狭い路地へ弾けた。


リナが頭を下げる。


弾丸が壁へ当たる。


バキッ!


石片が白く散った。


警告ではない。


当てるつもりだ。


「走れ!」


ネミティブも拳銃を抜く。


手の中へ重さ。


指先が冷える。


怖い。


だが。


次が来る。


殺す必要はない。


止めればいい。


男ではなく、その手前の石壁へ銃口を向ける。


パンッ!


バキッ!


追っ手の目の前で石が弾けた。


男たちが反射的に足を止める。


ほんの一瞬。


それでいい。


「右!」


カイルが角へ飛び込む。


リナ。


荷。


ネミティブ。


最後にラド。


全員いる。


「二本目行く!」


さらに狭い抜け道。


ネミティブは正面を向いたまま身体を少し横にする。


肩が壁へ擦れた。


ズリッ。


荷を持った少年の足がもつれる。


「っ!」


カイルが反射的に手を伸ばす。


「前見ろ!」


少年は自分で姿勢を戻した。


背後。


追っ手。


まだ来る。


だが。


音が遅い。


この道は狭い。


ネミティブでも肩を少し入れなければならない。


追っ手の大人なら一列になる。


ラドも身体に厚みがある分、前を向いたままでは壁へ肩が当たる。身体を斜めへしながら、それでも最後尾を塞ぐ。


人数差を潰せる。


それを見て選んだ。


「カイル、先!」


「分かった!」


「リナ、カイルから離れんな!」


「うん!」


「残りは一列! 押すな!」


返事が重なる。


ネミティブは最後にラドを見る。


「後ろ頼む!」


ラドの動きが一瞬だけ止まった。


昔なら。


誰を前へ出すか。


どの道を使うか。


誰が後ろを守るか。


全部。


ラドが決めていた。


今は。


ネミティブが命令している。


カリッ。


ラドの奥歯が僅かに動いた。


次の瞬間には拳銃を構え、後ろへ向き直る。


「任せろ!」


全員が走る。


軽いカイル。


短い歩幅を速く刻むリナ。


荷を抱えた連中。


その間を抜けるネミティブ。


最後尾から響くラドの重い足音。


呼吸が熱い。


心臓が痛い。


それでも頭は止まらない。


追っ手は四人以上。


狭い道で速度は落ちた。


カイルはまだ余裕がある。


リナも遅れていない。


荷もある。


次の角。


左なら人通り。


右は行き止まり。


見える。


まだ。


判断できる。


「次、左!」


誰も聞き返さない。


全員が。


ネミティブの声だけを頼りに曲がった。


背後の足音は。


少しずつ遠ざかった。


* * *


帰ってきた答え


二本目の西路を抜けても、ネミティブは止まらなかった。


一つ。


二つ。


さらに角を曲がり、追っ手が見失うだけの距離を取る。


人通りのある道へ出て。


ようやく片手を上げた。


「止まれ」


ザッ。


全員が止まる。


荒い呼吸が重なった。


カイルが壁へ手をつく。


「っは……死ぬかと思った……」


「死んでねえだろ」


返しながら。


ネミティブは人数を数える。


一人。


二人。


三人。


カイル。


リナ。


ラド。


全員。


次。


荷。


一つ。


二つ。


三つ。


全部。


そこで初めて。


肺の奥から息が抜けた。


リナの袖が裂けている。


ラドが最初に気づいた。


「リナ」


大きな身体がすぐに近づく。


「腕見せろ」


「平気」


「いいから」


ラドが腕を取る。


裂けた布をずらす。


皮膚が少し擦れているだけ。


血もほとんどない。


眉間の力が抜ける。


「壁か」


「だから大丈夫って言ったじゃん」


「撃たれた直後にその言葉信用できるか」


「心配しすぎ」


「うるせえ」


リナが少し笑った。


ラドもようやく息を吐く。


その横からカイルがネミティブへ寄ってきた。


「兄貴!」


「うるせえ」


「でもさ!」


目が興奮で光っている。


「最初の奴ら、やっぱ待ち伏せだったじゃん! 兄貴が靴跡見つけなかったら普通にあそこ入ってたぞ」


東を捨てた。


西でも待ち伏せを見つけた。


撤退。


追跡。


逃走。


発砲。


狭路。


人数差を潰した。


全員が生きている。


荷もある。


一つずつ。


全部。


自分で判断した。


「やっぱ兄貴の言う通りだった」


その言葉が胸へ落ちる。


じわり。


熱い。


気持ちがいい。


自分が正しかった。


だから。


みんな帰ってきた。


ラドがリナから手を離し、立ち上がった。


大きな身体が起き上がり。


ネミティブを見る。


少し疲れた顔。


それでも。


口元へ笑み。


「……大したもんだな」


「何が」


「全部」


ラドが肩をすくめる。


「俺なら最初の男、一人だと思って通してたかもしれねえ」


一瞬。


ネミティブは何も言わなかった。


ラド自身が言った。


自分なら。


間違えていたかもしれない。


「だろ? 兄貴すげえんだよ」


カイルがすぐ食いつく。


「お前に言ってねえ」


ラドが笑う。


カイルも。


リナも。


少しだけ。


だが。


ラドの目の奥だけ。


別のものが残っていた。


ネミティブには。


見えた。


否定できない。


結果が出ている。


ラド自身も。


認めた。


だからこそ。


その笑顔が。


少しだけ苦しそうだった。


ネミティブは拳銃を上着へ戻す。


カチャ。


「行くぞ。まだ仕事終わってねえ」


カイルが荷を持ち直す。


リナも立つ。


他の連中も続く。


ラドだけ。


ほんの一瞬。


その場に残った。


ネミティブは。


振り返らなかった。


胸の奥が鳴る。


さっきまでとは違う。


恐怖だけではない。


間違えれば。


死んでいた。


それでも。


また。


自分の判断が。


正しかった。


その事実が。


胸の中で熱を持ち続けていた。


* * *


広がる声


取引相手のいる場所へ着いた頃には、空が赤みを帯び始めていた。


貧困街の外れ。


崩れかけた倉庫が何棟も並び、傾いた屋根には板と薄い鉄板が何枚も継ぎ足されている。


風が吹くたび、どこかの金属板がばた、ばた、と鳴った。


積み上げられた木箱の間を痩せた鼠が走る。


ざりっ。


ネミティブの靴が砂利を踏んだところで。


足が止まった。


正面。


半分だけ開いた倉庫。


扉の前へ男が一人。


中。


二人。


約束より。


一人多い。


隣のカイルが小さく息を吸う。


リナの右手も。


上着へ近づいた。


ネミティブは横目だけで見る。


まだ。


抜くな。


視線だけで分かったらしく。


リナの指が止まる。


後ろのラドも、男たちを黙って見ていた。


扉の男が顎を上げる。


「遅かったな」


ネミティブは答えない。


腰。


袖。


靴。


立つ幅。


視線。


三人とも武器。


だが。


囲む位置ではない。


逃げ道も残している。


今のところ。


待ち伏せには見えない。


ラドが一歩前へ出る。


厚い身体がネミティブの視界の端を塞ぐ。


「途中で面倒なのに引っかかった」


男の眉が寄る。


「荷は?」


ラドが振り返る。


カイル。


二つは別の少年。


三つ。


全部ある。


口角が上がる。


「全部ある」


男が荷を見る。


そのあと。


ネミティブ。


「そいつがネミティブか?」


眉が僅かに動く。


「何で知ってる」


「最近よく聞く」


カイルの顔が一気に明るくなった。


「兄貴、有名じゃん」


「黙ってろ」


カイルは口を閉じた。


顔は嬉しそうなまま。


倉庫の男が笑う。


「本当に兄貴って呼ばれてんのか」


その瞬間。


ラドの口元が。


ほんの少し。


固まった。


ネミティブは気づいた。


何も言わない。


「先に荷見ろ。話はその後だ」


男が片眉を上げる。


「偉そうだな」


「仕事だろ」


数秒。


男はネミティブを見た。


それから。


荷へ。


がさっ。


包みを開く。


リナが手元を見る。


カイルも黙る。


ラドは少し後ろから。


三人全部を見ている。


「問題ねえ」


その一言で。


カイルの肩が下がった。


「終わった……」


「まだ金」


リナ。


「あ」


「ほんと馬鹿」


「今気づいたし」


「遅い」


二人の声へ。


少しだけ。


いつもの調子が戻る。


男が袋を投げた。


じゃらっ。


ラドが片手で受け取る。


大きな手の中で袋が小さく見えた。


口を開け。


硬貨を指で数える。


じゃら。


じゃら。


その間。


男がネミティブを見る。


「途中で何があった?」


ネミティブより先に。


カイル。


「待ち伏せだよ」


「カイル」


「何だよ。本当だろ」


声は落とす。


男がネミティブへ目を戻す。


「抜けたのか?」


「ああ」


「何人?」


「最低四人」


眉が上がる。


カイルが。


もう我慢できない。


「兄貴が先に気づいたんだ。東も怪しいって捨てて、西でも待ち伏せ見つけて、追われた時も逃げ道すぐ決めて――」


「カイル」


さっきより低く。


「……はい」


リナが小さく吹き出す。


「怒られてる」


「うるせえ」


男は二人を見て。


またネミティブ。


「なるほどな」


胸が少し熱い。


「道を見るのが上手いって話、本当らしいな」


「誰から聞いた」


「知らねえよ。何人かから聞いた」


何人か。


RATだけではない。


外でも。


自分の名前。


ネミティブは周囲を見る。


倉庫の壁。


木箱。


細い路地。


壁際。


RATの少年が一人座っていた。


汚れた帽子を深く被っている。


見覚えがあるような。


ないような。


こちらを見ず。


隣と話している。


「最近、先にネミティブに聞く奴増えたよな」


隣が笑う。


「そりゃ当たる方に聞くだろ」


「だよな」


それだけ。


何でもない会話。


最近は。


似た言葉を。


何度も聞く。


カイルが得意そうに鼻を鳴らす。


「ほらな、兄貴」


「何が」


「みんな分かってんじゃん」


リナが呆れる。


「カイルが褒められたわけじゃないでしょ」


「弟分なんだから半分くらい俺だろ」


「何でそうなるの」


二人が言い合う。


ネミティブは。


ラドを見る。


じゃら。


じゃら。


まだ硬貨を数えている。


いつもなら。


この辺りで何か言う。


今日は。


何もない。


「ラド」


指が止まる。


「何だ」


「足りてるか」


「ああ」


袋の口を縛る。


「全部ある」


短い。


立ち上がる。


「帰るぞ」


声は。


いつも通り。


それでも。


少しだけ。


硬く聞こえた。


* * *


名前が先に歩く


帰り道。


仕事が終わった分だけ、行きより空気は緩んでいた。


それでも。


武器は外さない。


ヴァルガの古い地区は、夜になれば人が消えるのではない。


人の見え方が変わる。


昼間は市場だった軒先に焚き火が増え、薄暗い路地では酒瓶を持った男たちが壁へ影を揺らしている。


遠く。


パンッ。


一発。


銃声。


カイルが顔を向ける。


ネミティブは距離を聞く。


反響。


一回。


近くはない。


「遠いな」


カイルも少し耳を澄ませ。


「うん」


歩き続ける。


少し前。


ラドが一人で歩いていた。


いつもより。


二、三歩ほど前。


身体が大きいから。


それだけ距離が開くと。


背中が妙に遠く見える。


リナが眉を下げた。


「ラド兄」


歩きながら振り返る。


「ん?」


「疲れた?」


「そりゃ疲れるだろ」


「それだけ?」


苦笑。


「何だよ、その聞き方」


「だって変」


「何が」


「静か」


「疲れてるっつったろ」


納得しない顔。


後ろから。


カイル。


「ラド、年じゃね?」


ラドの顔が変わる。


「お前、一発殴るぞ」


カイルが笑う。


「元気じゃん」


「カイル」


リナが呆れる。


ネミティブも少し口元が緩む。


ラドまで。


小さく笑う。


一瞬。


いつもの空気へ戻った。


前方。


RATの少年が二人。


一人が手を上げる。


「お、帰ったか」


カイルも。


「余裕だった」


ぺしっ。


ネミティブが後頭部を叩く。


「どこがだ」


「痛っ!」


少年たちが笑った。


そして。


片方がネミティブを見る。


「でも、また当てたんだろ?」


足が少し止まる。


「何を」


「待ち伏せ。ネミティブが見つけて、道変えて逃げたって」


早い。


まだ。


帰ってきたばかり。


「誰から聞いた」


「誰だっけ?」


隣の少年が考える。


「帽子被ってた奴」


倉庫。


壁際。


汚れた帽子。


「名前は?」


二人とも。


首を振る。


「知らねえ」


カイルが笑う。


「別に合ってんだからいいじゃん」


「そういう問題じゃねえ」


「何が?」


「情報が早すぎる」


カイルの笑みが少し消える。


リナも。


真面目な顔。


ラドだけ。


数秒。


黙る。


それから。


「有名人だな」


口角。


「ネミティブ先生」


また。


ネミティブの眉が寄る。


「やめろって言ってんだろ」


「褒めてるんだって」


「その顔で言うな」


リナがすぐ。


「ラド兄」


「はいはい。悪かったよ」


その横で。


カイル。


「兄貴先生」


「お前まで言うな」


「でもちょっと合ってる」


「殺すぞ」


カイルが笑いながらリナの後ろへ逃げる。


「リナ、助けろ」


「嫌」


「ひどっ」


ほんの少し。


空気が緩んだ。


ラドも笑った。


今度は。


目元も僅かに動いた。


ネミティブは。


胸のざらつきを。


一度。


飲み込んだ。


* * *


先に聞く相手


それから数日。


似たことが増えた。


「今夜、北通れる?」


「荷動かすなら南と西どっち?」


「見張り二人いるんだけど、迂回した方がいい?」


以前なら。


ラドへ聞いていた。


ラドが同じ場所にいても。


先に。


ネミティブを見る。


最初は数人。


そのうち。


普通になった。


聞かれる。


見る。


考える。


答える。


そして。


当たる。


その夜。


RATの何人かが、壊れた建物の一階で火を囲んでいた。


屋根には穴があり、夜気が落ちてくる。壁の半分は煤で黒くなり、割れた窓には古い布が掛けられていた。


ぱちっ。


薪が弾ける。


薄いスープ。


固いパン。


昔に比べれば。


それでも。


まともな飯だった。


ネミティブの横にはカイル。


パンを齧りながら。


昼の仕事を得意げに話している。


「だから俺は最初から北だと思ってたって」


向かいのリナがすぐ顔をしかめる。


「嘘」


「嘘じゃねえ」


「最初、南って言ってた」


「途中で北になった」


「ネミティブが北って言った後でしょ」


カイルがパンを持ったまま黙る。


リナが笑う。


「ほら」


「細けえな」


「嘘つく方が悪い」


ネミティブはパンをちぎった。


「どっちでもいい。食え」


二人が同時に見る。


「兄貴が言うなら」


カイルはすぐ食べ始める。


リナが呆れる。


「本当に何でも言うこと聞くね」


「兄貴だからな」


少し離れたところ。


ラドが年下の少年の手へ布を巻いていた。


ラドの手に隠れれば。


少年の手首は細い。


「痛え」


「我慢しろ」


「痛えって!」


「だから動かすな」


結び目。


引く。


確認。


「明日は走るなよ」


少年が不安そうにする。


「でも仕事が――」


ラドが頭を軽く叩く。


「俺が言う」


「分かった」


安心した顔。


ネミティブは。


それを見ていた。


昔と変わらない。


ラドは。


まだ。


ラドだった。


その時。


火の向こう。


「でも最近さ」


会話が少し止まる。


頬に小さな傷のある少年。


見覚えはある。


名前までは。


知らない。


器からスープを一口。


ネミティブを見る。


「仕事の判断、ネミティブがまとめた方が早くね?」


ぱちっ。


火が弾ける。


すぐには。


誰も喋らない。


リナの笑顔が消える。


ラドも。


怪我人から目を上げる。


カイルだけ。


迷わない。


「俺もそう思う」


「カイル」


「何だよ」


「そういう話じゃないでしょ」


「じゃあ何の話だよ」


リナは一度。


ラドを見る。


それから。


カイル。


「ネミティブが頭いいのは分かってる。でも、ラド兄がいらないって話にはならないでしょ」


カイルは。


本当に分からない顔。


「誰もいらないって言ってなくね?」


頬に傷のある少年が。


軽く笑う。


「そうそう。別にラドを追い出せって言ってるわけじゃねえよ」


ラドの目が向く。


少年は。


何でもない顔。


「ただ、判断はネミティブに任せた方が効率いいだろってだけ」


効率。


その言葉。


胸が鳴る。


間違ってはいない。


最近の結果だけを見れば。


自分の方が。


当てている。


カイルも大きく頷く。


「そういうこと」


リナは納得しない。


「でも――」


「リナ」


ラドが止める。


見る。


ラドは。


笑っていた。


「いいって」


「ラド兄」


「事実は事実だろ」


笑顔。


でも。


また。


目が笑っていない。


頬に傷のある少年は、それ以上何も言わなかった。


器を空にする。


「じゃ、俺寝るわ」


立つ。


火から離れる。


暗い路地へ。


ネミティブは。


その背中を少しだけ追った。


何となく。


引っかかる。


だが。


「兄貴」


カイル。


「何だ」


「やっぱ兄貴がまとめた方がいいって」


「だから!」


リナ。


「うるせえな」


二人がまた言い合う。


ネミティブは。


ラドを見る。


ラドも。


こちらを見ている。


笑っていない。


珍しく。


完全に。


「ラド」


数秒。


返事なし。


やがて。


ふっ。


口角。


「……変わったな」


以前にも。


言われた。


同じ言葉。


でも。


今度は。


褒められているようには。


聞こえなかった。


* * *


残された席


焚き火から少し離れるだけで、夜の貧困街は急に暗くなった。


背後では、まだカイルとリナの声がする。


ぱちっ。


薪の弾ける音。


ラドは一人、崩れた壁の前まで歩いた。


足を止める。


自分の影が。


壁へ大きく伸びていた。


「……変わったな、か」


自分で言った言葉を繰り返す。


昔。


パン一つを置くだけで。


何度も周りを見る子ども。


声を掛ければ。


肩を固くする。


間違えれば。


すぐ。


『……すみません』


今は。


拳銃。


人を動かす。


自分の判断へ口を挟む。


そして。


正しい。


そこが。


一番腹立たしかった。


ラドは壁へ拳をついた。


こつ。


強く殴るわけではない。


ただ。


触れる。


俺が間違っているなら。


ネミティブへ任せればいい。


頭では分かる。


あいつの方が見える。


自分の見落とすものまで。


今回も。


待ち伏せ。


逃げ道。


銃撃。


全員を。


連れて帰った。


結果だけなら。


文句はない。


「……だから何だよ」


口から漏れた。


結果が出れば。


自分はいらなくなるのか。


何年も。


ここでやってきた。


腹を空かせた年下へ飯を分けた。


怪我人を運んだ。


喧嘩を止めた。


盗み方を教えた。


逃げ道を覚えた。


捕まった奴のため。


大人へ頭を下げたこともある。


RATがまだ。


腹を空かせた子どもが集まっただけの頃から。


自分がいた。


そう思っていた。


今では。


『ネミティブは?』


『ネミティブならどうする?』


『ネミティブに聞いた方が早い』


そればかり。


ぎりっ。


奥歯。


嫌いなのか。


ネミティブを。


違う。


そんなわけがない。


生きて帰れば。


安心する。


褒められていれば。


嬉しい。


今でも。


飯を食っているか。


気になる。


無茶をすれば。


腹が立つ。


なのに。


褒められるたび。


胸のどこかが。


痛い。


「最悪だな、俺」


ラドは笑った。


誰も見ていない。


だから。


目まで笑わせる必要がなかった。


「ラド?」


背後。


振り返る。


リナ。


髪の束が少し崩れている。


片手にパン。


「何してんの?」


「小便」


顔が引きつる。


「最低」


「聞くからだろ」


ラドが笑う。


今度は。


少し自然。


リナが近づく。


小柄な身体だから。


ラドの前へ立つと。


頭一つ以上。


差がある。


「はい」


パン。


ラドが見る。


「何これ」


「食べてないでしょ」


「食ったって」


「嘘」


即答。


「さっきスープしか飲んでなかった」


「見てんのかよ」


「見てるよ」


当然。


「ラド兄、最近ちゃんと食べないし」


ラドは。


パンを見る。


受け取る。


「……ありがと」


リナが少し笑った。


胸のざらつきが。


ほんの少し。


薄くなる。


まだ。


自分を見る奴はいる。


その考えが浮かんだこと自体が。


嫌だった。


何考えてんだ。


リナは知らない。


壁へ背を預ける。


「ネミティブのこと?」


ラドの手が止まる。


「何で」


「分かりやすいから」


また。


「お前ら最近それしか言わねえな」


「だって分かりやすい」


リナが真っ直ぐ見る。


「ネミティブに怒ってる?」


「怒ってねえよ」


「じゃあ拗ねてる?」


「殴るぞ」


「ほら」


リナが笑う。


ラドは。


大きく息を吐いた。


「……あいつが悪いわけじゃねえ」


そこだけは。


本当にそう思う。


「分かってる」


「俺より見えるのも事実」


「うん」


「そこは否定しろよ」


「嘘になるじゃん」


思わず。


ラドが笑った。


「お前ほんと容赦ねえな」


リナも笑う。


それから。


少し真面目な顔。


「でも」


ラドを見る。


「ネミティブが頭いいのと、ラド兄がいらないのは別だから」


ラドは。


答えなかった。


パンを少しちぎる。


口へ。


固い。


ぱさぱさ。


なのに。


妙に。


喉へ詰まりそうになった。


「……そういうこと言うなよ」


「何で?」


「知らねえ」


リナは不思議そうに首を傾げる。


ラドは。


それ以上。


言わなかった。


* * *


次に使う場所


翌朝。


RATの拠点には、朝から人が出入りしていた。


壁の半分が崩れた建物の一階。夜に焚き火を置いていた場所には灰が残り、その横では誰かが昨日の鍋を水で濯いでいる。


入口を塞ぐように積まれた木箱の上では、拳銃を分解している少年がいた。


カチャ。


金属の部品が箱の上へ置かれる。


その向こう。


ネミティブの前には、いつの間にか人が並んでいた。


「南の橋、まだ使える?」


「昨日は使えた」


「今日も?」


「知らねえ。見てから決める」


「倉庫街に荷入れたいんだけど」


「何時」


「昼過ぎ」


「昼なら北から回せ」


「何で?」


「南は昨日の連中がまだ残ってるかもしれねえ」


答えている間にも、次が来る。


一人が退けば。


別の一人。


昔は。


ラドの横に立ち、それを見ていた。


誰かが来る。


ラドが聞く。


考える。


決める。


自分は、その隣で周囲を見るだけだった。


今は。


自分の前に人が並んでいる。


少し離れた壁際では、ラドが年下の少年たちと話していた。


ラドが立つと、周囲の少年より頭一つ高い。


その大きな身体の前で、まだ成長途中の少年が身振りを交えて何かを話している。


笑い声。


ラドも笑う。


いつもの兄貴分。


それでも。


道を聞く奴。


配置を聞く奴。


危険を聞く奴。


そいつらは。


ラドの横を通り。


こちらへ来る。


ネミティブは無意識に背筋を伸ばした。


「次」


一人の少年が前へ出る。


見たことがない顔ではない。


だが。


名前は知らない。


長めの髪。


右手首には、汚れた布。


元は白かったのかもしれないが、泥と汗で赤茶けている。


「今日の夜さ」


少年が言う。


「武器の荷、東の倉庫へ入れるだろ」


ネミティブが顔を上げた。


「誰から聞いた」


「運ぶ奴に聞いた」


少年は気にした様子もなく続ける。


「ラドは南から行くって言ってたけど」


少し間。


「昨日のこと考えたら、ネミティブに決めてもらった方がよくね?」


周囲にいた何人かが顔を見合わせる。


「確かに」


別の少年も頷いた。


「俺もそっちがいい」


ネミティブは黙った。


また。


自然に。


こうなる。


手首に布を巻いた少年が肩をすくめた。


「別にラドが駄目って言ってるわけじゃねえよ」


胸が鳴る。


昨日。


聞いた言葉と似ていた。


「ただ危ない荷だろ」


少年は続ける。


「なら、一番当たる奴に決めてもらった方がいいじゃん」


何人かが頷く。


その動きまで。


妙に揃って見えた。


ネミティブは少年を見る。


右手首。


赤茶色の布。


靴。


擦れている。


上着。


どこにでもあるもの。


顔にも。


目立つものはない。


何か。


一瞬だけ。


引っかかった。


「ネミティブ」


横から声。


意識が戻る。


ラドだった。


さっきまで壁際にいたはずなのに、いつの間にかこちらまで来ている。


ラドが近づくと。


周囲の少年たちが無意識に半歩ずつ道を空けた。


昔からの癖だ。


身体が大きい。


それだけじゃない。


長くここにいた人間の歩き方だった。


ラドは、手首に布を巻いた少年を見る。


「俺が南って言ったの、誰から聞いた?」


少年が少し考える。


「さあ。誰か」


「誰か?」


ラドの声から。


笑いが消えた。


少年は困ったように眉を寄せる。


「みんな言ってたし」


ラドは数秒。


その顔を見る。


少年の視線が逸れた。


「じゃ、俺行くわ」


身体を引く。


「待て」


ラドが呼び止める。


少年が振り返った。


「何?」


ラドは何か言いかけた。


周囲。


見ている。


十人近い。


全員が。


ラドと少年を見ている。


数秒。


「……いや」


ラドが片手を振った。


「何でもねえ」


少年は歩き出した。


人の間へ。


右手首の赤茶けた布が、一度見え。


別の身体に隠れ。


また見え。


最後には。


消えた。


ネミティブは、その背中が消えた場所を見る。


「誰だ、あいつ」


ラドの眉が寄った。


「知らねえ」


「RATだろ」


「多分な」


その答え。


胸の奥が。


少しだけざわつく。


RATは大きくなった。


昔より。


出入りする人間も増えた。


全員の名前なんて覚えていない。


だから。


知らない構成員がいても。


おかしくない。


それでも。


「……多分?」


ラドも同じことを考えているらしい。


目が合った。


一瞬。


昔なら。


ラドの顔を見て。


答えを待った。


今は。


二人とも黙っている。


どちらも。


同じ違和感を見ている。


「兄貴!」


足音。


タッ、タッ、タッ。


カイルが走ってきた。


止まる直前まで速度を落とさず、最後の一歩だけ踵を滑らせる。


「今日の武器の荷、俺も入るって!」


「うるせえ。声落とせ」


「悪い」


声はすぐ小さくなる。


その後ろから。


リナ。


カイルほど速くはない。


けれど。


人の間を縫うのは上手い。


大きな少年の横を身体一つ分の隙間から抜け、こちらへ来る。


「私も」


ネミティブが眉を寄せた。


「お前ら両方か」


カイルが笑う。


「昨日うまくいったし」


「だから危ねえって分かっただろ」


「兄貴いるし」


簡単に言った。


ネミティブの眉が。


さらに寄る。


「それやめろ」


カイルの笑みが止まった。


「何が?」


「俺がいりゃ大丈夫みたいに言うの」


カイルが数秒。


ネミティブを見る。


そのあと。


「でも昨日、大丈夫だったじゃん」


胸が鳴る。


事実だった。


リナがカイルを見る。


「そういう意味じゃないでしょ」


「じゃあ何だよ」


ネミティブは答えなかった。


自分でも。


うまく言えない。


昨日は。


正しかった。


その前も。


何度も当てた。


だから今日も。


今日も正しければ。


明日も。


そうやって。


周囲だけじゃない。


自分まで。


少しずつ。


そう思い始めている。


「とにかく」


二人を見る。


「俺が言ったことでも、変だと思ったら言え」


カイルが首を傾げる。


「兄貴が?」


「ああ」


「何で?」


苛立ちが湧いた。


「間違うからだよ」


少し強く。


カイルが黙る。


リナも。


ネミティブを見る。


その横。


ラドが。


ほんの少し笑った。


「まだ分かってんじゃん」


ネミティブが振り返る。


「何が」


ラドは肩をすくめる。


「別に」


また。


その言葉。


胸がざらついた。


「言いてえことあるなら言え」


「ねえよ」


「ならその顔やめろ」


ラドの笑みが薄くなる。


「お前こそ」


「何だよ」


「最近、命令する顔が板についてきたなって思っただけ」


カイルとリナが黙った。


周囲の音が。


少し遠くなる。


解体された拳銃の金属音。


火を起こす音。


誰かの笑い。


全部。


あるのに。


二人の間だけ。


細くなる。


ネミティブはラドを見る。


ラドも逸らさない。


数年前。


この目を。


まともに見られなかった。


今は。


先に逸らす気はなかった。


「悪いか」


短く返す。


ラドの口元が歪む。


「別に?」


今度は。


明らかに。


皮肉だった。


* * *


昔の真似


その日の夕方。


RATの連中は、次の仕事に使う武器と荷を確認していた。


使われなくなった倉庫の一角。


天井の梁には錆が浮き、割れた採光窓から斜めに夕日が入っている。


光の中を細かな埃が漂い、その下へいくつもの木箱が並べられていた。


ガチャ。


ガチャ。


箱の中。


拳銃。


弾倉。


刃物。


金属同士が当たる。


カイルは木箱の前へしゃがみ込み、一丁ずつ手に取っていた。


腕を伸ばす。


握る。


構える。


また戻す。


一本。


少し大きいものを持ち上げる。


「これ、俺使っていい?」


ネミティブは一目見て。


首を振った。


「駄目だ」


「何で」


「でかい」


「使えるって」


「お前の手じゃ反動強い」


カイルの手。


拳銃の握りへ対して。


少し足りない。


細い指で握り込めても。


走りながら。


撃って。


次へ繋げるなら。


別だ。


カイルが口を尖らせる。


「撃ってみねえと分かんねえじゃん」


「分かる」


ネミティブは箱へ手を入れる。


金属が擦れる。


一回り小さい拳銃を取り出す。


「こっち使え」


カイルへ。


「これなら走る邪魔にもならねえ」


カイルは二丁を見比べる。


大きい方。


小さい方。


最後には。


ネミティブから渡された方を取った。


「……分かった」


「弾数確認しろ」


「はいはい」


「返事」


カイルが顔を上げる。


「分かったって!」


横で。


リナが笑う。


「怒られてる」


「うるせえ」


「ちゃんと聞かないからでしょ」


「聞いてるし」


二人が言い合う。


ネミティブは気にせず。


残りの武器を見る。


その時。


「それ、やめとけ」


後ろ。


ラド。


足音。


他の連中より低い。


近づく。


カイルの手が止まる。


ネミティブも振り返る。


ラドは、カイルが持っている拳銃を顎で示した。


「そいつ、たまに弾詰まる」


ネミティブの眉が寄る。


もう一度。


拳銃。


外からは。


分からない。


「いつ」


「前」


「前っていつだよ」


「前は前だろ」


ラドが手を出す。


大きい手。


「貸せ」


カイルが。


一瞬。


ネミティブを見る。


ほんの。


一瞬。


それだけだった。


だが。


ラドの伸ばした手が。


止まった。


カイルは気づかない。


「兄貴、どうする?」


空気が。


僅かに変わる。


リナが。


カイルを見る。


ネミティブ。


ラド。


伸ばした手。


そのまま。


数秒。


「ラドが言うなら替えろ」


カイルはすぐ頷いた。


「分かった」


拳銃をラドへ渡す。


ラドは受け取る。


笑わない。


カチャ。


弾倉。


外す。


中。


見る。


戻す。


カチャン。


いつもより。


音が強い。


「こっち使え」


別の一丁を取る。


投げる。


「わっ」


カイルが両手で受ける。


「投げんなよ!」


「取れただろ」


「落としたらどうすんだよ」


「落とす奴に銃持たせねえよ」


いつもの軽口。


でも。


声が。


少し硬い。


リナがラドを見る。


ネミティブも。


視線に気づいたラドが。


すぐに口角を上げた。


「何だよ」


「別に」


ネミティブが返す。


ラドの笑みが。


僅かに深くなる。


「最近それ好きだな」


「何が」


「別に、ってやつ」


ネミティブは答えない。


ラドも。


それ以上。


言わない。


手にしていた拳銃を。


木箱へ戻す。


ガンッ。


箱が。


僅かに揺れた。


必要以上に。


強い音だった。


* * *


リナが別の木箱を覗く。


小柄な身体ごと縁へ乗り出すようにして。


中を数える。


「こっち、一丁足りない」


カイルが横から覗き込む。


「俺じゃねえぞ」


「まだ何も言ってない」


「先に言っといただけ」


「怪しい」


「何でだよ」


少し離れたところ。


ネミティブは地面へ地図を広げていた。


目だけ上げる。


「カイル」


「ん?」


「リナ手伝え」


「やってる」


「邪魔してるだけだろ」


カイルが口をへの字にする。


「……はい」


リナが笑う。


「また怒られてる」


カイルが言い返そうとした時。


「リナ」


今度は。


ラド。


リナが振り向く。


「何?」


「そっちいいから、こっち来い」


「でもまだ数が――」


「俺が見る」


短い。


リナが少し戸惑う。


「ネミティブが――」


ラドの眉が動いた。


ほんの少し。


「俺が見るっつってんだろ」


声が。


低い。


リナの笑みが消えた。


カイルも。


黙る。


ネミティブは。


地図から完全に顔を上げた。


ラド自身も。


言った直後。


止まる。


一瞬。


目。


すぐに息を吐く。


「……悪い」


頭を掻いた。


「ちょっと疲れてる」


リナは数秒。


ラドを見る。


「うん」


小さく頷き。


ラドの方へ。


ネミティブは何も言わない。


けれど。


残る。


昔のラドなら。


あんな言い方は。


しなかった。


少なくとも。


リナには。


* * *


武器の確認が終わった頃。


外の光は赤から紫へ変わり、倉庫の奥はほとんど影になっていた。


地面の地図を囲む。


ネミティブが配置を伝える。


「カイルは前」


「うん」


「リナは中央。荷から離れんな」


「分かった」


「後ろは――」


「俺が決める」


声が重なった。


ネミティブの口が止まる。


周囲も。


少し静かになった。


ラドが前へ出る。


身体が大きいぶん。


輪の中へ入るだけで。


ネミティブとの距離が縮む。


地図。


「後ろは俺とこいつ」


近くにいた少年の肩を叩く。


「リナは俺の前」


ネミティブが眉を寄せる。


「中央じゃねえのか」


「俺の前でも中央だろ」


「荷の横にいた方がいい」


「何で」


ラドが。


すぐ聞き返す。


その速さ。


ネミティブが一瞬。


黙る。


「何でって」


地図。


指。


「途中で二回狭くなる。リナは小さいから、荷の横なら詰まった時動ける」


リナは。


大きな荷箱の横へ立つと。


肩一つ分。


まだ隙間が残る。


ラドなら。


完全に塞ぐ。


「後ろでも動ける」


「動きにくいだろ」


「やってみねえと分かんねえじゃん」


ネミティブの目が細くなる。


聞いた言葉。


さっき。


カイル。


でも。


ラドが。


こんな返しをする人間ではない。


「ラド」


「何」


「理由あるのか」


一拍。


「……あるよ」


「何だ」


ラドの指が。


地図の上を動く。


止まる。


ネミティブは待つ。


カイルも。


リナも。


周囲も。


ラドの口が開く。


閉じる。


「後ろの方が守りやすい」


ようやく。


ネミティブはすぐ返した。


「誰が」


「俺が」


「何から」


また。


一拍。


ラドの指。


止まる。


カリッ。


爪が石を擦る。


「……何でもいいだろ」


「よくねえ」


ネミティブの声が。


低くなる。


「危ねえ仕事だ。理由で決めろ」


その言葉で。


ラドの顔から。


笑いが消えた。


完全に。


カイルが息を呑む。


リナが。


半歩。


前へ。


「ラド兄」


ラドは。


リナを見ない。


ネミティブだけ。


「はいはい」


急に。


笑う。


口元だけ。


「ネミティブ先生の言う通りでいいよ」


空気が固まる。


胸が。


強く鳴った。


「……またそれか」


「何が」


「その言い方」


ラドが肩をすくめる。


「だってお前の方が正しいんだろ?」


言葉だけなら。


皆が言うものと。


同じ。


でも。


声が違う。


「なら好きに決めろよ」


ラドが。


木の棒を投げる。


パシッ。


ネミティブが受ける。


「俺に聞く意味ねえだろ」


ラドは。


そのまま歩く。


「ラド兄!」


リナ。


止まらない。


カイルがネミティブを見る。


軽さのない顔。


「兄貴……」


「今はいい」


ラドの背中を見る。


遠ざかる。


大きな背中。


昔は。


その後ろを歩いていた。


胸の中が。


ざらざらする。


腹が立つ。


ラドの態度。


それとも。


自分が正しいと。


分かっているのに。


あんな顔をされること。


握っている木の棒へ。


力。


ぎゅっ。


ネミティブは周囲へ向き直った。


「配置は今言った通り。カイル前。リナ中央。後ろはラドともう一人」


誰も反論しなかった。


むしろ。


すぐ頷いた。


そのことが。


今は。


少しだけ。


気持ち悪かった。


* * *


取られるもの


少し離れた路地。


ラドは一人で歩いていた。


夜へ入る前の青い空が、狭い建物の隙間に細く見えている。


ザッ。


靴裏で石を蹴る。


ころころ。


小石が暗い排水溝へ落ちる。


「……理由で決めろ、か」


吐き捨てる。


正しい。


あいつは。


正しい。


そこが。


腹立たしい。


さっきの配置。


リナは中央。


荷の横。


その方がいい。


分かっていた。


ネミティブが言う前から。


多分。


自分も。


同じ配置にした。


なのに。


口から出た。


俺が決める。


それだけ。


理由なんて。


後から探した。


「馬鹿かよ」


自分で笑う。


笑えない。


壁際。


積まれた空箱。


蹴る。


ガンッ!


一番上が崩れた。


中から鼠。


カサカサッ!


ラドの大きな肩が。


一瞬。


跳ねた。


「……くそ」


しゃがむ。


両手で顔を擦る。


肘を膝へ。


身体が大きいぶん。


縮まっても。


狭い路地では目立つ。


ネミティブが。


憎いわけじゃない。


なのに。


カイルがネミティブを見る。


リナがネミティブへ頷く。


周囲がネミティブの名前を呼ぶ。


そのたび。


何かを。


一つずつ。


持っていかれる気がする。


今日。


カイルが銃を持った時。


自分が手を出していた。


なのに。


最初に見たのは。


ネミティブ。


あの一瞬。


胸の奥が。


焼けるみたいに。


熱くなった。


だから。


銃を替えた。


本当に。


調子が悪かったか?


昔。


一度。


弾が詰まった。


それだけ。


今日も詰まるか。


分からない。


それでも。


自分の判断を。


一つ。


入れたかった。


まだ。


自分が必要だと。


カイルに。


思わせたかった。


「……だっせえ」


声が掠れる。


リナも。


ネミティブの指示で動こうとした。


呼び戻した。


必要もないのに。


自分の近くへ。


何をしている。


リナは。


物じゃない。


カイルも。


RATも。


自分のものじゃない。


分かっている。


なのに。


取られたくない。


理屈より。


先に。


ラドは拳を握った。


ぎりっ。


爪。


掌。


昔。


ネミティブへパンを置いた時。


こんなことになるなんて。


思っていなかった。


あの小さいガキが。


横へ来る。


追いつく。


追い越す。


そこまでは。


まだいい。


でも。


そのまま。


自分の居場所まで。


持っていく。


「……それは違うだろ」


誰へ言ったのか。


自分でも。


分からない。


* * *


その少し先。


壊れた屋根の下で、二人の少年が話していた。


一人は壁へ寄りかかり、暗い場所へ立っている。


顔には目立つ特徴がない。


もう一人が、小さな声で言った。


「ラド、最近変じゃね?」


壁際の少年は、すぐには答えなかった。


少し考えるように首を傾げる。


「そりゃそうだろ」


「何が?」


「自分が拾った奴に全部取られてんだから」


「全部って」


少年は肩をすくめた。


「仕事も。人も」


それだけ。


話し相手の少年が少し黙る。


「……確かに」


壁際の少年は笑わない。


そのまま身体を壁から離した。


「まあ、俺らには関係ねえけど」


「だな」


二人の足音が別方向へ分かれていく。


ラドは。


少し離れた路地。


その会話を。


聞いていなかった。


けれど翌日には。


似た言葉を口にする者が。


一人だけ。


増えていた。


次の仕事


翌朝。


RATの拠点へ、一枚の紙が持ち込まれた。


正確には、持ち込んだ人間はいない。


夜の焚き火が灰になり、最初に起きた少年が入口近くの木箱を動かそうとした時、その上に置かれていた。


紙は一枚。


貧困街のさらに西。何年も前に放棄された研究区画へ入り、指定された物を回収する。


書かれているのは、それだけだった。


何を持ち帰るのか。


施設の中に何があるのか。


誰からの依頼なのか。


そのどれも書かれていない。


紙を覗き込んだカイルが眉を寄せる。


「これだけ?」


「ああ」


ラドが答えた。


「金は?」


「いい」


「どれくらい?」


金額を聞いた瞬間、カイルの顔つきが変わった。


「……マジ?」


リナも依頼書へ目を落とす。


「高すぎない?」


ネミティブは黙ったまま紙を見ていた。


高い。


危険な仕事そのものは珍しくない。


だが、危険の内容すら説明されていない仕事へ払う額としては不自然だった。


指で紙の端へ触れる。


新しい。


折り目も少ない。泥も血もついていない。筆跡にも乱れがなく、急いで書いたようには見えなかった。


「誰が持ってきた」


ラドが入口を顎で示す。


「朝には置いてあった」


「見張りは?」


「いた」


「なら見てるだろ」


「それが寝てたんだよ」


ネミティブの目が細くなる。


「寝てた?」


ラドも顔をしかめた。


「起こしたら、いつ寝たか覚えてねえって」


カイルが小さく笑う。


「怖」


「笑うところじゃない」


リナが睨み、カイルは口を閉じた。


ラドは依頼書を指先で、ぺしっ、と弾く。


「受けるか?」


その場が静かになった。


以前なら。


その質問をする必要すらなかった。


最後に決めるのはラドだった。


今は、ラドがネミティブを見る。


周囲の少年たちも、つられるようにこちらを向いた。


まただ。


視線が集まる。


少し気持ちが悪い。


それなのに。


同時に。


悪くない。


「行く」


ネミティブは短く答えた。


ラドの眉が僅かに動く。


「理由」


「金」


「それだけ?」


「それだけじゃねえ」


ネミティブは依頼書から目を上げた。


「向こうが俺たちに何させたいのか分からねえ」


ラドが口角を上げる。


「だから行くのか?」


「分からねえまま放っとく方が嫌だ」


ラドの笑みが一瞬だけ止まる。


それから、小さく息を吐いた。


「……お前らしいな」


今度は。


皮肉には聞こえなかった。


* * *


放棄区画


施設までは一時間以上かかった。


貧困街を西へ抜けるにつれ、市場の怒鳴り声も鍋の匂いも遠ざかっていく。


人家が減る。


露店が消える。


代わりに増えるのは、古い工業地帯の残骸だった。


途中で切れたレール。


雑草に飲まれた壁。


赤錆びた柵。


地面へ半分埋まった配管。


割れた標識が風に煽られ、ぎぃ……ぎぃ……と同じ場所を往復している。


誰も直さない。


誰も使わない。


時間だけが通った場所だった。


先頭のカイルも、普段ほど前へ出ていない。


細い身体を少し前へ傾けたまま、何度も振り返る。


「嫌な感じする」


声も小さい。


ネミティブは答えなかった。


自分も同じだった。


建物が見える。


正面入口は崩れている。


鉄骨とコンクリートが重なり、人が入れる隙間はない。


左。


瓦礫。


土。


伸び放題の草。


何年も動かされた形跡がない。


右。


古い搬入口。


その前だけ。


埃が薄い。


ネミティブが足を止めた。


ザッ。


後ろの三人も止まる。


カイルの軽い靴音。


リナの小さな一歩。


最後に、ラドの低い足音。


「右」


ラドが古い地図を見る。


「地図は正面だぞ」


「正面は死んでる」


「見りゃ分かる」


「右だけ最近誰か通ってる」


リナがしゃがみ込んだ。


小柄な身体が低くなるのは速い。


指先で床を擦る。


白い埃の中へ、一本だけ薄い線が残る。


「ほんとだ」


カイルも横から覗き込む。


「足跡?」


「擦れた跡。荷か、人」


ラドが搬入口を見る。


「罠かもな」


「かもな」


「それでも行く?」


ネミティブは入口から目を離さない。


「ここまで来て帰る理由ある?」


ラドの口元が少し歪んだ。


「昔より面倒くさくなったな、お前」


ネミティブは返さなかった。


扉へ手を掛ける。


ギィィ……。


錆びた蝶番が、長く鳴いた。


中から空気が流れてくる。


湿気。


薬品。


鉄。


それに、古い血を混ぜたような甘い臭い。


カイルの顔が歪む。


「うわ」


「静かに」


中へ入る。


ネミティブ。


カイル。


リナ。


最後にラド。


搬入口は狭い。


ネミティブなら正面を向いたまま通れる。リナならさらに余裕がある。


ラドだけは肩を少し斜めへ入れた。


上着が扉へ擦れる。


ザリッ。


その音が。


妙に大きく返った。


中は暗い。


壁は昔は白かったらしい。


今では灰色へ変わり、ところどころ塗装が剥がれている。


床には細い溝が走っていた。


何かを流していた跡。


天井には配管。


途中で切れ、口だけが黒く開いている。


こつ。


こつ。


靴音が。


奥へ返る。


一本道の先。


三方向。


地図は正面。


ネミティブは止まった。


正面からだけ。


薬品臭が濃い。


鼻の奥が。


つん、と痛む。


右。


ほとんど臭わない。


左。


湿気。


「右」


ラドが地図と通路を見比べる。


「また地図無視か」


「正面、臭い濃すぎる」


リナが少し鼻から息を吸い、すぐ顔をしかめた。


「ほんとだ」


カイルも鼻を押さえる。


「死ぬやつ?」


「知らねえ」


「知らないの怖いな」


「だから行かねえ」


ネミティブは右へ入る。


ラドが一拍遅れて。


その背中を追った。


* * *


階段は地下へ続いていた。


一段踏むたび。


ギィ。


ギィ。


古い鉄が鳴る。


カイルは軽い。


リナも、それほど鳴らさない。


ネミティブの後ろ。


ラドが踏むたび。


ギィィ……。


軋みが一段低くなる。


ラドが小さく言う。


「これ俺だけ音でかくね?」


カイルが振り返る。


「太った?」


「殺すぞ」


リナが一瞬だけ笑う。


ほんの少し。


空気が緩む。


それでもカイルは、すぐまた後ろを見た。


「誰もいないよな」


「いるなら、とっくに出てる」


ラドが言う。


ネミティブは。


そうは思わなかった。


誰かがいる。


視線でも。


気配でもない。


もっと嫌なもの。


ここまで。


どの入口を選ぶか。


何を見るか。


どこで止まるか。


全部を。


誰かに見られている。


そんな感覚が消えない。


最下層。


正面に。


一枚の扉。


古い電子錠は死んでいる。


表示も消え。


配線も一部切れている。


なのに。


扉だけは。


少し開いていた。


ネミティブが止まる。


後ろからラドの大きな影が床へ伸びる。


「……開いてんな」


「ああ」


カイルの顔から軽さが消えた。


「帰る?」


ネミティブは扉を見る。


誰かが開けた。


誰かがここへ来た。


あるいは。


誰かが待っている。


正面入口は死んでいた。


右だけ使われていた。


薬品臭を避け。


地下へ。


最後に。


開いた扉。


誘導。


頭の中で。


一本へ繋がる。


「俺が先行く」


ラド。


ネミティブの肩が僅かに動いた。


「いや」


「何でもお前が先行くな」


「俺が見る」


「俺も見れる」


「見えてねえから言ってんだろ」


言葉が出た。


空気が止まる。


カイルがネミティブを見る。


リナはラドを見る。


ラドの目が細くなった。


しまった。


そう思った。


謝った方がいい。


それも分かる。


でも。


喉から言葉が出ない。


「……そうかよ」


ラドが答えた。


胸がざらつく。


「ここで揉めんな」


結局。


それだけ。


ラドの顔が僅かに固まる。


「はいはい」


ネミティブが扉へ手を掛けた。


ギィィィ……。


中。


広くはない。


壁際には壊れた機械。


床へ散ったガラス。


天井から垂れた配線。


中央。


台座。


そこだけ。


埃が少ない。


その上。


黒いもの。


石。


そう見える。


瞬きをすると。


金属。


さらに見れば。


液体へ無理やり輪郭だけを与えたような形。


見ようとするほど。


定まらない。


ネミティブの呼吸が浅くなる。


掌に汗。


後ろ。


ラドの声。


低い。


「触るな」


正しい。


絶対に。


正しい。


ネミティブにも分かっている。


知らないもの。


誰が置いたのかも。


何なのかも。


分からない。


触る理由なんてない。


でも。


ここまで。


正面を捨てた。


右を選んだ。


臭いを避けた。


地下へ来た。


全部。


自分で。


決めた。


全部。


正しかった。


なら。


最後だけ。


他人の判断へ。


戻るのか。


ネミティブの手が上がる。


「ネミティブ」


ラドの声が強くなる。


「待て」


指先。


黒。


触れた。


どくん。


その瞬間。


施設の音が。


一度。


遠のいた。


頭の奥。


声。


耳からではない。


もっと深い。


思考より内側へ。


言葉が直接響く。


「昔、人間へ火を持っていった者がいた」


ネミティブの目が見開く。


誰だ。


問いは。


届かない。


「火は神々の側にあった。人間はまだ持っていなかった」


知らない景色が頭へ流れ込む。


暗い夜。


凍える人間。


遠い高み。


炎。


そこへ近づく。


一つの影。


「だから、その者は盗んだ。隠して持ち出して、人間へ渡した」


景色が変わる。


炎を囲む人間。


冷えた身体を温める。


肉を焼く。


暗闇を照らす。


金属を熱する。


槌を振るう。


道具を作る。


「人間は喜んだ。寒さに耐えられるようになった。獣にも立ち向かえるようになった。町を作り、道具を作り、前よりずっと便利に生きられるようになった」


声が一瞬。


止まる。


炎の向こう。


人と。


人。


同じ火で作った武器を握っている。


「そして、前より上手に殺せるようになった」


胸が強く鳴った。


声は責めない。


嘲らない。


ただ。


遠い昔を思い出しているだけ。


「火が悪かったのかな。盗んだ者が悪かったのかな。それとも、使った人間かな」


答えはない。


求めてもいない。


少し。


間。


「まあ」


ほんの僅か。


楽しそうに。


「便利だったんだろうな」


途切れる。


「……っ!」


ネミティブが息を吸った。


施設の臭い。


冷えた空気。


戻る。


でも。


違う。


視界が広がった。


違う。


見える範囲は。


同じ。


なのに。


情報が増えた。


ラドの重心。


カイルの呼吸。


リナの指先。


天井の亀裂。


床の傾き。


扉の蝶番。


全部が。


同時に輪郭を持つ。


そして。


ラド。


右肩。


僅かな力。


今から。


手を伸ばす。


肩を掴む。


来る。


そう思った瞬間。


ラドの腕が動いた。


ネミティブは半歩だけ退く。


ラドの大きな手が。


空を掴む。


「……は?」


ラドだけではない。


ネミティブ自身も。


息を止めた。


今。


分かった。


動く前に。


リナが一歩近づく。


「大丈夫?」


「触るな!」


鋭い声。


リナの足が止まる。


カイルも。


ラドも。


動かない。


ネミティブが台座を見る。


黒いもの。


ない。


掌を返す。


皮膚の下。


黒い筋。


ズズ……。


這う。


「っ……」


熱い。


次の瞬間。


冷たい。


どちらか。


分からない。


怖い。


なのに。


頭だけ。


妙に澄んでいる。


見える。


考えられる。


今までより。


はっきり。


そして。


胸の奥へ。


ひどく自然に。


一つの感覚が浮かぶ。


やっぱり。


俺は。


間違っていなかった。


後ろから。


ラド。


「帰るぞ」


ネミティブは掌から目を離した。


「……ああ」


少し遅れて。


答えた。


* * *


幕間


その夜。


ネミティブは深い眠りへ落ちた。


いつ眠ったのかは分からない。


気がつくと。


白い部屋にいた。


窓はない。


扉も見当たらない。


床には汚れ一つない。


ヴァルガのどこにも存在しそうにない場所だった。


音もない。


外の風も。


隣の寝息も。


遠くの銃声も。


ここには。


何もない。


夢。


そう気づくまでに時間は掛からなかった。


正面には机。


その向こう側に。


一人の少年。


知らない顔だった。


年齢は。


自分とそれほど離れていないように見える。


白い服。


静かな目。


怖くはない。


不気味でもない。


ただ。


妙に。


何もない。


そんな顔だった。


机を挟んだこちら側には椅子が一つ置かれている。


最初から。


ネミティブがそこへ座ると知っていたように。


「……何だよ、ここ」


少年は答えない。


ネミティブは反射的に腰へ手を伸ばした。


拳銃がない。


短刀もない。


胸が鳴る。


少年が初めて口を開く。


「怖い?」


ネミティブの眉が寄った。


「別に」


「そう」


それだけ。


否定しない。


笑わない。


「誰だ、お前」


少年は少し考え。


首を傾げた。


「分からない」


「は?」


「君には、僕が誰に見える?」


「知らねえよ」


「そう」


また。


それだけ。


腹が立つ。


ネミティブは椅子を引いた。


ギィ……。


白い部屋の中で。


その音だけが。


やけに長く残った。


乱暴に座る。


少年は何も言わない。


ただ。


向かいから見ている。


沈黙。


その沈黙に耐えられなくなった頃。


少年が聞いた。


「何が欲しい?」


「は?」


「君が欲しいもの」


ネミティブは眉を寄せる。


「金」


即答。


少年が小さく頷く。


「それだけ?」


「飯」


「それだけ?」


「寝る場所」


「それだけ?」


こつ。


ネミティブの指が机を叩いた。


「うるせえな」


少年は黙った。


怒らない。


責めない。


続きを急かさない。


ただ。


待っている。


それが。


一番気持ち悪かった。


ネミティブは視線を逸らす。


「……生きたい」


少年が頷く。


「うん」


「死にたくねえ。間違えて死ぬのも嫌だ」


「うん」


机を叩いていた指が止まった。


ラド。


カイル。


リナ。


三人の顔が浮かぶ。


「俺のせいで、他の奴らが死ぬのも嫌だ」


少年は。


まだ聞いている。


「俺がちゃんと見てれば。俺が間違えなきゃ、みんな生きて帰れる」


今日の施設。


黒いもの。


ラドが動く前に。


その動きが分かった。


少年が静かに聞く。


「だから?」


ネミティブが顔を上げる。


「……何」


「そのために、何が欲しい?」


胸が鳴った。


答えは。


もうある。


なのに。


口に出したくなかった。


少年は待つ。


善悪を決めず。


ただ。


本人が言葉にするのを。


待っている。


「……間違えそうな奴がいたら」


ネミティブがようやく口を開く。


「止める」


「その人が嫌がっても?」


「死ぬよりマシだろ」


少年が頷く。


「君の方が正しいなら?」


ネミティブの口が止まった。


ラドが浮かぶ。


『触るな』


あの時。


ラドは。


正しかったのかもしれない。


それでも。


自分は触った。


そして。


力を得た。


机の端を掴む。


指へ力が入る。


「……俺が決める」


少年は表情を変えなかった。


「そう」


「俺が偉くなりたいとかじゃねえ」


「うん」


「全員に言うこと聞かせたいわけでもねえ」


「うん」


「ただ」


ネミティブは机を睨む。


「見えてない奴に任せて、取り返しつかなくなるのが嫌なだけだ」


少年は何も言わない。


「俺が見えてるなら、俺が止める」


もう一度。


言葉にする。


「それだけだ」


長い沈黙。


少年が小さく頷く。


「分かった」


判決はない。


正しいとも。


間違っているとも。


言わない。


ネミティブの眉が寄る。


「何なんだよ」


少年が顔を上げた。


「君が言っただけだよ」


「……は?」


「僕は聞いただけ」


その言葉だけが。


妙に胸へ残った。


白い床が遠ざかる。


机。


少年。


全部が。


少しずつ白へ溶けていく。


ネミティブは立ち上がった。


ガタンッ!


椅子が倒れる。


「待て!」


少年はただ見ている。


「お前、誰なんだよ!」


最後まで。


答えない。


消える直前。


少年が小さく言った。


「また聞くよ」


* * *


ネミティブは目を覚ました。


「はっ……!」


身体を起こす。


暗い天井。


近くから聞こえる寝息。


湿った空気。


煤。


古い布。


いつものRATの拠点。


胸だけが。


まだ速い。


ネミティブは肩の古傷へ手を当てた。


夢。


ただの夢。


そう思う。


なのに。


自分が口にした言葉だけは。


妙にはっきり覚えていた。


――俺が見えてるなら、俺が止める。


* * *


一つ目


別の場所。


男は一枚の記録を何度も読み返していた。


机の上には同じ形式の紙が何枚も積まれている。


記録。


数値。


観察項目。


判定。


どこへ目を移しても。


同じ枠。


同じ文字。


同じ尺度。


その中の一枚だけ。


結果が違っていた。


因子は定着している。


肉体崩壊はない。


精神活動にも大きな異常は見られない。


そして。


能力の発現。


ぱらっ。


紙をめくる。


もう一度。


同じ箇所。


数字。


結果。


何度確認しても。


変わらない。


長い時間を費やした。


壊れた者がいた。


死んだ者がいた。


狂った者がいた。


何も起きず。


そのまま廃棄された者もいる。


繰り返した。


条件を変えた。


記録した。


また繰り返した。


その果てに。


ようやく。


「……成功だ」


声が。


僅かに震えた。


男は暗がりを見る。


そこには。


影のようなものがいる。


人に見える瞬間もある。


だが。


輪郭へ目を凝らせば。


距離そのものがずれる。


老人。


子ども。


男。


女。


どれにも。


見える。


だから男は。


まともに見ようとしなかった。


「聞いているか」


返事はない。


男は記録を握る。


紙の端が僅かに曲がる。


「適合した。壊れていない。能力も発現している」


沈黙。


「これで……これで終わる」


暗がりから。


声。


「一人見つかったくらいで安心するのって、変じゃない?」


男の指が止まった。


「……何?」


返事はない。


「どういう意味だ」


影は黙っている。


男の口元から笑みが消えた。


「代わりがいれば終わると言った。適合したんだぞ。なら、何が足りない」


カチ。


時計。


男の顔が止まる。


机の上。


新しい紙。


新しい名前。


新しい選別票。


カチ。


「……何故だ」


カチ。


「成功しただろう」


カチ。


「代わりはいる」


男は暗がりを見る。


「答えろ」


しばらく。


何もない。


やがて。


声。


「昔々、ある女神がいた」


男の眉が寄る。


「今はそんな話をしているんじゃない」


「女神は冥界へ降りた」


「聞いているのか」


「そこには門があった。七つ」


男の目が。


僅かに動いた。


声は。


問いなど最初から存在しないように続ける。


「一つ目の門で、女神は身につけていたものを一つ取られた。二つ目でも、また一つ」


男は黙った。


「三つ目。四つ目。五つ目。六つ目。そして七つ目」


静寂。


「最後には、何も持っていなかった」


それだけ。


男は続きを待つ。


意味。


答え。


説明。


何もない。


「……それで?」


影が答える。


「昔話。それだけ」


男の目が。


記録へ落ちる。


一人。


成功。


それでも。


続く選別。


七つの門。


「……七つ」


声は何も言わない。


男の中でだけ。


別々だったものが繋がり始める。


一人目。


一つ目。


七つの門。


「一人じゃない」


影は黙っている。


「七つ。七人」


肯定はない。


否定もない。


だが。


男には。


もう答えに見えていた。


「そういうことか」


ペンを取る。


最初の記録。


余白。


そこへ。


一つ目。


そう記す。


カチ。


また。


新しい選別票。


男の手が止まる。


「……まだ」


喉が掠れた。


「まだ私に選ばせるのか」


影は答えない。


指が震える。


ペン先が紙へ触れ。


小さな黒点を作る。


「七つ揃えれば……終わるんだろう」


静寂。


やがて。


声は。


また。


遠い昔を思い出した。


「昔、石を押していた男がいた。山の上まで押していた。あと少しだった」


男の顔が強張る。


「黙れ」


「でも落ちた。男は下まで戻って、また石を押した」


「黙れ」


「そして、またあと少しまで――」


「黙れ!」


ドンッ!


拳が机へ落ちる。


積まれた記録がずれた。


インク瓶が小さく跳ねる。


カチ。


カチ。


カチ。


時計だけが。


同じ間隔を守っている。


声は止まった。


男は荒い呼吸のまま。


新しい選別票を見る。


長い沈黙。


紙を掴む。


「……いい」


ペンを握り直す。


「七つ揃える。それで終わらせる」


影は。


何も答えない。


カチ。


ペン先が。


新しい名前へ触れた。


男は。


また一人を選んだ。


* * *


見えすぎる


施設から戻って以降。


ネミティブには。


以前より多くのものが見えるようになっていた。


別人になったわけではない。


元々。


人を見ることには慣れている。


父の足音。


右眉。


呼吸。


酒の臭い。


母が男の前だけで変える笑い方。


人が嘘をつく瞬間。


逃げようとする瞬間。


殴る直前に動く肩。


そういうものを拾えなければ。


子どもの頃は生きられなかった。


今は。


その。


もう一つ先が見える。


朝のRAT拠点。


壊れた窓から入る光が床を斜めに切り、昨日の焚き火から残った灰を白く浮かび上がらせている。


木箱が引かれる。


床板が軋む。


通りの向こうでは荷車の車輪が石を噛む。


その中で。


カイルが嘘をつく時は。


左の犬歯へ舌が触れる。


リナが怖い時は。


ほんの少し右肩が上がる。


ラドが腹を立てた時は。


最初に笑う。


それ自体は。


昔から知っていた。


違うのは。


今なら。


その一つ前が分かることだった。


舌が動く前。


肩が上がる前。


笑みが作られる前。


呼吸。


重心。


視線。


ほんの僅かな変化が。


次の動きまで連れてくる。


「兄貴!」


軽い足音が近づく。


振り返るより先に。


カイルだと分かった。


「今日の北――」


「使える」


カイルが目の前で急停止した。


細い身体が一度前へ傾き。


一歩で戻る。


「まだ何も言ってねえけど」


「見張り一人減ってる。昼なら通れる」


「……見てきた?」


「朝」


「はっや」


カイルが笑った。


「やっぱ兄貴すげえな」


胸の奥が熱くなる。


少し前まで。


その言葉は。


ただ嬉しかった。


今は。


違う。


嬉しいより先に。


――そうだろ。


その感覚が。


一瞬だけ。


混ざる。


ネミティブ自身は。


まだ。


その違いに気づいていなかった。


* * *


小さな声


その頃から。


RATの中では。


似た言葉を聞くことが増えた。


大声ではない。


皆の前で宣言する奴もいない。


火を囲んでいる時。


荷を運んでいる時。


武器を磨いている時。


そんな隙間へ。


小さく。


混ざる。


「判断はネミティブでよくね?」


帽子を深く被った少年が言った。


別の日。


頬に小さな傷のある少年。


木箱の上へ腰を下ろし。


「ラドはまとめ役でいいじゃん。現場はネミティブで」


さらに別の日。


右手首へ汚れた布を巻いた少年。


荷縄を締めながら。


「分けた方が楽だろ。効率いいし」


誰も。


ラドを追い出せとは言わない。


ネミティブを頭にしろとも言わない。


役割。


効率。


安全。


合理。


どれも。


間違ってはいなかった。


だからこそ。


言葉だけが残った。


ある日。


焚き火の横。


誰かが笑いながら。


「ラド派」


別の誰か。


「じゃあ、お前ネミティブ派?」


ぱちっ。


火が弾ける。


その場では。


ただの冗談だった。


けれど。


翌日には。


別の場所でも。


聞こえた。


本人たちが。


一度も名乗っていない名前が。


いつの間にか。


RATの中を歩き始めていた。


* * *


昨日のネミティブ


夕方。


市場には。


一日の終わりの臭いが溜まっていた。


売れ残った魚。


湿った木箱。


消えかけた炭。


酒。


店仕舞いを急ぐ声。


ラドは。


一人でその間を歩いていた。


大きな身体は。


人混みでも目立つ。


すれ違う者の方が。


自然に避ける。


後ろから。


「ラド」


声。


振り返る。


少し離れた壁。


ネミティブが寄りかかっていた。


夕方の影で。


顔の半分が暗い。


ラドの眉が上がる。


「何だよ」


ネミティブが壁から離れ。


歩いてくる。


足音は。


ラドより軽い。


「最近、俺に直接聞きに来る奴増えた」


ラドの顔から。


少しだけ力が消える。


「……だから?」


「別に。無理にお前通す意味もねえだろ」


胸の奥が。


熱くなる。


「俺が邪魔か?」


ネミティブは。


少しだけ笑った。


普段より。


柔らかい。


その笑い方が。


余計に腹立たしかった。


「結果が出てる方が決める。それだけ」


ラドの拳が握られる。


指の節が。


白くなる。


「お前、俺が何年ここで――」


ネミティブの笑みが。


僅かに深くなった。


「もう昔みたいに、お前の後ろ歩いてるガキじゃねえよ」


市場の向こう。


ガタンッ。


木箱が落ちる。


それでも。


ラドは動かなかった。


ネミティブは。


その横を通り過ぎる。


軽い足音。


一歩。


二歩。


人混みへ消える。


ラドは。


最後まで。


振り返らなかった。


* * *


昨日のラド


同じ日の夜。


ネミティブは一人。


狭い路地を歩いていた。


昼の市場とは違い。


古い住宅の間には。


焚き火の赤い光が点々と残っている。


窓のない壁。


揺れる影。


道の先。


大きな身体が。


路地の半分を塞いでいた。


ラド。


「話ある」


ネミティブの足が止まる。


「何」


ラドは。


いつものように。


口元だけで笑った。


「お前さ。俺が何で最初にパンやったと思ってんだ?」


胸が鳴る。


「……は?」


「可哀想だったから?」


鼻で笑う。


「使えそうだったからだよ」


胸の奥が。


もう一度。


鳴った。


「細かった。顔も割れてなかった。狭いところ入れた。周り見る癖もあった」


言われるたび。


昔の自分が戻る。


骨ばった腕。


汚れた服。


逃げ道ばかり見ていた目。


全部。


本当だった。


「飯やりゃ動くと思った。それだけ」


肩から胸へ走る古傷が。


服の下で疼いた気がした。


「……今さら何だよ」


「別に。今だって同じだし」


ネミティブの目が細くなる。


「何?」


「使えるから置いてる」


ラドが笑う。


焚き火の光が。


目の奥へ届かない。


「勝手に兄貴だ何だって思ってたのお前だろ」


ネミティブは。


動けなかった。


ラドは。


そのまま横を通る。


大きな身体が一度。


視界を塞ぐ。


重い足音が。


遠ざかる。


ネミティブの手が。


無意識に肩の傷へ伸びた。


ぎゅっ。


違う。


ラドは。


でも。


最初は。


本当だった。


なら。


今は。


どこから。


どこまで。


本当だった。


一度疑っただけで。


昔の全部まで。


違って見え始めた。


* * *


翌朝


朝。


本物のラドは。


いつも通りだった。


拠点の入口。


年下の少年へパンを投げる。


「食え」


「俺?」


「他に誰いんだよ」


少し先。


膝を切った少年を座らせる。


ラドの大きな身体がしゃがむ。


水。


布。


「痛え」


「知るか。動くな」


口は悪い。


手は。


昔と変わらず慎重だった。


最後に。


いつものように。


笑う。


ネミティブは。


少し離れた壁際から見ていた。


昨日。


あれだけのことを言っておいて。


何もなかったような顔をしている。


腹が立つ。


ラドが顔を上げた。


視線。


こちら。


ラドの中でも。


同じものが動いた。


昨日。


あれだけ言った。


それなのに。


ネミティブも。


何もなかったように立っている。


腹が立つ。


二人の目が合った。


朝の拠点。


人の声。


鍋。


靴音。


全部。


そのまま。


どちらも。


逸らさない。


どちらも。


何も言わなかった。


* * *


火が入る


昼。


最初は。


本当に。


小さな言い争いだった。


「ネミティブに聞けって」


「何でだよ。ラドが決めるだろ」


「当たる方でいいじゃん」


「そういう話じゃねえ」


壊れた建物の一階。


何人かが荷の整理をしている。


木箱。


縄。


机。


人が通るたび。


狭い床の上で。


身体がぶつかる。


近く。


帽子を被った少年が。


荷縄を指へ巻きながら。


何でもない声で言った。


「ネミティブがラド降ろすって聞いた」


手が止まる。


一人が振り返った。


「誰から?」


帽子の少年は。


首を傾げる。


「知らねえ」


少し離れた場所。


頬に傷のある少年が。


別の相手へ。


「逆だろ」


「何が?」


「ラドがネミティブ潰すって」


「マジ?」


「知らね」


笑う。


それだけ。


誰も。


確かめない。


だが。


言葉は。


消えない。


午後。


拠点の空気は。


少しずつ変わった。


普段なら。


同じ木箱を運ぶ連中が。


別れて座る。


誰かがラドを見る。


誰かがネミティブを見る。


話しかけようとして。


やめる。


夕方。


人が増えた室内は。


狭かった。


一人の少年が横を抜ける。


肩。


別の少年へ当たる。


ドッ。


「どけ」


「そっちがどけ」


肩を押す。


押し返す。


次の瞬間。


ドッ!


拳。


顔。


「何すんだ!」


ガッ!


蹴り。


椅子。


ガシャッ!


倒れる。


「やめろ!」


リナが走る。


小柄な身体で。


二人の間へ入ろうとする。


カイルも続く。


「おい!」


別の少年が。


ナイフを抜いた。


銀色。


その向こう。


拳銃へ伸びる手。


カチャ。


「武器しまえ!」


ネミティブの声が飛ぶ。


ほとんど同時。


「撃つな!」


ラド。


二人の声が。


同じ空間へ。


重なった。


目が合う。


周囲では。


まだ。


殴る音。


押す音。


怒鳴る声。


ネミティブが歩く。


ラドも。


こちらへ。


ラドの一歩は大きい。


ネミティブより早く。


距離が詰まる。


「昨日から何なんだよ!」


ネミティブが先に叫んだ。


ラドの顔が歪む。


「それこっちの台詞だろ!」


「最初から俺使うつもりだったんだろ!」


ラドの足が止まった。


「……誰から聞いた」


その一言。


胸の中の疑いが。


一気に形を持つ。


やっぱり。


知っている。


「誰からって……お前だろ!」


ラドの眉が寄る。


「俺が?」


「とぼけんな!」


「お前こそ昨日俺に何言った!」


「昨日?」


「もう俺いらねえって言っただろ!」


「言ってねえよ!」


「は?」


一瞬。


二人が止まった。


周囲。


まだ。


拳。


怒鳴り声。


足音。


椅子。


全部。


聞こえる。


なのに。


二人の間だけ。


急に。


遠い。


ラドが。


ゆっくり眉を寄せる。


「……待て」


ネミティブも。


同じだった。


何か。


おかしい。


その瞬間。


パンッ!


別の場所。


銃声。


狭い室内へ。


鋭く反響する。


全員が。


一斉に動いた。


「撃ったぞ!」


「やれ!」


「ネミティブ!」


「ラド!」


押す。


掴む。


叫ぶ。


足。


身体。


人の影。


夕方の光と。


古い焚き火の赤の間で。


何重にも動く。


リナが走った。


その腕。


頬に傷のある少年が掴む。


「こっち」


「離して!」


「見とけ」


「何を!」


リナが腕を振りほどく。


一歩。


視線。


その先。


ネミティブ。


ラド。


二人が。


向かい合っていた。


* * *


本当だったこと


「最初はそうだったよ!」


ラドの声が。


騒ぎを割った。


ネミティブの息が止まる。


「お前を使えると思った! でも途中から違った!」


「何が違うんだよ!」


「利用するだけの奴が、帰ってこなくて心配するかよ!」


昔。


夜。


仕事から戻った時。


入口。


ラド。


『遅え』


怒った顔。


でも。


最初に見たのは。


荷じゃない。


身体だった。


「怪我して腹立つかよ!」


血のついた布。


乱暴な声。


傷を巻いていた指。


『何やってんだ』


「強くなって嬉しいって思うかよ!」


喉が詰まる。


「だったら昨日!」


「だから昨日お前と話してねえんだよ!」


「嘘つけ!」


「嘘じゃねえ!」


ラドが一歩。


近づく。


その体重で。


石が。


ざりっ。


鳴った。


「腹立つんだよ!」


ネミティブの身体が固まる。


ラドの顔。


笑っていない。


腹を立てる時。


最初に笑う。


そのラドが。


もう。


笑っていない。


「俺が拾ったガキが、いつの間にか俺より偉そうに立って!」


言葉が。


刺さる。


「みんなお前を見る!」


「俺のせいじゃ――」


「分かってるよ!」


ラドの声が。


さらに大きくなる。


目が赤い。


拳銃を握った大きな手も。


震えている。


それでも。


銃口だけは。


ずっと。


床を向いていた。


「分かってるから腹立つんだよ! 俺が何年ここでやってきたと思ってんだ!」


ネミティブは。


何も返せない。


「お前が強くなったのは嬉しかったよ!」


声が。


掠れる。


「嬉しかったんだよ……!」


ネミティブの指から。


少しだけ。


銃を握る力が抜けた。


ラドの顔が歪む。


「なのに」


一歩。


さらに近い。


「何で俺の居場所まで持ってくんだよ」


ネミティブが。


口を開く。


何かを。


返そうとする。


その時。


背後。


「ネミティブ! 危ねえ!」


声。


振り向くより。


早い。


ドンッ!


背中へ。


強い力。


足が浮く。


身体が前へ押し出される。


ラド。


近い。


止められない。


ガッ!


肩と胸が。


ぶつかる。


ネミティブより身体の大きいラドは。


ほとんど動かない。


その反動で。


ネミティブの腕だけが。


上へ跳ねた。


指。


引き金。


パンッ!


近い。


近すぎる。


銃声が。


耳を潰す。


ラドの目が。


見開かれた。


胸。


布が。


一瞬。


内側から揺れる。


次に。


赤。


滲む。


広がる。


「……あ」


ラドが。


僅かに後ろへ。


右足。


踏ん張る。


でも。


体重を支え切れない。


ズリッ。


膝。


石畳。


ドサッ。


重い身体が。


地面へ落ちた。


その音だけが。


妙に。


大きかった。


一瞬。


本当に。


他の音が。


消えた。


ネミティブの手が震える。


拳銃が。


指から滑る。


カラン。


石の上で。


回る。


「……ラド?」


返事はない。


「ラド」


一歩。


近づく。


膝をつく。


ラドの身体が。


いつもより。


大きい。


倒れているから。


余計に。


持ち上げられない。


胸へ手。


血。


温かい。


赤い。


指の間へ。


入る。


違う。


俺じゃない。


押された。


ネミティブが。


勢いよく振り返る。


人。


何人もいる。


動いている。


止まっている。


壁。


影。


煙。


誰。


誰が。


押した。


「誰だ!」


声が割れる。


「誰が押した!」


誰も。


答えない。


リナ。


少し離れたところ。


顔が。


真っ白。


その横。


頬に傷のある少年が。


身を屈める。


リナの耳元。


「見ただろ」


リナは。


動かない。


「ネミティブが殺した」


「違う!」


ネミティブが叫ぶ。


「押された!」


リナの目が。


こちらへ。


声が震える。


「誰に」


ネミティブの口が止まる。


誰。


見ていない。


後ろ。


力。


それだけ。


「……分からねえ」


リナの顔が。


崩れる。


「人殺し」


「リナ」


「人殺し!」


「違う!」


「ラド兄を!」


息が。


できない。


「俺じゃ――」


「撃ったのはお前でしょ!」


言葉が。


止まる。


銃を持っていた。


自分。


引き金。


自分。


ラドと揉めていた。


自分。


疑った。


自分。


足元。


ラド。


血。


全部。


そこにある。


リナの目から。


涙が落ちる。


「私は」


唇が震える。


「お前を絶対に許さない」


ネミティブは。


何も。


返せなかった。


* * *


風が変えた軌道


ラドの血が。


指の間から。


手首へ流れていた。


それを見た瞬間。


また。


頭の奥。


あの声。


黒いものはない。


触れてもいない。


それでも。


遠い昔の景色が。


脳の奥へ流れ込んでくる。


「昔、美しい少年がいた。その少年を、とても大切にしていた神がいた」


青い空。


草原。


光。


二人。


笑っている。


円盤。


手。


「神は円盤を投げた。少年はそれを追った」


円盤が。


空へ。


高く。


舞う。


その時。


風。


草が。


同じ方向へ倒れる。


「でも、その少年を欲しがっていた風もいた」


ネミティブの呼吸が止まる。


空中の円盤。


僅かに。


軌道が変わる。


「風は少しだけ吹いた。それだけ」


円盤。


落ちる。


少年。


振り返る。


鈍い音。


倒れる。


神。


走る。


血。


「円盤を投げたのは神だった。少年を殺したのも、その円盤だった」


ネミティブの指が震える。


ラドの血も。


その震えに合わせて。


指の間で揺れた。


声は。


誰も責めない。


「でも、円盤がそこへ飛ぶようにしたのは風だった」


ラド。


自分。


拳銃。


背中。


押した手。


見えない顔。


「さて」


声が。


ほんの少しだけ。


近くなる。


「殺したのは誰だったんだろうな」


答えられない。


声も。


答えない。


昔の出来事だけを。


置いて。


消えた。


* * *


見ていた者


少し離れた屋根の上。


一人の少年が立っていた。


下の騒ぎからは。


張り出した屋根と古い壁が。


その姿を隠している。


さっきまで。


その頬には。


小さな傷があった。


少年が。


指先で自分の頬を撫でる。


ずるっ。


皮膚が揺れた。


頬骨。


顎。


目元。


輪郭が。


ゆっくり。


別のものへ変わる。


傷。


消える。


もう。


さっきの少年ではない。


少年は。


屋根の端から。


下を見る。


倒れたラド。


その大きな身体の横。


血の中で膝をつくネミティブ。


泣いているリナ。


少し離れた場所で。


動けないカイル。


騒ぐRAT。


誰かが走る。


誰かが銃を拾う。


誰かがラドへ近づく。


少年は。


しばらく。


何も言わなかった。


やがて。


小さく。


「……必要だった」


それだけを残し。


屋根の向こうへ。


姿を消した。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


幼かったネミティブは成長し、

彼を取り巻く環境や人間関係も少しずつ形を変え始めました。


積み重なっていく仕事。

広がっていく名前。

そして、ラドとの間に生まれ始めた小さな変化。


それがどこへ向かうのか。


次章へ続きます。

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