第一章 ネミティブ編 ― 傲慢 ―
『KillerWorld』第一章、ネミティブ編です。
これは、生きるために「人を見る」ことを覚えた少年の物語。
何が正しいのか。
誰を信じればいいのか。
その答えを知らないまま、彼は生き延びていきます。
ここからKillerWorldの物語が始まります。
ヴァルガ南部自治圏。
かつて工場と貨物の流れで膨らんだ南部には、役目を終えた設備と、その周囲に置いていかれた街が残っていた。
錆びた鉄骨の向こうに家が建ち、使われなくなった倉庫の壁には別の店の看板が打ちつけられている。舗装はところどころ割れ、雨が降れば穴に濁った水が溜まった。深い場所には誰かが板を渡し、それでも足りなければ、どこから持ってきたのか分からない鉄板が置かれた。
市場へ行けば、一つの通りでいくつもの言葉が飛び交う。
昔からここに住む者。
工場が止まっても残った者。
仕事を探して別の土地から流れ着いた者。
出自も言葉も違う人間が、同じ露店でパンを買い、荷車を避け、値段を巡って店主と怒鳴り合う。
自治政府の標識はある。
窓口もある。
けれど古い地区へ入るほど、それらは遠くなった。
壊れたものは、直せる者が直す。
食べ物は、持っている者が売る。
誰かに守られるのを待っていれば、その前に腹が減る。
だから。
守られない者は、自分で生き延びる。
そういう土地だった。
その南部の一角。
古い住宅が肩を寄せるように並ぶ細い通りに、外壁の剥がれた家があった。
二階建て。
雨樋は途中で割れ、窓枠には何度塗り直したのか分からない塗料が固まっている。玄関脇には、片方の脚が短くなった椅子が壁へ立て掛けてあった。
中も似たようなものだった。
床板は場所によって軋み方が違う。
台所へ続くところは高い音。
裏口の前は低い音。
廊下の中央。
そこだけ。
重い。
だから。
父の足音は、聞き分けられた。
ドン。
ドン。
廊下の向こうから近づいてくる。
いつもより歩幅が短い。
速い。
一歩ごとに床板が沈む。
途中で。
カン。
硬いものが壁へ当たった。
少年は壁際で膝を抱えたまま、顔を上げた。
たぶん。
瓶。
こういう日は機嫌が悪い。
何に怒っているのかは知らない。
仕事なのか。
金なのか。
市場で誰かと揉めたのか。
少年には分からない。
分かる必要もなかった。
重要なのは。
扉が開いたあと。
何が起きるか。
そちらだった。
少年は机の下を見る。
狭い。
入れる。
けれど、奥まで行けば逃げ道がない。
窓。
高い。
裏口。
ここからなら――
三歩。
それから廊下。
もっと遠い。
今なら。
まだ。
逃げられるかもしれない。
そう考えた。
けれど。
足が動かない。
逃げたい。
頭では分かっている。
なのに身体は、父が来るのを待っているみたいに固まっていた。
ドン。
足音が止まった。
扉のすぐ向こう。
少年は口を閉じる。
鼻から。
ゆっくり。
息をする。
音を出すな。
見つかるな。
いや。
もう。
いることは知っている。
それでも。
静かにしていた。
ギィ……。
蝶番が鳴った。
扉が開く。
最初に見えたのは靴だった。
泥。
片方だけ濡れている。
次に脚。
腰。
手。
そして。
父の顔。
右の眉が少し下がっている。
頬が赤い。
目の周りも。
酒。
手には。
やっぱり瓶。
半分くらい残っている。
目が合った。
まずい。
そう思った時には。
父の肩が動いていた。
右じゃない。
瓶を持っていない方。
左腕。
肘。
手。
何をされるのか。
もう。
見えている。
なのに。
避けられない。
バシッ。
頬が弾けた。
視界が一気に横へ流れる。
壁。
床。
机の脚。
肩から落ちた。
息が喉の奥へ詰まり、声が出ない。
耳の中だけ。
高い音が残った。
「何見てんだ」
怒っている。
それだけは分かる。
何を見れば怒られないのか。
それは。
まだ分からない。
「……すみません」
父が近づく。
靴。
一歩。
もう一歩。
服を掴まれた。
ぐっ。
首元が締まる。
身体が持ち上がる。
足先が床を擦った。
酒の臭い。
汗。
煙草。
近い。
少年は父の顔を見る。
右眉。
目。
口。
呼吸。
指。
全部。
見た。
一つでも。
次に何が来るか分かるものを探す。
父の指に力が入る。
肩が。
僅かに後ろへ引かれた。
来る。
少年の身体が先に縮む。
けれど。
腕が振られた瞬間。
いつもの痛みとは違った。
肩から胸へ。
鋭いものが走る。
「……っ」
何が起きたのか。
すぐには分からない。
ただ。
熱い。
服の内側を。
何かが流れていく。
父の手が離れた。
少年は床へ落ちる。
反射的に胸元を押さえた。
ぬるい。
手を離す。
赤い。
(血……)
さっきまで。
父の顔を見ていた。
次の動きを探していた。
その全部が。
一瞬で消えた。
怖い。
両手で傷を押さえる。
止め方なんて知らない。
ただ。
押す。
強く。
もっと。
それでも。
指の間から生温かい血が滲んだ。
床へ。
一滴。
もう一滴。
少年は父を見る。
父は。
動いていなかった。
いつもの顔じゃない。
怒鳴らない。
殴らない。
目も。
少年の顔を見ていない。
傷。
そこだけ。
見ている。
その沈黙の方が。
怖かった。
何かされる。
次が来る。
少年は肩を丸め、身体を小さくした。
逃げ道を見る。
裏口。
父の向こう。
無理。
窓。
遠い。
机。
隠れられない。
父が舌打ちした。
「……チッ」
服を掴まれる。
少年は目を閉じた。
来る。
今度は。
もっと。
けれど。
拳は落ちなかった。
ドサッ。
身体が乱暴に床へ投げられる。
肩が板へ当たる。
少年は目を開けた。
父はもう。
こちらを見ていなかった。
ドン。
ドン。
足音が遠ざかる。
廊下。
一度。
壁へ何かが当たる。
カン。
それから。
玄関。
音。
静かになる。
少年は。
しばらく動かなかった。
傷を両手で押さえたまま。
開いた扉を見る。
戻ってくるかもしれない。
耳を澄ます。
足音。
なし。
瓶。
なし。
声。
なし。
外では。
通りを荷車が通った。
古い車輪が石の継ぎ目で跳ねる。
近所の誰かが怒鳴る。
市場の方から。
パンを焼く匂いが少しだけ流れてきた。
いつもの街。
いつもの音。
その中に。
父の足音だけが。
もうない。
そこでようやく。
少年は息を吐いた。
肺の奥まで入らなかった空気が。
少しだけ。
戻る。
(……助かった)
なぜ父が止まったのか。
分からない。
血を見たからなのか。
やり過ぎたと思ったのか。
飽きただけなのか。
そんなことは。
少年には分からなかった。
分かったのは。
一つだけ。
今日は。
これ以上。
来ない。
ただ、その日は終わった。
それからも父は殴った。怒鳴った。物を投げた。
何が悪かったのか分からない日でも、とりあえず「すみません」と言った。そうすれば早く終わる時があった。何を言っても終わらない日もあった。
家の床板は、父の体重が乗ると低く鳴った。
ドン、ドン、と廊下を近づいてくる音。酒瓶が壁へ当たる乾いた音。扉の前で一度止まる足音。
少年は、それを聞き分けるようになった。
ある日、また服を掴まれた。
首元を持ち上げられた拍子に襟がずれ、肩から胸へ伸びた古い傷が露わになる。
父の手が止まった。
ほんの一瞬だけだった。
「……チッ」
次の拳は来なかった。
代わりに床へ放り投げられ、背中が板へぶつかった。
別の日も同じだった。
服を掴まれる。傷が見える。父の目がそこへ落ちる。舌打ち。手が離れる。
何度か繰り返しても、少年はそれが傷のせいだとは考えなかった。ただ、そこを見られるのが怖かった。触られるのはもっと嫌だった。
それでも身体は少しずつ覚えた。
父の足音が速い日は壁際へ寄る。肩が動いたら小さくなる。掴まれたら傷を庇う。余計なことを言わず、謝る。
そうしていれば、終わることがある。
寝る場所も決まっていなかった。
家にはベッドと呼べるものがなかった。壁際で丸くなっていて「邪魔」と言われれば廊下へ移り、そこでも追い払われれば机の下へ潜った。
追い払われなかった場所が、その日の寝床になる。
床板は硬い。冬になると、隙間から入った冷気が服を通して背中へ染みた。膝を胸へ引き寄せ、できるだけ身体を小さくすれば、少しだけ寒さをやり過ごせた。
腹が減ることにも慣れた。
家に食べ物があっても、自分のものではない。
誰もいない時だけ台所へ入る。
古い棚へ手を掛ける。
ギィ……。
蝶番が鳴っただけで、手が止まった。
廊下を見る。
足音はない。
瓶の音もない。
母の声もしない。
しばらく待ってから、ようやく棚へ手を伸ばした。
パンを一つ取る。
全部は駄目だ。
なくなれば気づかれる。
端を少しだけ千切って口へ入れ、残りは割れた壁板の隙間や、脚の折れた家具の裏へ押し込んだ。
明日も食べ物があるとは限らない。
明後日はもっと分からない。
だからパンは、腹いっぱい食べるものではなかった。
なくならないように食べるものだった。
水も似ている。
雨の日には欠けた容器を軒下へ置いた。
ぽた。
ぽた。
錆びた雨樋を伝った水が溜まっていく。
濁っている時もあった。
鉄臭い時もあった。
それでも喉が渇いていれば飲んだ。
母は夜になると顔が変わった。
夕方、通りの向こうから男の靴音が近づいてくると、昼間まで苛立っていた声が少し高くなる。
「いらっしゃい」
笑う。
少年へ向けるものとは違う、柔らかい声だった。
男が帰る。
バタン。
扉が閉まる。
笑顔も一緒に消える。
その変わり方が不思議で、少年は母を見ていた。
「何?」
肩が跳ねた。
「その顔やめてくれる? じっと見られると気持ち悪い」
「……すみません」
それから、人の顔を見る時は少しだけ気をつけるようになった。
けれど、見ること自体はやめられなかった。
怖かったからだ。
顔を見れば、怒る前に分かるかもしれない。
声を聞けば、機嫌が分かるかもしれない。
手を見ていれば、殴る前に気づけるかもしれない。
気づいたところで避けられるとは限らない。
それでも見る。
笑っているから優しいとは限らない。
それだけは、早く覚えた。
* * *
ある日。
家の外で複数の足音が止まった。
一人ではない。
重い靴。
軽い靴。
砂利を踏む音。
少年が顔を上げた直後。
バンッ!
玄関の扉が乱暴に開いた。
「何だてめえら!」
父の怒鳴り声が家中へ響いた。
いつも自分へ向けられている声より大きい。
少年は部屋の隅へ身体を寄せた。
知らない男たちが何人も入ってくる。
狭い家だった。
大人が四人も入れば、それだけで通路が塞がる。
父が一人へ近づいた。
少年は怖くなかった。
父は強いと思っていた。
逃げても捕まる。
殴られれば痛い。
抵抗しても止められない。
少年の知っている世界では、父より強いものはいなかった。
父の拳が男の顔へ入る。
ドッ。
男の頭が横へ振れ、壁際の椅子へぶつかった。
やっぱり。
そう思った。
次の瞬間。
後ろから別の男が父の肩を掴んだ。
父が振り払う。
横から蹴り。
ドンッ!
厚い身体が壁へぶつかり、古い板が軋んだ。
父が起きようとする。
そこへもう一人。
さらに一人。
多い。
少年の視線が父の顔へ移る。
そこで初めて気づいた。
目が泳いでいる。
呼吸が荒い。
口元が引きつっている。
いつも自分を見下ろしていた顔とは違った。
(怖いんだ)
父も。
怖がる。
その事実が、すぐには頭へ入らなかった。
父が怖がるなら。
これはもっと危ない。
少年は出口を見る。
男たちは父へ集まっている。
裏口まで。
机を回って三歩。
廊下。
そこから二歩。
今なら。
逃げられる。
足へ力を入れる。
動かない。
(行って)
膝が震える。
(今)
父が倒れた。
ドサッ。
男の腕が上がる。
何か硬いもの。
振り下ろされる。
鈍い音。
少年の身体がびくっと跳ねた。
目を逸らしたい。
それでも見てしまう。
母が叫んだ。
その声が途中で変わった。
「ねえ、待って」
少年が何度も聞いた声だった。
夜。
男たちへ使っていた声。
母は笑おうとしていた。
「話せば分かるから」
顔を変える。
声を変える。
言葉を変える。
けれど止まらない。
机が倒れた。
何かが割れた。
母の声が大きくなった。
男たちの靴音が動く。
そして。
静かになった。
ガチャ。
玄関。
バタン。
複数の足音が路地へ出ていく。
遠ざかる。
家には少年の呼吸だけが残った。
すぐには動けなかった。
立とうとすると膝から力が抜ける。
壁へ手をつき、少しずつ父の方へ近づいた。
いつも大きく見えていた身体が、床の上では妙に小さかった。
「……お父さん」
返事はない。
「何かしゃべってください」
肩へ手を伸ばす。
途中で止める。
触ったら動くかもしれない。
急に起きて怒るかもしれない。
そんなことを考えてしまう。
「もう……怒りませんか?」
何も返ってこない。
そこで初めて。
もう殴られない。
そう思った。
胸の奥が。
ほんの少しだけ軽くなった。
自分で驚いた。
(……嬉しい?)
父が死んでいる。
なのに。
少し安心した。
急に自分が気持ち悪くなり、肩から胸へ残る傷を服の上から強く掴んだ。
母の方へ行く。
こちらも動かない。
「……お母さん」
返事はなかった。
少年は少し離れたところへ座った。
近づきすぎるのが怖かった。
「僕、気持ち悪くないようにしますから。じっと見ません。ちゃんとします」
喉が痛い。
返事はない。
少し迷ってから。
もう一度だけ口を開いた。
「……もう、助けてって言わなくてもいいですか?」
何も返ってこなかった。
次の日になっても、誰も来なかった。
路地の外ではいつも通り人が歩いていた。
荷車が通る。
市場から声がする。
隣家では何かを煮る臭いがした。
家の中だけが止まっていた。
少年は隠していたパンを出した。
小さな欠片が三つ。
一つだけ食べる。
残りは二つ。
翌日、もう一つ。
最後の一つはさらに細かく千切った。
なくなるのが怖かった。
全部食べれば。
次がない。
最後の欠片を飲み込むまで、随分時間がかかった。
それでも、すぐには外へ出られなかった。
外には知らない人がいる。
怒られるかもしれない。
殴られるかもしれない。
捕まるかもしれない。
けれど。
家にいるのも怖かった。
父も母も動かない。
いつも父の足音を聞いていた廊下も。
母の声が変わっていた部屋も。
もう同じ場所には見えなかった。
その夜。
少年は何も食べずに眠った。
* * *
はじめて盗れた日
市場の朝は、家よりずっと騒がしかった。
荷車の車輪が石畳の割れ目を拾って鳴る。
魚を並べる男が水を撒く。
濡れた路面へ魚の血が薄く広がり、少し先では焼きたてのパンの匂いが流れている。
店の奥に、丸いパンや細長いパンが並んでいた。
焼けた表面を見るだけで腹が鳴る。
(食べたい)
一歩。
近づく。
止まる。
店主。
客。
通り。
まだ我慢できる。
そう思って、その日は通り過ぎた。
水だけで一日を終えた。
翌朝。
起き上がった瞬間、視界が暗くなった。
壁へ手をつかなければ倒れそうになる。
腹は空っぽなのに、内側だけ痛い。
昨日より。
パンの匂いが強く感じられた。
気づけば。
また店の前にいた。
並んだパン。
店主は奥。
誰かと話している。
今なら。
手を伸ばす。
「おい」
身体が止まった。
店主がこちらを見ている。
顔。
手。
足。
逃げ道。
今までなら、怖くて見るだけだった。
今も怖い。
でも。
もう遅い。
「何してる」
答えられない。
店主の顔が歪んだ。
「この薄汚いガキ!」
箒が持ち上がる。
バシッ。
肩へ当たった。
「どっか行け!」
走った。
考えるより先に身体が動いた。
店から離れる。
角。
人。
また角。
後ろは見ない。
息が苦しくなっても止まらなかった。
その夜は路上で身体を丸めた。
壁沿いには雨水が乾いた跡が黒く残り、背中へ小石が食い込んだ。
動く気力もない。
腹は空っぽ。
目を閉じても眠れない。
明日も食べられなかったら。
その次は。
その次も。
考えるほど怖くなった。
三日目。
またパンの匂いがした。
今度は遠くから店を見る。
昨日の店主はいない。
別の人。
客は二人。
一人が店員と話している。
その後ろを何人も通る。
昨日の箒を思い出す。
肩が少し痛む気がした。
近づきたくない。
けれど。
腹が減っている。
一人。
店の前を横切る。
次に二人。
その身体で、一瞬だけ店の中からこちらが隠れた。
どくん。
(今)
人の間へ入る。
店の前。
手を伸ばす。
パンを取る。
「おい!」
走る。
角。
人の間。
肩がぶつかる。
「何だ!」
止まらない。
細い道へ入る。
ぱた、ぱた、ぱた。
自分の軽い足音が石畳へ響く。
後ろにも何か聞こえる気がした。
追われている?
分からない。
振り返れない。
さらに奥。
建物と建物の間に、人一人がやっと通れる隙間があった。
身体を横にする。
押し込む。
服がざらついた壁へ擦れる。
息を止める。
静か。
誰も来ない。
すぐには動かなかった。
胸だけが。
どくん。
どくん。
鳴っている。
しばらくして。
手を見る。
パンがあった。
強く握りすぎて少し潰れている。
急に怖くなった。
(盗った)
見つかれば怒られる。
殴られる。
でも。
今は誰もいない。
パンを小さく千切る。
口へ入れる。
噛む。
飲み込む。
もう少し。
そこで手を止めた。
残りは服の内側へ隠す。
手はまだ震えていた。
それでも。
今日は食べられた。
店主がいなかったこと。
人が通ったこと。
たまたま手が届いたこと。
逃げ切れたこと。
その時の自分には、全部ただの偶然だった。
上手くやったなんて思わない。
自分に特別なものがあるとも思わない。
ただ一つ。
怖くても。
見ていれば。
動ける瞬間が来ることがある。
その感覚だけが、身体の奥に残った。
* * *
見るものが増える
翌日。
同じ店には行かなかった。
昨日の「おい!」を思い出すだけで肩が固くなる。
今度こそ捕まるかもしれない。
だから別の通りを歩いた。
昨日残したパンは、朝にはなくなっていた。
また盗らなければならない。
通りの端。
壁沿い。
人の流れから少し外れて歩く。
パン屋。
店員が入口にいる。
客は一人。
道は広い。
逃げても丸見えになる。
(ここは駄目)
次の店。
果物が並んでいる。
客は多い。
けれど出口が狭い。
大人が一人立てば塞がる。
ここも駄目。
さらに歩く。
ガラガラ。
荷車が店の前へ止まった。
荷台から木箱が降ろされる。
店員が数を確認する。
一箱。
二箱。
三箱。
荷車と人の身体で、店の半分が隠れた。
少年の歩みが遅くなる。
今なら。
一度通り過ぎる。
角を曲がる。
待つ。
もう一度戻る。
荷車はまだいる。
店員もこちらを見ていない。
胸が速くなる。
荷車の影へ入る。
果物を一つ。
後ろから声。
何を言ったのかまでは聞こえない。
走る。
右。
左。
壊れた柵。
自分の身体なら入る。
服が引っかかる。
ビリッ。
そのまま奥まで抜け、しゃがみ込んだ。
追ってくる足音はない。
掌を見る。
小さな果物。
昨日より。
少し早く動けた。
それだけだった。
何日かすると。
成功する日と。
失敗する日が出てきた。
ある日。
食べ物へ手を伸ばした瞬間。
「待て!」
腕を掴まれた。
頭の中が真っ白になった。
掴んだ男ではなく。
父の手が浮かんだ。
酒の臭い。
服を持ち上げられた感覚。
肩から胸へ走った痛み。
「放せ!」
気づけば叫んでいた。
男の手を引っ掻く。
ガリッ。
「痛っ!」
握力が緩む。
少年は走った。
途中で足がもつれる。
膝から石畳へ落ちる。
後ろを見る。
男が来る。
立つ。
また走る。
その日は何も食べられなかった。
夜。
壁際へ座り。
昼間を頭の中でやり直した。
店員。
客。
入口。
逃げ道。
全部見えていた。
なのに。
捕まった。
何で。
もう一度。
店。
人。
食べ物。
その近く。
一人だけ。
何も買わずに立っていた男。
自分が手を伸ばした時。
こちらを見ていた。
(見えてた)
気づかなかったわけじゃない。
腹が減りすぎて。
食べ物ばかり見ていた。
その日から。
食べ物より先に人を見るようになった。
店員。
客。
立っているだけの人間。
自分を見る人間。
手。
足。
出口。
逃げた先。
大人が入れない隙間。
最初から考えていたわけではない。
ただ。
怖かった。
捕まりたくない。
殴られたくない。
だから。
見るものが増えていった。
* * *
自分より上手い奴
ある日。
市場の端で、大きな怒鳴り声がした。
「だから違うって言ってんだろ!」
店の前で年上の少年が店主と揉めている。
まだ大人ではない。
けれど、ネミティブより身体が大きい。
声も太い。
周囲の客がそちらを見る。
店員も。
通行人も。
荷車を押していた男まで。
ネミティブは少し離れた壁際へ寄った。
人が集まるところには近づかない。
その時。
もう一人の少年が目に入った。
自分より四つか五つ上くらい。
日に焼けた肌。
左右で長さの違う黒髪。
左耳の上には古い切り傷。
肘を何度も縫い直した上着。
古い袋を片手に持っている。
でも。
商品を見ていない。
右。
左。
後ろ。
また右。
その目の動きに覚えがあった。
自分も。
盗る前にやる。
一瞬。
目が合った。
少年はすぐに逸らした。
次の瞬間。
「ふざけんな!」
ドンッ!
店主の胸ぐらを掴む。
市場の視線が、そちらへ吸われる。
その瞬間。
袋を持った少年が動いた。
一つ。
二つ。
三つ。
食べ物を袋へ入れる。
速い。
でも。
走らない。
周囲の客と同じ速度で歩く。
(走らない?)
盗ったら逃げる。
それしか知らなかった。
少年は人の流れへ紛れ、そのまま角を曲がった。
少しして。
胸ぐらを掴んでいた少年も手を離す。
「チッ」
さっきまでの怒った顔が消えた。
何事もなかったように。
同じ角へ消える。
そこでようやく分かった。
最初から。
全部。
喧嘩。
怒鳴り声。
人を集めたこと。
店員の視線を外したこと。
盗るためだった。
胸の奥がざわつく。
自分は。
見つからないように盗ることしか知らない。
あいつらは違う。
人を。
動かしていた。
* * *
パン一つ分の信用
数日後。
その少年をまた見た。
細い路地。
一人ではない。
前に店主へ怒鳴っていた少年と。
もう一人。
三人とも自分より大きい。
路地は狭い。
三人が横へ広がれば、ほとんど塞がる。
関わらない方がいい。
そのまま通り過ぎようとした。
「おい」
足が止まる。
「そこのチビ」
やっぱり。
自分だった。
逃げる。
そう思って足へ力を入れる。
「逃げてもいいけど、その先行き止まりだぞ」
笑っている。
ネミティブは前を見る。
高い壁。
右。
閉じた扉。
左。
壊れた板塀。
身体を横にすれば。
通れるかもしれない。
「ほらな」
後ろで笑い声。
振り返る。
市場で袋を持っていた少年が見ていた。
「こいつ、逃げ道探したぞ」
見られていた。
肩が固くなる。
「……違います」
反射的に否定した。
一番年上の少年は何も言わない。
ネミティブの服。
手。
足。
顔。
順番に見る。
自分がしていることと。
同じだった。
「お腹減ってんの?」
袋を持っていた少年が聞いた。
答えない。
服の内側へ手が入る。
ネミティブの身体が固まる。
出てきたのは。
小さなパンだった。
「食う?」
視線がパンへ向く。
すぐに。
手。
もう片方。
腰。
残りの二人。
出口。
壊れた塀。
「取らねえの?」
少年は笑っている。
声も優しい。
だから。
怖かった。
母も。
男が来る時は優しい声だった。
笑っていた。
それだけでは。
安全なのか分からない。
「警戒してんな」
少年が笑う。
「市場でもずっと見てたよな」
何も言わない。
「お前、盗らなかった。でも全部見てた」
気づかれていた。
それが怖い。
「名前は?」
言いたくない。
黙って怒られるのも怖い。
違う名前を言って。
嘘だと気づかれるのも怖い。
誰も急かさない。
その方が。
怖かった。
無意識に肩の傷へ手がいった。
「……ネミティブ」
少年は一度だけ頷いた。
「ネミティブか」
パンを。
ネミティブの足元へ置く。
近づいてこない。
「食いたきゃ食え」
三人が歩き出す。
少し進んだところで。
少年だけが振り返った。
口の端を上げる。
「俺はラド。またな」
そのまま路地を出ていった。
三人分の足音が遠ざかる。
パンだけが残る。
ネミティブはしばらく動かなかった。
罠かもしれない。
拾った瞬間。
戻ってくるかもしれない。
周囲を見る。
誰もいない。
近づく。
拾う。
匂いを嗅ぐ。
変な臭いはしない。
少しだけ千切る。
口へ入れる。
待つ。
何も起こらない。
もう一口。
(本当にくれた)
盗っていない。
殴られていない。
何もしていない。
それなのに。
食べられる。
嬉しいと思いかけた。
すぐに。
怖くなる。
ただで食べ物をくれる理由が分からない。
何かある。
そう思っていた方が。
安全だった。
* * *
食わせる理由
ラドたちは路地を二つ抜けた。
人通りの少ない角で止まる。
もう一人の少年が後ろを確認した。
「来てねえよ」
その言葉を聞いた瞬間。
ラドの顔から笑みが消えた。
さっきまでネミティブへ向けていた柔らかさが、綺麗に抜け落ちる。
怒っているわけでもない。
楽しんでいるわけでもない。
ただ。
何かの値段を決める時のような目だった。
「食うと思う?」
「食うだろ」
ラドは即答した。
あのパンを見た目。
痩せた腕。
薄い頬。
かなり飢えている。
なら。
来る。
「随分丁寧だな」
「逃げられたら意味ねえだろ」
「何に使う?」
「見張り。荷物運び」
少し考える。
あの細い身体。
大人なら肩が引っかかる隙間でも。
通れる。
「囮にも使える」
年上の少年が眉を上げた。
「捕まったら?」
一瞬だけ。
ネミティブの怯えた顔が浮かぶ。
それでも。
「そん時はそん時」
迷いはなかった。
この街では珍しくない。
自分たちも。
同じように使われてきた。
危ない場所へ行け。
見張れ。
運べ。
捕まったら逃げろ。
そうやって覚えた。
今度は。
自分たちが下の奴を使う。
「冷てえな」
「じゃあ、お前がずっと食わせんの?」
返事はない。
「何もしなきゃ、あいつそのうち死ぬだろ」
それは。
本心だった。
食わせる。
その代わり働かせる。
危ない仕事もさせる。
生き残れば。
今よりましになる。
「最初は軽いのからだな」
「信用させて?」
「最初から危ねえ仕事やれって言ったら逃げるだろ」
ラドは淡々としていた。
人を騙しているというより。
仕事の順番を決めているだけの顔だった。
「もう一回くらい食わせる」
「その次は?」
「見張り」
まず成功させる。
食わせる。
役に立ったと言う。
逃げるより。
ここにいた方が食える。
そう思わせればいい。
ラドは小さく笑った。
さっきネミティブへ向けたものとは違う笑みだった。
「すぐ慣れるよ」
* * *
貧民街の兄貴分
翌日。
ネミティブは同じ路地の近くを歩いていた。
ラドを探しに来たわけではない。
市場へ行くなら、この道が近い。
それだけだ。
そう思っていた。
それなのに。
昨日の路地が見えると。
足が遅くなった。
誰もいない。
パンが置かれていた場所。
何もない。
少しだけ。
胸の奥が沈む。
(別に)
食べ物が欲しかっただけ。
通り過ぎようとする。
「来たじゃん」
背後。
肩が跳ねた。
振り返る。
ラドが壁へ背を預けていた。
左耳の上の傷。
適当に切った髪。
何度も縫い直された上着。
服はぼろぼろなのに。
片足を壁へつけ、腕を組んで立つ姿は、この路地そのものが自分の場所だと言っているようだった。
「……来てません」
「いるじゃん」
「市場に行くだけです」
「はいはい」
ラドの手が服の中へ入る。
ネミティブの肩が強張った。
出てきたのは。
干し肉。
「食う?」
目が止まる。
「何ですか」
「肉」
「そうじゃなくて」
「ああ」
ラドが笑う。
「何でくれるのって?」
頷く。
「余った」
「本当に?」
「疑い深えなあ」
困ったように頭を掻く。
「嫌なら俺が食うけど」
肉を口元へ。
「あ」
声が出た。
ラドの手が止まる。
吹き出す。
「欲しいんじゃん」
意地悪そうに笑っている。
けれど。
嫌な笑い方ではない。
「ほら」
手を差し出す。
近い。
少し怖い。
ラドの指には細かな傷がいくつもあった。
爪の間には黒い汚れ。
働いた手。
盗んだ手。
殴ったこともある手。
自分と。
それほど違わない。
ネミティブはゆっくり手を伸ばした。
指先が触れる。
身体がびくっと跳ねた。
ラドはすぐに手を引いた。
「あ、ごめん」
普通に。
謝った。
ネミティブは逆に何も言えなくなった。
「……大丈夫です」
干し肉を口へ入れる。
硬い。
何度も噛む。
塩。
脂。
久しぶりに強い味がした。
「うまい?」
「……はい」
「だろ?」
ラドが嬉しそうに笑った。
その時は。
ただ年上の少年が、年下へ食べ物をやっている。
本当に。
そう見えた。
それから。
何度か会った。
路地。
市場。
壊れかけた建物の前。
ラドの周りにはいつも誰かいた。
年下。
同じくらいの少年。
少し年上。
「ラド、これ半分やる」
「いらねえよ。お前食え」
「靴また破れた」
「紐だけ替えろ。まだ履ける」
誰かが転べば手を出す。
食べ物を取り合っていれば頭を小突く。
「お前の方がでかいんだから半分やれ」
「何でだよ!」
「うるせえ。次盗った時多めにやるから」
怪我人がいれば。
路地へ座らせる。
傷を洗う。
ぼろ布を巻く。
口は悪い。
扱いも雑。
けれど。
ラドの周りでは。
よく笑い声がした。
それが。
ネミティブには不思議だった。
父の周りにいる人間は、いつも顔が固かった。
ラドの周りは違う。
「お前も食う?」
パンを半分に千切って渡される。
「……いいんですか」
「俺一人で食ったら、あいつらうるせえから」
遠くから声。
「聞こえてんぞ!」
ラドが笑った。
「ほらな」
ネミティブの口元も。
少しだけ緩む。
「あ」
すぐ気づかれた。
「今笑った」
顔を戻す。
「……笑ってません」
「はいはい」
それ以上。
追ってこない。
別の日。
「今日は何盗った?」
「……パン」
「見つかった?」
「見つかってません」
「やるじゃん」
ラドの手が。
頭へ向かう。
身体が固まる。
手が止まった。
「あー……悪い」
そのまま。
自分の頭を掻いた。
それ以降。
ラドはネミティブの頭へ触れなかった。
そのことを。
覚えていた。
少しずつ。
本当に。
少しずつ。
ラドのいる場所では。
出口を見る回数が減っていった。
* * *
最初の仕事
「仕事する?」
何度目かに会った日。
ラドが言った。
ネミティブが食べていたパンを持つ手が止まる。
「……仕事?」
「簡単なやつ。見るだけ」
向かいの通り。
赤い屋根の店。
斜め向かいには、窓の割れた古い建物。
ずっと分からなかった理由が。
やっと出てきた。
ただで。
食べ物をくれていたわけではない。
「危ないですか」
ラドが一瞬だけ黙った。
「今日は危なくない」
今日は。
そこだけ。
引っかかった。
「何を見るんですか」
「灰色の服。胸に白い線が二本。出てきたら合図しろ」
二人で古い建物へ入る。
階段は一段踏むたび軋んだ。
上へ行くほど埃が厚い。
二階。
割れた窓。
外からは。
中が暗くて見えにくい。
逆に。
こちらから市場はよく見えた。
窓枠へ細い赤布。
床へ小石を何個か置く。
ラドがしゃがむ。
体格の大きいラドが窓際へ寄ると、それだけで外から影が見えそうになる。
ネミティブなら。
腰を落とせば窓枠の下へ全部隠れた。
「一人出たら布を一回下ろす。二人なら二回。左行ったら石を左、右なら右」
「三人なら?」
「三回」
「両方に行ったら?」
「石を左右に一個ずつ」
「危ないと思ったら?」
「布外せ。それ見たら俺らも引く」
ラドが笑う。
「あと、見つかったら合図とかどうでもいい。逃げろ」
少し安心した。
失敗したら殴られる。
そういう仕事ではないらしい。
「夕方まで。俺が戻ったら終わり」
「……分かりました」
ラドが拳を出した。
ネミティブは意味が分からず見る。
「こういう時はな」
ラドが自分の拳を反対の手で軽く叩く。
「頑張れってやつ」
恐る恐る。
拳を出す。
こつん。
軽い音。
「終わったら飯な」
ラドは階段を下りた。
体格の分。
一段ごとに床板が低く鳴る。
音が遠ざかる。
ネミティブは窓へ戻った。
これなら。
できる。
そう思った。
* * *
見ていたもの
赤い屋根の店は、割れた窓からよく見えた。
最初は簡単だった。
人が出る。
違う。
また出る。
違う。
時間が経つ。
陽が動く。
店先に落ちる影が少しずつ長くなる。
腹が減る。
立ち続けた足が痛い。
ガラガラと荷車。
人の笑い声。
犬。
怒鳴る店主。
それでも。
見る。
ギィ……。
赤い屋根の店。
扉。
男。
灰色。
胸へ白線二本。
(いた)
赤い布を一回。
男は左へ。
石を左。
すぐ店へ戻る。
また扉。
同じ服。
二人目。
今度は右。
布。
石。
左右へ一つずつ。
これでいい。
多分。
不安になり。
布へ触れかける。
止める。
動かしたら。
どちらがどちらか分からなくなる。
見る。
待つ。
少しして。
通りの向こう。
ラド。
一瞬だけ。
声は出さない。
窓。
布。
石。
そこだけ確認する。
消える。
何も言わない。
それだけで。
少し胸が軽くなった。
夕方。
ラドが戻る。
階段。
重い音。
二階へ来ると。
まずネミティブではなく。
石を見る。
左。
右。
次に布。
最後に。
ネミティブ。
「二人?」
「はい」
「左右?」
「最初の人が左です。次が右」
「どれくらい間あった?」
時間は分からない。
けれど。
その間に起こったことは覚えている。
「一人目のあと、女の人が店に入って、そのあと荷車が一台通りました」
ラドの眉が上がる。
「そこまで見てたの?」
余計なことを言った。
そう思った。
「……すみません」
「だから何で謝んだよ」
ラドが笑った。
馬鹿にしている笑い方ではない。
「いいんだよ、それ」
拳。
今度は分かる。
ネミティブも。
自分から合わせる。
こつん。
「ちゃんと見てたってことだから」
その顔を見ていると。
本当に。
褒められたような気がした。
* * *
初めての報酬
帰り道。
ラドが袋からパンを出した。
いつもより大きい。
その横に。
小さな果物。
「……二つ?」
「仕事しただろ」
受け取る。
「でも、見てただけです」
「それが仕事」
簡単に言われた。
パンを見る。
果物を見る。
店へ手を伸ばしていない。
追われていない。
殴られていない。
それでも。
食べ物がある。
「またありますか」
聞いてから。
自分でも驚いた。
ラドがこちらを見る。
一瞬。
それから。
いつもの笑顔。
「あるよ」
胸が軽くなった。
自分が何かをした。
それで。
食べ物をもらった。
盗ったわけじゃない。
誰かから奪ったわけでもない。
役に立ったから。
その感覚は。
パンより長く。
残った。
* * *
使える
夜。
ネミティブが帰ったあと。
ラドはすぐには話さなかった。
古い建物の裏。
路地を見る。
一人が角まで確認し。
戻る。
「いない」
その声を聞いて。
ラドはようやく壁から背を離した。
昼の笑顔が消える。
年下をからかう顔も。
怪我した奴を心配する顔も。
ない。
「どうだった?」
「使える」
即答。
声にも。
温度はなかった。
「二人見ただけだろ」
「それだけじゃねえ」
左右。
順番。
荷車。
頼んでいないことまで。
覚えていた。
「聞いてねえことまで見てる」
人の話というより。
性能を確認する言葉だった。
「たまたまじゃね?」
「ならもう一回やらせる」
ラドの目が、市場より外れた区画へ向く。
古い倉庫。
大人の見張り。
壁と壁の間。
狭い隙間。
自分たちの肩では。
通れない。
でも。
ネミティブなら。
小さい。
細い。
まだ顔を知られていない。
怖がりだから。
周りも見る。
「……あいつなら入れるかもな」
「どこに?」
答えない。
「何考えてんだ?」
「別に」
「次は?」
「伝言」
「軽くね?」
「まだ逃げられたら困る」
「大事に育ててんな」
その言葉に。
ラドの口元が少し動く。
「使えるなら壊す必要ねえだろ」
「言い方えぐ」
「事実だろ」
返してから。
ほんの一瞬だけ。
黙る。
昼間。
拳を合わせた時。
何をされるのか分からない顔で。
恐る恐る手を出してきたネミティブ。
それが浮かんだ。
すぐ消す。
必要なのは。
あの場所へ入れる奴。
まだ早い。
見張り。
伝言。
荷物。
一つずつ。
気づかれないように。
近づければいい。
ラドは歩き出す。
明日。
ネミティブに会えば。
また笑う。
それも。
嘘ではない。
でも。
今の顔もまた。
ラドだった。
* * *
伝言
次の仕事は、見張りより簡単に見えた。
ラドはいつもの壁へ肩を預け、細く折った紙を指先で揺らした。
カサ。
カサ。
「これ渡して」
「誰に?」
「市場の奥。青い布巻いてる奴」
「名前は?」
「知らなくていい」
「渡したら?」
「終わり」
ラドが笑う。
「簡単だろ?」
紙を受け取る。
乾いた感触。
簡単。
その言葉を聞くと。
何か見落としている気がした。
「開けんなよ」
「開けません」
即答すると。
ラドが一瞬きょとんとする。
それから肩を揺らして笑った。
「即答かよ。そこまで真面目に返されると思わなかったわ」
本当に面白そうだった。
「まあ、お前なら見ねえか」
少し目を細める。
前より。
ラドの顔が分かる。
からかう時。
本当に笑う時。
何か考えている時。
少しずつ。
違う。
「行ってこい」
手を振られる。
市場へ向かう。
ガラガラ。
荷車。
店主の怒鳴り声。
肉を焼く臭い。
魚の水。
人の肩。
盗みの時と違って。
食べ物だけを見なくていい。
青い布。
腕。
腰。
首。
市場の奥へ行くほど人が増える。
ドン。
肩がぶつかった。
「邪魔だ!」
身体が縮む。
「……すみません」
反射的に頭を下げる。
男はもう。
こちらを見ていない。
息を吐く。
また探す。
最初は。
青いものを全部見ていた。
服。
布。
荷。
看板。
違う。
ラドは。
青い服とは言っていない。
青い布を巻いている奴。
腕。
腰。
首。
見る場所を変えた。
人と人の隙間に。
青。
一瞬。
隠れる。
また見える。
腕へ巻かれた布。
(いた)
近づく。
「これ」
「ラドから?」
頷く。
紙が渡る。
カサッ。
「返事は?」
「聞いてません」
「そっか」
それだけ。
本当に。
終わった。
肩の力が抜ける。
帰ろうとする。
「あ、待て」
足が止まる。
振り返る。
ヒュッ。
小さな袋。
「わっ」
両手で受け取る。
中で硬いもの。
チャリッ。
「それ持ってけ」
「ラドに?」
「うん」
聞いていない。
袋は軽い。
でも。
中身がある。
頼まれていないものを持ち帰っていいのか。
違うものだったら。
勝手なことをしたら。
少し迷う。
相手はラドを知っている。
紙も受け取った。
その相手が。
ラドへ持っていけと言っている。
なら。
持って帰った方がいい。
帰り道。
何度も服の上から袋を確認した。
落としていない。
開けてもいない。
拠点へ戻る。
ラドは道端へしゃがみ込み、年下の少年と話していた。
ネミティブへ気づく。
ぱっと顔を上げる。
「あ、おかえり」
何でもない声だった。
それなのに。
胸が少し軽くなった。
帰ってくることを。
待っていたみたいだった。
「これも渡されました」
袋を差し出す。
「お?」
ラドの眉が上がる。
袋。
ネミティブ。
交互に見る。
「中見た?」
首を振る。
表情が少し変わった。
笑ってはいない。
でも冷たくもない。
どうしてそうしたのか。
見ようとしている顔。
「何で持って帰ってきた?」
どくん。
試されている。
「ラドを知ってました。紙も受け取ったから……持って帰った方がいいと思いました」
ラドは数秒。
黙って見る。
間違えた。
そう思い始めた頃。
目尻が少し下がった。
「ちゃんと考えたんじゃん」
嬉しそうだった。
肩の力が抜ける。
ラドが袋を開ける。
チャリ。
チャリ。
小さな金属片。
「うん。正解」
正解。
その言葉が。
胸へ残った。
自分で考えた。
決めた。
当たった。
ラドの手が反射的に頭へ伸びる。
途中で。
止まる。
「あ」
困ったように眉を下げ。
その手で自分の後頭部を掻いた。
「危ね。忘れてた」
代わりに。
拳。
ネミティブも。
自分から出す。
こつん。
「飯、増やしとく」
ラドが笑う。
ネミティブも。
少しだけ笑った。
分からない時でも。
見て。
考えて。
選べば。
当たることがある。
その感覚が残った。
* * *
荷物
それから。
仕事は少しずつ増えた。
紙。
小さな袋。
布へ包まれた荷物。
中身は聞かない。
決められた場所へ持っていく。
受け取る。
戻る。
最初は。
それだけだった。
だが。
同じ道を何度も歩くうち。
街の見え方が変わっていった。
昨日まで開いていた窓が閉じている。
いつも店先へ座る老人がいない。
知らない男が角へ立つ。
荷車が普段とは違う場所へ止まる。
市場の匂いも。
人の声も。
店の看板も。
変わらない。
その中の。
変わったものだけが。
目へ残るようになった。
ある日。
荷を受け取った少年に止められる。
「そっち行くな」
「何で?」
「あの角、最近見張られてる」
いつもの道。
「誰が?」
「知らねえ。大人」
その日は別の道へ回った。
何も起きなかった。
でも。
言葉が残った。
翌日。
仕事はない。
それでも。
気になった。
少し離れた建物の影。
そこから角を見る。
ザッ。
ザッ。
人が通る。
ガラガラ。
荷車。
壁際に男。
何もしていない。
ただ。
もたれている。
(あの人?)
見る。
人が近づく。
目だけが動く。
店。
角。
人。
また。
店。
(見てる)
休んでいるんじゃない。
周りを。
見ている。
自分と似ている。
翌日は。
いなかった。
その次の日。
またいる。
服が違う。
場所も違う。
でも。
顔は同じ。
覚えた。
別の日。
他の少年がその道へ行こうとする。
「そっちはやめた方がいいです」
言ってから。
不安になる。
自分が決めることじゃない。
少年が振り返る。
「何で?」
「あの人がいます」
「いねえじゃん」
角。
見えない。
今日は。
本当にいないかもしれない。
でも。
服を変えた。
場所も変えた。
見えないだけかもしれない。
「……別の道でも行けます」
「遠回りだぞ」
「少しだけです」
少年はしばらく嫌そうな顔をした。
それでも。
別の道へ曲がった。
帰り。
元の道を。
遠くから見る。
いた。
軒下。
服も違う。
でも。
同じ顔。
どくん。
(やっぱりいた)
そのまま行けば。
何が起きたのかは分からない。
でも。
自分の方が。
先に気づいた。
少し前までは。
怖いものを避けるために見ていた。
今も。
怖い。
でも。
見ていれば避けられる。
考えれば。
失敗を減らせる。
そして。
時々。
他の奴が気づいていないものへ。
自分だけが気づく。
それが。
少しずつ。
嬉しくなっていた。
* * *
名前
「ネミティブ!」
市場の向こうから声が飛んだ。
振り返る。
知らない少年。
「これラドに!」
ヒュッ。
小さな袋。
両手で受け取る。
「……僕?」
「他にいねえだろ」
笑われる。
名前を知っている。
少し前なら。
それだけで怖かった。
名前を知られる。
見つかる。
怒られる。
ずっと。
そうだった。
でも。
ここでは違う。
「ネミティブ、ラド見た?」
「さっきいました」
「どこ?」
指す。
「助かった!」
少年が走る。
別の日。
「ネミティブ、この道平気?」
すぐには答えない。
窓。
角。
店。
通行人。
昨日の男。
見えない。
「今は多分、大丈夫です」
「多分って何だよ」
笑われる。
それでも。
少年はその道へ行った。
何も起きなかった。
名前を呼ばれる。
聞かれる。
答える。
その言葉で。
誰かが動く。
繰り返すうちに。
自分がここにいることが。
普通になっていった。
ラドは。
よく横から見ていた。
「人気者じゃん」
壁へもたれ。
にやにや笑う。
「違います」
「いやいや。俺より呼ばれてんじゃね?」
「それはないです」
「言うようになったな」
「ははっ!」
ラドが歯を見せて笑う。
本当に。
楽しそう。
つられて。
少し口元が緩む。
「あ」
ラドの目が細くなる。
嫌な予感。
「今笑った」
「笑ってません」
「いや笑った!」
「笑ってません」
「見たぞ俺は」
周囲の少年たちまで笑う。
ガヤガヤ。
うるさい。
でも。
嫌ではない。
自分がいる。
追い出されない。
名前を呼ばれる。
頼られる。
笑われる。
それが。
少しずつ。
居場所になっていった。
* * *
ラドの隣
仕事から戻ったある日。
ラドが地面へ座り込んでいた。
膝には。
年下の少年の脚。
「だから動くなって」
「痛えよ!」
「お前が暴れるから余計痛えんだろ」
ラドは眉間へ皺を寄せている。
怒っているような顔。
けれど。
手は慎重だった。
傷へ水。
ジャッ。
「いってぇ!」
少年が顔を歪めると。
ラドまで片目を細める。
「はいはい。痛い痛い。知ってる」
ぼろ布。
傷へ巻く。
「今日は走るな」
「仕事ある」
「別の奴にやらせる」
「怒られるぞ」
その瞬間。
ラドの笑みが消えた。
目だけが鋭くなる。
「俺が言う」
低い声。
少年は。
何も言わなくなった。
ネミティブは少し離れて見ていた。
ラドが気づく。
「あ?」
眉を上げる。
「何見てんだよ」
「……別に」
「最近それ多いな、お前」
笑って。
手招き。
近づく。
「今日どうだった?」
「終わりました」
「何かあった?」
仕事自体には。
何もなかった。
でも。
西の角。
前に見た男。
服は違う。
本当に。
同じ人なのか。
少し迷う。
ラドは急かさない。
顔を見て。
待っている。
「西の角に、前と同じ人がいました」
ラドの口元が止まる。
「どの人?」
「壁にいた人です。前は茶色の上着でした。今日は黒でした」
「顔は?」
「同じだと思います」
「思う?」
僅かに眉が寄る。
胸が縮む。
でも。
怒ってはいない。
確認しているだけ。
目。
鼻。
頬。
立ち方。
人を見る時の視線。
思い出す。
「……はい。同じです」
今度は。
言い切った。
ラドが数秒。
こちらを見る。
周囲の声が。
少し遠くなる。
そして。
頷く。
「分かった」
怪我をした少年へ顔を向ける。
「聞いた?」
「ああ」
「西使うなって伝えろ」
「分かった」
少年が立つ。
「お前は走んなって!」
「分かってる!」
タッ、タッ。
走っていく。
ラドが大きく息を吐く。
「ほんっと人の話聞かねえ」
目は。
少年が消えた方向を追っている。
心配している。
やがて。
ネミティブへ戻る。
表情が緩む。
「よく見てんな」
「いたからです」
「普通は服変わったら分かんねえよ」
少し。
胸を張りたくなった。
今度は。
止めなかった。
「……そうですか」
「そうだよ」
ラドが柔らかく笑う。
拳。
こつん。
「助かった」
胸が。
暖かくなる。
自分の判断を。
信じてもらえた。
役に立った。
しかも。
ラドが嬉しそうにしている。
(僕の方が見えてた)
その考えが。
浮かぶ。
以前より。
少し長く。
残った。
* * *
自分で決める
仕事を重ねるうち。
「どっちへ行く?」
「この道平気か?」
そう聞かれることが増えた。
最初は。
毎回身体が強張った。
間違えれば。
誰かが捕まるかもしれない。
怒鳴られるかもしれない。
それでも。
答えなければならない時がある。
そんな時。
すぐには口を開かない。
昨日まで開いていた窓。
今日は閉じている。
いつも店先にいる男。
いない。
見覚えのない人間。
角。
普段とは違う荷車。
音。
視線。
昨日と今日を。
比べる。
分からなければ。
「分からない」と言う。
それでも。
決めなければならない時だけ。
選ぶ。
その判断は。
少しずつ。
当たるようになった。
もちろん。
いつもではない。
ある日。
安全だと思った道へ入った直後。
「おい!」
背後から怒鳴り声。
胸が跳ねる。
振り返る。
店主。
こちらを指している。
「走れ!」
誰かが叫ぶ。
全員。
一斉に動いた。
複数の靴音。
タッ、タッ、タッ。
細い奴。
大きい奴。
荷を持っている奴。
音が違う。
後ろで。
ガシャッ!
箱。
角へ飛び込む。
ネミティブの細い肩が壁へぶつかる。
身体を捻って通す。
後ろの大柄な少年は壁へ肩を擦り。
一瞬。
速度が落ちた。
「こっち!」
別の路地。
水溜まり。
滑る石。
ネミティブが先に避ける。
後ろの一人が踏む。
バシャッ。
それでも。
止まらない。
全員。
泥だらけ。
息を切らして戻った。
ラドは地面へ座っていた。
こちらを見る。
すぐに立つ。
最初に。
顔。
次。
腕。
脚。
一人ずつ。
視線が動く。
「全員いる?」
人数を数える。
「いる」
その一言で。
ラドの肩が落ちた。
「ならいい」
怒られない。
その方が。
怖かった。
ネミティブは少し迷い。
口を開く。
「……僕が道を選びました」
「知ってる」
「間違えました」
ラドの笑みが消える。
怒ってはいない。
何を言うか考える顔。
「ネミティブ」
身体が小さくなる。
「顔上げろ」
ゆっくり。
見る。
「次覚えりゃいい」
予想と違った。
「でも……」
「捕まってねえだろ?」
「……はい」
「全員戻ってきた」
ラドは。
一人ずつ見る。
最後に。
ネミティブ。
「じゃあ次だ」
片方の口角が上がる。
「同じ間違い二回したら、その時は笑ってやる」
「怒らないんですか」
「何で?」
「僕が間違えたから」
ラドの顔が止まった。
何を怖がっているのか。
分かったらしい。
僅かに。
嫌そうな顔。
「……間違えたら殴られると思ってんの?」
答えられない。
目を落とす。
それで。
十分だった。
ラドは小さく息を吐き。
拳を出す。
「ここじゃ、間違えたら次覚えろ。それだけ」
ネミティブは。
その拳を見る。
それから。
自分の拳。
こつん。
その失敗は。
成功した時より。
強く残った。
間違えても。
終わりではない。
次。
同じものを見た時。
違う判断をすればいい。
それまでは。
怖いから見ていた。
殴られたくないから。
顔を見る。
捕まりたくないから。
出口を見る。
けれど。
仕事を重ねるうち。
それだけではなくなる。
昨日との違い。
相手が何を見るか。
誰も気づいていないもの。
先に見つける。
そして。
自分で決める。
それが当たる。
胸の奥へ。
小さな熱。
他の奴が。
何も気づかず進もうとする時。
自分だけが。
危ない男を見つけた時。
ラドが。
自分の言葉だけで道を変えた時。
思うようになる。
(僕には見えてる)
まだ。
自慢するほどではない。
喧嘩なら。
ラドの方が強い。
大人の怒鳴り声を聞けば。
今も身体が固まる。
追われれば。
怖い。
それでも。
見ること。
考えること。
そこなら。
(僕の方が合ってる時がある)
一度正解するたび。
その感覚は。
少しずつ。
身体の奥へ沈んでいった。
* * *
次に使う場所
その夜。
ネミティブが帰ったあと。
ラドは路地の入口を見ていた。
もう姿はない。
念のため。
一人が角まで行く。
戻る。
「もういねえ」
そこでようやく。
壁へ背を預けた。
市場は夜の匂いへ変わっていた。
店の火が減り。
路地の焚き火が増える。
昼間より人の顔が見えにくくなる。
ラドの表情からも。
昼の笑いは消えていた。
「そろそろいいんじゃね?」
一人が言う。
ラドは答えない。
伝言。
荷。
見張り。
全部できる。
頼んでいないところまで見てくる。
最近は。
他の連中まで。
ラドを通さずネミティブへ頼み始めた。
最初から。
ここまで来れば。
次へ進ませるつもりだった。
「例のとこ、人足りてねえぞ」
「分かってる」
ラドは。
市場の向こうを見る。
建物の影。
古い倉庫。
正面には大人。
裏には。
壁と壁の細い隙間。
自分たちでは。
肩が引っかかる。
ネミティブなら。
入れる。
初めて見た時から。
そこへ使えると思っていた。
小さい。
細い。
顔も割れていない。
よく見る。
条件は揃った。
「ネミティブなら入るだろ」
それでも。
すぐには答えなかった。
ラドの靴先が。
小石を転がす。
ころっ。
壁へ当たる。
頭に浮かんだのは。
倉庫ではない。
昼間。
拳を合わせたネミティブ。
最初は。
手を伸ばすだけで固まっていた。
今は。
自分から拳を出す。
飯を渡しても。
毒でも見るような目をしなくなった。
戻れば。
「あ、おかえり」
それだけで。
少し安心する顔をする。
そうなるよう。
仕向けたのは。
自分だった。
飯。
簡単な仕事。
成功。
褒める。
ここへ戻れば食える。
役に立てば居場所がある。
全部。
考えていた。
それなのに。
実際に懐き始めると。
そこへ危ない仕事を差し込むことだけが。
妙に引っかかる。
「どうした?」
「……別に」
いつもの言葉。
でも。
自分でも。
何が別になのか分からない。
仕事をさせることが嫌なんじゃない。
働かなければ。
飯は回らない。
この街には。
何もしない奴をずっと食わせられるほど。
余裕のある人間はいない。
ただ。
次は。
追われる役。
誰かが商品を抜く間。
わざと見つかる。
騒ぎを起こす。
逃げる。
足が速ければ。
帰れる。
失敗したら。
捕まる。
殴られるだけで済むかどうか。
相手次第。
ラドの胸へ。
古い感覚が戻る。
自分も。
もっと小さかった頃。
腹を空かせ。
年上の奴らについて歩いた。
最初は簡単。
見張れ。
持っていけ。
立ってろ。
できれば。
飯。
褒められる。
自分にも。
居場所ができたと思った。
ある日。
呼ばれた。
簡単だから。
走るだけだから。
そう言われた。
何も疑わなかった。
走り始めて。
後ろで怒鳴り声。
振り返れば。
大人が何人も追っていた。
ドッ。
ドッ。
大人の足は。
子どものものより重い。
地面まで揺れる気がした。
胸が焼けるほど走った。
転んだ。
膝を擦った。
それでも。
戻った。
年上の奴は笑った。
『ちゃんと帰ってきたな』
いつもより大きなパン。
あの時は。
嬉しかった。
役に立ったと思った。
今なら。
分かる。
帰ってきたから。
次も。
使える。
それだけ。
「……チッ」
ラドが舌打ち。
「何だよ」
「何でもねえ」
同じことを。
やろうとしている。
思っていたより。
気分が悪かった。
「ネミティブじゃ嫌なら、別の奴でもいいぞ」
別の奴。
ラドの頭へ。
何人か浮かぶ。
速い奴。
でも顔を知られている。
小さい奴。
怖くなると周りが見えなくなる。
別の一人。
追われれば逃げずに喧嘩を始める。
ネミティブが。
一番いい。
怖がりだから。
危険へ早く気づく。
逃げ道。
人。
一度通った場所。
覚えている。
戻ってくる可能性。
一番高い。
最初から。
分かっていた。
「……あいつが一番向いてる」
口にすると。
ひどく冷たく聞こえた。
「じゃあ決まりじゃん」
ラドは黙る。
向いている奴へ仕事を振る。
怪我人は走らせない。
身体の大きい奴には力仕事。
口が回る奴には揉め事。
ネミティブは。
見る。
逃げ道を探す。
だから。
囮。
何も。
おかしくない。
なのに。
昼間の。
こつん。
拳の感触が残っている。
初めての時。
何をされるのか分からない目で。
こちらを見ていた。
今は。
自分から出す。
隣の少年が笑う。
「お前さ」
「何」
「もしかして、あいつ気に入ってんの?」
ラドが反射的に睨む。
「は?」
「最近甘いじゃん」
「甘くねえよ」
少し強い。
相手が。
にやっと笑う。
「図星?」
「違う」
否定しながら。
浮かぶ。
頭へ手を伸ばし。
固まったネミティブ。
それから。
触らないようにした。
飯を。
少し多く渡す日。
帰りが遅いと。
路地を見る。
全部。
使えるから。
そう片づけてきた。
本当に。
それだけか。
面倒になった。
「……知らねえよ」
「何だそれ」
「知らねえもんは知らねえ」
気に入っているのかもしれない。
弟みたいに。
思っているのかもしれない。
昔の自分を。
重ねているだけかもしれない。
名前なんて。
どれでもよかった。
仕事は消えない。
誰かが。
行かなければならない。
ネミティブを外す。
その分。
別の少年へ押しつける。
自分が気に入った奴だけ。
危険から外す。
別の奴を出す。
それを。
兄貴分みたいな顔でやる方が。
よほど。
気持ち悪い。
ラドは壁から背を離した。
「……一回だけだ」
「何が?」
「囮」
周囲の少年が黙る。
「最初からヤバいとこには出さねえ。人通りのある場所でやる。逃げ道も先に作る」
言いながら。
自分でも。
分かっている。
囮にしない方法を考えているんじゃない。
囮にしても。
帰れる方法。
それを考えている。
結局。
やらせる。
そこまで認めると。
少しだけ迷いが薄れた。
綺麗な兄貴分ではいられない。
そんなもの。
この街には。
最初からいない。
飯を食わせるなら。
仕事をさせる。
仕事なら。
危険もある。
その中で。
戻れる可能性を。
少しでも上げる。
自分にできるのは。
その程度だ。
「追われたらすぐ逃げさせる。合図無視していい。捕まりそうなら荷物も全部捨てろ」
「随分念入りだな」
「戻ってこなきゃ意味ねえだろ」
いつもの言い訳。
使える。
壊れたら困る。
その方が。
扱いやすい。
「じゃあネミティブで決まりな」
ラドは一度。
目を閉じた。
昔。
自分へ仕事を渡した男。
笑っていた。
簡単だ。
走るだけだ。
目を開ける。
「……ああ」
答えた。
明日。
自分も。
同じことを言うのか。
それだけは。
嫌だった。
危ない仕事だと。
言う。
逃げろとも。
言う。
それで何かが変わるとは。
思わない。
でも。
昔の自分へ仕事を渡した奴と。
まったく同じには。
なりたくなかった。
* * *
危ない仕事
翌日。
ラドはいつもの場所にいた。
古い壁。
片膝を立てて座る。
こちらへ気づく。
片手。
「よう」
「……こんにちは」
近づく。
今日は。
からかってこない。
食べ物も。
すぐには出さない。
その違いが。
目についた。
(何かある)
笑ってはいる。
でも。
口元だけ。
「今日な」
そこで。
止まる。
珍しい。
ラドは地面の小石を拾い。
指先で転がす。
カリ。
カリ。
「ちょっと危ない仕事ある」
どくん。
「……どれくらいですか」
「追われるかもしれない」
すぐ答えた。
簡単とは。
言わなかった。
その方が。
怖い。
「何するんですか」
ラドが通りの向こうを指す。
市場の外れ。
少し大きな店。
入口へ積まれた荷。
奥には男が二人。
どちらも。
ネミティブより身体が大きい。
一人は。
ラドよりも。
厚い。
「お前が店の前で一個取るふりする。その間に別の奴が裏から荷物抜く」
「僕は盗らない?」
「ああ。手ぇ伸ばして、見つかったら逃げろ」
簡単そうに聞こえる。
でも。
追われる。
捕まる。
「捕まったら?」
ラドの顔が固くなる。
「捕まんな」
早い。
すぐ。
眉を寄せた。
「……って言っても無理な時あるか」
身体を起こす。
「まず逃げろ。誰かが何か言っても止まんな。俺らの荷物も気にすんな。捕まりそうなら全部捨てていい」
「仕事は?」
「どうでもいい」
思わず。
顔を見る。
ラドは。
真っ直ぐこちらを見ていた。
「お前が戻ってくりゃそれでいい」
胸の奥が。
少し暖かくなる。
同時に。
怖さも増える。
そこまで言うなら。
本当に。
危ない。
「嫌ならやらなくていい」
意味が。
一瞬。
分からない。
「……いいんですか」
「ああ」
「でも仕事」
「他の奴に回す」
ラドが少し笑う。
いつもの。
兄貴分の顔。
「怖いならやめとけ」
怖い。
すぐに。
思った。
見張りじゃない。
荷運びでもない。
最初から。
追われるかもしれない。
やりたくない。
でも。
他の奴へ回す。
その言葉も。
残った。
自分がやらなければ。
誰かが。
やる。
それに。
ラドは。
自分ならできると思ったから。
話した。
見張り。
道。
荷。
自分で。
何度も判断した。
(僕なら)
そう思った自分に。
少し驚く。
以前なら。
思わなかった。
「……やります」
ラドの笑みが消える。
「ほんとに?」
「はい」
「無理してねえ?」
「怖いです」
正直に。
言った。
ラドが少し。
目を丸くする。
「でも」
店を見る。
入口。
男。
積まれた箱。
横道。
「逃げる場所、先に見ればいいですよね」
数秒。
ラドは黙る。
それから。
ふっと笑った。
嬉しそうで。
困ったような。
少し変な笑顔。
「……そうだな」
拳。
「でも無茶すんな」
こつん。
「はい」
* * *
追われる
仕事を始める前。
ネミティブは。
店の周りを一周した。
正面。
広い。
人が多い。
右。
道幅がある。
追ってくる大人も走れる。
左。
細い。
少し先へ。
荷車が二台。
裏。
木柵。
隙間。
自分なら。
通れそう。
(左)
決める。
何かあれば。
左。
荷車の間。
細い路地。
さらに奥。
前に荷を運んだ道。
頭の中で。
繋げる。
どくん。
どくん。
ラドたちは。
見えない。
どこかにいる。
でも。
探さない。
視線で場所を教えることになる。
店。
男が一人。
奥。
もう一人。
客はいない。
今。
まだ早い。
人が二人。
通る。
ガラガラ。
荷車。
店員の視線が。
少し外れる。
(今)
近づく。
荷へ手。
触れない。
触れる寸前。
「おい!」
怒鳴り声。
身体が固まりかける。
父。
一瞬。
重なる。
でも。
今日は。
知っていた。
来る。
最初から。
分かっている。
逃げる。
タッ。
地面を蹴る。
「待て!」
後ろ。
ドッ。
ドッ。
ドッ。
大人。
重い。
自分より。
歩幅も広い。
追ってくる。
左。
予定通り。
荷車。
人。
「邪魔だ!」
肩を。
人と荷車の隙間へ滑らせる。
ガタンッ!
腕がぶつかる。
痛い。
止まらない。
後ろを見るな。
そう思う。
けれど。
足音が近い。
どれくらい?
分からない。
それが。
怖い。
少し。
顔を横へ。
視界の端。
男。
近い。
ネミティブより身体が大きい。
その分。
直線では速い。
予定していた路地へ入る。
その先。
人。
二人。
大きな袋。
道の半分を塞いでいる。
(駄目)
足が。
止まりかける。
予定と。
違う。
頭が白くなる。
後ろ。
ドッ。
ドッ。
怖い。
でも。
見る。
右。
壁。
木箱。
上。
窓。
左。
建物と柵。
狭い。
自分の肩なら。
入る。
身体を横へ。
ズリッ。
壁へ擦る。
服が引っかかる。
ビリッ。
「くっ」
引く。
布を裂く。
身体が抜ける。
後ろ。
「待て!」
男は。
入れない。
肩が柵へ当たる。
ガタガタッ!
その音で。
足がまた動く。
走る。
細い道。
右。
左。
前に荷運びで通った。
知っている。
息が痛い。
喉が焼ける。
それでも。
もう。
後ろの重い足音がない。
角。
もう一つ。
そこで。
止まる。
壁へ手。
「はっ……はっ……」
息が戻らない。
どくん。
どくん。
胸が痛いほど鳴る。
手も震える。
怖かった。
本当に。
捕まると思った。
少しして。
周囲。
誰もいない。
足音。
なし。
自分の服。
横。
破れている。
腕。
擦り傷。
でも。
戻れた。
(逃げた)
予定の道は。
塞がっていた。
でも。
違う道を。
見つけた。
自分で。
そのことへ気づいた瞬間。
恐怖の中へ。
違う熱が混ざった。
(僕が見つけた)
教えられた道じゃない。
その場で。
見た。
考えた。
選んだ。
逃げ切った。
胸の奥が。
熱かった。
* * *
戻ってきた顔
路地へ戻る。
ラドがいた。
壁にもたれている。
いつもの姿。
けれど。
ネミティブへ気づいた瞬間。
顔が変わった。
目が大きくなる。
身体の大きなラドが、一気に壁から離れる。
「ネミティブ!」
こんな声で。
名前を呼ばれたのは。
初めてだった。
タッ。
近づく。
「大丈夫か?」
顔。
腕。
服。
脚。
視線が忙しく動く。
「どこやられた?」
「やられてません」
「血出てんじゃん」
腕。
擦り傷。
「これだけです」
ラドが。
大きく息を吐いた。
ふうっ。
肩の力が抜ける。
「……よかった」
小さな声。
ネミティブは驚いた。
仕事の成功を。
聞かない。
荷も。
聞かない。
最初に。
怪我。
「仕事は?」
自分から聞く。
ラドの眉が動く。
「知らね」
「え?」
「今それどうでもいい」
少し怒った顔。
でも。
誰に怒っているのか。
分からない。
「逃げ道、途中塞がってました」
ラドの顔が固まる。
「は?」
「荷物広げてる人がいて」
「聞いてねえぞ、それ」
眉間へ深い皺。
本当に。
知らなかった。
「どうやって逃げた?」
そこで。
少しだけ。
胸が熱くなる。
「横に、細い隙間がありました」
「隙間?」
「僕なら通れそうだったから」
ラドが黙る。
「そこ通って、そのあと前に使った道に出ました」
思い出す。
予定。
崩れた。
怖かった。
でも。
自分で見つけた。
ラドの顔が変わる。
驚き。
安心。
最後に。
笑う。
「……お前」
少しだけ。
「すげえな」
その言葉が。
胸へ刺さる。
よく見てる。
ではない。
すごい。
「怖かったです」
「そりゃ怖いだろ」
拳を出しかける。
止める。
「いや」
今度は。
肩へ触れようとした。
ネミティブの身体が。
僅かに固まる。
ラドは。
すぐ気づく。
手を止める。
「あー……」
困った顔。
結局。
いつもの拳。
「帰ってきて偉い」
こつん。
胸が暖かくなる。
同時に。
別のものも。
残った。
予定通りじゃなくても。
言われた通りじゃなくても。
見て。
考えて。
自分で決めれば。
逃げられた。
(僕の判断で)
その感覚は。
前より。
ずっと強かった。
* * *
戻ってきたから
その夜。
ネミティブが路地から消えたあと。
ラドはしばらく黙っていた。
市場の火も減り。
軒下の影が濃くなっている。
昼の笑顔はない。
壁へ座る。
膝へ腕。
「成功したな」
隣の少年。
ラドは答えない。
「ちゃんと逃げたし」
「……予定の道塞がってた」
「でも戻ったじゃん」
それが。
一番。
腹立たしかった。
戻った。
確かに。
戻った。
だから。
仕事としては。
成功。
昔。
自分を囮にした奴も。
同じことを。
思ったんだろう。
帰ってきた。
使える。
次もいける。
ギリッ。
奥歯。
「何だよ」
「別に」
いつもの言葉。
でも。
自分でも。
誤魔化せない。
道が塞がっていたと聞いた瞬間。
身体が冷たくなった。
隙間を。
見つけなかったら。
そこで。
捕まっていたら。
使える奴が。
壊れるから。
道具が。
なくなるから。
そう言おうとした。
でも。
ネミティブが戻ってきた時。
最初に思ったのは。
そんなことじゃない。
よかった。
ただ。
それだけ。
「ラド」
顔を上げる。
「倉庫、いけるだろ」
黙る。
今日の仕事には。
確認の意味もあった。
追われても。
周りを見られるか。
予定が崩れても。
判断できるか。
結果は。
十分だった。
十分すぎる。
倉庫へ。
入れる。
そう判断できる。
でも。
昼間。
破れた服。
擦り傷。
荒い息。
それでも。
少し嬉しそうに。
『僕なら通れそうだったから』
と言った顔。
ラドは目を伏せた。
自分で判断した。
褒めた。
それ自体は。
嘘じゃない。
本当に。
すごいと思った。
だから。
余計に。
使える。
その考えが。
同時に出る自分が。
嫌だった。
「……まだ」
「まだ?」
「ああ」
「何でだよ」
ラドはすぐには答えなかった。
ネミティブは今日。
自分の判断で逃げた。
その成功を。
嬉しそうにしていた。
ここで。
もっと危険な仕事を渡せば。
多分。
受ける。
自分ならできる。
そう思い始めているから。
そこまで考え。
ラドは眉間を押さえた。
自分が。
育てている。
ネミティブの目。
判断。
自信。
全部。
そして。
それを。
使おうとしている。
「……もう少しだけ」
「何を待つんだよ」
ラドは答えなかった。
仕事だけ考えれば。
待つ理由なんてない。
もう。
十分だった。
ただ。
まだ少しだけ。
今のままでいさせたかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
ネミティブ編は、KillerWorldという物語の最初の入口です。
彼が何を見て、何を信じ、何を選んできたのか。
そして、その先で何が残ったのか。
ここで終わりではありません。
次の物語では、また別の場所、別の人間たちの日常へと視点が移ります。
もし続きが気になったら、そのまま次の物語へ進んでもらえたら嬉しいです。




