プロローグ/序章「黄金」
『KillerWorld ―七つ目の答え―』
これは、七つの大罪を「人間が生きるために抱えた歪み」として描く物語です。
誰かを裁く者。
誰かに縋る者。
誰かを羨む者。
そして、自分が何者なのかすら分からない者。
彼らが最後に何を選ぶのか。
その答えを見届けてください。
※暴力・死・人体に関する描写を含みます。
※本作は「ザクログ」でも掲載しています。
暗い劇場。
客席には、たった一人。
舞台の上では、今日も役者たちが演じている。
理想を願う者。
失ったものへ縋る者。
自分だけは違うと信じる者。
愛していると言いながら、相手の選択を奪う者。
怒らなければ立っていられない者。
他人の中から、自分に足りないものを探し続ける者。
彼らは、自分が何を演じているのか知らない。
それでも幕は上がる。
くだらない。
本当に、くだらない。
だが。
見届けようではないか。
この狂気と苦しみと悲しみの中へ、時折混じる、くだらない喜劇を。
たった一人の観客と共に。
*
序章 黄金
まだ夜を油灯が照らし、石畳を馬車の車輪が削っていた頃。
ごとん。
ごとん。
家の前を通る荷馬車は、いつも同じ継ぎ目で車体を揺らした。
三台。
四台目だけ、音が浅い。
少年ゴイは、自宅の窓際にある机で本を読んでいた。
少年は机の上の本から目を上げた。
窓の向こう。左後輪が僅かに傾いている。軸が擦れている。昨日までは鳴っていなかった。
向かいの家から咳がした。一度。少し間を置いて、もう一度。昨日より多い。
教会の鐘は六つ。こちらは昨日と同じ。
油灯の炎が一度大きく揺れた。
窓は閉まっている。
少年は芯を見る。長い。少し切る。
炎が静かになった。
それでいい。
少年は再び本へ視線を落とした。
一度読めば、ほとんど覚えた。文字も。計算も。歴史も。医学も。
教師が前日に教えたことを、翌日もう一度説明する。少年には、その時間が長かった。
ある日、教師は人体について話した。
骨。筋肉。肺。心臓。血液。
少年は手を挙げた。
「何故、その形なのですか」
教師が止まる。
「そういうものだからだ」
「何故、そういうものなのですか」
「……生きるためだ」
「では、人間と動物は、どこから人間と動物になるんですか」
教室が静かになった。後ろの席で誰かが笑った。
教師は笑わなかった。
「難しい質問だな」
「分からないんですか」
僅かな間。
「今は、そこまで考えなくてもいい」
少年は教師を見る。
答えになっていない。
それ以降、質問する回数は減った。聞いても答えが返ってこない。
なら。
自分で見た方が早い。
*
最初に捕まえたのは犬だった。
市場の裏。
魚の頭。腐りかけた野菜。雨を吸った藁。排水の臭い。
毎朝、同じ時間になると、一匹の野良犬が同じ路地から現れた。
少年は三日見た。犬は三日とも、ほぼ同じ順路を通った。
四日目。
縄を持って待った。
難しくはなかった。
犬は、自分が昨日まで生き延びた道を、今日も安全だと思っていた。
裏庭には木机があった。
少年は白い布を敷き、刃物、鋏、針、糸、桶を並べる。
手を伸ばす。一度止まる。刃と鋏の位置を入れ替えた。
こちらの方が無駄がない。
犬が鳴く。
呼吸。速い。
瞳孔。開いている。
脚は縄を嫌って何度も机を叩いた。
「怖いのか」
犬は答えない。
当然だ。
少年は胸へ刃を入れた。
皮膚。脂肪。筋肉。血。
本で見た通り。
肋骨を開く。
肺。心臓。胃。腸。
一つずつ位置を確かめる。触る。切る。広げる。
何もない。
正確には。
本に書かれていなかったものが、何もない。
少年は肉を一片切った。
指先でつまむ。赤い。脂がついている。臭い。
口へ入れる。
くちゃ。
奥歯で潰す。
くちゅ、くちゅ。
繊維。脂。臭い。舌触り。
ごくん。
飲み込む。
少年は待った。
呼吸。正常。
脈。変化なし。
吐き気。なし。
腹痛。なし。
「……特筆すべき点はない」
記録帳を開く。
犬。雄。推定年齢。体格。臓器。味。摂取後反応。
最後に線を引いた。
*
次は鳥だった。
翼がある。骨が軽い。胸の筋肉が発達している。
飛ぶためなら、その方がいい。
鼠は身体が小さい。狭い隙間へ入る。歯が違う。
虫は殻を持つ。脚の数も違う。
一つずつ切った。一つずつ並べた。一つずつ食べた。
違う。
だが。
違いには理由がある。
飛ぶ。走る。潜る。食べる。逃げる。生きる。
どれも、そのための形だった。
少年は記録帳の頁をめくった。
犬。鳥。鼠。虫。
並べる。比べる。
なら。
人間は。
何が違う。
*
夜。
墓地。
昼間の雨が土の中に残っていた。
湿った石。枯れた花。蝋。土。
遠くで犬が鳴いている。
少年は墓石を一つ選んだ。
名前。年齢。死亡日。埋葬からの日数。
条件は悪くない。
掘る。土を避ける。棺へ届く。
蓋を開けた。
腐敗臭が上がる。
少年は一度だけ顔を逸らした。呼吸を止める。戻す。
観察には十分。
皮膚を切る。肉を分ける。肋骨を開く。
肺。心臓。胃。腸。
人間も。
特別ではない。
少年は小さく肉を切った。
口へ入れる。
くちゃ。
動物より柔らかい。
それだけだ。
くちゅ。
脂。臭い。舌に残る。
ごくん。
飲み込む。
待つ。
何も起こらない。
少年は死体を見た。
「……これも同じか」
その時だった。
「昔、神を裂いた者たちがいた」
咀嚼が止まった。
少年は顔を上げる。
墓石。夜。木。風。
誰もいない。
「……誰だ」
返事はない。
少年は周囲を見る。
足跡。なし。
人影。なし。
枝。風で揺れているだけ。
少年はもう一度、肉片を口へ運んだ。
くちゃ。
「細かく裂いて」
くちゅ。
「煮て」
少年の眉が僅かに寄る。
「食べた」
「神を?」
沈黙。
少年は飲み込む。
ごくん。
少しして。
「それでも、神だった」
少年は手元を見る。
胸を開かれ。臓器を取り出され。肉を削がれた人間。
犬と。鳥と。鼠と。
同じように。
切れば中身が出る。
なら。
「やはり身体ではない」
返事はない。
少年は記録帳へ書く。
身体的構造に特異性なし。
摂取による特異反応なし。
ペン先が止まる。
少し考える。
存在差は肉体以外にある可能性が高い。
少年はその文字を見る。
肉ではない。血でもない。骨でもない。
なら。
もっと根本。
存在そのもの。
「なるほど」
少年はペンを置いた。
答えに。
少し近づいた気がした。
*
数年が過ぎた。
油灯の数が増えた。夜の通りを走る馬車も増えた。
少年は青年と呼ばれる年齢になっていた。
古い書物の中で、五つの時代について知った。
黄金。白銀。青銅。英雄。鉄。
黄金の時代。
神々に近く。苦しみも少なく。豊かで。優れた人々。
時代を重ねるごとに、人は劣化していった。
現在は鉄。
青年は本を閉じた。
窓の外では、男が店主へ怒鳴っていた。金が足りないらしい。
昨日も見た男だった。昨日も同じ店で揉めていた。
少し先。酔った男が路地へ座り込んでいる。
市場では客が昨日と同じ値段を巡って、昨日と同じ店主と争っている。
同じ失敗。同じ欲。同じ怒り。
青年には、不思議だった。
失敗したなら、次は変えればいい。理解したなら、繰り返さなければいい。
それをしない。
鉄。
青年は鏡を見る。
なら。
自分は何なのか。
答えは簡単だった。
黄金。
そう考えれば。
すべてに説明がつく。
なぜ私だけが理解できる。
なぜ私だけが他人より早く学べる。
なぜ私だけが、人間を見る側にいる。
黄金だからだ。
私は他にも黄金がいるのか調べた。
見つからなかった。
その事実は、不思議なくらい心地よかった。
「やはり、私は特別らしい」
本を閉じる。
その時。
「昔、太陽を御そうとした子がいた」
私は目を細めた。
「……またか」
「自分にも扱えると思った」
「それで?」
「地上を焼いた」
少し間。
「最後は落ちた」
私は本を棚へ戻す。
「私とは違う」
返事はない。
「失敗したのは」
棚の本の背を指で揃える。一冊だけ飛び出している。
押し込む。
「器が足りなかっただけだ」
部屋は静かだった。
私は。
その静けさを。
肯定だと解釈した。
*
それから、さらに年月が過ぎた。
疫病が村を襲った。
最初は一人だった。
高熱。咳。倦怠感。
数日後には三人。翌週には十二人。
家の戸口へ布が掛けられた。市場から声が消えた。
教会の鐘だけが、一日に何度も鳴る。
最初は数えていた。
三回。五回。九回。
そのうち、数える必要がなくなった。
診察室を照らすのは蝋燭と油灯だった。
寝台が足りず、廊下にも患者が並んだ。
咳。うめき声。水を求める声。祈る声。
医者が足りない。薬も足りない。人手もない。
だから私は医者になった。
正確には。
人間を生きたまま観察できる環境が整った。
発熱の時刻。脈拍。食事量。水分量。薬への反応。呼吸音。意識消失までの時間。死亡までの日数。
私は診察室と寝台の間を歩いた。
最初の患者へ薬を使う。二人目には使わない。三人目は室温を下げる。四人目はそのまま。五人目には食事を増やす。六人目は減らす。
比較が必要だった。
比較しなければ、何が有効なのか分からない。
「先生」
若い医者が私を呼んだ。
「こちらの患者にも薬を」
私は記録帳から目を上げる。
「使わない」
「ですが、このままでは」
「だからだ」
「……何がです」
「比較対象が消える」
若い医者は黙った。
私は隣の寝台へ移る。
「脈」
助手が答える。
「百二十です」
「昨日は?」
「百八」
私は眉を寄せる。
「上がりすぎだ」
「薬を増やしますか」
「まだだ」
「先生」
「記録を続けろ」
「でも――」
私は振り返った。
「何度言わせる」
声は大きくない。
それでも助手は口を閉じた。
「結果が出る前に条件を変えれば、何を測っているのか分からなくなる」
そのまま次の寝台へ移る。
助けられる者を。
助けないこともあった。
必要なことだった。
*
「先生」
ベッドの上から男が呼んだ。
まだ若い。妻と子供がいる。体力もある。
治療すれば。
助かる可能性は高い。
「息子を先に診てください」
「あなたの方が重症です」
「それでも」
私は男を見る。
合理性がない。
自分が死ねば、家族の収入がなくなる。子供の生存率も下がる。
それでも。
男は子供を選ぶ。
「……理解できませんね」
男は苦しそうに笑った。
「親なんて、そんなもんですよ」
親。愛情。自己犠牲。
私は記録帳へ一行追加した。
自己保存より血縁対象を優先する傾向。
「先生」
「何です」
「俺、助かりますか」
私は診察結果を見る。
「助かりますよ」
男の表情が明るくなる。
「ですが」
私は棚へ歩き、薬瓶へ手を伸ばす。
一度持つ。ラベルを見る。戻す。
「助ける理由がありません」
背後の空気が止まった。
「……は?」
「あなたを治療した場合と、治療しなかった場合で比較が必要です」
「何を……」
「安心してください」
私は振り返る。
「あなたの息子には薬を使います」
男が何か叫んだ。
咳に変わった。
私は次の患者へ移った。
数日後。
死亡。
息子。
生存。
非常に有用なデータだった。
その夜。
診察室には私だけが残っていた。
油灯の下。記録帳。
死亡時刻を書き込む。
「昔、自分の子を料理した王がいた」
ペンが止まる。
「……またその話か」
「神々を試したかったらしい」
「愚かだ」
私は書き続ける。
「結果の予測もせずに行う実験に意味はない」
少し間。
「そうか」
私はペンを止めた。
「私とは違う」
返事はなかった。
*
疫病は続いた。
私は治療した。観察した。切った。救った。殺した。
その結果、以前より多くの人間が生き残った。
人々は私へ感謝した。
「先生のおかげです」
「あなたがいなかったら、この村は終わっていました」
「神様みたいだ」
最後の言葉だけは。
悪くなかった。
「神ではありませんよ」
そう答えながら、少しだけ笑った。
まだ。
そこまでは言わなかった。
*
私は別の帳簿を作った。
医学記録とは別。
患者の名前。職業。年齢。家族。健康状態。知能。技術。将来性。
従順性。反抗性。嘘をつく頻度。他者への影響。社会的価値。
最後に。
二つの欄。
残す。
不要。
最初は治療順位のためだった。
資源が足りない以上、優先順位は必要になる。
だが。
すぐに気づいた。
これは病気だけの話ではない。
鍛冶屋。農夫。教師。子供。老人。犯罪者。怠惰な者。暴力的な者。優秀な者。従順な者。
人間は平等ではない。
私は昼の市場を歩きながら、人を見るようになった。
荷を運ぶ男。鍛冶屋。教師。酔っぱらい。路地で寝る男。パンを盗む子供。
帳簿の欄が、頭の中で勝手に埋まる。
価値。影響。将来性。危険性。
皆、同じ人間の顔をしている。
それなのに。
村全体へ与える価値は、明らかに違う。
愚かだ。
なら。
誰かが決める必要がある。
夜。
診察室。
帳簿を閉じる。
教会の鐘が遠くで鳴る。
「やはり」
誰もいない部屋で呟く。
「私が選別しなければならない」
「昔、神より自分の方が恵まれていると誇った女がいた」
私は眉をひそめる。
「今度は女か」
「子供が多かった」
「それが?」
「神より上だと思った」
私は鼻で笑う。
「数が多いだけで価値が決まると考えたのなら、愚かだ」
沈黙。
「私なら、質を見る」
少しして。
「そう」
それだけ。
私は。
その返事を。
肯定だと受け取った。
*
疫病の頃から、さらに年月が過ぎた。
妻を娶った。
理由は、愛情という現象を、近くで観察したかったからだ。
彼女はよく笑った。よく喋った。料理が得意だった。
台所には、私が並べた順番とは違う順番で皿が並ぶ。
包丁の位置も違う。瓶も。香辛料も。
何度か直した。翌日にはまた戻っていた。
「こっちの方が使いやすいの」
そう言って笑う。
私には理解できなかった。
一度聞いた。
「何故、私なのですか」
妻は笑った。
「好きだから」
「それでは説明になりません」
「そういうものなの」
「そういうもの、とは?」
「理由なんてなくても好きになるの」
意味が分からない。
だから。
興味深かった。
*
娘が生まれた。
私はすぐに調べた。
血液。反射。筋力。視線。記憶。言語習得。成長速度。
私の血が半分入っている。
期待した。
もしかしたら。
黄金かもしれない。
何年も観察した。
結果。
鉄。
落胆はした。
だが、価値がないわけではない。
黄金の血を持つ鉄。
それ自体が、貴重だ。
病気になれば治した。怪我をすれば、仕事を中断してでも処置した。
食事も管理した。睡眠も記録した。
失う理由がなかった。
私は妻と娘を大切にした。
少なくとも。
そう認識していた。
*
娘が高熱を出した夜。
私は朝までベッドの横にいた。
脈を測る。汗を拭く。水を飲ませる。薬の量を調整する。
一時間ごとに記録する。
夜が薄くなる。
窓の外。
黒。青。灰。
明け方。
熱が下がった。
妻が私の横で小さく笑う。
「あなた、本当はこの子のこと大好きなのね」
「違います」
「またそういうこと言う」
「貴重なサンプルを失う理由がないだけです」
妻の笑顔が止まった。
「……そう」
「何か?」
「ううん」
妻は娘の髪を撫でる。
私は脈を再確認する。
その時。
「昔、娘を差し出した王がいた」
手が止まる。
「何故」
「風が必要だった」
「なら合理的だ」
妻がこちらを見る。
「何?」
「何でもありません」
「王は、そう考えた」
私は娘の額に手を置く。
「目的を達成するために必要なら、当然だ」
返事はなかった。
*
年月が過ぎた。
娘は育った。村の子供たちも大人になった。
私の名は広がった。
名医。神童。奇跡の医者。
呼び方はいろいろあった。
どれも間違いではない。
そして私は、人間をより深く理解した。
人は嘘をつく。妬む。欲しがる。怒る。愛する。食べる。怠ける。
そして、ほとんどの人間は、自分の欲望が自分を動かしていることすら理解していない。
鉄。
やはり。
鉄だ。
*
帳簿が盗まれた。
気づいた時には遅かった。
村の中央。人が集まっていた。
紙が風でめくれている。
私の記録。私の実験。
死亡した患者。助けられたのに、助けなかった者。
解剖記録。人間の分類。
残す。
不要。
全部。
読まれていた。
「人殺し!」
石が飛んだ。
避ける。
「先生だと思ってたのに!」
「何人殺した!」
理解できない。
「私はあなた方を救った」
声を張る。
「この村の死亡率を下げたのは私だ!」
「黙れ!」
「結果を見れば分かるでしょう!」
また石。
今度は額に当たった。
血が流れる。頬を伝う。
温かい。
「私は!」
群衆が近づく。
「必要なことをしただけだ!」
誰も聞かない。
鉄。
やはり。
鉄は感情で動く。
私は走った。
*
その夜。
雨の残った石畳を走る。
「待て!」
後ろ。怒鳴り声。
肺が痛い。脚が重い。
石が飛ぶ。
肩。
痛い。
「私は死ぬわけにはいかない」
息が切れる。
「私は他とは違う」
足を取られる。
転ぶ。
地面へ手をつく。
指が震えている。
認めない。
これは恐怖ではない。
身体的反応だ。
「私は選ぶ側だ」
立つ。
また石。
「鉄に殺されるなど――」
顔を上げる。
「――あっていいはずがない」
そこに。
誰かがいた。
男にも見えた。女にも見えた。老人にも。子供にも。
次の瞬間には、そのどれにも見えない。
視界が歪む。耳鳴り。吐き気。胸が締め付けられる。
距離感が壊れる。
目の前なのに。
星より遠い。
見るな。
身体が、理解より先に命令した。
私は目を逸らした。
そいつは夜空を見ている。
追ってきた村人たちも、何故か足を止めていた。
誰も近づかない。
誰も声を出さない。
長い沈黙。
やがて。
「闇はいいとは思わないか」
「……何だ」
返事はない。
夜を見ている。
「昔を思い出す」
「昔?」
「子供たちを」
背筋が冷えた。
この声。
聞いたことがある。
犬を切った時。墓を暴いた時。本を読んだ時。患者を死なせた時。娘のそばにいた時。
「……お前だったのか」
初めて。
こちらを見る。
頭の奥が軋んだ。
「すべての根源は」
声だけが異様に近い。
「闇だったんだぞ」
「何者だ」
少しだけ首を傾げる。
質問の意味が分からない。
そんな顔に見えた。
「私の子供たちは」
夜へ視線を戻す。
「お前たちを作った」
「……何?」
「いろいろ作った」
黄金。白銀。青銅。英雄。
「今は」
少し考える。
「鉄だったかな」
「違う!」
自分でも驚くほど強く、声が出た。
そいつは反応しない。
「私は鉄ではない」
無反応。
「私は黄金だ」
何も言わない。
「私は特別なのだ!」
村人たちは後ろにいる。
もう逃げ場はない。
「だから私は死ぬべきではない!」
そいつがこちらを見る。
肯定しない。
否定もしない。
私が黄金か。鉄か。
そんなこと自体、どうでもいいような目。
やがて。
一言。
「なら」
間。
「選べ」
「……何を」
村人たちを見る。
「一人」
「何故だ」
返事はない。
「私に何をさせるつもりだ」
「選べ」
それだけ。
「嫌だと言ったら?」
そいつは私を見る。
何も言わない。
その視線だけで、喉が閉じる。
身体が理解した。
選ばないという選択肢はない。
私は群衆を見る。
顔。
顔。
顔。
私を殺そうとしている鉄。
私は一人の名前を口にした。
次の瞬間。
消えた。
声もない。
血もない。
痕跡もない。
最初から、そこにいなかったように。
群衆が悲鳴を上げる。
私は自分の手を見る。
震えている。
だが、その震えは恐怖だけではなかった。
「……私が」
胸が高鳴る。
「選んだ」
そいつは何も言わない。
「私が選んだ人間が」
消えた。
私は笑った。
「やはり」
頬が吊り上がる。
「やはり私は黄金だった!」
そいつは夜を見ていた。
私の言葉など、最初から聞いていなかった。
*
翌晩。
「選べ」
私は選んだ。
一人消えた。
次の夜。
また。
「選べ」
一週間。一ヶ月。一年。
いつからか、夜になると時計の音が聞こえるようになった。
カチ。
カチ。
カチ。
実際には、時計などない。
それでも聞こえる。
「少し待て」
カチ。
「判断には時間が必要だ」
カチ。
「選別とは、本来もっと慎重に――」
「まだ?」
私の指が机を叩いた。
一度。二度。
止める。
「急かすな」
カチ。
「急かしている」
返事はない。
カチ。
私は名前を言った。
時計が止まった。
その瞬間だけ、部屋が静かになる。
翌晩。
また鳴った。
*
十年。二十年。五十年。
街が変わった。
石畳が敷き直された。建物が増えた。夜の明かりが強くなった。衣服が変わった。言葉も少しずつ変わった。
私は変わらない。
妻は老いた。娘も老いた。
私は若いまま。
鏡を見る。
皺一つない。髪も。肌も。眼も。
黄金。
神に選ばれた身体。
そうでなければ、説明できない。
だが、妻には皺が増えた。髪が白くなった。歩く速度が落ちた。
娘は、いつの間にか私より年上に見えるようになった。
奇妙だった。
*
ある夜、妻が私の肩へ触れた。
「あなた」
「何です」
「最近、眠ってないでしょう」
「必要ありません」
「そういう話じゃなくて」
カチ。
「少し休んだ方がいいわ」
カチ。
「問題ありません」
「顔色も――」
カチ。
「問題ないと言っている」
妻が黙る。
少しして、また肩へ手が触れた。
「触るな」
手を払った。
思ったより強かった。
妻の手が机の端へ当たる。
妻が私を見る。
カチ。
「……ごめんなさい」
カチ。
「邪魔だ」
「え?」
カチ。
私は机の上の記録を見る。
字が揺れている。
妻の呼吸が背後にある。
邪魔だ。
「消えろ」
音が止まった。
*
翌朝。
椅子が一つ空いていた。
私は朝食を食べた。研究記録を確認した。薬品棚を整理した。
棚の瓶が一本だけ前へ出ている。
押し戻す。
それから、頬に何か流れていることに気づいた。
指で触れる。
水。
「……涙?」
脈拍。速い。
胸部。痛み。
呼吸。浅い。
私は鏡へ近づく。
「涙腺の異常か」
拭う。
また流れる。
「疲労」
止まらない。
「自律神経」
また。
私は強く拭った。
「止まれ」
止まらない。
鏡を見る。
顔は、いつも通り。
なのに。
目だけが赤い。
「異常だな」
背後から声。
「昔、神より多く持つことを誇った女がいた」
私は目を閉じる。
「……またその話か」
「子供が多かった」
顔を拭う。
「全部失った」
「だから何だ」
返事はない。
「私は失っていない」
言ってから、空いた椅子を見る。
一瞬。
台所。笑い声。皿。手。
全部。
浮かんだ。
私は視線を逸らす。
「不要だっただけだ」
声は、何も言わなかった。
*
娘も老いた。
ある夜、研究室へ入ってきた。
「お父さん」
カチ。
私は書類を見る。
「何です」
「少し話したい」
カチ。
「今は忙しい」
「ずっとそう言ってる」
カチ。
「お父さん」
ペン先が止まる。
カチ。
「聞いて」
「聞いている」
「見てもいないじゃない」
ペン先が、紙へ強く沈む。
インクが滲む。
「話せ」
娘が息を吸う。
「……お母さんがいなくなってから、ずっとおかしいよ」
「母さん?」
誰だ。
一瞬、分からなかった。
「お父さん」
カチ。
娘の顔を見る。
見覚えがある。
長く観察した。
血。成長。病気。学習。
ああ。
思い出した。
「鉄だ」
娘の表情が止まる。
「え?」
カチ。
私は書類へ視線を戻す。
字が読めない。
「消えろ」
音が止まった。
研究室が、静かになった。
*
その夜、夢を見た。
患者。村人。妻。娘。
皆、私を囲んでいる。
「この人間は必要ですか?」
「価値がありますか?」
妻。
「残す理由はありますか?」
娘が、こちらを見る。
「お父さんは黄金なの?」
私は答える。
「私は黄金だ」
全員が、同時に笑った。
「では」
「選別しましょう」
目が覚めた。
汗。呼吸数増加。心拍数増加。
私は寝台から起きる。
記録帳を取る。
手が滑った。
帳面が床へ落ちる。
舌打ちする。
拾う。
悪夢。
原因。
長期疲労の可能性。
それだけ。
*
数十年が過ぎた。
国が変わった。国境が変わった。宗教が変わった。医学が変わった。科学が変わった。
私は名前を変えた。職業を変えた。住む場所を変えた。
馬車が減った。道路を別の乗り物が走るようになった。油灯が消えた。電気が夜を照らすようになった。
紙だった記録は、やがて機械へ移った。
それでも。
夜になる。
カチ。
カチ。
「選べ」
逃げたこともある。
海を越えた。山へ入った。地下へ潜った。
誰にも居場所を知らせなかった。
夜。
カチ。
振り返れば、いる。
「選べ」
「どうやってここへ来た」
返事はない。
「何故私なのだ」
「選べ」
「いつまでだ」
沈黙。
私は机を叩く。
「答えろ!」
「代わりがいれば」
時計が止まった。
手を机についたまま、私は動かなかった。
「……代わり?」
初めて、出口が見えた。
*
その日から、研究対象は変わった。
私の代わり。
選別者として耐えられる人間。
この存在に耐えられる肉体。精神。因子。適合性。
やがて、私はあれの残した痕跡を、便宜的に一つの名称で呼ぶようになった。
カオス因子。
名前など聞いていない。
そいつ自身も、名乗らない。
だが、研究には名称が必要だった。
だから、私が付けた。
*
時代が進んだ。
研究室は石壁ではなくなった。
白い壁。ガラス。金属。無影灯。
一定に保たれた室温。空調。数値を吐き続ける機械。
私は廊下を歩く。
左右に観察室。
番号。個体。結果。失敗。
薬物。移植。血液。遺伝。人工臓器。培養。複製。
何十年。何百年。
技術が進めば、方法も増えた。
成功率も上がった。
そして。
失敗の規模も、大きくなった。
*
観察室の床へ、皿が三枚落ちていた。
パン。肉。水。
全部、空。
被験者は拘束具へ歯を立てていた。
ぎり。
ぎり。
研究員がガラス越しにこちらを見る。
「先生、鎮静を」
私は扉を開けた。
消毒臭。汗。血。
混ざる。
「まだだ」
「ですが、もう自分の爪まで――」
被験者が自分の親指へ噛みつく。
ごり。
爪が割れる。
研究員が顔を背けた。
私は近づく。
被験者がこちらへ飛びかかる。
拘束具が鳴る。
私は半歩だけ下がった。
「拘束を一段階上げろ」
「鎮静は」
「使うなと言った」
「このままだと指を――」
私は研究員を見る。
「どこまで摂取対象を拡張するのか確認する」
被験者が、とうとう自分の指へ歯を立てた。
血が流れる。
背後から声。
「昔、似た男がいた」
私は振り返らない。
「何が」
「食べても満たされなかった」
「病気か」
「呪いだったかな」
興味もなさそうに。
「最後は、自分まで食べた」
被験者が叫ぶ。
私は記録端末を見る。
「馬鹿だな」
それだけだった。
*
別の区画。
非常灯が赤く点滅していた。
廊下の先。
扉が一枚。
内側から何度も叩かれている。
どん。
どん。
どん。
「開けて!」
女の声。
「お願い!」
研究員が私を見る。
「隔離して三時間です」
「対象は」
「隣室です」
「接触は」
「ありません」
どん。
「愛してる!」
どん。
「愛してるから!」
扉の窓から顔が見える。
泣いている。
笑っている。
どちらにも見える。
「あなたのためだから!」
私は腕時計を見る。
「前回より十二分早い」
「先生?」
「接触欲求の増加速度」
扉が、内側から歪む。
研究員が身構える。
「補強を」
「待て」
「ですが――」
蝶番が飛ぶ。
女が廊下へ飛び出した。
警備員が押さえる。
暴れる。叫ぶ。掴む。
爪が一人の頬を裂く。
血。
そのまま隣室へ走ろうとする。
「止めろ!」
研究員が叫ぶ。
私は壁際へ一歩避ける。
女は捕まえられた。
それでも、相手の名前を呼び続ける。
実験施設の床が血で濡れた。
処理後。
私はしゃがんで、床の血を指先で見る。
量。飛び方。暴れた方向。
「愛は昔から面倒だ」
影が言う。
私は立ち上がる。
「非合理的だ」
「そうかもね」
それだけ。
*
別の個体。
警報。
研究員が三人、床へ倒れている。
一人。腕。逆方向。
一人。額から出血。
一人。動かない。
被験者は中央。
呼吸が荒い。
右腕が折れている。
それでも、立っている。
私は観察室へ入る。
「先生、危険です!」
背後で声。
「下がってください!」
被験者がこちらを見る。
目。静か。
さっきまで暴れていたとは思えない。
「……面白い」
「先生?」
被験者が踏み込む。
私は横へ避ける。
拳が壁へ当たる。
骨がさらに折れる。
それでも止まらない。
私は倒れた研究員の足を跨ぐ。
「火力が落ちていない」
「何を言って――」
「骨折後も行動精度が保たれている」
被験者がもう一度来る。
警備員が撃つ。
鎮圧。
床へ倒れる。
血が広がる。
私は端末へ数値を入れる。
背後から声。
「怒りにも名前をつけていた」
「誰が」
「神々」
私は床の血から目を上げない。
「何のために」
少し考えるような間。
「名前があると、扱えると思うんじゃないか」
私は入力を止めた。
確かに。
分類には名前が必要だ。
*
次の観察室。
照明。最大。
音刺激。最大。
それでも、被験者は眠っている。
研究員がカーテンを開く。
反応なし。
私はベッド脇へ立つ。
脈。正常。
呼吸。正常。
脳波。異常なし。
「刺激を上げろ」
「これ以上は」
「上げろ」
音が鳴る。
身体は動かない。
私は被験者の瞼を指で開く。
瞳孔。反応。正常。
「昔、眠り続けた男がいた」
私はそのまま瞳孔を見る。
「役に立たん」
影。
「幸せそうだったぞ」
私は手を離す。
「だから何だ」
返事はなかった。
*
鏡張りの面談室。
向こうに被験者。こちらに研究員。
被験者は、相手の座り方を真似ていた。
研究員が脚を組む。
少し遅れて、同じ脚を組む。
研究員が髪へ触る。
同じ位置。
研究員が笑う。
同じ口角。
私はガラスへ近づく。
「担当を変えろ」
「何故です」
「慣れた」
別の研究員が入る。
数分後、口調が変わる。姿勢も。笑い方も。
私は部屋へ入った。
被験者がこちらを見る。
「こんにちは」
私が言う。
「こんにちは」
同じ速度。同じ高さ。
私は椅子へ座らない。
被験者も、座らない。
「何が好きだ」
「何が好きだ」
「質問だ」
「質問だ」
私は眉を寄せる。
被験者の眉も、同じように寄る。
指先が、机を一度叩いた。
被験者も、一度。
私は止める。
「……不快だな」
被験者。
「……不快だな」
影が窓辺にいた。
「神でも、選ばれないと荒れる」
私は被験者から目を離さない。
「何の話だ」
「昔の話」
「私と一緒にするな」
何も返ってこなかった。
*
ある研究員は、命令を嫌った。
代わりに、選択肢を置いた。
相手が欲しがるもの。恐れているもの。逃げ道。希望。
全部用意した。
そして、本人に選ばせた。
事故が起きた。
死人が出た。
私は事故現場へ入った。
割れたガラス。消火剤。焦げた臭い。壁に血。
研究員が、廊下の端で震えている。
「私は命令してません」
「聞いていない」
「本人が選んだんです」
「聞いていないと言った」
私は死体の横へしゃがむ。
傷。落下。爆発。
順番を見る。
「私は選択肢を――」
立ち上がる。
「処分しろ」
研究員の顔が固まる。
「先生」
「結果は同じだ」
「でも本人が――」
「黙れ」
初めて、少し強い声が出た。
研究員が止まる。
「責任の所在を言葉でずらすな」
影が言う。
「神々もよくやった」
私は振り返る。
「何を」
「人間に選ばせる」
「欲しいものを見せて」
少し間。
「本人が選んだことにする」
私は鼻で笑う。
「悪趣味だな」
返事はない。
*
何百年も経って、ようやく気づいた。
こいつは、神話を知っているのではない。
覚えている。
裂かれた神。太陽を御そうとした子。神より上だと誇った者。飢え続けた者。眠り続けた者。愛に狂った者。人間を玩具にした神々。
全部。
本の中の話ではない。
見たものとして、話している。
なら。
こいつは。
一体いつからいる?
その疑問だけは、口にしなかった。
聞けば、答えが返ってくるかもしれない。
私は、それが嫌だった。
*
研究施設の一区画が壊滅した。
警報。隔壁。煙。非常灯。
床にはガラス。壁には焦げ跡。
搬送される死体。
生存者の一部にも異常。
外部への影響あり。
私は現場を歩く。
足元の破片を踏む。
ぱき。
研究員が後ろから追ってくる。
「先生、まだ危険です」
「因子濃度」
「下がっていません」
「なら測定しろ」
「先生も退避を」
私は振り返る。
「原因を見ずに?」
研究員が黙る。
私は破損した装置へ近づく。
端末。記録。
「因子濃度を下げる必要があります」
返事なし。
「今回は注入速度にも問題があった」
影は窓の外を見ている。
「次回は――」
「次」
私は指を止めた。
「原因の特定が先だ」
「次」
「聞いているのか」
声が少し低くなる。
影は朝日を見ている。
白い光が、壊れた研究室へ差し込む。
「今回だけで何人死んだと思っている」
返事なし。
「原因が分からなければ、また同じ失敗を――」
「私は不要だったのだがな」
ペンが止まる。
「……何?」
影は朝を見ている。
「何の話だ」
無視。
私は一歩近づく。
「不要とはどういう意味だ」
影が薄くなる。
「待て」
消えた。
私は、そこへ手を伸ばしかけて、止める。
舌打ち。
机の上の端末を取る。
なぜか、腹が立った。
その日は一日、集中できなかった。
*
適合率が跳ね上がった。
一度目。
過去最高。
私は画面を見る。
「測定ミスだ」
再検査。
同じ。
別方式。
同じ。
別施設。
同じ。
研究員が少し笑う。
「先生、これは――」
「黙れ」
笑いが消える。
「もう一度だ」
「四回目です」
「だから何だ」
「結果は同じです」
私は画面へ指を置く。
数字。
変わらない。
「条件が違う」
「全部揃えました」
「なら機械だ」
「別施設でも同じです」
私は振り返る。
研究員が一歩下がる。
「……出ていけ」
「先生?」
「出ろ」
扉が閉まる。
研究室。
私。
画面。
数字。
指が冷える。
背後。
「見つかったね」
身体が固まる。
「……何がだ」
「代わり」
カチ。
「違う」
カチ。
「まだ不完全だ」
影はデータを見ている。
「精神耐性が不足している」
無反応。
「私の代わりになどならない」
「なら」
こちらを見る。
「試せばいい」
「待て」
自分でも分かるほど、声が上ずった。
「まだ早い」
「そう」
視線が外れる。
それだけ。
私など、もう興味がないように。
「待て」
影が止まる。
「私を消すつもりか」
沈黙。
「答えろ」
少しして。
「必要なくなったら」
それだけ。
「違う!」
声が研究室へ響く。
「今回の数値は偶然だ!」
影は動かない。
私は画面を指す。
「過去の失敗個体を見れば分かる!」
無反応。
「奴らが脆かっただけだ!」
カチ。
「条件も悪かった!」
カチ。
「私の設計ミスではない!」
カチ。
「貴様が干渉した時もあっただろう!」
影は、黙っている。
その沈黙が、苛立たしい。
「そもそも!」
私は机を叩いた。
端末が跳ねる。
「私はこんなものを望んでいない!」
カチ。
「私は何百年も!」
声が震える。
「何百年もやらされているんだ!」
カチ。
「妻も!」
言葉が止まる。
妻。
誰だった。
顔。台所。手。椅子。
カチ。
「娘も……!」
胸が痛い。
呼吸が浅い。
「全部!」
影を見る。
「全部、貴様のせいだ!」
長い沈黙。
影が、僅かにこちらを見る。
「次」
「……何?」
「実験」
「私は――」
もう、こちらを見ていなかった。
*
その夜。
鏡を見る。
昔と変わらない顔。
皺一つない。髪。肌。眼。
若い。
黄金。
神に最も近い存在。
そのはずだ。
カチ。
「違う」
私は選ぶ側だ。
カチ。
「私が不要になるわけがない」
カチ。
「私は黄金だ」
カチ。
「神に最も近い」
なら。
何故。
私は。
選ばれる側にいる?
時計の音が、一瞬、止まった。
私は、鏡の中の自分を見る。
そして。
「あ」
笑った。
簡単だった。
何百年も、私は何をしてきた?
不要なものを選び、消してきた。
人間だから?
違う。
価値がないから。
不要だから。
なら。
相手が人間か、神かなど、関係ない。
「そうか」
笑いが漏れる。
「私が奴を選別すればいい」
鏡の自分も、笑っている。
「私は選ぶ側だ」
胸の奥。
時計が鳴る。
「奴が不要なら」
カチ。
「神であろうと」
カチ。
「私が裁けばいい」
*
数年後。
研究はさらに進んだ。
複製体。人工生命。適合器。
因子を受けても壊れない肉体。
壊れた。作り直した。また壊れた。
それでも、技術は積み上がる。
失敗するたび、原因が一つ減る。
いつか、奴すら選別できる。
そう思えば、時計の音にも耐えられた。
*
ある夜。
影が珍しく、私から離れた場所を見ていた。
「何を見ている」
返事はない。
私は端末を閉じる。
「適合者か」
沈黙。
「私より優れた個体など存在しない」
何も言わない。
「聞いているのか」
指が、机を叩く。
一度。二度。
止める。
しばらくして。
「昔、火を盗んだ奴がいた」
「……火?」
「神のものを」
「何のために」
「人間に渡した」
私は笑う。
「馬鹿だな」
椅子へ深く座る。
「神側にいればよかったものを」
影は、ほんの少しだけ、笑ったように見えた。
「そうかもね」
それ以上、何も言わなかった。
*
後日。
研究室の扉が開いた。
「おじゃまします」
若い男だった。
場違いなほど、軽い声。
「ここに名医がいると聞いて」
私は書類から目を上げる。
男は笑っている。
特徴のない笑顔。
なのに、妙に目についた。
「少し体の調子が悪いのですが」
一歩。
「見てもらえませんか?」
私は男を見る。
「予約は」
「してません」
「帰れ」
視線を書類へ戻す。
「ああ、そうそう」
男は、思い出したように指を立てる。
「黄金さん」
手が止まった。
紙の上。
ペン先。
一点にインクが溜まる。
「……私を」
ゆっくり立つ。
「その呼び方で呼ぶな」
男が首を傾げる。
「おや」
薄い笑み。
「嫌いなんですか?」
一拍。
「黄金なのに」
胸の奥。
カチ。
私は机を回り込む。
「誰だ、お前は」
「患者ですよ」
「嘘をつくな」
男は笑ったまま。
「そう見えます?」
「何者だ」
「何者に見えます?」
「質問に質問で返すな」
「あはは」
男は、診察椅子へ勝手に座った。
脚を組む。
「まあいいじゃないですか」
「先生」
「……何だ」
男はこちらを見る。
その目だけが、笑っていなかった。
「その悪夢」
カチ。
私は動かない。
「いつか終わりますよ」
時計が、大きく鳴る。
「どういう意味だ」
男は立ち上がる。
「じゃあ、また」
「待て!」
扉へ手を掛ける。
私は机を回る。
「誰だ!」
男が振り返った。
笑顔。
名前。
姿。
何も分からない。
ただ一つ。
こいつは、私を知っている。
私の黄金を。
私の時計を。
私の悪夢を。
男は、何でもないことのように笑った。
私はその顔を睨む。
胸の奥。
カチ。
カチ。
そして、小さく吐き捨てた。
「……鉄のくせに」
扉が閉じる。
カチ。
静かな研究室に、時計だけが残った。
*




