KillerWorld ―七つ目の答え― 合流編 第十一章「ここにいる」/第十二章「待つ」
四人目――ルウとの再会を終えたアベスとイースは。
最後の一人。
メリカのもとへ向かう。
かつてRATが使っていた区画。
そこにいたのは。
一人ではなかった。
同じ顔。
同じ髪。
同じ姿。
部屋いっぱいの「マリ」。
メリカは言う。
「全部」
失ったマリを。
もう二度と失わないために。
ここへ残す。
危険なことはさせない。
必要なことは全部、自分がする。
見る。
聞く。
守る。
決める。
それなら。
誰もいなくならない。
けれどアベスは問う。
その人たちは、自分でここにいると決めたのか。
そして。
かつてマリを見送ったイースが。
一つだけ言葉を置く。
「帰ってくるって、出ていける奴に使う言葉じゃない?」
好きだから。
失いたくないから。
必要とされたいから。
手を伸ばす。
それでも。
その手を止められるのか。
五人目。
メリカの答えが始まる。
第十一章 ここにいる
砂の国を出てから、イースはほとんど喋らなくなった。
正確には、喋らなくなったのではない。
返事をするまでに時間がかかるようになった。
列車の窓際。
イースは左肩を壁へ預け、右腕を膝の上に置いていた。
置いているというより、そこに残されている。
右脚も、もう自分から持ち上がることはほとんどない。
列車が大きく揺れた。
身体が右へ傾く。
戻らない。
アベスが肩を支えた。
「イース」
「……何」
「倒れています」
「寄りかかってるだけ」
「僕に」
「そうとも言うね」
頭の奥で声がした。
(ずいぶん自然に介護されてるね)
「黙ってて」
(人気者)
「誰のせいだと」
(さあ?)
イースが少し笑った。
その一音だけ、知らない男の声になった。
アベスが顔を上げる。
「今、声が」
「寝不足」
「声は寝不足で変わりますか」
「便利だよ、寝不足」
(便利だねえ)
「君は乗るな」
アベスには後半だけが聞こえた。
「誰に言っていますか」
「独り言」
「最近、多いです」
「年かな」
アベスはイースの顔を見る。
輪郭はいつものままに見えた。
けれど。
瞬きをした一瞬だけ、目の色が違った。
「……イース」
「今度は何」
「顔」
「あるよ」
「そうではありません」
「知ってる」
イースは窓の外へ顔を向けた。
しばらくして。
ぽつりと言う。
「今、外って何?」
アベスが止まった。
「建物です」
「色」
「灰色です」
「その次」
「木があります」
「へえ」
「見えていないんですか」
イースは少し考えた。
「半分くらい」
「右ですか」
「多分」
「左は」
「ある」
「多分?」
「質問多いねえ」
アベスはもう聞かなかった。
窓の外には。
自分には見えるものがいくつもあった。
建物。
木。
走っていく人。
干された布。
電線に止まる鳥。
それを一つずつ。
覚えておこうと思った。
* * *
夕方。
二人は、かつてRATが使っていた区画へ入った。
封鎖された通路。
錆びた扉。
壁に残った弾痕。
半分剥がれた標章。
蛍光灯は場所ごとに色が違い、低い音でジジ……と鳴っている。
空気には。
閉じた部屋の匂いが残っていた。
古い布。
埃。
薬品。
冷めたコーヒー。
長く換気されていない場所に残る、人の生活の匂い。
アベスが立ち止まる。
「人がいます」
「いるね」
「たくさん」
廊下の先で誰かが箱を運んでいる。
別の誰かが名前を呼び。
扉が閉まる。
向こうの部屋では椅子を引く音がした。
それでも。
ところどころに空白があった。
使われなくなった机。
空いた椅子。
誰も入らない部屋。
人がいた形だけが残っている。
「メリカは」
「この先」
「分かるんですか」
「昔の場所なら」
イースが壁へ左手をついた。
右手はポケットの中に入ったまま。
右脚を引きずる。
靴底が床を擦る。
ず。
ず。
と。
小さな音が続いた。
「持ちますか」
「何を」
「あなたを」
「荷物みたいに言うね」
(だいたい荷物じゃない?)
「うるさい」
アベスが見る。
「またですか」
「独り言」
その直後。
イースの身体が前へ崩れた。
左手が壁を探す。
届かない。
右手は動かない。
膝が床へ落ちた。
鈍い音。
アベスがすぐ肩を支える。
「イース」
「……」
「イース」
「いるよ」
(派手にいったね)
「転んでない」
(床にいるけど)
「休憩」
(なるほど)
「納得すんな」
アベスが左腕を取る。
「立てますか」
「立つ」
立てなかった。
左脚へ力を入れ、身体が半分だけ浮く。
そのまま。
また落ちる。
アベスが肩を貸した。
イースは何も言わずに体重を預ける。
軽かった。
ルウが言っていた意味が。
アベスにも分かった。
「食べていますか」
「食べてるよ」
「何を」
「色々」
「カルロスにも同じことを言いました」
「覚えてた?」
「はい」
「困ったなあ」
(嘘のレパートリー減ってきたね)
「君が考えてよ」
(有料)
「ケチ」
アベスがイースを見る。
笑っている。
けれど。
口元だけが一瞬、別の癖を作った。
誰のものかは分からない。
二人はそのまま、廊下の奥へ進んだ。
* * *
一つの扉の前で。
イースが止まった。
「ここ」
普通の扉だった。
鍵はない。
中から布が擦れる音と、小さな足音が聞こえる。
別の足音も。
少し遅れて重なった。
アベスが扉を開けた。
匂いが先に来た。
布。
古い綿。
糸。
埃。
少し甘い石鹸。
そして。
人。
アベスの目が止まる。
部屋の中に少女がいた。
一人。
二人。
三人。
もっと。
同じ顔。
同じ髪。
同じ背丈。
同じ服。
けれど。
目の開き方や。
首の角度。
指の置き方は少しずつ違う。
窓を見るもの。
床を見るもの。
壁へ寄りかかるもの。
布を畳むもの。
椅子へ座ったまま、何もしないもの。
アベスは静かに聞いた。
「……マリは、どの人ですか」
部屋の奥で。
一人の女が振り返った。
メリカ。
以前より細い。
ただ。
目だけが妙に冴えている。
「誰」
「アベスです」
「そう」
「マリは」
少女たちを見る。
「どの人ですか」
メリカは。
何でもないことのように答えた。
「全部」
アベスはもう一度、部屋を見た。
全部。
同じ名前。
少女の一人が水差しへ手を伸ばす。
メリカがすぐ立った。
「いいよ。私がやる」
少女の手が止まる。
別の一人が窓へ向かう。
「どこ行くの」
「外、見たい」
「ここから見えるよ」
「近くで」
「危ないから。私が開ける」
メリカが先に窓を開けた。
少女はその場から動かない。
また別の一人が。
床へ落ちた布を拾おうとする。
「置いて」
メリカが先に拾う。
「やらなくていいよ」
声は柔らかかった。
怒っていない。
だからこそ。
アベスは長く見た。
水。
窓。
布。
椅子。
食事。
薬。
髪。
着替え。
必要なことも。
そうでないことも。
メリカが先にやる。
「この人たちは、自分で決められますか」
メリカが振り返る。
「何を?」
「ここにいることを」
一瞬。
部屋の空気が止まった。
「ここにいた方が安全だから」
「それは、メリカが決めたんですか」
「そうだよ」
「この人たちは決めましたか」
メリカの声が少し強くなる。
「外は危ないの。ここなら私が見られる。何かあっても、すぐ助けられる」
アベスは頷いた。
「はい」
「だからここにいるの」
「分かりました」
メリカが少しだけ安心した顔をした。
イースは扉の横で壁へ寄りかかり。
何も言わずに部屋を見ている。
(すごいね)
「何が」
(全部同じ顔)
「君、こういうの好きそう」
(失礼だなあ)
「褒めてる」
(もっと失礼)
メリカがイースを見る。
「……誰と話してるの」
「独り言」
それだけ答えて。
イースは少し笑った。
* * *
夜。
少女たちは、それぞれの場所へ移った。
寝台。
椅子。
床のマット。
隣の部屋。
メリカは一人ずつ確認して回る。
毛布。
呼吸。
薬。
水。
「寒くない?」
首を振る。
「痛くない?」
首を振る。
「何か欲しい?」
首を振る。
「分かった」
次。
また同じ。
アベスは部屋の隅から見ていた。
イースは椅子へ座ったまま、ほとんど動かない。
アベスが近づく。
「眠いですか」
返事がない。
「イース」
返事がない。
アベスが左側へ回る。
「イース」
「……何」
「聞こえていませんでした」
「聞こえたよ」
「何と言いましたか」
「……こんばんは」
「違います」
「惜しい」
(全然違う)
「君は黙ってて」
アベスが眉を寄せる。
「左も、聞こえにくいですか」
「少しね」
「右は」
「旅行中」
「戻りますか」
「帰りたくなったら」
アベスが何か言おうとした。
その時。
イースの顔が一瞬だけ揺れた。
頬骨が変わる。
鼻筋が変わる。
知らない男。
次の瞬間には。
別の女。
それもすぐ消えて。
元の顔へ戻った。
アベスは固まった。
イースが左目だけで見る。
「何」
「今、顔が変わりました」
「そう?」
(今の三人目、懐かしいね)
「覚えてない」
(嘘)
「うるさいなあ」
アベスが頬へ手を伸ばし。
触れる寸前で止める。
「触っていいですか」
「珍しい質問するね」
「確認したいです」
「どうぞ」
指が頬へ触れる。
冷たい。
「冷たいです」
「外寒かったから」
「ここは暖かいです」
「じゃあ体質」
「僕が触っているのは分かりますか」
イースは少し考えた。
「見えてるよ」
「触られている感覚です」
沈黙。
(ゼロ点)
「採点すんな」
アベスの指が止まる。
イースは笑った。
「ほんとに何も分かんない」
天気の話でもするような声だった。
アベスは手を離した。
蛍光灯がジジ……と鳴り。
一度だけ光が揺れた。
次の瞬間。
部屋が消えた。
壁も。
少女たちも。
机もない。
代わりに。
海があった。
青く。
静かな海。
小さな島。
白い家。
木々。
果実。
水。
暖かい風。
アベスとメリカは。
少し離れた場所からそれを見ていた。
女がいる。
男がいる。
女は男へ食事を渡し。
寝床を整え。
傷を治す。
雨を避ける家を作り。
男が欲しがる前に必要なものを用意する。
男は困らない。
腹も減らない。
寒くない。
女は男を愛している。
男も女を嫌ってはいない。
笑う。
一緒に食事をする。
話をする。
夜には同じ星を見る。
「優しい人ですね」
アベスが言った。
メリカは何も答えない。
日が変わる。
男は海を見る。
次の日も。
海を見る。
女が新しい服を持ってくる。
男は礼を言い。
海を見る。
もっと美味しい料理が出される。
男は笑い。
海を見る。
女が問う。
何が足りない。
男は答えない。
ただ遠くを見る。
小さな船。
水平線。
「帰りたいんですか」
答えはない。
舞台は説明しない。
メリカが男を見る。
眉間に皺が寄る。
「ここが嫌いなんですか」
男は女を見て。
少しだけ笑う。
嫌ってはいない。
それだけが分かる。
アベスが言う。
「好きでも、帰りたいんですね」
メリカの指が僅かに動いた。
女は男へ何でも与える。
ただ。
船だけは与えない。
男が海へ向かうと。
女が先に立つ。
危ないから。
ここにいればいい。
ここには全部ある。
男はまた海を見る。
「この人は、何を奪われたんですか」
景色が揺れた。
海の音へ。
別の声が混ざる。
『マリの分あげる!』
半分のパン。
『私、貴女が必要なんだから!』
泣き声。
抱きしめる腕。
『ずっと必要として』
声にならなかった言葉。
『私、一人じゃないよ』
胸へ刺さった言葉。
『私ができることまで、取らないで』
手。
水。
扉。
『育つ必要ある?』
自分の声。
『私が全部やるから!』
『私が見るから!』
『私が聞くから!』
『私が決めるから!』
最後の言葉だけが。
長く残った。
私が決める。
海が消えた。
第十二章 待つ
部屋へ戻っていた。
蛍光灯がジジ……と鳴っている。
少女たちも。
机も。
壁もある。
メリカは立ったまま、顔色を失っていた。
アベスは舞台があった場所ではなく。
隣のメリカを見る。
「メリカ」
「何」
「マリは、あなたが嫌いだったんですか」
「違う」
即答だった。
「私のこと好きだった。私も好きだった」
「はい」
「だから守った」
「はい」
「守らなきゃ」
言葉が止まる。
「いなくなるから」
アベスは何も言わない。
メリカは部屋を見る。
同じ顔。
誰も外へ行かない。
誰も勝手に水を取らない。
誰も勝手に扉を開けない。
「これなら、いなくならない」
アベスが聞いた。
「いなくならなければ、何でもいいんですか」
「何でもって何」
「話せなくても」
マリ。
『喋れなくてもいい』
「歩けなくても」
『歩けなくても』
「見えなくても」
『私が見る』
「決められなくても」
『私が決める』
メリカの顔が歪む。
「やめて」
アベスは止まった。
「すみません」
メリカが目を閉じ。
長く呼吸する。
「……違う」
少しして。
「違わない」
目を開ける。
「でも、いなくなるよりいい」
椅子の方から。
軽い笑い声がした。
「すごいね」
メリカが振り向く。
イースは壁へ頭を預け。
左目だけを開いている。
「何が」
「これ全部、マリ?」
「そうだけど」
「へえ」
声が途中で子どものものに変わり。
次の音では戻った。
メリカが目を細める。
「あんた、今」
「今日はよく言われる」
「顔も」
「元から」
頭の奥で声。
(顔ガチャだ)
「黙れ」
(次は誰かな)
「やらないよ」
メリカはしばらくイースを見たが。
何も言わなかった。
イースが左脚へ力を入れる。
立とうとする。
腰が少し浮き。
そのまま椅子へ落ちた。
「座って話すね」
(立てなかっただけじゃん)
「静かに」
アベスが支えようとする。
イースは左手を上げた。
「いいよ」
アベスが手を引く。
イースはメリカを見る。
「そういえば、あの子」
メリカの目が止まる。
「あの子、帰りたがってたよ」
空気が止まった。
「……何?」
「君のところに」
メリカの唇が僅かに開く。
「何言ってんの」
「そのまま」
「マリはここにいる」
「うん」
「全部いる」
「うん」
「どこにも行かない」
「そうだね」
「なら帰る必要ないでしょ」
イースは少しだけ首を傾けた。
「でもさ」
一拍。
「帰ってくるって、出ていける奴に使う言葉じゃない?」
メリカが完全に止まった。
一人のマリが布を畳む。
別の一人が床を見る。
もう一人が閉じた扉を見る。
誰も動かない。
メリカの呼吸だけが聞こえる。
「……あんた、あの子と話したことあるの?」
「ないよ」
即答。
「嘘」
「そうかもね」
「何を知ってるの」
「何も」
「じゃあ何で」
「想像」
「ふざけないで!」
声が部屋へ響いた。
少女たちが一斉にこちらを見る。
イースは笑う。
それだけ。
頭の中で声がした。
(言わないんだ)
「何を?」
(分かってるくせに)
「僕、嘘つきだからね」
(便利)
「でしょ」
メリカには聞こえない。
イースは。
それ以上何も渡さなかった。
* * *
夜がさらに深くなる。
メリカは落ち着かなかった。
扉。
窓。
寝台。
人数。
何度も数える。
一。
二。
三。
途中で最初からやり直す。
「……全部いる」
誰に言うでもなく呟いた。
アベスが横にいる。
「メリカ」
「何」
「怖いですか」
「怖くない」
即答。
アベスは待った。
やがてメリカが。
少女たちを見たまま言う。
「……怖いよ」
一人を見る。
「目閉じたら、またいなくなるかもしれない」
別の一人を見る。
「朝起きたら、誰もいないかもしれない」
扉を見る。
「必要じゃなくなったら、離れていくかもしれない」
アベスが聞く。
「必要なら、離れませんか」
メリカは答えない。
「マリは、あなたが何もできない時に見つけました」
半分のパン。
「何も持っていない時に」
「……」
「必要だから、パンをくれたんですか」
メリカが俯く。
「……違う」
声が小さい。
「あの子、そんなこと考えてなかった」
少し笑った。
「馬鹿だったから。自分も腹減ってたのに、半分くれた」
涙が一つ落ちる。
「はい」
メリカは部屋いっぱいのマリを見る。
「じゃあ、何で私は」
そこで言葉が止まった。
胸を押さえる。
「こんなに」
アベスは答えない。
知らないから。
代わりに聞く。
「この人たちは、メリカを必要としていますか」
メリカが口を開く。
言えない。
以前なら言えた。
必要としている。
だからいる。
けれど今は。
それを自分で決めることができなかった。
「……分かんない」
初めて。
その言葉を口にした。
* * *
一人の少女が立ち上がった。
メリカが反射的に動く。
「どこ行くの」
少女は扉を見る。
「外」
「何しに」
「分かんない」
「危ないよ」
「うん」
「なら」
行かなくていい。
言いかけて。
止まる。
少女はメリカを見ている。
待っている。
メリカの手が伸びる。
止めるために。
胸の奥が鳴る。
怖い。
出たら戻らないかもしれない。
転ぶかもしれない。
誰かに傷つけられるかもしれない。
自分を必要としなくなるかもしれない。
「私が」
喉まで出る。
私が行く。
私が見る。
私が決める。
メリカは手を下ろした。
長い沈黙。
「……どうしたい?」
少女が目を瞬く。
メリカは待つ。
答えを作らない。
先に言わない。
少女は扉を見て。
それからメリカを見る。
「外」
「うん」
「少し見たい」
メリカの喉が動く。
「……そっか」
「一緒に来る?」
今までなら。
すぐに行った。
離れないために。
でも。
少女は自分で聞いた。
メリカは考える。
「今日は、ここで待つ」
少女が少し不安そうな顔をする。
「戻ってくるよ」
胸が強く痛む。
戻る。
離れるから使える言葉。
メリカは泣きながら笑った。
「……うん」
扉が開く。
少女が一歩、外へ出る。
メリカは追わない。
二歩。
三歩。
足音が遠くなる。
指が何度も動く。
止めたい。
呼びたい。
戻ってきてと言いたい。
それでも言わない。
廊下の向こうで足音が消えた。
メリカは立ったまま。
浅く息をする。
「……怖い」
アベスが頷く。
「はい」
「止めたい。今すぐ」
「はい」
メリカは閉じていない扉を見る。
「でも、止められなくても」
一拍。
「……もう大丈夫」
その瞬間。
アベスの胸の奥が強く脈打った。
ドクン。
世界が変わる。
扉。
空いた椅子。
置かれたカップ。
使われていない毛布。
部屋を出た人が残した温度。
誰かがここにいた。
誰かが今、ここにいない。
その差が一度に目へ入る。
アベスの視線が。
勝手に残っているものを探す。
閉じた扉。
空席。
足音。
置き去りの布。
離れていく背中。
掴みたい。
止めたい。
ここへ残したい。
胸が締めつけられ。
手が扉へ伸びる。
一歩。
そこで。
自分で止まった。
少女は自分で出た。
アベスは扉を見る。
追わない。
胸の感覚がゆっくり静かになり。
世界が自分の目へ戻ってくる。
空いた椅子は空いた椅子。
扉は扉。
外へ出た人は。
いなくなったのではない。
今。
ここにいない。
それだけ。
メリカの中からも。
何かが静かに離れていった。
人を止めるもの。
必要とされなければ離れていくと怯えるもの。
相手の選択まで、自分の手の中へ置こうとするもの。
それでも。
マリへの気持ちは消えない。
怖さも消えない。
「持ってって」
アベスが見る。
「いいんですか」
「よくない。全然」
メリカは涙を拭いた。
「でも、これがなくても待てるから」
アベスが頷く。
「受け取ります」
胸の奥へ。
何かが静かに収まる。
アベスは扉を見る。
まだ誰も戻ってこない。
それでも。
待った。
* * *
「……帰ってきた」
しばらくして。
廊下から声がした。
さっきの少女だった。
手に小さな布を持っている。
メリカが一歩動き。
そこで止まる。
少女の方から近づいてくる。
「これ」
「何?」
「外に落ちてた」
青い布。
少し汚れている。
メリカが受け取る。
「ありがと」
「うん」
それだけだった。
メリカは抱きしめなかった。
手首も掴まなかった。
ただ。
そこにいる少女を見た。
* * *
部屋の隅。
イースは。
いつの間にか床へ座っていた。
椅子から落ちたらしい。
アベスが近づく。
「イース」
返事がない。
「イース」
左目が開く。
「何」
「また床です」
「好きなんだよね、床」
(新しい趣味?)
「そう」
(冷たい?)
「分かんない」
(便利)
「便利だよ」
声がまた揺れる。
老人。
女。
子ども。
一音ごとに。
少しずつ違う。
顔も同じだった。
輪郭が安定しない。
アベスがしゃがむ。
「立てますか」
「立てる」
「さっきもそう言いました」
「学習するねえ」
アベスが肩を貸す。
イースが左手を乗せる。
右手は動かない。
右脚も床を引きずるだけ。
立ち上がった瞬間。
身体が逆方向へ傾いた。
アベスが支える。
「見えていますか」
「うん」
「何が」
長い沈黙。
「……君」
「それ以外は」
「贅沢言うね」
(ほぼ見えてないじゃん)
「一人見えれば十分」
(ロマンチック)
「変なこと言うな」
アベスが眉を寄せる。
「誰と話していますか」
イースは笑う。
その顔も。
一瞬ごとに僅かに違う。
「友達」
頭の中ですぐ声。
(えっ)
一拍。
「嘘」
(だと思った)
「騙された?」
(全然)
「つまんないなあ」
イースはアベスへ体重を預けたまま歩き出す。
一歩。
右脚を引きずる。
一歩。
顔が一瞬だけ別人になる。
戻る。
声も揺れる。
それでも笑っている。
後ろからメリカが言った。
「……あんた」
イースが止まる。
「何」
「死ぬの?」
アベスがメリカを見る。
イースは少し考えてから笑った。
「人っていつか死ぬでしょ」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ難しいな」
(逃げた)
「得意なんだ」
メリカはしばらくイースを見た。
「……最後まで、それなんだ」
「何が?」
「別に」
イースはまた歩く。
廊下。
蛍光灯。
ジジ……。
アベスの足音。
その横で。
イースの右足が床を擦る。
ず。
ず。
少しして。
頭の奥の声が笑った。
(ねえ、相棒)
「誰が相棒だ」
(まだ何も言ってない)
「言い方が嫌」
(元気じゃん)
「どこ見て言ってんの」
(見てないよ)
「最悪」
頭の中で笑い声。
イースも小さく笑った。
身体は。
ほとんど壊れていた。
それでも。
次へ進んだ。
合流編、五人目はメリカでした。
これで。
ネミティブ。
菅原。
カルロス。
ルウ。
メリカ。
アベスが「会ってみたい」と言った五人を、すべて見終えました。
今回のメリカで描きたかったのは。
「守ること」と「選択を奪うこと」は、同時に成立してしまう。
という部分です。
メリカはマリを本当に好きでした。
必要とされたかったのも本当。
守りたかったのも本当。
だからこそ。
「危ないから」
「私がやる」
「私が見る」
「私が決める」
へ進んでしまった。
今回も。
その気持ちそのものを消す話にはしていません。
マリを好きだったこと。
いなくなるのが怖いこと。
離れてほしくないこと。
全部残っています。
変わったのは。
その怖さを理由に、相手の選択まで握らなくなったこと。
少女が外へ出る時。
メリカは怖い。
止めたい。
追いかけたい。
それでも。
自分で聞く。
「どうしたい?」
そして。
自分はついていかず。
「ここで待つ」
この章の答えは、そこです。
帰ってくるという言葉は。
一度離れられる相手にしか使えない。
だから。
ずっと閉じ込めて「ここにいる」より。
出ていった相手を。
自分で戻ってくるまで待つ。
その方を。
メリカは初めて選びました。
そして。
五人を見る旅の裏で。
イースの身体はもう。
右手。
右脚。
視覚。
聴覚。
触覚。
声。
顔。
ほとんど全部が崩れ始めています。 KillerWorld_合流編_第十一章第十二章_メリカ_短文…
それでも。
まだ進む。
五人を見終えたアベスが。
ここから何を考え。
何を選ぶのか。
物語は。
最後の答えへ向かいます。




