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『KillerWorld ―七つ目の答え―』  作者: ザクロ
アベス編

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KillerWorld ―七つ目の答え― 合流編 第九章「直せるもの」/第十章「怒りの下」

三人目、カルロスとの再会を終え。

アベスとイースは、四人目――ルウを探して乾いた土地へ向かう。

辿り着いた小さな集落。

そこには。

壊れた機械を直し。

止まった水を戻し。

困った人間がいれば、誰より早く動く男がいた。

ルウ。

彼は今も怒っていた。

壊れた機械に。

古い配管に。

無茶をする人間に。

そして。

何もしていない自分に。

何かが壊れていれば、直せる。

誰かが困っていれば、動ける。

では。

誰も困っていなかったら?

何も壊れていなかったら?

アベスの問いは。

ルウが長い間、怒りの下へ押し込めてきたものへ触れていく。

怖さ。

悲しさ。

寂しさ。

そして。

かつて兄へ謝ろうとした日。

ルウは思い出す。

あの日。

自分は怒っていなかった。

それでも。

ちゃんと歩いていた。

第九章 直せるもの


ソルメアを離れてから、景色は少しずつ色を失っていった。


窓の外を埋めていた店先の椅子が消え、家と家の間が広がる。


道路沿いの木は低くなり、やがて乾いた地面がむき出しになった。


さらに進むと草も減り、最後に残ったのは砂と石だった。


昼を過ぎた頃には、窓ガラスの向こうが白く霞んでいる。


アベスが窓へ手を当て、すぐに離した。


「熱いです」


「そりゃそうでしょ」


向かいに座るイースが答える。


「触ってみますか」


「遠慮しとく」


「暑くないんですか」


「暑いよ」


「本当ですか」


「最近、疑うねえ」


アベスはイースの額を見る。


汗は浮いている。


けれど、暑さを嫌がる様子はほとんどない。


「カルロスが言っていました。分からないことは、分からないままでいいと」


「僕を疑う方向に成長するとは思わなかったなあ」


アベスはもう一度外を見る。


陽炎が揺れている。


一本だけ立った電柱の下を、小さな獣が走っていった。


名前は分からない。


それでも、見えなくなるまで目で追った。


車内には低いエンジン音が続いている。


ぶるるるる。


ぶるるるる。


ぶるる。


一度だけ、音が落ちた。


アベスが顔を上げる。


「今、音が変わりました」


運転手も気づいたらしい。


少しアクセルを戻すと、また音が揃った。


「故障ですか」


「知らない」


「気になります」


「じゃあ壊れたら見てみれば?」


「僕は直せません」


「そうだね」


アベスは少し考えた。


「ルウは、直せますか」


イースが窓の外を見る。


「大体は」


「何をですか」


「機械」


少し間を置いて、付け足す。


「あと、人の困りごと」


「人も直すんですか」


イースが笑った。


「本人は、そう思ってないだろうけどね」


「どんな人ですか」


「怒ってる」


「いつも?」


「割と」


「あなたに?」


「会ったら多分」


「なぜですか」


「僕、好かれないから」


「知っています」


「即答する?」


車体が大きく揺れた。


窓の隙間から細かな砂が入り込む。


アベスが口を閉じたが、少し遅かった。


「……砂が入りました」


「どこ」


「口です」


「おいしい?」


アベスがイースを見る。


「おいしくないです」


「好み増えたねえ」


その時、頭の奥で声がした。


(左)


イースの目が動く。


「何が?」


(道)


「分かるの?」


(知らない)


イースが小さく笑った。


「便利なのか不便なのか、ほんと分かんないね」


アベスが見る。


「何ですか」


「独り言」


車は次の分岐で左へ曲がった。


夕方。


二人を乗せた車は、小さな集落の前で止まった。


降りた瞬間、熱が身体を包んだ。


昼のピークは過ぎている。


それでも地面から返ってくる熱は強い。


乾いた風が吹き、汗が出てもすぐに乾く。


アベスが辺りを見る。


低い建物。


古い配管。


錆びた貯水槽。


砂に半分埋もれた車。


屋根の上には、日差し除けの布。


遠くで、金属を叩く音がした。


カン。


カン。


その次に、低い機械音。


ゴウン。


ゴウン。


ゴウン。


「……音がします」


「いるね」


「ルウですか」


「たぶん」


「またですか」


「人って移動するからね」


アベスは何も言わず歩き出した。


イースが後ろからついてくる。


右脚が、前よりはっきり遅れていた。


アベスは一度振り返る。


イースが笑った。


「前見ないと転ぶよ」


アベスは前を向いた。


金属音へ近づく。


工場だった。


入口には古い部品が積まれている。


使えないように見えるもの。


半分壊れたもの。


まだ何かに使えそうなもの。


アベスには、その区別がつかない。


中から声がした。


「違う! そこじゃねえ!」


別の声。


「じゃあどこだよ!」


「音聞け!」


「聞いて分かるなら呼んでねえよ!」


「分かんねえから壊したんだろ!」


一拍。


「……それはそう」


工具が落ちる音。


ガン。


「落とすな!」


「悪い!」


「拾え!」


「お前ほんと口悪いな!」


「壊れてんの持ってくる奴に言われたくねえ!」


アベスが工場の中を見る。


男が一人、古いポンプの前にしゃがんでいた。


腕は油で汚れ、額には汗。


首に巻いた布も、砂と油で色が変わっている。


その男――ルウは、横に立つ老人へ手を出した。


「十三」


老人が工具を渡す。


ルウが見る。


「十四だ」


「あれ?」


「何年付き合ってんだよ!」


工場に笑い声が響く。


アベスがイースを見る。


「怒っています」


「言ったでしょ」


「でも、楽しそうです」


イースの目が少しだけ細くなる。


「そう見える?」


「はい」


その時、ポンプが一度、嫌な音を出した。


ゴッ。


ルウの顔が変わる。


「止めろ!」


老人がスイッチを切る。


ゴウン。


機械音が消えた。


静かになった工場で、外の風だけが砂を壁へ擦りつける。


ルウがポンプへ耳を近づけた。


指で外装を叩く。


コン。


コン。


場所を変える。


コン。


「……軸じゃねえな」


横を見る。


配管。


継ぎ目。


床へ落ちている一滴の水。


ルウが指で触り、匂いを嗅ぐ。


「ここだ」


「分かるの?」


「見りゃ分かる」


「俺には分からん」


「だから壊すんだよ」


また、軽い笑い。


アベスはずっと見ていた。


ルウが顔を上げる。


目が合う。


「……何」


「ルウですか」


ルウの眉間に皺が寄った。


「誰だよ」


「アベスです」


「知らねえ」


アベスが隣を見る。


「イースです」


「勝手に紹介しないでよ」


ルウの視線がイースへ移り、止まった。


イースはいつものように笑う。


「どうも」


ルウが少し目を細める。


「……お前」


「何?」


長い。


ルウは顔、立ち方、声を順に見る。


けれど、何かを思い出した様子はない。


「いや。知らねえ」


「残念」


「何しに来た」


アベスが答える。


「あなたを見に来ました」


ルウの手が止まった。


「……は?」


老人が吹き出した。


「お前、人気者だな」


「うるせえ」


「遠くから会いに来てくれたんだろ」


「何で俺なんだよ!」


老人が笑う。


ルウは心底嫌そうな顔をした。


修理が終わるまで、二人は工場で待った。


アベスは工場の中を歩いた。


壁。


工具。


部品。


油。


砂。


古いゴム。


熱を持った金属の匂い。


古い送風機が、ぶうううん、と一定の音を出している。


時々、羽根のどこかがカタッと鳴る。


アベスが見る。


「これも壊れていますか」


ルウが振り返る。


「どれ」


「送風機」


「壊れてねえ」


カタッ。


「音がします」


「ベアリング減ってるだけ」


「壊れているのでは?」


「まだ動く」


「直さないんですか」


「後で」


「いつですか」


「壊れる前」


「今では?」


ルウがレンチを持ったまま、アベスを見る。


「お前細けえな」


イースが少し離れた椅子で笑った。


「仲良くなれそう」


「お前は黙ってろ」


「初対面なのに」


「何かムカつく」


イースが少し嬉しそうに笑う。


夕方までに、ポンプは直った。


老人が試運転のスイッチを入れる。


ゴウン。


ゴウン。


さっきまで混じっていた嫌な擦れ音は消えている。


「助かったよ」


老人が言った。


「部品代だけ置いてけ」


「工賃は?」


「いらねえ」


「またか」


「うるせえ」


老人は笑いながら工場を出ていった。


少しして、別の男が壊れた発電機を持ってくる。


ルウは舌打ちした。


「次は何だよ」


それも直した。


次に、近所の女が水の出が悪いと言ってきた。


ルウは工具箱を持って出ていった。


一時間後に戻る。


「直りましたか」


「直った」


「次は?」


アベスが聞いた。


ルウが眉を寄せる。


「次?」


「はい」


「……知らねえよ」


工場に静けさが落ちた。


ぶうううん。


カタッ。


送風機だけが鳴っている。


ルウは工具を片付け始めた。


一つ。


二つ。


三つ。


全部終わる。


それでも、手が止まらない。


一度片付けた工具箱をまた開き、中を確認する。


棚のボルトを締める。


机の脚を蹴って、ぐらつかないか確かめる。


送風機を見る。


貯水槽を見る。


外へ出る。


「何してるんですか」


アベスが聞いた。


「別に」


ルウは工場の横に停めてある車へ回った。


タイヤを蹴る。


ボンネットを開ける。


「車は壊れていますか」


「壊れてねえ」


「では、どうして見ていますか」


「点検だよ」


「さっきもしていました」


ルウの手が止まる。


「……してねえ」


「見ました」


「見間違いだろ」


「二回見ました」


ルウがアベスを見る。


「数えてんのかよ」


「はい」


「気持ち悪いな、お前」


それでもルウはボンネットを閉めなかった。


少しして、弟らしい少年が工場の奥から顔を出した。


「兄ちゃん、今日はもう終わり?」


ルウの肩が僅かに動く。


「まだ」


「何か残ってる?」


「……あるだろ」


「何が?」


返事がない。


少年が首を傾げる。


「ないなら飯食おうよ」


「先食ってろ」


「また?」


「いいから」


「母さん、最近そればっかって言ってたよ」


ルウが振り返る。


「何が」


「仕事ないのに工場いるって」


「うるせえな」


声が強くなる。


少年が少し黙った。


「……休めばいいじゃん」


ルウの顔が変わった。


「俺が休んだら、誰がやんだよ」


「今、何もないじゃん」


「明日壊れるかもしれねえだろ!」


「明日なら明日で――」


「分かってねえなら黙ってろ!」


工場が静かになった。


少年の肩が小さく跳ねる。


ルウの呼吸が荒い。


数秒。


「……悪い」


少年は何も言わず、家の方へ戻った。


ルウはボンネットへ視線を落とした。


拳が震えている。


アベスは何も言わなかった。


しばらくして、ルウがボンネットを閉める。


「……クソ」


小さく吐き捨てる。


そして、また別の工具を手に取った。


日が落ちる。


砂漠は急に温度を失い始めた。


昼間、肌へまとわりついていた熱が消える。


今度は冷たい風が服の隙間へ入る。


アベスが腕を擦った。


「寒いです」


「昼は暑いって言ってなかった?」


イースが言う。


「昼は暑かったです」


「忙しいねえ」


「あなたは寒いですか」


「寒いよ」


「本当ですか」


イースは笑って答えない。


アベスはイースの左手を見る。


袖口から風が入っている。


それでも指先には、ほとんど反応がない。


右手は膝の上。


動かない。


アベスは自分の腕を、もう一度擦った。


寒い。


嫌だった。


だから、覚えておこうと思った。


夜。


ルウは工場の屋根にいた。


昔と同じ場所。


けれど、隣は空いている。


集落の灯りは点々としている。


遠くで犬が鳴き、さらに遠くでは発電機が低く唸っていた。


アベスも少し離れて座る。


イースは屋根の縁へ背を預けていた。


ルウは座っているのに、落ち着かない。


立つ。


屋根の端へ行く。


集落を見る。


また座る。


一分もしないうちに、立つ。


「何を見ていますか」


アベスが聞いた。


「別に」


「さっきから三回、立ちました」


ルウが振り返る。


「数えんな」


「何か壊れていますか」


「知らねえ」


「今日はもう、全部直りました」


「だから何だよ」


「それでも探しています」


ルウの目が細くなる。


「……何が言いてえ」


「分かりません」


「は?」


「ただ、見えたことを言いました」


ルウが舌打ちする。


風が砂を屋根へ流す。


さらさら。


「じゃあ聞くな」


「はい」


アベスは黙った。


静かになる。


発電機。


犬。


風。


それだけ。


ルウの指が膝を叩く。


トン。


トン。


トン。


止まる。


また始まる。


「……ちょっと見てくる」


ルウが立った。


「何をですか」


「知らねえよ」


「壊れているものですか」


ルウの顔が険しくなる。


「何かあんだろ」


「なかったら?」


「……」


「何も壊れていなかったら」


アベスが見る。


「困りますか」


ルウの表情が、完全に止まった。


次の瞬間。


「ふざけんな」


声が低くなる。


「何で俺が困るんだよ」


「分かりません」


「だったら言うな!」


立ち上がった勢いで、足元の空き缶を蹴る。


カンッ。


缶が屋根を転がっていく。


ルウの呼吸が荒い。


でも。


少しだけ。


顔が楽になっている。


アベスは、そこを見ていた。


頭の奥で声がした。


(当たり)


イースの目が僅かに動く。


「意地悪だなあ」


(君に言われたくない)


「それはそう」


ルウが見る。


「誰と喋ってんだよ」


「独り言」


「気持ち悪いな、お前」


イースは笑った。


その夜。


風が止まった。


発電機の音が遠くなり、犬の声も消える。


集落の灯りは見えているのに、そこだけ世界から切り離されたように静かだった。


ルウが顔を上げる。


「……何だ」


アベスも見る。


(見せる?)


イースの目が細くなる。


「僕に聞く?」


(君が決めるの?)


一拍。


イースが笑った。


「そうだった」


景色が変わる。


何もない荒野に、男が立っていた。


アベスとルウは、少し離れた場所からただ見ている。


男の前には武器を持った人間がいる。


戦いが始まった。


男は怒っていた。


大切なものを奪われたから。


一人を倒す。


また一人を倒す。


怒れば立てた。


怒れば怖くなかった。


怒れば腕が動いた。


日が変わる。


場所が変わる。


敵は減っていく。


それでも、男の怒りは減らない。


最後の一人が倒れた。


静かになった。


男は立ったまま、次に来るものを待っている。


誰も襲ってこない。


誰も奪わない。


誰も傷つけない。


男の拳だけが、まだ握られている。


しばらくすると、遠くから老人が歩いてきた。


男が構える。


老人は武器を持っていない。


ただ、最後に倒れた人間のところへ行った。


膝をつく。


顔へ触れる。


名前を呼ぶ。


返事はない。


もう一度呼ぶ。


声が震える。


老人はその手を握り、泣いた。


男の拳が止まる。


敵だと思おうとする。


けれど、目の前にいる老人は何もしてこない。


ただ、大切なものを失った人間だった。


男の拳から、少しずつ力が抜ける。


その時。


頬に何かが流れた。


男が触る。


濡れている。


怒りが消えたわけではない。


ただ。


その下にあったものが、初めて外へ出た。


景色が消えた。


風が戻る。


発電機。


犬。


砂。


夜。


全部が元の場所へ戻った。


ルウは何も言わなかった。


アベスは神話が消えた場所ではなく、隣のルウを見ていた。


拳が握られている。


でも。


震えている。


「……何だよ、今の」


イースが答える。


「さあ?」


「お前らがやったんだろ」


「僕は見てただけ」


「ふざけんな」


「いつも通りだよ」


ルウの拳に力が入る。


けれど、殴らなかった。



第十章 怒りの下


翌朝。


ルウは、送風機の音で目を覚ました。


ぶうううん。


カタッ。


ぶうううん。


カタッ。


寝台から起きる。


昨夜の夢――いや、夢だったのかさえ分からない景色が頭に残っている。


老人。


倒れた男。


濡れた頬。


「……クソ」


吐き捨てる。


少し楽になる。


ルウはそのことに気づき、顔をしかめた。


送風機を見る。


椅子を持ってくる。


工具を取る。


カバーを外す。


数分後。


カタッ。


が、消えた。


ぶうううん。


一定の音だけになる。


「後でではなかったんですか」


後ろから声。


ルウが振り返る。


アベス。


「いつからいた」


「今です」


「びっくりさせんな」


「直したんですね」


ルウが送風機を見る。


「気になったから」


「壊れる前ですか」


「そう」


「昨日と同じですね」


「何が」


「まだ壊れていませんでした」


ルウが一瞬黙る。


「……うるせえな」


今度は怒鳴らなかった。


昼前。


集落の外れで古い車が止まった。


ボンネットを開ける。


熱。


油。


焦げたゴム。


ルウが顔をしかめる。


「誰だこれ乗ってきたの」


若い男が手を上げる。


「俺」


「音してたろ」


「してた」


「何で止めねえんだよ!」


「いけるかなって」


「いけねえから止まってんだろ!」


男が笑う。


「直る?」


「直す!」


アベスが横から覗く。


ルウはエンジンを見る。


ホース。


ベルト。


配線。


指で触り、音を聞き、匂いを嗅ぐ。


「ここ」


アベスには、まだ何も分からない。


ただ、ルウが世界を見る順番だけは少し分かってきた。


動くか。


止まるか。


音が合っているか。


熱がどこに溜まっているか。


水が漏れていないか。


まだ使えるか。


直せるか。


「ルウ」


「何」


「壊れたものを見るのは嫌ですか」


「嫌じゃねえ」


即答だった。


「どうしてですか」


ルウがボルトを緩める。


「直せるから」


「直らないものは?」


手が一瞬止まる。


「……知らねえ」


また動く。


「そういうのは嫌いだ」


修理は昼過ぎに終わった。


男が車を出していく。


砂煙が遠ざかる。


工場へ戻ると、母親が声をかけた。


「今日はもう休んだら」


ルウの顔が変わる。


「何で」


「朝から動きっぱなしでしょ」


「別に」


「仕事も今はないんでしょう?」


その一言で、ルウの肩が強張った。


「ある」


「何が?」


「探せばある」


母親が少し困った顔をする。


「探さなくていいのよ」


「何で」


「壊れてないなら、それでいいでしょう」


ルウの声が強くなる。


「壊れてからじゃ遅えんだよ!」


母親が黙る。


「水止まったら誰が行くんだよ。車止まったら誰が引くんだよ。夜中に何かあったら――」


「誰も、ルウに全部やれって言ってない」


静かな声だった。


ルウの口が止まる。


「……じゃあ何だよ」


「何もしなくていい時間があってもいいって言ってるの」


「ふざけんな」


「ルウ」


「何もしなかったら、何なんだよ!」


声が工場に響く。


母親は何も言わない。


ルウの呼吸が荒い。


胸の奥。


何かが痛い。


その痛みを確かめる前に、腹が立った。


「……クソ」


吐き捨てる。


少し楽になる。


それが。


今度は。


自分でも分かった。


ルウの顔から血の気が少し引く。


母親は、その変化を見ていた。


「……俺」


言葉が続かない。


ルウは工場を出た。


夕方。


工場の裏。


日が落ちる前の砂漠は、遠くまで赤い。


風が強くなり、砂が足元を流れる。


アベスが昨日の景色を思い出していた。


ルウは地面へ座っている。


落ち着かない。


指が砂を掻く。


「昨日の男は」


ルウが顔をしかめる。


「その話すんの?」


「はい」


「嫌だ」


「では、やめます」


即答。


ルウが逆に止まる。


「……やめんの?」


「嫌だと言ったので」


「……そう」


少し間が空く。


ルウが砂を蹴った。


「……続けろよ」


「いいんですか」


「いい」


アベスが頷く。


「最後の人を倒したあと、男は次の敵を探していました」


ルウの目が僅かに動く。


「でも、敵の父親は戦いませんでした」


「見てたから分かる」


「はい」


「それが何」


「分かりません」


「またそれかよ」


「だから聞きます」


アベスはルウを見る。


「敵がいなくなったら、どうしますか」


「何もしねえよ」


「本当ですか」


「何で疑うんだよ」


「昨日、何も壊れていないのに、壊れたものを探していました」


ルウの顔が変わった。


「……それが何だよ」


「今日もです」


「点検だって言っただろ」


「誰も困っていなくても?」


ルウの指が止まる。


アベスは続ける。


「誰も困っていなかったら、あなたは何をしますか」


「……」


「工場が壊れていなくて」


「……」


「水も出ていて」


「……」


「家族も困っていなくて」


「……」


「誰もあなたを呼ばなかったら」


風。


砂。


遠くで金属板が、ばたん、ばたん、と鳴る。


ルウは答えなかった。


「……知らねえよ」


やっと、それだけ。


「そんなもん考えてる暇ねえ」


「なぜですか」


「やることあるからだよ!」


声が強くなる。


「水止まったら直す! 車壊れたら直す! 工場も、家も、誰か困ってたら――」


言葉が止まる。


アベスが静かに聞いた。


「誰も困っていなかったら?」


ルウの顔が、完全に止まった。


答えがない。


少し離れた場所。


イースが壁へ背を預けている。


頭の中で声がした。


(困ってる人がいないと、困るんだね)


イースの口元が少しだけ上がる。


「意地悪だなあ」


(君に言われたくない)


「それはそう」


(言うの?)


イースはルウを見る。


拳。


肩。


呼吸。


もう、怒りへ逃げる準備ができている。


「まだ」


(どうして)


「本人が、自分でそこ見てない」


夜。


集落の水が一度止まった。


「ルウ!」


外から声が飛ぶ。


ルウが立ち上がる。


「今度は何だよ!」


老人が走ってくる。


「北の管だ!」


「またかよ!」


工具箱を掴む。


持ち上げる。


迷わない。


アベスが見る。


「行くんですね」


「水止まってんだろ!」


「怒っているからですか」


「今それ聞く!?」


「はい」


「知らねえよ!」


走る。


アベスも追う。


イースは少し遅れてついていく。


右脚は、もうほとんど上がっていない。


北の配管。


夜の砂漠。


冷たい風。


ライト。


古い管。


水が細く漏れている。


ルウがしゃがむ。


「ここ」


工具を出す。


ボルト。


継ぎ手。


錆。


砂。


「ライトこっち!」


アベスが照らす。


「ここですか」


「もうちょい右!」


「こうですか」


「そこ!」


十分。


二十分。


三十分。


遠くで誰かの咳。


犬。


風。


工具。


水。


全部が夜の中へ混ざっていく。


途中、ルウの手が止まった。


怒っている。


配管に。


古さに。


何度も壊れることに。


でも、それだけではない。


寒い。


疲れた。


眠い。


父親なら、もっと早かったかもしれない。


兄なら、何と言っただろう。


胸が少し痛む。


ルウは拳を握りかけた。


怒れば、楽になる。


その瞬間。


手を開いた。


「……クソ」


小さく吐く。


それでも、怒り切らない。


痛いまま。


工具を持ち直す。


「アベス」


「はい」


「もう少し上」


「はい」


また動く。


やがて漏れが止まった。


ルウがバルブを開く。


管の中。


低い音。


ゴゴッ。


次に水が走る。


ゴウン。


ルウが耳を澄ます。


「……よし」


集落の方から声。


「出た!」


別の声。


「戻ったぞ!」


ルウはその場へ座り込んだ。


「疲れた……」


アベスも隣へ座る。


「今」


「何」


「途中で、怒るのをやめました」


ルウがしばらく黙る。


「怒ってたよ」


「はい。でも、そのあと」


ルウは空を見る。


星が多い。


昔、この空を兄と見た。


『待ってろよ、ルウ』


声。


帰ってこない。


短い手紙。


冷たい手。


胸の奥が、また痛む。


「……寂しかった」


アベスがルウを見る。


ルウは自分で言ってから、少し驚いた顔をしていた。


「……クソ」


「怒っていますか」


「今は、自分に」


「どうしてですか」


「言わせんな!」


怒鳴る。


でも。


今度は。


そのあとに少し笑った。


帰る途中。


イースが急に止まった。


アベスが振り返る。


「イース」


「何」


「歩けますか」


「歩いてるでしょ」


右脚は動かない。


左脚へ、ほとんど全ての体重を乗せている。


ルウが見る。


「お前、足やってんのか」


「ちょっとね」


「ちょっとじゃねえだろ」


「大丈夫」


「どこが」


ルウがイースの前へしゃがむ。


「乗れ」


「嫌だよ」


「歩けてねえだろ」


「男に背負われる趣味ないんだけど」


「殴るぞ」


「元気だねえ」


「いいから乗れ!」


イースは少しだけ黙った。


(乗れば?)


「君まで?」


(合理的)


「先生みたいなこと言うね」


(嫌だった?)


「最悪」


ルウが眉を寄せる。


「誰と喋ってんだよ」


「独り言」


「気持ち悪いな、お前」


結局、イースはルウの背へ乗った。


「重かったら言って」


「軽すぎんだよ」


ルウが歩き出す。


一歩。


また一歩。


イースの右手が、力なく垂れている。


ルウはそれを見る。


「病院行け」


「嫌」


「何で」


「面倒」


「死ぬぞ」


「そうかもね」


「お前ほんとムカつくな」


「よく言われる」


ルウが舌打ちする。


それでも、降ろさない。


工場へ戻った。


ルウがイースを椅子へ下ろす。


「水」


「いらない」


「飲め」


「命令?」


「殴られたい?」


「飲みます」


アベスが少しだけ笑った。


ルウがコップを置く。


その時、イースが言った。


「ねえ」


「何だよ」


「君さ」


軽い声。


「怒らないと動けないって」


ルウが止まる。


「誰が言った?」


「言ってない?」


「言ってねえ」


「そっか」


イースはコップを見る。


水面が揺れている。


頭の奥で声がした。


(言うの?)


「一個だけ」


(壊れるかもよ)


イースの目が僅かに細くなる。


「それを決めるのは僕じゃないでしょ」


ルウが眉を寄せる。


「また独り言か」


「そう」


イースが顔を上げる。


「じゃあさ」


一拍。


「あの日も?」


ルウの顔が変わる。


「……何」


「兄貴に謝ろうって思った日」


ルウの呼吸が止まった。


工場から音が消えたように感じた。


送風機は回っている。


外では風も吹いている。


遠くで犬も鳴いている。


けれど、ルウの耳には何も入らなかった。


「……何で」


イースが顔を上げる。


「何が?」


「何で知ってんだよ」


「想像」


ルウの拳が握られる。


「ふざけんな」


「そうかもね」


「誰だ、お前」


「旅人」


「嘘つけ!」


イースは少しだけ笑った。


「僕、嘘つきだからね」


ルウが一歩近づく。


アベスは止めない。


(殴らせる?)


イースの目が少しだけ細くなる。


「僕が決めることじゃないでしょ」


ルウの拳が上がる。


イースは逃げない。


その拳が止まった。


ルウの腕が震える。


イースが、一言だけ落とす。


「あの時」


一拍。


「君、怒ってなかったよね」


ルウの目が揺れる。


帰り道。


ごめん。


違う。


悪かった。


それも違う。


工場の灯り。


家。


小さい。


古い。


砂まみれ。


でも、家。


『帰ったら』


『ちゃんと話そう』


怒っていなかった。


怖かった。


何を言われるか。


殴られるかもしれない。


それでも帰った。


ルウの拳が、ゆっくり下がる。


「……何で」


声が掠れる。


「知ってんだよ」


イースが笑う。


「さあ?」


「……殺してえ」


「怖いなあ」


「でも」


ルウが息を吐く。


「今は、いい」


イースはもう何も言わなかった。


長い沈黙のあと、アベスが聞いた。


「怒っていませんか」


「怒ってる」


「では」


「でも、それだけじゃねえ」


アベスが黙る。


ルウは自分の手を見る。


「兄貴に謝りたかった」


「はい」


「親父のこと知って、兄貴が家族を捨てたわけじゃなかったって分かったから」


喉が詰まる。


怒れば楽になる。


でも、今は怒らない。


「怖かった」


「はい」


「何言われるか。殴られるかもしれないと思った」


「はい」


「それでも、帰った」


アベスが言う。


「怒らずに」


ルウが頷く。


小さく。


「……そうだな」


初めて、その事実を自分で確かめるように。


「俺、怒ってなくても動けてたんだな」


アベスが頷く。


「はい」


ルウは長く何も言わなかった。


やがて、笑うでもなく泣くでもなく、ただ息を吐く。


「……そっか」


翌朝。


また、ポンプが止まった。


「ルウ!」


外から声が飛ぶ。


ルウが工具箱を見る。


昨日までなら、先に怒った。


今日は一度、息を吐く。


「今度はどこ!」


「西!」


「昨日北だぞ!」


「今日は西!」


「順番に壊れんな!」


工具箱を持つ。


アベスが見る。


「怒っています」


「これは怒る!」


「怒らないと行けませんか」


ルウの足が止まる。


外。


人が待っている。


水が止まっている。


父親はいない。


誰かが行かなければならない。


ルウは工具箱を肩へ掛ける。


「……いや」


一拍。


「困ってんだろ」


走る。


昼。


修理が終わった。


水が戻る。


人が笑う。


ルウは砂の上へ座った。


疲れている。


汗。


油。


砂。


全部が身体へ貼りついている。


それでも、少しだけ笑っていた。


アベスが隣へ座る。


「怒っていませんでした」


「途中で三回怒った」


「はい」


「だから怒ってた」


「でも、怒る前に動きました」


ルウが黙る。


アベスはルウを見る。


「怒らなくても、動けました」


ルウが空を見る。


青い。


雲はほとんどない。


暑い。


喉も乾いている。


胸の奥には、まだいろんなものがある。


父親。


兄。


後悔。


寂しさ。


怖さ。


怒り。


全部、残っている。


「……怒るのは、やめねえぞ」


「はい」


「ムカつくもんはムカつく」


「はい」


「怖い時は、怖い」


「はい」


「悲しい時は……悲しい」


「はい」


「寂しい時は」


長い。


風。


砂。


遠くで工場の送風機が一定の音を出している。


「寂しい」


言った。


それでも、身体は止まらない。


ルウが自分の手を見る。


「怒らなくても」


一拍。


「もう動ける」


その瞬間。


アベスの胸の奥が強く脈打った。


ドクン。


視界が、一瞬だけ変わる。


配管。


右の継ぎ手が少し緩い。


ポンプ。


回転音に僅かなズレ。


車。


左前輪の空気が少ない。


工場。


送風機。


昨日直した軸。


世界中の壊れかけた場所が、一度に目へ入ってくる。


直せる。


ここも。


あそこも。


まだ使える。


同時に、胸の奥へ熱が走る。


何かを敵にしたくなる。


誰かを責めれば動ける。


怒れば怖くない。


アベスの拳が握られかける。


(握る?)


声。


イースがアベスを見る。


何も言わない。


アベスが自分の手を見る。


ゆっくり指を開く。


熱は消えない。


怒りは、そこにある。


でも。


握らない。


視界が元へ戻る。


管は、ただの管。


車は、ただの車。


人は、敵ではない。


アベス自身の目。


アベス自身の手。


「……今」


ルウが見る。


「何だよ」


アベスは自分の胸へ手を当てる。


「壊れている場所が、分かりました」


声も、答えを言わない。


「何の話だよ」


ルウの中から何かが、静かに離れていく。


怒りを力へ変えるもの。


悲しみを敵へ変えるもの。


怖さを殴る理由へ変えるもの。


それでも、ルウの怒りは消えない。


「これは」


アベスが言う。


ルウは拳を見る。


握る。


開く。


「持ってけ」


アベスが見る。


「いいんですか」


「いらねえって意味じゃねえ」


一拍。


「なくても、もう動ける」


アベスが頷く。


「受け取ります」


胸の奥に熱が残る。


怒り。


怖さ。


寂しさ。


全部を一つの熱へ変えたくなる。


けれど、アベスはそのまま見る。


怒りは怒り。


怖さは怖さ。


寂しさは寂しさ。


どれも別だった。


熱が静かになる。


アベスは手を開く。


「……残っています」


「何が」


「怒り」


ルウが少し笑う。


「当たり前だろ」


「なくなると思いました」


「なくす必要ねえだろ」


アベスが考える。


そして、自分で答えた。


「そうですね」


少し離れたところで、イースが壁へ寄りかかっている。


(直った?)


イースがルウを見る。


次に、アベスを見る。


「違うでしょ」


(じゃあ何)


イースは少し笑う。


「壊れてても、動くんだよ」


夕方。


工場が見える。


低い灯り。


古い屋根。


砂まみれの壁。


ルウが少しだけ歩く速度を上げる。


アベスが聞く。


「急ぐんですか」


「腹減った」


「怒っていません」


「腹減るのに怒る必要ねえだろ!」


声は、それ以上何も言わなかった。


「そうですね」


少し後ろ。


イースがゆっくり歩いている。


右脚はほとんど動かない。


右手も、もう使えていない。


片側の音も届いていない。


それでも前を見る。


ルウが工場の灯りを見る。


「帰るぞ」


アベスが隣を見る。


「どこへですか」


ルウが少しだけ笑う。


「家」


昔、誰かが言った。


帰ってきた時に、家がありゃいい。


ルウはそれ以上何も言わなかった。


砂を踏む。


一歩。


また一歩。


怒っていなくても。


ちゃんと前へ進んだ。

合流編、四人目はルウでした。

ルウの過去で強かったのは。

怒りです。

怒れば動ける。

怒れば怖くない。

怒れば悲しくない。

何かを敵にすれば。

殴る場所が決まる。

進む方向も決まる。

だから今回。

ルウから「怒り」を消す話にはしていません。

怒ること自体が悪いわけではない。

ムカつくものはムカつく。

怖いものは怖い。

悲しい時は悲しい。

寂しい時は寂しい。

変わったのは。

それら全部を怒り一つへ変換しなくてもいいと気づいたことです。

そして、もう一つ。

ルウはずっと。

壊れたものを直してきました。

機械。

水。

車。

家。

誰かの困りごと。

直すものがあれば。

自分が何をすればいいのか分かる。

だから逆に。

「何も壊れていなかったら?」

というアベスの問いが刺さります。

誰も困っていない。

何も壊れていない。

誰にも呼ばれない。

そんな時。

自分は何者なのか。

ルウ自身も。

まだ完全な答えは出していません。

ただ。

一つだけ。

昔から答えはありました。

兄へ謝ろうと思って帰った日。

ルウは怒っていなかった。

怖かった。

それでも歩いた。

だから今回の答えは。

「怒らなくても、もう動ける」

です。

能力を手放しても。

怒りも。

怖さも。

寂しさも。

消えません。

壊れたものが全部直るわけでもない。

それでも。

壊れてても、動く。

次はいよいよ五人目。

メリカです。

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