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『KillerWorld ―七つ目の答え―』  作者: ザクロ
アベス編

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53/57

KillerWorld ―七つ目の答え― 合流編 第七章「まだ決めてない」/第八章「足りないもの」

菅原と別れたアベスとイースは、三人目――カルロスを探してさらに南へ向かう。

東嶺とは違う。

道へ生活がはみ出し。

人の声が街の音になり。

匂いも、色も、選ぶものも多い場所。

そこでアベスは言う。

「見たいものを見ています」

やがて二人が見つけたカルロスは。

昔と同じように、人をよく見ていた。

話し方。

笑い方。

目線。

癖。

けれど。

見たものを、すぐ自分へ取り込もうとはしない。

何を食べるか。

明日どうするか。

自分が何者なのか。

その答えさえ。

彼はすぐには決めなくなっていた。

かつて。

「足りない」と思うたび。

他人の良い部分を自分へ足し続けたカルロス。

その果てに。

自分自身まで消そうとした男が。

今。

アベスへ語る。

「本物がどれか、今決めなくていい」

そして。

最後に残っていた「差分」を。

手放す時が来る。

第七章 まだ決めてない


東嶺を出て二日目の午後、窓を少し開けた瞬間、熱い風が入ってきた。


アベスが顔を上げる。


東嶺では、窓の向こうを流れていたのは整った道路、同じ間隔の街灯、低く揃った住宅だった。


それが少しずつ変わっている。


屋根の色が増えた。


建物と建物の間が近い。


道路脇には店の前まで椅子を出して、昼間から話している人がいる。


窓を開けたままの家から、食器の触れる音。


笑い声。


どこかで犬が吠える。


その向こうから、別の犬が返した。


「……暑いです」


アベスが言った。


「そう?」


向かいの席で、イースが答える。


アベスは見る。


額。


汗は浮いている。


「暑くないんですか」


「暑いんじゃない?」


「分からないんですか」


「分かるよ」


一拍。


「たぶん」


アベスが黙る。


イースは窓の外を見た。


正確には少しだけ顔を左へ向けて、右側を補うように見た。


アベスは何も言わなかった。


列車が小さな駅を通り過ぎる。


ホームの端では老人が三人、椅子に座って話している。


一人が大きく手を振り、もう一人が笑う。


売店の前では女が果物を並べていた。


赤。


黄色。


緑。


その横で子どもが何かをつまみ食いして、手を叩かれている。


「人が外にいます」


アベスが言った。


「いるね」


「東嶺より」


「うん」


「多いです」


イースは少し笑った。


「よく見るようになったね」


アベスはまた窓を見る。


「見ています」


「前から?」


少し考える。


「前は」


風が入る。


温い。


知らない香辛料の匂い。


焼いた肉。


甘い果物。


それらが列車の油の匂いと混ざり、一瞬だけ車内へ流れ込んだ。


「何を見ればいいのか、分かりませんでした」


イースの目が少しだけ細くなる。


「今は?」


また、少し考える。


駅の近くで二人の女が向かい合って笑っている。


その横を自転車がベルを鳴らして抜けていく。


猫が日陰から動かない。


「……見たいものを見ています」


イースは何も言わなかった。


ただ、笑った。


(選ぶようになったね)


「そうだね」


小さすぎて、アベスには聞こえなかった。


列車はさらに南へ進んだ。


* * *


その日の夕方。


二人は人の多い通りを歩いていた。


石畳には一日分の熱がまだ残っている。


店の軒先には椅子、テーブル、植木鉢、誰かの自転車、子どもの靴。


道と生活の境目が、あまりなかった。


フライパンから油が跳ねる。


ジュッ。


向かいの店では皿を重ねる音。


カチャ、カチャ。


少し離れた路地から誰かが名前を呼ぶ。


返事。


笑い。


また別の声。


ヴァルガとは、うるささが違った。


向こうは機械、怒号、トラック、金属。


ここでは人の声が、街の音の一部になっていた。


アベスが左右を見る。


「カルロスは」


「この辺」


「どこですか」


「この辺」


「広いです」


「知ってる」


「どうやって探すんですか」


「探す」


「それは知っています」


イースが少しだけ笑った。


「言うようになったね」


アベスは少し嫌そうな顔をする。


「あなたのせいです」


「僕?」


「はい」


「悪影響だ」


「そう思います」


「ひどいなあ」


歩く。


一時間。


二時間。


昔の学校。


その周辺。


住宅街。


広場。


古い商店。


イースが知っているのは、昔カルロスがいた場所だけだった。


時間が経てば人は動く。


店も変わる。


学校の壁は塗り直され、昔あった店には違う看板が掛かっている。


夜が近づく。


それでも通りから人が減らない。


むしろ少し増えた。


仕事を終えた人。


買い物袋を提げた人。


子どもの手を引く人。


店の前で、そのまま立ち話を始める人。


アベスが足を止めた。


「イース」


「ん?」


「あの人」


広場の端。


二つの屋台の前に、一人の男が立っていた。


片方から肉を焼く匂い。


もう片方から甘い香辛料と、煮込んだ野菜の匂い。


男は右を見る。


左を見る。


屋台の店主が笑った。


「今日はいつもの?」


男は少し考えた。


「いや」


右を見る。


また左。


「今日は、こっち」


「珍しいな」


「そう?」


「いつも向こうだろ」


男は肩をすくめた。


「だから今日はこっち」


それだけ。


左の屋台へ行く。


イースが止まった。


「いた」


アベスを見る。


「カルロスですか」


「たぶん」


「たぶん?」


「顔はそう」


「なら、そうでは?」


イースはカルロスを見る。


その男は料理を受け取るまでの間、店主の手元を見ていた。


包み方。


客への渡し方。


隣の客への返事。


目は動く。


細かく。


昔のまま。


けれど見たあと、それを自分の身体で試すことはしなかった。


料理を受け取る。


「ありがとう」


その言い方は、少し間があった。


声も大きくない。


イースの口元が、わずかに上がる。


「うん」


「カルロスですか」


「たぶんね」


「また、たぶんですか」


「人って変わるから」


(変わったら、別人?)


イースの目が一瞬だけ止まった。


「さあ?」


アベスが見る。


「何ですか」


「独り言」


少しして、カルロスがこちらを見た。


目が合う。


一秒。


二秒。


先にカルロスが口を開いた。


「……何」


アベスは答える。


「カルロスですか」


カルロスの眉が僅かに上がった。


「そうだけど」


視線がアベスからイースへ移る。


止まる。


ほんの少し。


「……あんた」


イースは笑う。


「何?」


カルロスはしばらく見る。


顔。


立ち方。


首の角度。


片脚への体重。


目線。


「どっかで」


言葉が止まる。


イースが首を傾けた。


「会った?」


「……いや」


カルロスの目が細くなる。


「知らない」


「そっか」


あっさり終わる。


その終わり方に、カルロスの方が少し引っかかった顔をした。


アベスが屋台の料理を見る。


湯気。


香辛料。


肉。


焼いた玉ねぎ。


「それは、おいしいですか」


「……は?」


「食べたことがありません」


カルロスがアベスを見る。


次にイースを見る。


「何なんだよ、お前ら」


「旅人」


イースが言った。


「この子が話したいって」


「俺と?」


「うん」


「何で」


アベスが答える。


「あなたを見たいからです」


カルロスの顔が止まった。


「……」


「今の、あなたを」


広場で誰かが笑った。


皿が触れる。


犬が一度、短く吠える。


カルロスはアベスを見た。


「変な奴」


「よく言われます」


「誰に」


アベスはイースを見る。


「主に」


「僕なんだ」


カルロスの口元が少しだけ動いた。


笑った。


その笑い方を、イースは見ていた。


カルロスが気づく。


「何」


「いや」


イースは視線を外す。


「今の」


一拍。


「誰のかなって」


広場の音が少しだけ遠くなった。


カルロスの顔から笑みが消えた。


三人は広場の端、低い石壁に座った。


夕方の熱がまだ石に残っている。


アベスはカルロスと同じものを買った。


一口。


噛む。


目が少し開く。


「……辛いです」


カルロスが笑う。


「辛いやつ選んだのか」


「あなたと同じものです」


「俺も辛いと思ってる」


アベスの手が止まる。


「嫌いなんですか」


「分かんない」


「?」


「今日初めて食った」


アベスが料理を見る。


カルロスを見る。


「どうして選んだんですか」


「何となく」


「何となく」


「悪い?」


「いいえ」


一口。


また辛い。


「僕も、これを選んだことがあります」


「食ったことあるの?」


「違います」


「じゃあ何」


「選ぶことを」


カルロスは少し黙った。


風が通る。


昼間よりほんの少し涼しい。


広場の端で誰かが椅子を片付け始める。


木の脚が石畳を擦る。


ズズッ。


その音の向こう。


若い男がカルロスへ声をかけた。


「明日来る?」


カルロスが振り向く。


「まだ決めてない」


「またかよ」


「明日決める」


「じゃあ朝送るわ」


「うん」


男は手を上げて去っていく。


アベスが見る。


「決められないんですか」


カルロスが一瞬、昔のような顔をした。


目が細くなる。


相手を測る顔。


けれどすぐに抜ける。


「違う」


「では?」


カルロスは残った料理を見る。


「まだ」


少し考える。


「決めてないだけ」


(決めないって、選んでないのかな)


イースの目が、カルロスへ向く。


「……さあね」


「何?」


カルロスが見る。


「何でもない」


アベスはその言葉をしばらく考えた。


「同じではないんですか」


「俺には違う」


「どう違いますか」


カルロスは答えようとする。


口を開く。


止まる。


「……前は、決められないのが嫌だった」


「はい」


「正解があるなら、早くそこ行った方がいいだろ」


「そうですね」


「……昔の俺なら、そう言う」


カルロスは折った紙を見る。


「誰と話すか。何を言うか。どう笑うか。何を好きになるか」


指が止まる。


「全部、正解に寄せようとした」


アベスが聞く。


「今は?」


「まだ分かんない」


「それでいいんですか」


カルロスは広場を見る。


人。


店。


食べ物。


笑い声。


横切る自転車。


追いかける犬。


どれも正解ではない。


ただ、そこにある。


「……前よりは、マシ」


アベスは少し考えた。


「マシとは」


カルロスが嫌そうな顔をした。


「細かいな、お前」


イースが吹き出す。


「それ僕も思った」


アベスが二人を見る。


「質問しています」


「はいはい」


「答えてください」


カルロスは少し笑った。


「決めてない自分を」


一拍。


「すぐ直さなくなった」


アベスはそれを聞いて頷いた。


「分かりました」


カルロスが見る。


「分かるの?」


「少し」


「少しなんだ」


「全部は分かりません」


カルロスはまた笑った。


今度はイースは何も言わなかった。


夜。


三人は安い宿を取った。


カルロスは帰ると言った。


けれど玄関前で、アベスが聞いた。


「明日も会えますか」


カルロスは少し考えた。


「何で」


「まだ、聞きたいことがあります」


カルロスが眉を上げる。


「何を」


「まだ決めていません」


一拍。


カルロスが笑った。


「……そう」


「だめですか」


「いや」


カルロスは背を向ける。


「明日」


歩き出す。


数歩。


止まる。


振り返らないまま。


「昼くらい」


そう言って去った。


イースが隣で小さく笑った。


「覚えたねえ」


「何をですか」


「まだ決めてない」


アベスはしばらく黙った。


「便利です」


「でしょ」


「あなたは使いすぎです」


「ひどい」


宿へ入る。


階段を上がる。


一段。


二段。


三段。


そこでイースの足が遅れた。


右。


引きずる。


アベスが振り返る。


「イース」


「何」


「足」


「あるよ」


「そうではありません」


「知ってる」


右手で手すりを掴む。


指。


二本。


動きが少し遅い。


「大丈夫ですか」


「大丈夫」


即答。


アベスは見る。


「今のは」


「何」


「誰の言い方ですか」


イースが止まった。


一拍。


それから笑う。


「僕の」


「本当ですか」


「さあ?」


(便利な答え)


「便利なんだよ」


「何ですか」


「独り言」


アベスはしばらく見ていた。


イースは先に歩く。


廊下の窓から夜の街が見える。


まだ人の声がする。


グラス。


音楽。


遠くで犬。


笑い。


外には世界が、まだいくらでもあった。


イースはその音の半分を聞いていなかった。



第八章 足りないもの


夢の中で。


男は腹を空かせていた。


最初はパンを食べた。


一つ。


二つ。


三つ。


腹は鳴った。


まだ、足りない。


次に肉を食べた。


果物を食べた。


倉の中にあるものを全部食べた。


それでも腹は鳴った。


だから男は、畑を食べた。


実ったものだけではない。


土まで。


柵まで。


納屋まで。


家まで。


食べた。


それでも腹は鳴った。


まだ、足りない。


男は隣人のものを食べた。


椅子。


服。


道具。


家。


最後には、隣人の名前まで食べた。


誰もその人を呼べなくなった。


それでも腹は鳴った。


まだ、足りない。


やがて男の周りには何もなくなった。


食べるものがなくなった。


そこで初めて、男は自分の手を見た。


指。


腕。


声。


顔。


名前。


まだ残っている。


男は笑った。


食べるものが。


あった。


カルロスが目を開けた。


朝。


薄い光。


天井。


遠く、鳥の声。


窓の外で誰かが店の戸を開けている。


ガラガラ。


下の通り。


早い時間から人の声。


寝汗が首に張りついていた。


「……最悪」


起きる。


洗面台。


水。


顔へ。


冷たい。


鏡。


カルロスが映る。


自分の顔。


しばらく見る。


試さない。


笑わない。


誰かの癖も出さない。


ただ、見る。


「腹減った」


ぽつり。


言った。


それが誰の言葉かは考えなかった。


昼。


昨日の広場。


アベスは昨日と違うものを食べていた。


カルロスが来る。


「今日は違うんだ」


アベスが頷く。


「昨日のは辛かったです」


「嫌だった?」


「はい」


即答。


カルロスの足が少し止まった。


「……そっか」


「なので今日はこれにしました」


甘い匂い。


焼いた生地。


果物。


カルロスが小さく笑った。


「いいんじゃね」


アベスは一口食べる。


少し目が細くなる。


「好きです」


カルロスがその顔を見る。


長く。


「何ですか」


「いや」


「見ています」


「見てた」


「どうしてですか」


カルロスは少し考えた。


「言うの早いなって」


「何をですか」


「好きって」


「好きなので」


アベスが言う。


それだけ。


カルロスは答えなかった。


イースが少し離れた場所から二人を見ている。


(いいね)


「何が?」


(好きって言うの)


イースの笑みが薄くなる。


「僕には難しいなあ」


「何か言いましたか」


アベスが見る。


「独り言」


カルロスが気づく。


「お前、食わないの」


「食べたよ」


「何」


「色々」


「今聞いてんだけど」


「今はいらない」


カルロスの目が細くなる。


「……本当に?」


イースが笑う。


「何が?」


「いや」


カルロスはそれ以上聞かなかった。


アベスがカルロスを見る。


「昨日、夢を見ましたか」


カルロスの顔が止まる。


「……何で」


「僕も見ました」


「は?」


アベスは自分の胸へ手を置く。


「男が食べていました」


カルロスの喉が小さく鳴った。


広場の音。


笑い。


食器。


呼び声。


風。


全部そこにある。


なのにカルロスの耳には少し遠く聞こえた。


「パン」


アベスが言う。


「肉」


カルロスの指が動く。


左の親指へ一瞬触れそうになり、止まる。


「家」


「やめろ」


アベスが止まる。


カルロスは息を吐く。


「……悪い」


「続けない方がいいですか」


「いや」


額を押さえる。


「分かんない」


「では」


アベスは待つ。


カルロスがゆっくり手を下ろす。


「続けて」


アベスは頷いた。


「最後に、自分を食べようとしました」


カルロスが目を閉じた。


ノート。


マース。


兄。


レオ。


ダリオ。


エミリア。


ニナ。


ジョナ。


カルロス。


二本線。


改善対象。


C。


取得済。


残り差分。


六十三。


三十四。


三十一。


そして最後。


一。


自分。


甘いもの。


静かな声。


話す前の間。


左の親指。


全部いらない。


全部直せる。


全部食べれば足りる。


違う。


全部消せば、足りる。


カルロスが目を開ける。


「……それ、食ったら満足したの?」


「分かりません」


「夢だろ」


「はい」


「最後まで見てない?」


「見ました」


「じゃあ」


アベスは少し考える。


「男は、まだお腹が空いていました」


カルロスの顔から何かが抜けた。


笑いでも怒りでもない。


ただ、力が少し抜けた。


「……最悪だな」


「はい」


「そこは否定しろよ」


「怖かったです」


カルロスが少し笑う。


「そういうとこ変だよな、お前」


アベスは首を傾げる。


「怖い話だったので」


「そうだな」


カルロスは膝へ肘を置く。


両手を見る。


「俺も、似たようなことした」


アベスは何も言わない。


「足りないと思った。足りないから選ばれないって」


声は静かだった。


「だから足した」


話し方。


笑い方。


距離。


目線。


考え方。


癖。


「でも、足せば足すほど」


手を見る。


「元からあった方が消えた」


カルロスは小さく笑う。


「馬鹿だよな」


アベスが聞く。


「足したものは、全部いらなかったんですか」


カルロスが止まる。


「……」


「話し方も。考え方も。覚えたことも」


カルロスはすぐには答えなかった。


人の声が広場を流れる。


母親が子どもを呼ぶ。


子どもが返事をしない。


もう一度、名前。


今度は走って戻ってくる。


「いや」


やがて言う。


「今は使ってる」


「では」


「捨てる必要はないと思う」


「昔のあなたに戻るんですか」


即答ではなかった。


「戻れない」


それから。


「戻りたいかも」


考える。


「分かんない」


アベスが頷く。


カルロスが見る。


「それで終わり?」


「はい」


「何か言わないの」


「何をですか」


「普通、本当の自分を取り戻せとか」


アベスは少し考えた。


その少し後ろ。


イースの中で声がした。


(本物って、一つじゃなきゃ駄目なの?)


イースはカルロスを見る。


昔の癖。


今の癖。


借りたもの。


残ったもの。


「……さあ?」


アベスが振り向く。


「何ですか」


「何でもない」


そしてアベスはカルロスを見る。


「本当のあなたは、どれですか」


カルロスの口が止まった。


「昔ですか」


「……」


「今ですか」


「……」


「人から覚えたものは、あなたではないんですか」


風。


テーブルの紙が一枚めくれる。


カルロスは答えない。


アベスも待った。


イースも何も言わない。


やがてカルロスが口を開く。


「分かんねえよ」


アベスは頷く。


「僕もです」


「お前も?」


「はい」


「何が」


アベスは自分の手を見る。


「僕が何なのか」


カルロスがアベスを見る。


「でも、前より好きなものがあります」


甘い食べ物を見る。


「嫌いなものもあります」


昨日の辛いものを見る。


「聞きたいことも増えました」


カルロスを見る。


「なので」


自分の胸へ手を置く。


「増えている途中だと思っています」


カルロスの目が僅かに揺れた。


少しして、イースが広場の端から歩いてきた。


右脚。


一歩、遅れる。


それでもいつもの顔。


いつもの笑い。


カルロスが見る。


「お前」


「何?」


「やっぱり、どっかで見たことある」


「よくある顔なんじゃない?」


「違う」


カルロスの視線。


顔。


手。


脚。


首。


声。


昔と同じ。


見る。


違いを拾う。


「顔じゃない」


イースの笑みが少しだけ薄くなる。


「何が」


「分かんねえ。でも気持ち悪い」


「初対面にひどくない?」


「お前が言うと、何か前にも聞いた感じがする」


イースは笑った。


「想像じゃない?」


カルロスが黙る。


(言うの?)


「一個だけ」


(壊れるかもよ)


イースの目が、ほんの少しだけ細くなる。


「それを決めるのは僕じゃないよ」


「何?」


カルロスが眉を寄せる。


「独り言」


イースはカルロスの隣へ座る。


「ねえ」


「何」


軽い声。


まるで大したことでもないように。


「君さ」


一拍。


「最初に欲しかったのって、マースの笑い方だった?」


カルロスが止まった。


広場。


声。


犬。


食器。


風。


それらが一瞬だけ遠のいた。


イースは続ける。


「違うよね」


カルロスの喉が動く。


「……何で」


「何が?」


「あんた、何でマース知ってんだよ」


イースは答えない。


ただ、少し笑う。


カルロスが立ち上がる。


「誰だよ」


「さあ?」


「ふざけんな」


「じゃあ、想像」


「嘘だろ」


「そうかもね」


カルロスの拳が握られる。


イースはそれを見て、一言だけ落とした。


「『お前すげえな』って言われた時」


カルロスの顔が止まる。


「君、嬉しかったんでしょ」


音が消えた。


いや。


消えていない。


皿。


人。


風。


鳥。


全部鳴っている。


ただ、カルロスの中へ入ってこなかった。


数学のノート。


マース。


『お前すげえな』


ペン。


カチ。


胸の奥が軽くなった。


嬉しかった。


だから嫌だった。


嬉しい自分が安っぽく見えた。


そこから始まった。


カルロスがゆっくり座る。


イースはもう何も言わない。


「何で知ってんだよ」


「知らないよ」


「今言っただろ」


「想像」


「……嘘つき」


イースが笑う。


「よく言われる」


カルロスは顔を伏せた。


長い。


沈黙。


アベスも待つ。


やがて、カルロスが小さく言った。


「……嬉しかった」


誰に言うでもなく。


「マースに認められて、嬉しかった」


息を吐く。


「でも俺、嬉しいって思った自分まで直そうとした」


アベスが聞く。


「どうしてですか」


「弱いと思ったから」


「弱いと」


「選ばれないと思った」


「選ばれないと」


カルロスは口を開く。


止まる。


昔なら答えた。


意味がない。


価値がない。


いらない。


でも今は。


「……嫌だった」


それだけ。


アベスが見る。


カルロスは続ける。


「兄貴が先に呼ばれるのも」


「はい」


「マースが見られるのも」


「はい」


「ジョナが」


声が少し止まる。


「俺じゃない方を見るのも」


「はい」


「嫌だった」


アベスは聞く。


「今もですか」


カルロスは笑わなかった。


すぐにも答えなかった。


考える。


長く。


「たぶん、嫌だと思う」


「そうですか」


「でも」


カルロスは広場を見る。


人がいる。


誰かが誰かを呼ぶ。


呼ばれた人が返事をする。


自分ではない。


「嫌だからって、俺を変えなくてもいい」


一拍。


「たぶん」


アベスが首を傾げる。


「たぶんですか」


「まだ決めてない」


アベスが少しだけ笑った。


カルロスが気づく。


「何」


「便利ですね」


「……だろ」


二人とも少し笑った。


(いい答え?)


イースは二人を見る。


「知らないよ」


(じゃあ何で笑ってるの)


「面白いから」


夕方。


日が傾く。


昼間の熱が石畳からゆっくり抜けていく。


カルロスは立っていた。


自分の手を見る。


指。


掌。


知っている。


いろんな動かし方を。


人の癖を。


声を。


考え方を。


今も身体のどこかに残っている。


消えてはいない。


カルロスは目を閉じる。


昔の自分。


今の自分。


借りたもの。


覚えたもの。


選んだもの。


奪ったもの。


捨てたもの。


どれが本物。


分からない。


だから目を開けた。


「……もう」


アベスが見る。


イースも見る。


カルロスは少しだけ笑った。


誰の笑い方か、考えない。


「本物がどれか、今決めなくていい」


風が通る。


「昔に戻るかも」


「はい」


「戻らないかも」


「はい」


「人から覚えたものを使うかも」


「はい」


「捨てるかも」


「はい」


カルロスが自分の胸へ手を置く。


「でも」


声が少し震えた。


「差分で決めるのは、もういい」


空気が変わった。


アベスの胸の奥。


一度。


強く脈が打つ。


ドクン。


(差分、ゼロ?)


イースはカルロスを見る。


「違う」


(じゃあ何)


イースが小さく笑う。


「本人に聞けば?」


アベスの視界が一瞬だけ変わった。


人を見る。


最初に誰へ視線が向いたか。


誰が先に呼ばれたか。


誰の笑顔が長かったか。


誰と誰の距離が近いか。


広場にいる人間が、勝手に比較へ並び始める。


一。


二。


三。


違い。


差。


優劣。


足りないもの。


アベスの指が、無意識に動きかける。


けれど。


次の瞬間。


それは消えた。


人は。


ただ、人だった。


笑っている人。


食べている人。


疲れている人。


子どもを呼ぶ人。


アベス自身の目へ戻る。


アベスが息を呑んだ。


「……今」


カルロスも分かっていた。


自分の中から何かが静かに離れていく。


他人と自分の差を探し続けるもの。


足りない場所を埋めなければ、自分には価値がないと囁き続けたもの。


けれど。


話し方も。


覚えたことも。


人から貰ったものも。


消えない。


カルロスはゆっくり息を吐いた。


「これがなくても」


アベスを見る。


「俺は、これから決めていける」


アベスは頷いた。


「受け取ります」


胸の奥に熱が残る。


さっき見えた差分。


比較。


人間を見る癖。


それが一瞬だけアベスの中へ流れ込み。


やがて。


静かになる。


残ったのは、アベス自身の目だった。


アベスは指を開く。


握る。


もう一度、開く。


「……僕です」


カルロスが小さく笑う。


「そうだな」


イースは何も言わなかった。


(決まってないね)


「うん」


(いいの?)


イースはアベスを見る。


「さあ?」


別れ際。


広場の出口。


二つの道。


カルロスが止まった。


右。


家へ近い。


左。


少し遠回り。


夕方の店が並ぶ。


甘い匂い。


焼いた生地。


コーヒー。


果物。


カルロスは左を見る。


右を見る。


「どちらに行くんですか」


アベスが聞く。


カルロスは少し考えた。


「今日は」


左を指す。


「こっち」


「どうしてですか」


カルロスは歩き出す。


「甘いの食いたい」


アベスがイースを見る。


イースは笑った。


「良かったね」


カルロスが振り返る。


「何が」


「別に」


「……気持ち悪い奴」


「ひどいなあ」


カルロスはもう一度前を向く。


人の多い通りへ歩いていく。


誰かの歩幅には合わせなかった。


少し遅く。


少し迷いながら。


それでも。


自分で歩いていった。

合流編、三人目はカルロスでした。

カルロスの過去にあったのは、

「自分には何かが足りない」

という感覚です。

だから。

上手い人の話し方。

評価される人の考え方。

好かれる人の笑い方。

選ばれる人の癖。

足りないものを見つけるたびに。

他人から持ってきて、自分へ足した。

でも今回。

その全部を捨てて「昔の自分へ戻る」話にはしていません。

人から覚えたことも。

身につけた話し方も。

今までの経験も。

もうカルロスの中に残っています。

だから必要なのは、

「どれが本物か」を今すぐ決めることではない。

昔に戻るかもしれない。

戻らないかもしれない。

借りたものを使い続けるかもしれない。

捨てるものもあるかもしれない。

それでも。

「他人との差分で自分の価値を決めるのは、もういい」

そこだけは手放した。

そしてアベスも、

「自分が何なのか分からない」

から、

「増えている途中だと思っています」

へ進んでいます。

最後にカルロスが選んだのも。

正しい道でも。

近い道でも。

誰かが選びそうな道でもありません。

「甘いの食いたい」

ただそれだけ。

でもカルロスにとっては。

かなり大きな一歩です。

次は四人目。

ルウへ進みます。

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