KillerWorld ―七つ目の答え― 合流編 第三章「全部ではない」/第四章「次」
五人の「今」を見るため。
アベスとイースは、最初の一人――ネミティブのもとへ向かう。
辿り着いたのは、古い工場と倉庫、継ぎ足された建物、人の手で使い続けられる街。
そこで働くネミティブは、今もよく見ていた。
危険な場所。
壊れかけた車軸。
崩れそうな荷。
人の動き。
けれど。
最後だけは、自分で決めなくなっていた。
過去の記録に残っていたネミティブ。
今、目の前にいるネミティブ。
その二つは。
同じではない。
アベスは初めて。
「測られた結果」と。
「今の人間」が。
必ずしも同じではないことを見る。
そしてネミティブもまた。
自分がずっと知っていたはずのことへ。
もう一度。
辿り着く。
間違えたら。
次だ。
第三章 全部ではない
午前。
イースがアベスを連れて街を出た時、空にはまだ昨夜の雨が残っていた。
ヴァルガ南部の朝は、雨が上がっても明るくならない。
低い雲の下に、古い工場の煙突と、後から継ぎ足された集合住宅が重なっている。
壁は煤け、剥がれた外装の上から別の板が打ちつけられ、屋上から屋上へ太い配線が渡されていた。
行政のものなのか、住民が勝手に引いたものなのかは、外から見ただけでは分からない。
道路も同じだった。
何度も補修されたアスファルトは色が違い、古いひびの上に新しい継ぎ目が走っている。
窪みには茶色い雨水。
通る配送車がそれを跳ね、店先へ張られた布の庇を濡らした。
通りでは、朝から露店が開き始めていた。
果物。
古着。
解体した機械の部品。
端末の基板。
用途の分からない金属片。
店主が客へ投げる言葉は一つではなく、隣の店と話す時だけ別の言葉へ変わる者もいる。
錆と油。
焼いた肉。
濡れた土。
その全部が混ざった空気の中を、人が途切れず歩いていた。
濡れた路面の上を、雲の切れ間から差した白い光が細く滑っていた。
右脚を出す。
少し遅れる。
次の一歩で歩幅を変える。
左へ僅かに重心を逃がす。
それで、外から見れば普通に歩いている。
右手は最初からポケットの中だった。
* * *
駅へ向かう途中、アベスが聞いた。
「見つかりましたか」
「場所まではね」
「場所?」
「方角」
アベスが少しだけ首を傾げる。
イースはそれ以上説明しなかった。
五人がどこにいるのか。
地図に印が出たわけではない。
住所が頭へ流れ込んだわけでもない。
ただ、意識を向けると、遠くに何かが引っかかる。
見る側と、見られている側。
その間に張られたものの向きだけが分かる。
距離は分からない。
道も分からない。
建物も分からない。
だから。
探す。
駅は、昔の工業輸送線をそのまま旅客用へ使い続けているような造りだった。
高い天井には黒ずんだ鉄骨が剥き出しで、端の方には使われなくなった貨物用のレールが一本だけ残っている。
案内板は新しい表示の上へ古い表示が重なり、同じ行き先が三つの文字で書かれていた。
改札は半分しか動いていない。
壊れた側には簡単な柵と手書きの矢印。
駅員らしい男が、その横で乗客を一人ずつ通している。
誰も文句は言わない。
それで動いているなら、それでいいらしい。
改札前で、イースは一度立ち止まった。
人の流れ。
継ぎ足された路線図。
南へ伸びる線。
西へ向かう線。
目を閉じる。
頭の奥。
微かな引っかかり。
「こっち」
「分かるんですか」
「大体」
「どれくらいですか」
「それは分からない」
アベスは少し考えた。
「遠いかもしれない?」
「うん」
「近いかもしれない?」
「うん」
「不便ですね」
「僕もそう思う」
それだけ言って、切符を買った。
* * *
電車は金属を擦るような音を立てて、街の中心を抜けた。
窓の外。
古い工場の壁へ、新しい住居が貼りつくように建っている。
一階が修理屋。
二階が住居。
その屋上に小さな畑。
隣では、閉鎖された工場の門の前に露店が並び、昔の社名を塗り潰した壁へ別の商店名が何度も書き直されていた。
線路脇には解体途中の車両。
積み上げられた鉄材。
雨除けの青い布。
そこを縫うように子どもが二人走っていく。
少し離れると建物は低くなった。
古い倉庫。
資材置き場。
錆びた給水塔。
雨で黒く濡れた屋根。
その向こうに、巨大な煙突だけが何本も残っていた。
アベスは窓の外を見ていた。
ずっと。
途中の駅。
杖をついた老人が乗ってきた。
片手には、修理跡のある古い買い物袋。
座る場所を探している。
窓際の若い男は端末を見たまま動かなかった。
反対側。
濃い色の上着を揃えた、学生らしい少女が立つ。
「どうぞ」
老人が頭を下げる。
「悪いねえ」
「いえ」
電車が動く。
少女は吊り革を握る。
二駅後。
今度は同じ少女が、友人から来たらしいメッセージを見て、露骨に顔をしかめた。
指が速く動く。
小さな声。
「うざ……」
アベスが見る。
老人へ席を譲った少女。
今。
誰かに怒っている少女。
同じ人間。
しばらくして。
イースが聞いた。
「いい人だった?」
アベスがこちらを見る。
「誰がですか」
「さっきの子」
アベスは少し考えた。
「……分かりません」
「そっか」
終わる。
イースは窓へ視線を戻す。
数分。
「でも」
アベスが言った。
「席は譲りました」
「うん」
「怒ってもいました」
「うん」
「両方でした」
イースの目が僅かに動く。
「そうだね」
それだけだった。
* * *
昼を過ぎた。
二度目の乗り換え。
駅を出る。
イースが目を閉じる。
さっきまで前方にあった感覚が、少し右へ寄っている。
紙の地図を見る。
バス路線。
工業地帯。
運河。
「こっちかな」
「かな?」
「文句ある?」
「ありません」
バスへ乗る。
さらに一時間。
終点近くで降りた。
そこは中心街より、さらに古い工業区だった。
駅前と呼べる広場すらない。
線路を降りると、すぐ大型車の通る道路。
その向こうへ、低い倉庫と整備工場が途切れず続いている。
空はもう午後の色になっていた。
風に油と濁った水の匂いが混じっている。
大型車が何台も通る。
荷台の外板は会社ごとに色が違う。
その上から別の番号が塗られ、古い番号が透けて見えるものもあった。
倉庫。
歪んだ鉄柵。
積まれたパレット。
切断された配管。
使われなくなったクレーン。
その向こうに灰色の運河。
対岸では、工場の骨組みだけが空へ残っていた。
イースは道路脇で止まった。
目を閉じる。
引っかかり。
今度は。
後ろ。
「……行き過ぎた」
アベスが振り返る。
「戻るんですか」
「そうみたい」
「見つけたんじゃなかったんですか」
「だから、方角だけだって」
「不便ですね」
「二回目だよ、それ」
「本当に不便なので」
イースは何も返さなかった。
歩く。
二十分。
一本向こうの通りへ。
また方向を見る。
今度は前。
狭い路地を抜ける。
荷を運ぶ男へ聞く。
「この辺に、人が集まる荷場ある?」
「荷場?」
「大きい方」
「この先二つあるぞ」
「どっちが古い?」
「川側」
「ありがと」
さらに歩く。
もう一度。
引っかかりが強くなる。
ようやく。
「近い」
アベスが聞く。
「今度は?」
「今度は多分」
「多分」
「うるさいなあ」
声は軽い。
ただ。
右目の端が。
一瞬。
黒く欠けた。
イースは足を止めない。
* * *
荷場に着いた頃には、陽が傾き始めていた。
夕方前。
そこは、昔は工場の積み出し場だったらしい。
長い鉄骨の屋根だけが当時の幅を残し、その下を後から壁で区切って、いくつもの業者が使っている。
柱には古い番号。
その上から新しい札。
さらにその上へ、手書きの矢印や料金が重ねられていた。
屋根の一部は抜けている。
雨の跡が床へ黒く残り、濡れる場所だけ木板が敷かれている。
動かなくなった大型クレーンの横では、人が手動の巻き上げ機を使って荷を吊っていた。
荷車が何台も並ぶ。
木箱を積む音。
金属の鎖が擦れる音。
違う言葉の怒鳴り声が重なる。
誰かが笑う。
誰かが値段でもめる。
誰かが壊れた車輪を、その場で溶接している。
運河から吹く湿った風が、油と鉄粉の匂いを運んでくる。
アベスは入口で一度だけ足を止めた。
ここでは。
壊れたものを捨てるより。
動くようにして、また使う方が普通らしい。
アベスが辺りを見る。
イースは。
何も言わない。
まだ。
どれがネミティブかまでは分からない。
荷場の端を歩く。
一人。
違う。
二人。
違う。
古い写真の顔と、今の顔。
年月。
髪。
体格。
全部変わっている可能性がある。
十数分。
その時。
荷車の下から声がした。
「そこ止めろ」
若い男が手を止める。
「何?」
「右」
「右?」
「車軸」
男が屈む。
細い亀裂。
「……うわ」
「昨日より広がってる」
「交換?」
荷車の下から男が出てくる。
髪は少し伸びている。
服も違う。
でも。
目。
周囲を見る目だけは。
古い記録と変わっていない。
イースが。
小さく息を吐いた。
「いた」
* * *
「今日一回くらい走れる?」
若い男が聞く。
ネミティブは車軸を見る。
荷。
車輪。
地面。
「走れるかもしれない」
「壊れる?」
「壊れるかもしれない」
「どっちだよ」
「責任者に聞け」
「またそれ?」
ネミティブは答えない。
「最近ずっとそうじゃん」
若い男はぼやきながら離れていった。
その背中を。
ネミティブは数秒見ていた。
口が動きかける。
でも。
何も言わない。
そこで。
こちらを見る。
最初に。
アベス。
顔。
手。
服。
靴。
立ち方。
次。
イース。
フード。
マスク。
左手。
右手はポケット。
重心。
脚。
右。
目が止まる。
「右脚」
イースも止まる。
「何」
「悪いのか」
「どうして?」
「遅れてる」
一拍。
「よく見てるね」
「見れば分かる」
言って。
ネミティブ自身が。
ほんの少しだけ止まった。
アベスが聞く。
「ネミティブさんですか」
「……誰だ」
「アベスです」
「知らねえ」
「はい」
「何しに来た」
「会いに来ました」
「何で」
アベスは少し考えた。
「今のあなたを、見たいです」
ネミティブの目が止まる。
「……誰から聞いた」
アベスがイースを見る。
ネミティブも。
見る。
「お前か」
「少しね」
「誰だ、お前」
「通りすがり」
「答えてねえ」
「じゃあ、そういうことで」
平坦。
それ以上。
イースは何も言わなかった。
* * *
アベスは荷場に残った。
ネミティブは仕事へ戻った。
見る。
危険な場所を見つける。
違う数字を直す。
積み方を見て、崩れる箱を先に抜く。
足を引きずる男を見れば、重い方を別の人間へ回す。
でも。
最後だけ。
決めない。
「その箱、下に置くな」
「何で?」
「床、沈んでる」
「じゃあどこ」
「自分で探せ」
別の男。
「今日、東から行っていい?」
「橋脚の下、削れてる」
「じゃあ西?」
「知らねえ」
「お前なら?」
一拍。
「……責任者に聞け」
男が去る。
アベスは何も言わない。
ただ。
見ている。
時間が過ぎる。
陽が低くなる。
屋根の影が長く伸びる。
荷場を行き来する人数が減っていく。
運河の水が夕方の光を鈍く返している。
イースは壁際に立っていた。
時々。
目を閉じる。
アベスはネミティブを見ている。
気づかない。
ネミティブが。
先に気づく。
「お前」
「何」
「目も悪いのか」
「どうして?」
「右から来る奴に反応遅い」
「そう?」
「……」
それ以上。
ネミティブも聞かなかった。
* * *
夕方。
空が赤くなる。
倉庫の壁も。
積まれた鉄も。
同じ色に染まる。
その時。
音が。
消えた。
* * *
一人の女がいた。
女には。
守りたい者がいた。
だから。
頼んだ。
火へ。
傷つけないで。
水へ。
奪わないで。
石へ。
殺さないで。
鉄へ。
獣へ。
病へ。
毒へ。
風へ。
世界にあるものへ。
一つずつ。
同じことを頼んだ。
全てが。
約束した。
傷つけない。
奪わない。
殺さない。
女は。
最後に。
小さな植物の前を通った。
細い。
柔らかい。
幼い。
害はない。
そう思った。
何も頼まなかった。
* * *
時が過ぎた。
人々が。
守られた者へ。
物を投げている。
石。
刃。
棒。
全部。
当たる。
でも。
傷つかない。
笑い声。
歓声。
その輪の外。
一人の男。
目が。
見えていない。
そこへ。
誰かが近づく。
手には。
小さな枝。
握らせる。
身体の向きを。
変える。
腕を。
ほんの少し。
導く。
投げた。
枝が。
刺さった。
笑い声が。
止まった。
女が走る。
倒れた者へ。
世界中へ頼んだ。
全部。
やった。
はずだった。
* * *
音が戻る。
風。
車輪。
人の声。
夕方。
ネミティブは。
立ったままだった。
アベスが聞く。
「守りたかったんですか」
ネミティブは。
少しして。
「ああ」
一拍。
「多分な」
アベスは。
もう何もない場所を見る。
「全部に頼んだんですね」
「……そうだな」
「でも」
一拍。
「全部ではありませんでした」
ネミティブの目が。
アベスへ向く。
アベスは。
それ以上言わない。
* * *
声。
昔。
『……僕が道を選びました』
『知ってる』
『間違えました』
ラド。
『次覚えりゃいい』
『でも……』
『捕まってねえだろ?』
『……はい』
『全員戻ってきた』
『じゃあ次だ』
拳。
こつん。
『ここじゃ、間違えたら次覚えろ。それだけ』
覚えている。
ずっと。
覚えていた。
* * *
もっと後。
『俺がいりゃ大丈夫みたいに言うの、それやめろ』
『何で』
『間違うからだよ』
自分。
自分が。
言った。
* * *
黒いもの。
触るなと言われた。
それでも触った。
そこまで。
自分の判断が。
ずっと。
当たっていたから。
* * *
『信じなくていいよ』
ルイス。
『自分で見れば?』
『お前が決めれば?』
見る。
当たる。
また。
見る。
また。
当たる。
* * *
『間違えるのまで取らないでよ!』
リナ。
『私が決めたい!』
* * *
『見えてねえよ!』
カイル。
『分かんねえからって全部お前に決めてもらう気はねえ!』
『間違えたら?』
『間違えたっていいだろ!』
『そいつの間違いまで取んなよ!』
* * *
「……」
ネミティブの手が。
ゆっくり。
握られる。
「俺」
声。
小さい。
「知ってたんだな」
アベスが見る。
「何をですか」
「……間違うってこと」
ネミティブが。
自分の手を見る。
「昔から」
ラド。
リナ。
カイル。
自分。
「知ってた」
なのに。
いつから。
間違えることが。
終わりになった。
イースは。
壁際から。
何も言わなかった。
第四章 次
陽が落ちるまで。
ネミティブは。
同じ場所にいた。
工業区の夕方は、街の中心より早く暗くなる。
煙突と倉庫が西の光を遮り、運河の水だけが赤く残った。
仕事は終わり始めている。
倉庫の扉が一つずつ閉まる。
昼に開いていた露店は布を畳み、代わりに荷場の出口では小さな屋台へ火が入る。
仕事を終えた男たちが、立ったまま湯気の出る器を受け取っていた。
大型車のエンジンがかかる。
ヘッドライトが濡れた道路へ長く伸びる。
一本だけ点かない街灯。
隣の店から引かれた延長線で灯る裸電球。
行政の明かりと。
人が勝手に足した明かり。
区別がつかないまま、夜が始まっていく。
昼間の怒鳴り声は減り、代わりに運河の水音が聞こえるようになった。
アベスは。
木箱へ座っている。
イースは。
少し離れて立っていた。
「帰らねえの」
ネミティブが聞く。
「まだです」
「何待ってんだよ」
アベスは答えなかった。
自分でも。
まだ。
分からない。
* * *
「俺が撃った」
ネミティブが突然言った。
「ラドを」
誰も返さない。
「リナも」
風。
運河。
「RATもなくなった」
手。
握る。
「俺が間違えた」
一拍。
「だから」
言葉が。
昔の形へ戻りそうになる。
もっと見れば。
もっと正確なら。
もっと全部。
「……」
止まる。
「誰かがいた」
アベスが見る。
「ラドの時も」
銃。
背中。
あの一瞬。
「俺だけでやったんじゃない気がする」
ルイス。
知らない顔。
噂。
情報。
北。
「リナの時も」
最後。
『見て』
視線。
ルイス。
一瞬。
笑ったように。
見えた。
「俺が見てなかったものがあった」
長い。
沈黙。
「だったら」
声が低くなる。
「俺だけが全部悪かったわけじゃない」
誰も否定しない。
アベスも。
イースも。
「……」
でも。
次が。
出ない。
* * *
イースが。
壁から背を離した。
一歩。
右脚が。
遅れる。
ネミティブの目が。
そこへ落ちる。
イースは。
直さない。
「止める人より」
ネミティブが見る。
「止めない人の方が」
一拍。
「楽だった?」
空気が。
止まった。
「……何」
イースは。
もう言わない。
「何で」
ネミティブが立つ。
「何でそれ知ってる」
「想像」
「嘘つけ」
「そうかもね」
「ルイスを知ってるのか」
「さあ」
「お前……」
ネミティブが。
一歩。
近づく。
イースは動かない。
右側。
ネミティブの顔が。
一瞬。
消えた。
黒い。
何もない。
数秒。
戻る。
「……」
「何」
イースの声は。
平坦だった。
ネミティブは。
マスクの奥を見る。
何かを拾おうとする。
でも。
届かない。
「……クソ」
座る。
それで。
終わった。
イースも。
元の場所へ戻った。
もう。
何も足さない。
* * *
ラドは。
止めた。
危ない。
待て。
やめろ。
腹が立った。
信用されていないと思った。
でも。
止めた後。
最後には。
任せた。
ルイスは。
止めなかった。
情報を置く。
見る。
自分で決める。
当たる。
また。
情報。
また。
自分。
正しい。
楽だった。
「……」
ネミティブが。
顔を伏せる。
『明日も来る?』
自分から。
聞いた。
『いいよ』
安心した。
「選んでたんだな」
誰にでもなく。
言う。
「……俺が」
* * *
遠くから。
声。
「ネミティブ!」
昼間の若い男。
地図を持って走ってくる。
「まだいた!」
「何」
「次の荷!」
地図を広げる。
「結局、東と西どっち?」
ネミティブが。
地図を見る。
東。
橋脚。
削れている。
西。
遠い。
前に。
知らない人影。
天気。
荷。
時間。
全部。
拾える。
今も。
見える。
「責任者が、お前に決めてもらえって」
ネミティブの顔が。
一瞬。
固まる。
以前なら。
決めた。
今日の昼なら。
逃げた。
「……俺なら」
男が待つ。
「西」
「じゃあ西?」
「お前は?」
「え?」
「お前はどう思う」
「俺?」
「ああ」
男が地図を見る。
「……東は怖い」
「何で」
「橋」
「うん」
「西の連中も気になるけど」
「うん」
男が。
しばらく考える。
「俺も西」
「そうか」
「じゃあ西って言っとく」
「待て」
「何」
「俺が西に行くって言え」
「同じじゃん」
「違う」
男が。
よく分からない顔をする。
「……分かった」
走っていく。
ネミティブは。
その背中を見た。
呼び止めない。
他の人間が。
何を選ぶか。
追わない。
* * *
アベスが。
立つ。
「ネミティブさん」
「何」
少し。
考える。
「間違えたら」
ネミティブの目が。
アベスへ向く。
「どうしますか」
沈黙。
ラド。
拳。
『次覚えりゃいい』
ネミティブの口元が。
ほんの少し。
動いた。
「……次だ」
アベスは。
頷いた。
「はい」
それだけ。
* * *
アベスが。
手を伸ばす。
「これは」
ネミティブが見る。
「もう、いりませんね」
何を。
とは。
聞かなかった。
分かる。
見るために。
生きるために。
守るために。
そして。
いつからか。
間違えないために使っていたもの。
ネミティブは。
周りを見る。
暗くなった荷場。
人。
灯り。
顔。
声。
手。
全部。
昔から。
見てきた。
これからも。
多分。
見る。
それでも。
「……全部見えなくても」
息を吐く。
「もう平気だ」
アベスが。
頷く。
「じゃあ」
一拍。
「受け取ります」
* * *
何かが。
抜けた。
ネミティブは。
瞬きをする。
世界は。
何も変わらない。
人。
車。
倉庫。
夜。
でも。
遠くの男が。
嘘をついているのか。
分からない。
次に誰が。
何をするのか。
分からない。
全部。
繋がらない。
胸。
速い。
怖い。
それでも。
目を閉じなかった。
* * *
二人が荷場を出た時には、もう夜だった。
運河沿いの道路へ街灯が並んでいる。
ただし、全部が点いているわけではない。
明るい区画。
暗い区画。
また明るい区画。
切れた街灯の下では、店先から引いた電球が歩道だけを照らしている。
昼間に濡れていた路面はほとんど乾き、残った水溜まりだけが白や橙の光を歪めて映していた。
荷場を出た人間たちが、それぞれ別の方向へ散っていく。
相乗りの車へ乗る者。
自転車で帰る者。
屋台の前へ残る者。
二人の子どもを連れて歩く女。
その横を、資材を積んだ大型車がゆっくり通り過ぎる。
帰りのバスは本数が少なかった。
停留所で二十分ほど待つ。
その間。
アベスは遠くの荷場を見ていた。
ネミティブは。
もうこちらを見ていない。
誰かに呼ばれ。
振り返り。
何かを話している。
バスが来る。
乗る。
窓へ夜の灯りが流れる。
途中。
イースが聞いた。
「あの人、変わった?」
アベスは。
窓の外を見る。
「……分かりません」
「そっか」
イースは。
そこで終わる。
でも。
アベスが続けた。
「前と同じではありませんでした」
イースの目が。
僅かに動く。
「どうして?」
「前は」
一拍。
「自分で決めて」
もう一拍。
「他の人のことも、決めました」
「うん」
「今日は」
東。
西。
若い男。
「自分のことを、決めました」
イースは。
前を見る。
「そっか」
* * *
しばらく。
バスが走る。
バスは工業区から、古い労働者街へ入る。
細い住宅。
一階だけ店にした家。
鉄格子のついた窓。
屋上に干された服。
閉まりかけの雑貨店。
自転車。
犬を散歩させる人。
夜遅くまで開いている食料品店の前で笑う若者。
角では、古いスピーカーから別の言葉の音楽が小さく流れている。
次の角では。
何も聞こえない。
同じ街の中で。
通り一つごとに、匂いも言葉も違った。
信号。
「じゃあ」
イースが言う。
「間違えた人は、もう駄目?」
アベスが見る。
長い。
沈黙。
「……分かりません」
「うん」
また。
終わる。
でも。
アベスは。
少しして。
「ネミティブさんは」
イースが見る。
「終わっていませんでした」
一拍。
「一人だけだよ」
「はい」
アベスは。
すぐ答えた。
「だから」
窓。
流れていく。
知らない人。
知らない家。
知らない灯り。
「人間全部のことは」
少し考える。
「まだ、分かりません」
イースは。
何も言わない。
数秒。
「……そっか」
* * *
その日の移動は、そこで終わった。
来た道を全部戻るには遅すぎた。
二人は途中の町で降りた。
駅の周囲には、遠方から来た運転手や荷役の人間向けの安宿が固まっている。
看板には複数の文字。
入口の壁には、古い料金表の上へ新しい紙が何枚も貼られていた。
その中の一軒。
細い階段。
踏むたび沈む古い絨毯。
廊下の突き当たりに、飲料を売る古い機械の白い光。
薄い壁の向こうから、知らない言葉の会話と笑い声。
窓の外には、小さな食堂。
路上へ椅子を出して食べる人。
遅い便へ急ぐ人。
その向こう。
昼に見た工場の煙突が、夜空へ黒く残っていた。
部屋へ入る。
アベスが聞く。
「次は誰ですか」
「菅原」
「どこですか」
イースは。
少しだけ。
遠くを見るように目を細めた。
「あっち」
窓の向こう。
暗い街の先。
アベスが見る。
「遠いですか」
「知らない」
「いつ着きますか」
「それも」
一拍。
「探してみないと分からない」
アベスは。
少し考えて。
「分かりました」
「うん」
それ以上。
予定は決めなかった。
* * *
しばらくして。
アベスの呼吸が一定になる。
イースは。
暗い天井を見ていた。
十分。
十五分。
ゆっくり起きる。
右脚。
床へ。
動かない。
「……」
左手で膝を押す。
立つ。
アベスは眠っている。
イースは。
音を立てず。
部屋を出た。
* * *
廊下。
階段。
一段。
二段。
三段目。
膝が。
落ちた。
左手で手すりを掴む。
「……っ」
右手は。
出ない。
呼吸。
浅い。
喉。
鉄。
左手で口を押さえる。
離す。
血。
「……最悪」
(何が)
「全部」
声が。
少し違った。
自分より低い。
イースが。
黙る。
もう一度。
「……最悪」
今度は。
戻った。
(声も)
「聞こえてる」
(右は?)
「ほとんど」
(目)
「消える」
(手)
「見れば分かる」
(脚)
「今聞く?」
一拍。
(歩ける?)
イースが。
手すりを見る。
「……今は」
(それ、君の台詞だったね)
「返せよ」
(便利だから)
「最悪」
息を整える。
右脚。
立たない。
左脚だけで。
一段。
上がる。
(やめる?)
「何を」
(続き)
イースは。
少し黙った。
壁の向こう。
アベスが眠っている部屋。
「まだ見てない」
(誰が)
「アベス」
(五人を?)
「うん」
(答え、出せるかな)
イースは。
一度。
目を閉じた。
「知らない」
(じゃあ何で行くの)
「あの子が見たいって言ったから」
それだけ。
声は。
何も言わない。
* * *
少しして。
(今日)
「何」
(増えたね)
イースの眉が。
僅かに動く。
「何が」
(言葉)
バス。
『両方でした』
荷場。
『全部ではありませんでした』
帰り。
『前と同じではありませんでした』
『人間全部のことは、まだ、分かりません』
「……」
(前なら)
「分かりませんで終わってた」
(うん)
イースは。
血のついた左手を見る。
「まだだけどね」
(何が)
「答え」
(どんな?)
イースは。
少しだけ。
笑った。
「だから知らないって」
手すりを掴む。
立つ。
右脚。
一度目。
動かない。
二度目。
少しだけ。
前へ出る。
(次)
「菅原」
(どこ)
イースは。
暗い廊下の先を見る。
「さあ」
一拍。
「あっちの方」
それしか。
まだ。
分からなかった。
合流編、最初の一人はネミティブでした。
今回かなり大事なのは、過去の答えを否定する話ではないところです。
ネミティブがかつて他人の判断まで奪ったことも。
自分の観察を信じすぎたことも。
間違いではなく、実際に起きたことです。
でも。
それがその人の全部なのか。
その後もずっと同じなのか。
そこは別の話。
アベスが今回見たのは、記録の中のネミティブではなく。
間違えたあとも、生きているネミティブでした。
だから最後も。
「変わった」ではなく。
「前と同じではありませんでした」
です。
そしてアベス自身も。
「分かりません」だけだった頃から、少しずつ言葉が増えています。
次は菅原。
五人を見る旅は、まだ始まったばかりです。




