アベス編⑧ 「待ちたい」と「完全」
アルスが残した手紙を見つけたイース。
そこには、かつて0と呼ばれていた少年の今が書かれていた。
名前はアベス。
嫌なものを嫌と言い、
甘いものを好きだと言うようになった。
イースは、仕事ではなくその少年に会いに行く。
アルスの帰りを待ち続けるアベスへ尋ねる。
「言われたから?」
アベスの答えは。
「僕が、待ちたいです」
だが、その帰り道。
世界の色が反転する。
再び現れた測定者が告げるのは、人類の選別。
そして、その最終判断を委ねられる存在。
――0。
測定者は言う。
「あれは完璧だ」
イースは、その言葉を聞いて笑った。
第十四章 やあ
五つ。
並んだ記録を。
イースは。
もう一度だけ見た。
*
ネミティブ。
菅原。
カルロス。
ルウ。
メリカ。
五つ。
本来なら。
七つ。
「……」
右手を。
握る。
少し。
遅れる。
もう。
慣れた。
足も。
同じ。
頭も。
時々。
自分のものなのか。
分からなくなる。
それでも。
イースは笑った。
「最後くらいは、仕事じゃないことしようか」
*
研究所を出る。
夜。
風。
フードを深く被る。
一歩。
右足が。
ほんの少し遅れる。
「……」
(酷くなったね)
「見れば分かるよ」
(僕は見てないけど)
「じゃあ黙ってて」
(嫌だね)
「知ってる」
歩く。
いつものように。
顔を変える必要は。
もうなかった。
誰かになる必要も。
今はない。
*
向かったのは。
古い建物だった。
細い路地。
壁際。
錆びた郵便受け。
「……まだある」
(君が作ったんでしょ)
「壊されてるかもしれないじゃん」
(誰がこんなの壊すのさ)
「暇な人」
イースは。
郵便受けへ手を入れた。
紙。
広告。
古い封筒。
その中に。
一通。
「……」
手が止まった。
文字。
見覚えがある。
「アルス」
(へえ)
封を開ける。
紙を広げる。
*
イースへ。
あの子、元気に育ってるよ。
今じゃ嫌なものは嫌って言うし、甘いものが好きだとか、自分で言うようになった。
名前もついた。
アベスっていう。
人に押し付けといて、顔くらい一回は出せ。
こっちは大変だったんだからな。
*
「……」
最後まで読む。
もう一度。
最初から。
「アベス」
小さく。
口にする。
(名前ついたんだ)
「みたいだね」
(君じゃなくて)
「僕がつけると思う?」
(ないね)
「でしょ」
紙を。
折ろうとして。
止まる。
もう一度。
『人に押し付けといて、顔くらい一回は出せ』
「……」
口元が。
少しだけ。
動いた。
「言うねえ」
(怒ってる)
「ずっと怒ってるでしょ、あの人」
(君に?)
「僕にも」
(0にも)
イースの手が。
一瞬。
止まる。
「……アベス」
(そうだった)
「名前あるから」
封筒を見る。
裏。
小さく。
住所が一つ。
書いてある。
「……」
(行くの?)
「書いてあるし」
(顔出せって)
「書いてあるね」
(仕事じゃないよ)
イースが笑った。
「だから行くんじゃん」
*
電車。
途中から。
徒歩。
何度か。
休んだ。
右足が。
思ったより動かない。
「……参ったな」
(帰る?)
「ここまで来て?」
(死ぬかもよ)
「それは先生に言われた」
(無理だって)
「うん」
(怖くない?)
「どうだろ」
一歩。
また一歩。
「今さらじゃない?」
*
住所の場所は。
古い集合住宅だった。
「……」
階段。
一段。
二段。
右足が。
重い。
三段。
「これ」
(情けないね)
「代わってくれる?」
(嫌だよ)
「でしょうね」
笑う。
上る。
*
扉の前。
イースは。
少しだけ。
止まった。
「……」
(どうしたの)
「いや」
表札はない。
音も。
ほとんどしない。
それでも。
中に。
誰かいる。
イースは。
ノックした。
*
返事はない。
もう一度。
叩く。
「……」
中で。
小さな音。
椅子か。
床か。
何かが動いた。
「いるじゃん」
しばらく。
待つ。
鍵は。
開かない。
(警戒されてるね)
「教育がいい」
(誰の?)
「アルス」
*
中。
アベスは。
扉を見ていた。
知らない人間には。
開けるな。
外にも。
出るな。
窓際にも。
立つな。
何度も。
言われた。
だから。
動かない。
また。
ノック。
「……」
声。
「いる?」
知らない。
ような。
知っているような。
アベスの目が。
少し動く。
「……」
立つ。
扉へ。
近づく。
でも。
開けない。
「誰ですか」
外。
一瞬。
沈黙。
それから。
「僕」
「……」
「誰ですか」
「ひどいなあ」
その声。
アベスの目が。
僅かに。
見開く。
「……イース?」
外から。
笑う気配。
「正解」
*
鍵が。
一つ。
外れる。
もう一つ。
扉が。
僅かに開く。
そこから。
アベスが顔を出した。
「……」
イースは。
何も言わなかった。
少し。
大きくなっている。
髪。
服。
目。
昔の。
白い部屋にいた。
0。
とは。
もう。
全然違う。
「……何ですか」
「いや」
イースは。
笑った。
「やあ」
アベスが。
しばらく。
その顔を見た。
「久しぶりです」
「うん」
視線が。
イースの足へ落ちる。
右足。
少し。
変な位置で止まっている。
「足」
「ん?」
「どうしましたか」
「ちょっと壊れてる」
「治りますか」
「どうだろ」
「……そうですか」
アベスは。
それ以上。
聞かなかった。
*
「入っていい?」
イースが聞く。
アベスは。
少し考えた。
「……」
以前なら。
誰かに。
聞いただろう。
アルスさん。
入れていいですか。
でも。
いない。
だから。
自分で。
考える。
「……いいです」
扉を。
もう少し。
開けた。
「どうぞ」
「ありがと」
*
部屋へ入る。
小さい。
でも。
生活している。
皿。
二つ。
椅子。
二つ。
毛布。
薬。
甘い菓子の袋。
「……」
イースの目が。
少しだけ。
細くなる。
(本当に育ってる)
「聞こえてるよ」
「何がですか」
「何でもない」
アベスは。
机の近くへ戻る。
イースも。
椅子へ座る。
「……」
静か。
*
「アルスは?」
イースが。
聞いた。
アベスは。
扉を見る。
「墓参りです」
「……」
「夕方には帰ると言いました」
イースの目が。
時計へ行く。
もう。
夕方は。
とっくに過ぎている。
「何時に出たの」
「朝です」
「そっか」
「はい」
「ずっと待ってる?」
「はい」
「外、見に行かなかったの?」
「行くなと言われました」
「なるほど」
アベスは。
少し。
黙る。
「でも」
「うん?」
「遅いです」
「……そうだね」
「こんなに遅いことは」
一拍。
「今まで、ありませんでした」
イースは。
アベスを見る。
その顔に。
昔はなかったものがある。
不安。
たぶん。
本人も。
もう。
分かっている。
「ねえ」
「はい」
「待ってるの?」
「はい」
「言われたから?」
アベスが。
止まった。
「……」
考える。
長く。
「最初は」
答える。
「そうでした」
イースの目が。
少し動く。
「今は?」
アベスは。
扉を見る。
時計を見る。
それから。
自分の手を見る。
「……」
ゆっくり。
答えた。
「僕が、待ちたいです」
「……そっか」
「はい」
また。
沈黙。
*
イースは。
少しだけ。
笑った。
「何」
(別に)
「何でもない」
「またですか」
「またです」
アベスが。
少しだけ。
嫌そうな顔をした。
「……」
イースは。
それを見て。
今度は。
ちゃんと笑った。
*
「イース」
(今の、言われたからじゃないね)
「ん?」
「アルスさんは」
アベスが。
言葉を止める。
考える。
それから。
「帰ってきますか」
イースは。
答えなかった。
一秒。
二秒。
長い。
「……分かんない」
アベスの目が。
僅かに下がる。
「そうですか」
「うん」
「……」
また。
考える。
「では」
顔を上げる。
「まだ、待ちます」
「うん」
「でも」
「何?」
アベスは。
自分の胸元を。
少しだけ。
押さえた。
「ここが」
「うん」
「変です」
「どんな感じ?」
アベスは。
長く。
言葉を探した。
そして。
「……少し、怖いです」
イースは。
何も言わなかった。
ただ。
「そっか」
それだけ。
*
窓の外。
夜。
二人は。
待った。
一人は。
帰ってくる人を。
もう一人は。
その隣で。
まだ。
何も決めずに。
待った。
第十五章 完全
帰り道、イースはいつものように歩いていた。
右足が少しだけ遅れる。一歩。次。また一拍。
「……」
もう、いちいち気にしなかった。
その時。
世界の色が反転した。
イースの足が止まる。
白かった空が黒へ沈む。赤い看板は青白く、濡れた道路は写真のネガのような色へ変わる。歩いていた人間から血色が抜け、影だけが異様に濃くなった。
そして、音が消えた。
車。風。足音。街。
全部。
残ったのは、自分の呼吸と心臓の音だけ。
はっ。
ドクン。
ドクン。
「……」
イースはゆっくり顔を上げた。
少し先に、一人の少年が立っている。
世界中の色が裏返っているのに、そいつだけが元の色のままだった。
「……はは」
イースの口元が少しだけ動く。
「懐かしいね」
(だね)
頭の奥で声がした。
あの日と同じ場所ではない。同じ時間でもない。それでも忘れるはずがない。
あの日も世界はこうなった。
あの日も少年だけが色を持っていた。
そして、あの日。
イースは一つ失った。
少年が一歩近づく。
イースは下がらない。
「で?」
「今度は何を取りに来たの?」
少年は答えない。
一瞬だけ、昔の声が蘇る。
『お前にはこれは必要ないだろ』
顔。
本当の、自分の顔。
もう思い出せない。
右手が僅かに動く。
少年はそんなイースを見て言った。
「観測は終わった」
「……へえ」
「次へ進む」
「次?」
少年は、以前から決まっていた予定を読み上げるように言った。
「人類を選別する」
イースが瞬きをする。
「……また?」
少年の目がイースを見る。
「あの時も言ってたよね。測って、選んで、残して――」
一拍。
「いらないものは捨てる」
少年は否定しなかった。
「そのために観測した」
「ネミティブ。菅原。カルロス。ルウ。メリカ」
イースが指を折る。
「五人で人類分かった気になったの?」
「五人だけを見ていたわけではない。その周囲も、その選択によって動いた者も、選ばなかった者も、すべて観測している」
「へえ」
イースは周囲を見る。
色を失った人間たちが歩いている。笑っている。怒っている。
ただ、音だけがない。
「人間は圧力を与えれば、自らを露出する。何を欲するか。何を恐れるか。何を守るか。何を捨てるか」
少年の視線が人々へ向く。
「最も強く反復されたものが残る」
イースの目が僅かに細くなる。
「因子」
「そうだ」
「能力を作ってたんじゃない」
「能力は目的ではない。結果だ」
「……結果?」
「測定された人間の形」
イースは黙った。
ネミティブ。菅原。カルロス。ルウ。メリカ。
能力。壊れ方。選択。
全部。
「……天秤か」
少年は答えない。
答える必要もなかった。
「測定は終わった。次は結果を使用する」
「どうやって?」
「残す」
一部の人間へ色が戻る。
「配置する」
別の人間が遠くへ、輪郭だけを残して移る。
「取り除く」
一人が消える。
「不整合を減らす」
「人間を?」
「そうだ」
「本人が嫌でも?」
「欲求は判断基準にならない」
「なんで」
「欲求そのものが偏りだからだ」
イースは乾いた笑いを零した。
「相変わらずだね」
「何がだ」
「勝手に決めるところ」
返事はない。
「それで? 君が全部決めるの?」
「違う」
イースの眉が僅かに動いた。
「最終判断を委ねる」
「誰に?」
少年は一切迷わなかった。
「0」
「……」
一瞬、イースは何も言わなかった。
その名前ではない。
もう。
「アベス」
少年の目がイースへ向く。
「今はアベスっていうんだよ」
「呼称に意味はない」
「あるよ。本人にはね」
少年は興味を示さない。
「0に最終選択を与える」
「……何を選ばせるの」
「人類の未来」
イースの笑みが消えた。
昨日。
『僕が、待ちたいです』
そう言った、あの少年。
アルスを待つかどうか。それすら長く考えた。
その子に。
人類。
「……本気?」
「そうだ」
「無理でしょ」
「何故?」
「何故って。他人のことなんて、まだ――」
「それがいい」
「……」
「因子への適応は極めて安定している。自己欲求が薄い。執着が少ない。判断を歪める偏向も小さい。自己保存を優先する傾向も低い」
イースは黙って聞く。
「他者を測る側として適している」
「……あの子が?」
「そうだ」
一拍。
「0は完成に近い」
イースの目が細くなる。
「完成?」
「あれは完璧だ」
その瞬間。
(――完璧?)
頭の奥で声がした。
(へえ)
それだけだった。
けれど。
イースの口元が少しだけ上がる。
「何」
(別に)
「そう」
一拍。
(完璧なんだってさ)
「聞こえてるよ」
(知ってる)
イースの目が少年へ戻る。
口元は、まだ少し上がっていた。
「何がおかしい」
「いや、ごめん」
顔を上げる。
笑っていた。
「ちょっと面白くなってきただけ」
「イース」
「何?」
「0には役割がある。余計な干渉は不要だ」
イースの笑みが少し深くなる。
「余計かどうか、誰が決めるの?」
「私だ」
即答。
「……そっか」
イースは肩をすくめる。
「じゃあ一個だけ。あの子が嫌だって言ったら?」
「問題ない」
「なんで」
「最終的には選ぶ」
一拍。
(で?)
「別に」
イースが俯く。
肩が僅かに揺れた。
小さく、笑っていた。
イースの目がほんの少し変わった。
「ずいぶん信用してるんだね」
「信用ではない」
一拍。
「測定結果だ」
静かだった。
ロキも、今度は笑わなかった。
「……」
測定結果。
イースはその言葉を口の中で転がした。
昨日。
言われたからではなく。
『僕が、待ちたいです』
それを。
こいつは知っているのか。
知らないのか。
それとも、知った上で同じだと思っているのか。
「ねえ」
少年を見る。
「一回測った答えって、ずっと同じなの?」
「人間の本質は変わらない」
即答だった。
イースは笑った。
「そっか」
それ以上、何も聞かなかった。
世界が白く弾けた。
色が戻る。
赤い看板。黒い影。人の肌。
音も一気に戻ってきた。
車。風。足音。話し声。
「……っ」
イースが僅かによろめく。
少年は、もういない。
昔と同じ。
(どうする?)
イースはしばらく何も言わなかった。
歩き出す。
右足が遅れる。
「別に」
(別に?)
「僕が決めることじゃないし」
(じゃあ)
「聞くだけ」
イースが笑う。
「何回でも」
(何を?)
一拍。
「君、本当にそれ決められるの?」
また一歩。
「これは?」
一歩。
「じゃあ、こっちは?」
一歩。
「それでも決められる?」
イースは笑った。
「答えなんて、本人に聞けばいいじゃん」
完全だと決められた存在へ。
今度は、答えではなく。
問いを置きに行く。
今回は、アベス自身の選択と、それを「完全」と呼ぶ側の二章です。
第十四章。
アベスはアルスを待っています。
最初は、
「行くなと言われたから」
でした。
でも、イースに理由を聞かれて考えたあと、
「僕が、待ちたいです」
と答えます。
同じ「待つ」という行動でも、
理由はもう以前と同じではありません。
そして第十五章。
測定を終えた側は、アベスをこう評価します。
「あれは完璧だ」
欲求が薄い。
執着が少ない。
偏りが小さい。
だから、人類を判断する側に向いている。
でも。
その「完璧」だと測られたアベスは、
つい昨日、
「僕が、待ちたいです」
と言ったばかりです。
そこでイースが聞くのが、
「一回測った答えって、ずっと同じなの?」
という問いです。
測定された瞬間が間違っていたのか。
それとも、
その瞬間は正しくても、
そこから先まで同じだと決められるのか。
まだ答えは出ません。
イースも答えを教えに行くわけではありません。
ただ。
「これは?」
「じゃあ、こっちは?」
「それでも決められる?」
そうやって。
完全だと決められた存在へ、
今度は「問い」を置きに行きます。




