アベス編⑦ 命日と「知らない」
夫と子どもの命日。
アルスは一人で墓参りへ向かう。
その前に、ずっと使っていなかったイースへの連絡先を見つけた。
名前がついたこと。
甘いものが好きになったこと。
嫌なものを「嫌」と言えるようになったこと。
アベスの近況を書いた手紙を残し、アルスは墓前へ向かう。
許したのか。
許していないのか。
自分でも、まだ分からない。
それでも。
墓参りを終えた帰り道。
再び、あの視線が現れる。
研究所が知りたいのは一つだけ。
――0は、どこにいるのか。
アルスは答える。
「知らない」
本当は、全部知っているまま。
第十二章 命日
朝。
アルスは。
いつもより少し早く起きた。
*
湯を沸かす。
パンを焼く。
二人分。
「アルスさん」
「何」
アベスが。
まだ眠そうな顔で椅子に座っている。
「今日、出かけますか」
「出るよ」
「買い物ですか」
「違う」
アルスは。
焼けたパンを皿へ置いた。
「墓参り」
アベスの手が止まる。
「お墓ですか」
「そう」
「誰のですか」
アルスは。
一瞬だけ黙った。
「……家族」
「家族」
「夫と」
一拍。
「子ども」
アベスは。
しばらく何も言わなかった。
それから。
「僕も行きますか」
アルスの手が止まる。
「……」
「アルスさん?」
「来るな」
思ったより。
強い声が出た。
アベスが目を伏せる。
「はい」
「……」
アルスは。
皿を置いた。
「別に」
言葉を探す。
「お前が悪いからとか」
そこで止まる。
「……いや」
それも。
違う。
「悪くないって言えるほど」
アルスは目を逸らした。
「私はまだ、できてない」
アベスは。
何も言わない。
「今日は」
アルスが言う。
「私一人で行く」
「分かりました」
「……嫌じゃないの」
アベスは。
少し考える。
「嫌です」
アルスが顔を上げる。
「一緒に行けないのは」
「……そう」
「でも」
アベスは。
もう一度考えた。
「アルスさんが一人で行きたいなら、行きません」
アルスは。
しばらく黙っていた。
「……そうかい」
「はい」
*
食事を終える。
アルスは。
いつもより少しだけ。
身支度に時間をかけた。
髪を整える。
古い上着を出す。
鞄を確認する。
その途中。
引き出しの奥から。
小さく折られた紙が落ちた。
「……」
拾う。
何度も折り直した跡。
場所だけが書いてある。
ずっと前。
知らない顔で現れた。
あの青年から渡されたもの。
*
『何かあったら、そこに手紙置いといて』
*
「……イース」
アルスが呟く。
そういえば。
一度も使っていない。
「何かあったら、ねえ」
鼻で笑う。
別に。
今。
何かが起きているわけじゃない。
何かあったら。
そう言われたけれど。
近況くらい。
書いたっていいだろう。
今日だって。
墓参りへ行って。
帰ってくる。
いつもと変わらない。
アルスは紙を戻そうとして。
止まった。
「……ったく」
机へ座る。
紙を一枚。
ペンを持つ。
「何書きゃいいんだよ」
少し考えて。
書き始めた。
*
イースへ。
あの子、元気に育ってるよ。
今じゃ嫌なものは嫌って言うし、甘いものが好きだとか、自分で言うようになった。
名前もついた。
アベスっていう。
人に押し付けといて、顔くらい一回は出せ。
こっちは大変だったんだからな。
*
「……」
読み返す。
「こんなもんか」
紙を折る。
封筒へ入れる。
それから。
封筒を裏返す。
少しだけ考えて。
今の住所を書いた。
「アルスさん」
後ろから声。
「うわっ」
アルスが振り返る。
「いつからいたんだい」
「名前を書いているところからです」
「見るなよ!」
「イースに手紙ですか」
「……そうだよ」
「何を書いたんですか」
「教えない」
「気になります」
「知らないよ」
「嫌です」
アルスの眉が動く。
「……ほんと」
アベスを見る。
「言うようになったね」
「駄目ですか」
「別に」
封筒を鞄へ入れる。
「本人にも見せてやりたいくらいだよ」
「イースは来ますか」
「さあね」
「来てほしいですか」
アルスが止まる。
「……私が?」
「はい」
「別に」
アベスが。
じっと見る。
「何だい」
「嘘ですか」
「……」
アルスが。
軽く額を小突いた。
「生意気になったね」
*
玄関。
靴を履く。
「夕方には帰る」
「はい」
「知らない奴来ても出るな」
「はい」
「外にも出るな」
「はい」
「窓際にも――」
「立ちません」
「……覚えてるじゃないか」
「何度も言われました」
「そうだったね」
扉へ手を掛ける。
「アルスさん」
「何」
「帰りに」
「ん?」
「甘いの」
アルスが。
呆れた顔をする。
「墓参りだって言ってんだろ」
「帰りです」
「はいはい」
「買いますか」
「覚えてたらね」
「はい」
アルスは。
扉を開けた。
「行ってくるよ」
「いってらっしゃい」
扉が閉まる。
*
墓地へ向かう前に。
一つだけ。
寄る場所があった。
古い建物。
細い路地。
「……まだあるじゃないか」
壁際。
古びた郵便受け。
名前はない。
番号だけ。
アルスは。
周囲を見る。
誰もいない。
鞄から。
封筒を取り出す。
「……」
一瞬だけ。
迷う。
「まあ」
肩をすくめる。
「たまには働きな」
封筒を入れる。
小さな音。
それだけ。
アルスは。
その場を離れた。
*
その時。
遠い町で。
一人の青年は。
別の顔をしていた。
別の名前を名乗り。
別の人間の隣にいる。
頭の奥で。
声がした。
(先生には内緒?)
青年の目だけが。
ほんの少し動く。
「何が」
(あの箱)
一拍。
「連絡先まで報告しろとは言われてない」
(くくっ)
「……何」
(何でも)
青年は。
少しだけ眉を寄せた。
アルスが。
手紙を入れたことなど。
知らない。
青年は。
ただ。
仕事をしていた。
*
墓地へ着いた頃には。
昼を過ぎていた。
花。
水。
線香。
道は。
変わっていない。
「……」
墓石の前で。
アルスの足が止まる。
名前が。
二つ。
刻まれている。
「……来たよ」
花を置く。
古いものを片付ける。
水をかける。
墓石を拭く。
慣れた手。
何度やっても。
慣れない場所。
線香に火をつける。
煙が。
細く昇る。
「遅くなったね」
しゃがむ。
しばらく。
何も言わない。
風。
木の葉。
遠くから。
誰かの話し声。
「……ねえ」
アルスが。
口を開く。
「聞いてよ」
墓石を見る。
「あの子」
そこで。
少し詰まる。
「名前、ついたよ」
口元が。
ほんの少し動く。
「私がつけた」
一拍。
「アベス」
「変な名前だろ」
返事はない。
「嫌なら変えろって言ったんだけどさ」
目を伏せる。
「まだ使ってる」
線香の煙が。
横へ流れる。
「甘いものが好きなんだって」
少し笑う。
「昔なんか」
「何食べたいって聞いても」
「分かりません」
「そればっかりだったのに」
墓石を見る。
「今じゃ」
「今日はこっちがいい、とか言うんだよ」
笑みが。
消える。
「腹立つだろ」
声が。
少しだけ。
震えた。
「お前たちには」
そこから。
続かなかった。
「……」
手が。
膝の上で握られる。
「私だって」
小さく。
吐き出す。
「まだ、分かんないんだよ」
許したのか。
許してないのか。
憎んでるのか。
そうじゃないのか。
何も。
綺麗にはなっていない。
「あの子の右手見ると」
目を閉じる。
「今でも思い出す」
白い部屋。
音。
血。
子どもの姿。
「忘れるわけないだろ」
唇を噛む。
「……」
長い沈黙。
それから。
「でもね」
アルスが。
ゆっくり顔を上げる。
「寒いって言うようになった」
「痛いって言う」
「嫌だって言う」
「ここが好きだとか」
「ここは嫌だとか」
一つずつ。
増えた。
もう。
0ではない。
「……」
一滴。
落ちる。
アルスは。
乱暴に袖で拭いた。
「だから困ってんだよ」
墓石へ。
文句を言うように。
「どうすりゃいいんだろうね」
返事はない。
当たり前だった。
*
しばらくして。
アルスは立ち上がった。
服についた土を払う。
「じゃあ」
墓石を見る。
「また来るよ」
一歩。
進む。
止まる。
「……来年は」
少し考える。
「まあ」
首を振る。
「来年になったら考える」
そう言って。
背を向けた。
*
墓地を出る。
道を歩く。
一つ。
角を曲がる。
「……」
何となく。
背中が気になった。
また。
最近の。
あの感覚。
誰かに。
見られているような。
「……またかい」
小さく呟く。
歩く。
一つ目の角。
曲がる。
後ろから。
足音。
気にしない。
二つ目。
曲がる。
足音も。
ついてくる。
「……」
アルスの歩く速度が。
少し上がった。
後ろも。
上がる。
その瞬間。
頭の奥で。
昔の声が蘇った。
*
『振り向かない方がいいですよ』
*
「……くそ」
アルスは。
振り返らなかった。
前だけを見る。
道。
人。
店。
逃げられそうな場所。
頭の中で。
必死に探す。
前方。
路肩に停まっていた車。
扉が開く。
一人。
男が降りてくる。
「……」
アルスは。
足を止めない。
反対側へ渡ろうとする。
その時。
後ろから。
「アルスさん」
名前を。
呼ばれた。
足が。
一瞬だけ。
止まった。
*
その頃。
アベスは。
一人。
部屋にいた。
時計を見る。
まだ。
夕方には早い。
窓の外。
静かな空。
机の上。
二人分の朝食を食べた。
皿。
アベスは。
少し考える。
「……」
それから。
小さく呟いた。
「甘いの、忘れてないでしょうか」
誰も。
答えない。
アベスは。
また。
待った。
第十三章 言わない
「アルスさん」
名前を呼ばれた。
足が。
一瞬だけ。
止まった。
*
「……誰だい」
振り返らない。
前。
車。
男が一人。
後ろ。
足音。
もう一人。
挟まれた。
「少し、お話を」
「嫌だね」
アルスは。
そのまま歩こうとした。
前の男が。
道を塞ぐ。
「退きな」
「確認したいことがあります」
「私はないよ」
横。
細い道。
走れば。
まだ。
アルスは。
買い物袋も持っていない。
鞄だけ。
いける。
「……」
一歩。
下がる。
男の目が動く。
アルスは。
走った。
*
「待て!」
「誰が待つか!」
曲がる。
走る。
息が上がる。
速くない。
昔から。
運動が得意だったわけでもない。
「っ……!」
後ろ。
足音が近い。
前。
人。
「すみません!」
肩をぶつける。
それでも走る。
角。
もう一つ。
その先。
車。
「……っ」
違う男が。
待っていた。
「アルスさん」
「……」
止まる。
後ろからも来る。
三人。
「くそ……」
アルスは。
壁際へ下がった。
「暴れないでください」
「触るな」
「こちらも、乱暴にするつもりはありません」
「だったら帰せ」
「一つ答えていただければ」
男が言った。
アルスの顔が。
固まる。
「0はどこです」
*
答えなかった。
*
腕を掴まれる。
「離せ!」
「アルスさん」
「触るなって言ってんだろ!」
振り払う。
もう片方。
掴まれる。
「離せ!!」
蹴る。
当たらない。
鞄が落ちる。
中身が。
道路へ散った。
「やめろ!」
「落ち着いてください!」
「ふざけんな!」
腕を捻られる。
「痛っ――!」
身体が。
車へ押し付けられた。
「……っ」
怖い。
それを。
認めたくなかった。
でも。
怖かった。
今。
ここで。
何をされるのか。
分からない。
「0はどこです」
「知らない」
「一緒に生活していたでしょう」
「人違いだよ」
「確認しています」
「だったら聞くな!」
男の手に。
力が入る。
「っ……!」
「場所だけです」
「……知らないって」
「答えてください」
「知らない!」
車の扉が。
開いた。
*
アベスは。
時計を見ていた。
まだ。
夕方には。
少し早い。
机の上。
空いた皿。
「……」
窓を見る。
外へ出るな。
そう言われている。
だから。
出ない。
「……甘いの」
少し。
考える。
「忘れてたら」
アルスは。
また。
次に買うだろう。
そう思った。
*
白い部屋ではなかった。
研究所でもない。
古い建物。
何に使われていたのか。
アルスには分からない。
椅子。
机。
壁。
窓は。
閉じられている。
手首が痛い。
「……」
向かいに。
二人。
「改めて聞きます」
「何回聞いても同じだよ」
「0はどこですか」
「知らない」
「アルスさん」
「その呼び方やめな」
「では」
一枚。
写真が出される。
街。
アルス。
その隣。
アベス。
「この少年です」
「知らないね」
「名前を変えていますか」
「……」
「0ではない?」
アルスの眉が。
僅かに動いた。
男は。
そこを見た。
「名前があるんですね」
「……」
「何と呼んでいますか」
「知らない」
「あなたが付けた?」
「知らないって言ってんだろ」
沈黙。
「……アベス」
アルスの目が。
動いた。
「……」
男が見る。
「今、反応しましたね」
「……」
「アベスという名前ですか」
アルスの奥歯が。
噛み合う。
「……違う」
「では」
「違う!」
声が。
大きくなった。
「勝手に名前まで決めんな!」
一瞬。
部屋が静かになる。
アルス自身が。
気づいた。
「……」
しまった。
男が。
ゆっくり息を吐く。
「やはり」
「……」
「0は、今はアベスと呼ばれている」
「……違う」
「どこにいます」
「知らない」
*
時間が。
どれくらい過ぎたのか。
分からなかった。
同じことを。
何度も聞かれた。
「どこです」
「知らない」
「住居は」
「知らない」
「誰かに預けましたか」
「知らない」
「一人ですか」
「知らない」
「あなたが帰らなければどうなります」
「……」
そこで。
初めて。
止まった。
「一人で待っているんじゃないですか」
「……」
「あなたの」
「黙れ」
「帰りを待っている」
「黙れ!」
「場所を教えてください」
「……」
「迎えに行くだけです」
「嘘つけ」
「危害を加えるとは言っていません」
「お前らが?」
アルスが。
笑った。
乾いた。
嫌な笑い。
「お前らがそれ言うのかい」
「……」
「夫も」
一拍。
「子どもも」
手が。
震える。
「返してから言えよ」
*
「報告します」
別室。
一人の研究員が。
端末へ話している。
「女は依然、所在を話しません」
短い沈黙。
向こうから。
声。
『死なせるな』
「はい」
『情報が消える』
「承知しました」
通信が切れる。
研究員は。
しばらく画面を見る。
「……」
それだけ。
部屋へ戻った。
*
「先生は何て?」
アルスが聞いた。
研究員の足が止まる。
「……」
「ゴイだろ」
返事はない。
「相変わらず」
アルスが。
鼻で笑う。
「自分じゃ来ないんだね」
「関係ありません」
「あるよ」
「場所を」
「知らない」
「……」
「何回目だい、これ」
「話せば終わります」
「本当に?」
「はい」
「私を帰す?」
研究員が。
答えない。
「ほら」
「……」
「そういうとこだよ」
*
アルスは。
一度だけ。
考えた。
本当に。
一度だけ。
場所を言えば。
帰れるかもしれない。
家へ戻れる。
アベスがいる。
きっと。
まだ待っている。
夕方には帰る。
そう言った。
甘いもの。
買うと言った。
「……」
喉が。
乾く。
場所を。
言えば。
もしかしたら。
「……」
頭に。
顔が浮かぶ。
アベス。
昔の。
何もない顔。
今の。
少しだけ。
嫌そうな顔。
『嫌です』
『前の家の方が好きです』
『甘いの』
『アルスさん』
「……」
口を開く。
研究員が。
僅かに身を乗り出した。
「どこです」
「……」
言えば。
帰れるかもしれない。
「……」
でも。
その先に。
白い部屋が。
浮かんだ。
装置。
右手。
血。
「……っ」
知っている。
場所も。
帰れば、待っている子がいることも。
全部。
だから。
言わない。
「アルスさん?」
アルスは。
唇を噛んだ。
「……知らない」
「……」
「何も」
声が。
震えた。
「知らないよ」
*
夜。
アベスは。
まだ。
待っていた。
部屋の電気をつける。
アルスは。
暗くなる前には。
だいたい帰ってくる。
「……」
時計。
扉。
時計。
また。
扉。
「遅いです」
誰も。
答えない。
*
「いい加減にしてください」
「そっちがね」
「こちらも時間がありません」
「私にはあるよ」
「……」
「帰るまで待ってる子がいるからね」
言った瞬間。
研究員の目が変わった。
アルスが。
気づく。
「……」
「やはり一人なんですね」
「……違う」
「今の発言は」
「違うって!」
「場所は?」
「知らない!」
「どの区域です」
「知らない!」
「誰の家です」
「知らない!!」
机が。
叩かれる。
「答えろ!」
アルスの肩が。
跳ねた。
怖い。
身体が。
勝手に縮む。
「……」
男が。
息を荒くする。
「こちらは――」
「死なせるなって言われてんだろ」
アルスが言った。
男が止まる。
「……」
「顔に書いてあるよ」
「……黙れ」
「先生に怒られるよ」
「黙れ!」
椅子が。
蹴られた。
アルスの身体が。
揺れる。
「……っ」
別の研究員が。
止める。
「やめろ」
「こいつが――」
「命令がある」
「分かってる!」
「なら――」
「分かってるって言ってんだろ!」
その声に。
アルスは。
笑った。
「……何がおかしい」
「いや」
肩で。
息をする。
「先生の犬も大変だね」
「……」
「言われた通りにしか動けない」
「黙れ」
「自分じゃ何も決められない」
「黙れ!」
男が。
一歩。
近づく。
腰。
そこに。
銃。
アルスの目が。
止まった。
*
「……」
怖い。
今度は。
はっきり。
怖かった。
*
「それ」
アルスが言った。
「出す気?」
「……」
「死なせるなって言われたばっかりじゃないか」
「脅しだ」
「下手くそだね」
銃が。
抜かれる。
もう一人が。
男の腕を掴む。
「やめろ!」
「撃たねえよ!」
「しまえ!」
「離せ!」
アルスが。
見る。
扉。
男二人。
一人の手が。
銃へ。
もう一人は。
そちらを止めている。
今。
「……」
椅子を。
蹴った。
「っ!」
男の足に。
ぶつかる。
アルスは。
立った。
扉へ。
「待て!」
腕を掴まれる。
「離せ!!」
爪を立てる。
「この――!」
振り払う。
手。
銃。
誰かの指。
誰かの腕。
一瞬。
全部が。
重なった。
*
音がした。
*
「……」
アルスは。
何が起きたのか。
すぐには。
分からなかった。
身体が。
軽く。
後ろへ。
押された。
「……え」
腹。
熱い。
そのあと。
急に。
冷たくなる。
「……」
手を当てる。
赤い。
「おい」
「……」
「おい!」
「何やってんだ!!」
「違う! 俺は――」
「止血しろ!」
声が。
遠い。
「先生に連絡!」
「早く!」
アルスは。
床へ。
座り込んだ。
「……は」
息が。
うまく。
入らない。
「アルスさん!」
「……」
「聞こえますか!」
「うるさいね……」
誰かが。
傷口を押さえる。
「触るな……」
「死ぬぞ!」
「……」
その言葉に。
少しだけ。
笑った。
「そりゃ……困るね」
「場所を!」
別の男が。
まだ聞く。
「0はどこだ!」
「お前何言って――」
「今ならまだ!」
「……」
アルスの目が。
ゆっくり。
そちらへ向く。
「どこです!」
「……」
口が。
動く。
男が。
耳を近づける。
「何です」
アルスは。
小さく。
言った。
「知らないよ」
「……」
「最後まで……」
息。
一つ。
「知らない」
*
天井が。
滲む。
アルスは。
目を閉じた。
夫。
子ども。
白い部屋。
右手。
パン。
毛布。
皿。
甘い菓子。
名前。
『アベス』
『何だい、アベス』
知らない町。
狭い部屋。
雨。
風邪。
『寒いです』
『痛いです』
『嫌です』
『前の家の方が好きです』
『甘いの』
そして。
今朝。
『帰りに』
『ん?』
『甘いの』
「……」
アルスの口元が。
僅かに。
動いた。
「忘れ……ちゃったね」
「アルスさん!」
「……」
散々だった。
本当に。
散々だった。
間違えた。
逃げた。
恨んだ。
殺そうとした。
できなかった。
許せなかった。
それでも。
一緒にいた。
「……散々な人生だったよ」
誰に。
言ったのか。
自分でも。
分からない。
「間違えて……」
息が。
浅くなる。
「恨んで……」
アルスは。
少しだけ笑った。
「でもまあ……最後くらいは、ちゃんとできたかね」
今回は、アルスの命日と「知らない」の二章です。
この二章で大事なのは、
アルスがアベスを綺麗に許したわけではないことです。
墓の前でも、
許したのか。
許していないのか。
憎んでいるのか。
本人にも分かりません。
夫と子どもを失った事実は消えないし、
アベスの右手を見れば今でも思い出します。
それでも。
寒い。
痛い。
嫌だ。
ここが好き。
そんな言葉が一つずつ増えて、
もう「0」ではなくなった少年と一緒に暮らしてきました。
そして第十三章。
研究所から何度聞かれても、
アルスは「知らない」と答えます。
でも、本当は知っています。
場所も。
そこでアベスが待っていることも。
夕方には帰ると約束したことも。
全部知っている。
だからこそ、言わない。
昔のアベスの「分かりません」と、
アルスの「知らない」は、
同じような言葉でも中身がまったく違います。
答えを持っていなかった少年と、
答えを持った上で口にしないことを選んだ人間。
最後までアルスは、
アベスの居場所だけは渡しませんでした。
帰りに頼まれた甘いものだけは、
忘れてしまいました。




