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『KillerWorld ―七つ目の答え―』  作者: ザクロ
アベス編

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45/57

アベス編⑦ 命日と「知らない」

夫と子どもの命日。


アルスは一人で墓参りへ向かう。


その前に、ずっと使っていなかったイースへの連絡先を見つけた。


名前がついたこと。

甘いものが好きになったこと。

嫌なものを「嫌」と言えるようになったこと。


アベスの近況を書いた手紙を残し、アルスは墓前へ向かう。


許したのか。

許していないのか。


自分でも、まだ分からない。


それでも。


墓参りを終えた帰り道。

再び、あの視線が現れる。


研究所が知りたいのは一つだけ。


――0は、どこにいるのか。


アルスは答える。


「知らない」


本当は、全部知っているまま。

第十二章 命日


朝。


アルスは。


いつもより少し早く起きた。


*


湯を沸かす。


パンを焼く。


二人分。


「アルスさん」


「何」


アベスが。


まだ眠そうな顔で椅子に座っている。


「今日、出かけますか」


「出るよ」


「買い物ですか」


「違う」


アルスは。


焼けたパンを皿へ置いた。


「墓参り」


アベスの手が止まる。


「お墓ですか」


「そう」


「誰のですか」


アルスは。


一瞬だけ黙った。


「……家族」


「家族」


「夫と」


一拍。


「子ども」


アベスは。


しばらく何も言わなかった。


それから。


「僕も行きますか」


アルスの手が止まる。


「……」


「アルスさん?」


「来るな」


思ったより。


強い声が出た。


アベスが目を伏せる。


「はい」


「……」


アルスは。


皿を置いた。


「別に」


言葉を探す。


「お前が悪いからとか」


そこで止まる。


「……いや」


それも。


違う。


「悪くないって言えるほど」


アルスは目を逸らした。


「私はまだ、できてない」


アベスは。


何も言わない。


「今日は」


アルスが言う。


「私一人で行く」


「分かりました」


「……嫌じゃないの」


アベスは。


少し考える。


「嫌です」


アルスが顔を上げる。


「一緒に行けないのは」


「……そう」


「でも」


アベスは。


もう一度考えた。


「アルスさんが一人で行きたいなら、行きません」


アルスは。


しばらく黙っていた。


「……そうかい」


「はい」


*


食事を終える。


アルスは。


いつもより少しだけ。


身支度に時間をかけた。


髪を整える。


古い上着を出す。


鞄を確認する。


その途中。


引き出しの奥から。


小さく折られた紙が落ちた。


「……」


拾う。


何度も折り直した跡。


場所だけが書いてある。


ずっと前。


知らない顔で現れた。


あの青年から渡されたもの。


*


『何かあったら、そこに手紙置いといて』


*


「……イース」


アルスが呟く。


そういえば。


一度も使っていない。


「何かあったら、ねえ」


鼻で笑う。


別に。


今。


何かが起きているわけじゃない。


何かあったら。


そう言われたけれど。


近況くらい。


書いたっていいだろう。


今日だって。


墓参りへ行って。


帰ってくる。


いつもと変わらない。


アルスは紙を戻そうとして。


止まった。


「……ったく」


机へ座る。


紙を一枚。


ペンを持つ。


「何書きゃいいんだよ」


少し考えて。


書き始めた。


*


イースへ。


あの子、元気に育ってるよ。


今じゃ嫌なものは嫌って言うし、甘いものが好きだとか、自分で言うようになった。


名前もついた。


アベスっていう。


人に押し付けといて、顔くらい一回は出せ。


こっちは大変だったんだからな。


*


「……」


読み返す。


「こんなもんか」


紙を折る。


封筒へ入れる。


それから。


封筒を裏返す。


少しだけ考えて。


今の住所を書いた。


「アルスさん」


後ろから声。


「うわっ」


アルスが振り返る。


「いつからいたんだい」


「名前を書いているところからです」


「見るなよ!」


「イースに手紙ですか」


「……そうだよ」


「何を書いたんですか」


「教えない」


「気になります」


「知らないよ」


「嫌です」


アルスの眉が動く。


「……ほんと」


アベスを見る。


「言うようになったね」


「駄目ですか」


「別に」


封筒を鞄へ入れる。


「本人にも見せてやりたいくらいだよ」


「イースは来ますか」


「さあね」


「来てほしいですか」


アルスが止まる。


「……私が?」


「はい」


「別に」


アベスが。


じっと見る。


「何だい」


「嘘ですか」


「……」


アルスが。


軽く額を小突いた。


「生意気になったね」


*


玄関。


靴を履く。


「夕方には帰る」


「はい」


「知らない奴来ても出るな」


「はい」


「外にも出るな」


「はい」


「窓際にも――」


「立ちません」


「……覚えてるじゃないか」


「何度も言われました」


「そうだったね」


扉へ手を掛ける。


「アルスさん」


「何」


「帰りに」


「ん?」


「甘いの」


アルスが。


呆れた顔をする。


「墓参りだって言ってんだろ」


「帰りです」


「はいはい」


「買いますか」


「覚えてたらね」


「はい」


アルスは。


扉を開けた。


「行ってくるよ」


「いってらっしゃい」


扉が閉まる。


*


墓地へ向かう前に。


一つだけ。


寄る場所があった。


古い建物。


細い路地。


「……まだあるじゃないか」


壁際。


古びた郵便受け。


名前はない。


番号だけ。


アルスは。


周囲を見る。


誰もいない。


鞄から。


封筒を取り出す。


「……」


一瞬だけ。


迷う。


「まあ」


肩をすくめる。


「たまには働きな」


封筒を入れる。


小さな音。


それだけ。


アルスは。


その場を離れた。


*


その時。


遠い町で。


一人の青年は。


別の顔をしていた。


別の名前を名乗り。


別の人間の隣にいる。


頭の奥で。


声がした。


(先生には内緒?)


青年の目だけが。


ほんの少し動く。


「何が」


(あの箱)


一拍。


「連絡先まで報告しろとは言われてない」


(くくっ)


「……何」


(何でも)


青年は。


少しだけ眉を寄せた。


アルスが。


手紙を入れたことなど。


知らない。


青年は。


ただ。


仕事をしていた。


*


墓地へ着いた頃には。


昼を過ぎていた。


花。


水。


線香。


道は。


変わっていない。


「……」


墓石の前で。


アルスの足が止まる。


名前が。


二つ。


刻まれている。


「……来たよ」


花を置く。


古いものを片付ける。


水をかける。


墓石を拭く。


慣れた手。


何度やっても。


慣れない場所。


線香に火をつける。


煙が。


細く昇る。


「遅くなったね」


しゃがむ。


しばらく。


何も言わない。


風。


木の葉。


遠くから。


誰かの話し声。


「……ねえ」


アルスが。


口を開く。


「聞いてよ」


墓石を見る。


「あの子」


そこで。


少し詰まる。


「名前、ついたよ」


口元が。


ほんの少し動く。


「私がつけた」


一拍。


「アベス」


「変な名前だろ」


返事はない。


「嫌なら変えろって言ったんだけどさ」


目を伏せる。


「まだ使ってる」


線香の煙が。


横へ流れる。


「甘いものが好きなんだって」


少し笑う。


「昔なんか」


「何食べたいって聞いても」


「分かりません」


「そればっかりだったのに」


墓石を見る。


「今じゃ」


「今日はこっちがいい、とか言うんだよ」


笑みが。


消える。


「腹立つだろ」


声が。


少しだけ。


震えた。


「お前たちには」


そこから。


続かなかった。


「……」


手が。


膝の上で握られる。


「私だって」


小さく。


吐き出す。


「まだ、分かんないんだよ」


許したのか。


許してないのか。


憎んでるのか。


そうじゃないのか。


何も。


綺麗にはなっていない。


「あの子の右手見ると」


目を閉じる。


「今でも思い出す」


白い部屋。


音。


血。


子どもの姿。


「忘れるわけないだろ」


唇を噛む。


「……」


長い沈黙。


それから。


「でもね」


アルスが。


ゆっくり顔を上げる。


「寒いって言うようになった」


「痛いって言う」


「嫌だって言う」


「ここが好きだとか」


「ここは嫌だとか」


一つずつ。


増えた。


もう。


0ではない。


「……」


一滴。


落ちる。


アルスは。


乱暴に袖で拭いた。


「だから困ってんだよ」


墓石へ。


文句を言うように。


「どうすりゃいいんだろうね」


返事はない。


当たり前だった。


*


しばらくして。


アルスは立ち上がった。


服についた土を払う。


「じゃあ」


墓石を見る。


「また来るよ」


一歩。


進む。


止まる。


「……来年は」


少し考える。


「まあ」


首を振る。


「来年になったら考える」


そう言って。


背を向けた。


*


墓地を出る。


道を歩く。


一つ。


角を曲がる。


「……」


何となく。


背中が気になった。


また。


最近の。


あの感覚。


誰かに。


見られているような。


「……またかい」


小さく呟く。


歩く。


一つ目の角。


曲がる。


後ろから。


足音。


気にしない。


二つ目。


曲がる。


足音も。


ついてくる。


「……」


アルスの歩く速度が。


少し上がった。


後ろも。


上がる。


その瞬間。


頭の奥で。


昔の声が蘇った。


*


『振り向かない方がいいですよ』


*


「……くそ」


アルスは。


振り返らなかった。


前だけを見る。


道。


人。


店。


逃げられそうな場所。


頭の中で。


必死に探す。


前方。


路肩に停まっていた車。


扉が開く。


一人。


男が降りてくる。


「……」


アルスは。


足を止めない。


反対側へ渡ろうとする。


その時。


後ろから。


「アルスさん」


名前を。


呼ばれた。


足が。


一瞬だけ。


止まった。


*


その頃。


アベスは。


一人。


部屋にいた。


時計を見る。


まだ。


夕方には早い。


窓の外。


静かな空。


机の上。


二人分の朝食を食べた。


皿。


アベスは。


少し考える。


「……」


それから。


小さく呟いた。


「甘いの、忘れてないでしょうか」


誰も。


答えない。


アベスは。


また。


待った。



第十三章 言わない


「アルスさん」


名前を呼ばれた。


足が。


一瞬だけ。


止まった。


*


「……誰だい」


振り返らない。


前。


車。


男が一人。


後ろ。


足音。


もう一人。


挟まれた。


「少し、お話を」


「嫌だね」


アルスは。


そのまま歩こうとした。


前の男が。


道を塞ぐ。


「退きな」


「確認したいことがあります」


「私はないよ」


横。


細い道。


走れば。


まだ。


アルスは。


買い物袋も持っていない。


鞄だけ。


いける。


「……」


一歩。


下がる。


男の目が動く。


アルスは。


走った。


*


「待て!」


「誰が待つか!」


曲がる。


走る。


息が上がる。


速くない。


昔から。


運動が得意だったわけでもない。


「っ……!」


後ろ。


足音が近い。


前。


人。


「すみません!」


肩をぶつける。


それでも走る。


角。


もう一つ。


その先。


車。


「……っ」


違う男が。


待っていた。


「アルスさん」


「……」


止まる。


後ろからも来る。


三人。


「くそ……」


アルスは。


壁際へ下がった。


「暴れないでください」


「触るな」


「こちらも、乱暴にするつもりはありません」


「だったら帰せ」


「一つ答えていただければ」


男が言った。


アルスの顔が。


固まる。


「0はどこです」


*


答えなかった。


*


腕を掴まれる。


「離せ!」


「アルスさん」


「触るなって言ってんだろ!」


振り払う。


もう片方。


掴まれる。


「離せ!!」


蹴る。


当たらない。


鞄が落ちる。


中身が。


道路へ散った。


「やめろ!」


「落ち着いてください!」


「ふざけんな!」


腕を捻られる。


「痛っ――!」


身体が。


車へ押し付けられた。


「……っ」


怖い。


それを。


認めたくなかった。


でも。


怖かった。


今。


ここで。


何をされるのか。


分からない。


「0はどこです」


「知らない」


「一緒に生活していたでしょう」


「人違いだよ」


「確認しています」


「だったら聞くな!」


男の手に。


力が入る。


「っ……!」


「場所だけです」


「……知らないって」


「答えてください」


「知らない!」


車の扉が。


開いた。


*


アベスは。


時計を見ていた。


まだ。


夕方には。


少し早い。


机の上。


空いた皿。


「……」


窓を見る。


外へ出るな。


そう言われている。


だから。


出ない。


「……甘いの」


少し。


考える。


「忘れてたら」


アルスは。


また。


次に買うだろう。


そう思った。


*


白い部屋ではなかった。


研究所でもない。


古い建物。


何に使われていたのか。


アルスには分からない。


椅子。


机。


壁。


窓は。


閉じられている。


手首が痛い。


「……」


向かいに。


二人。


「改めて聞きます」


「何回聞いても同じだよ」


「0はどこですか」


「知らない」


「アルスさん」


「その呼び方やめな」


「では」


一枚。


写真が出される。


街。


アルス。


その隣。


アベス。


「この少年です」


「知らないね」


「名前を変えていますか」


「……」


「0ではない?」


アルスの眉が。


僅かに動いた。


男は。


そこを見た。


「名前があるんですね」


「……」


「何と呼んでいますか」


「知らない」


「あなたが付けた?」


「知らないって言ってんだろ」


沈黙。


「……アベス」


アルスの目が。


動いた。


「……」


男が見る。


「今、反応しましたね」


「……」


「アベスという名前ですか」


アルスの奥歯が。


噛み合う。


「……違う」


「では」


「違う!」


声が。


大きくなった。


「勝手に名前まで決めんな!」


一瞬。


部屋が静かになる。


アルス自身が。


気づいた。


「……」


しまった。


男が。


ゆっくり息を吐く。


「やはり」


「……」


「0は、今はアベスと呼ばれている」


「……違う」


「どこにいます」


「知らない」


*


時間が。


どれくらい過ぎたのか。


分からなかった。


同じことを。


何度も聞かれた。


「どこです」


「知らない」


「住居は」


「知らない」


「誰かに預けましたか」


「知らない」


「一人ですか」


「知らない」


「あなたが帰らなければどうなります」


「……」


そこで。


初めて。


止まった。


「一人で待っているんじゃないですか」


「……」


「あなたの」


「黙れ」


「帰りを待っている」


「黙れ!」


「場所を教えてください」


「……」


「迎えに行くだけです」


「嘘つけ」


「危害を加えるとは言っていません」


「お前らが?」


アルスが。


笑った。


乾いた。


嫌な笑い。


「お前らがそれ言うのかい」


「……」


「夫も」


一拍。


「子どもも」


手が。


震える。


「返してから言えよ」


*


「報告します」


別室。


一人の研究員が。


端末へ話している。


「女は依然、所在を話しません」


短い沈黙。


向こうから。


声。


『死なせるな』


「はい」


『情報が消える』


「承知しました」


通信が切れる。


研究員は。


しばらく画面を見る。


「……」


それだけ。


部屋へ戻った。


*


「先生は何て?」


アルスが聞いた。


研究員の足が止まる。


「……」


「ゴイだろ」


返事はない。


「相変わらず」


アルスが。


鼻で笑う。


「自分じゃ来ないんだね」


「関係ありません」


「あるよ」


「場所を」


「知らない」


「……」


「何回目だい、これ」


「話せば終わります」


「本当に?」


「はい」


「私を帰す?」


研究員が。


答えない。


「ほら」


「……」


「そういうとこだよ」


*


アルスは。


一度だけ。


考えた。


本当に。


一度だけ。


場所を言えば。


帰れるかもしれない。


家へ戻れる。


アベスがいる。


きっと。


まだ待っている。


夕方には帰る。


そう言った。


甘いもの。


買うと言った。


「……」


喉が。


乾く。


場所を。


言えば。


もしかしたら。


「……」


頭に。


顔が浮かぶ。


アベス。


昔の。


何もない顔。


今の。


少しだけ。


嫌そうな顔。


『嫌です』


『前の家の方が好きです』


『甘いの』


『アルスさん』


「……」


口を開く。


研究員が。


僅かに身を乗り出した。


「どこです」


「……」


言えば。


帰れるかもしれない。


「……」


でも。


その先に。


白い部屋が。


浮かんだ。


装置。


右手。


血。


「……っ」


知っている。


場所も。


帰れば、待っている子がいることも。


全部。


だから。


言わない。


「アルスさん?」


アルスは。


唇を噛んだ。


「……知らない」


「……」


「何も」


声が。


震えた。


「知らないよ」


*


夜。


アベスは。


まだ。


待っていた。


部屋の電気をつける。


アルスは。


暗くなる前には。


だいたい帰ってくる。


「……」


時計。


扉。


時計。


また。


扉。


「遅いです」


誰も。


答えない。


*


「いい加減にしてください」


「そっちがね」


「こちらも時間がありません」


「私にはあるよ」


「……」


「帰るまで待ってる子がいるからね」


言った瞬間。


研究員の目が変わった。


アルスが。


気づく。


「……」


「やはり一人なんですね」


「……違う」


「今の発言は」


「違うって!」


「場所は?」


「知らない!」


「どの区域です」


「知らない!」


「誰の家です」


「知らない!!」


机が。


叩かれる。


「答えろ!」


アルスの肩が。


跳ねた。


怖い。


身体が。


勝手に縮む。


「……」


男が。


息を荒くする。


「こちらは――」


「死なせるなって言われてんだろ」


アルスが言った。


男が止まる。


「……」


「顔に書いてあるよ」


「……黙れ」


「先生に怒られるよ」


「黙れ!」


椅子が。


蹴られた。


アルスの身体が。


揺れる。


「……っ」


別の研究員が。


止める。


「やめろ」


「こいつが――」


「命令がある」


「分かってる!」


「なら――」


「分かってるって言ってんだろ!」


その声に。


アルスは。


笑った。


「……何がおかしい」


「いや」


肩で。


息をする。


「先生の犬も大変だね」


「……」


「言われた通りにしか動けない」


「黙れ」


「自分じゃ何も決められない」


「黙れ!」


男が。


一歩。


近づく。


腰。


そこに。


銃。


アルスの目が。


止まった。


*


「……」


怖い。


今度は。


はっきり。


怖かった。


*


「それ」


アルスが言った。


「出す気?」


「……」


「死なせるなって言われたばっかりじゃないか」


「脅しだ」


「下手くそだね」


銃が。


抜かれる。


もう一人が。


男の腕を掴む。


「やめろ!」


「撃たねえよ!」


「しまえ!」


「離せ!」


アルスが。


見る。


扉。


男二人。


一人の手が。


銃へ。


もう一人は。


そちらを止めている。


今。


「……」


椅子を。


蹴った。


「っ!」


男の足に。


ぶつかる。


アルスは。


立った。


扉へ。


「待て!」


腕を掴まれる。


「離せ!!」


爪を立てる。


「この――!」


振り払う。


手。


銃。


誰かの指。


誰かの腕。


一瞬。


全部が。


重なった。


*


音がした。


*


「……」


アルスは。


何が起きたのか。


すぐには。


分からなかった。


身体が。


軽く。


後ろへ。


押された。


「……え」


腹。


熱い。


そのあと。


急に。


冷たくなる。


「……」


手を当てる。


赤い。


「おい」


「……」


「おい!」


「何やってんだ!!」


「違う! 俺は――」


「止血しろ!」


声が。


遠い。


「先生に連絡!」


「早く!」


アルスは。


床へ。


座り込んだ。


「……は」


息が。


うまく。


入らない。


「アルスさん!」


「……」


「聞こえますか!」


「うるさいね……」


誰かが。


傷口を押さえる。


「触るな……」


「死ぬぞ!」


「……」


その言葉に。


少しだけ。


笑った。


「そりゃ……困るね」


「場所を!」


別の男が。


まだ聞く。


「0はどこだ!」


「お前何言って――」


「今ならまだ!」


「……」


アルスの目が。


ゆっくり。


そちらへ向く。


「どこです!」


「……」


口が。


動く。


男が。


耳を近づける。


「何です」


アルスは。


小さく。


言った。


「知らないよ」


「……」


「最後まで……」


息。


一つ。


「知らない」


*


天井が。


滲む。


アルスは。


目を閉じた。


夫。


子ども。


白い部屋。


右手。


パン。


毛布。


皿。


甘い菓子。


名前。


『アベス』


『何だい、アベス』


知らない町。


狭い部屋。


雨。


風邪。


『寒いです』


『痛いです』


『嫌です』


『前の家の方が好きです』


『甘いの』


そして。


今朝。


『帰りに』


『ん?』


『甘いの』


「……」


アルスの口元が。


僅かに。


動いた。


「忘れ……ちゃったね」


「アルスさん!」


「……」


散々だった。


本当に。


散々だった。


間違えた。


逃げた。


恨んだ。


殺そうとした。


できなかった。


許せなかった。


それでも。


一緒にいた。


「……散々な人生だったよ」


誰に。


言ったのか。


自分でも。


分からない。


「間違えて……」


息が。


浅くなる。


「恨んで……」


アルスは。


少しだけ笑った。


「でもまあ……最後くらいは、ちゃんとできたかね」

今回は、アルスの命日と「知らない」の二章です。


この二章で大事なのは、

アルスがアベスを綺麗に許したわけではないことです。


墓の前でも、


許したのか。

許していないのか。

憎んでいるのか。


本人にも分かりません。


夫と子どもを失った事実は消えないし、

アベスの右手を見れば今でも思い出します。


それでも。


寒い。

痛い。

嫌だ。

ここが好き。


そんな言葉が一つずつ増えて、

もう「0」ではなくなった少年と一緒に暮らしてきました。


そして第十三章。


研究所から何度聞かれても、

アルスは「知らない」と答えます。


でも、本当は知っています。


場所も。

そこでアベスが待っていることも。

夕方には帰ると約束したことも。


全部知っている。


だからこそ、言わない。


昔のアベスの「分かりません」と、

アルスの「知らない」は、

同じような言葉でも中身がまったく違います。


答えを持っていなかった少年と、

答えを持った上で口にしないことを選んだ人間。


最後までアルスは、

アベスの居場所だけは渡しませんでした。


帰りに頼まれた甘いものだけは、

忘れてしまいました。

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