アベス編⑥ 視線と潜伏
数か月続いた日常は、研究所に見つかった。
買い物へ出るたびに感じる視線。
家の前に現れる見知らぬ人影。
そんなアルスの前へ、別人の顔をしたイースが現れる。
「振り向かない方がいいですよ」
追われている。
そう確信したアルスは、アベスへ一つだけ尋ねる。
研究所へ戻りたいか。
「戻りたくありません」
その答えを聞いた二人は、家を捨てて逃げ始める。
一つ目の町。
二つ目。
三つ目。
季節が何度も巡る間にも、アベスは少しずつ自分の「好き」と「嫌」を増やしていく。
そして二人にとって、「戻る場所」の意味も少しずつ変わり始めていた。
第十章 視線
最近。
視線を感じることが増えた。
*
「……」
アルスは、買い物袋を持ったまま振り返った。
人がいる。
何人か。
道を歩く男。
店先で話す女。
自転車を押す老人。
それだけ。
「……気のせいか」
小さく呟いて。
また歩く。
*
最初は。
本当に。
その程度だった。
窓の外を見ると。
少し離れたところに車が止まっている。
次の日にはいない。
買い物へ出ると。
何となく。
後ろに人の気配がある。
振り返る。
誰もいない。
夜。
カーテンを閉めようとすると。
向かいの道に誰かが立っていた気がする。
もう一度見る。
いない。
「……」
「アルスさん」
「何」
アベスが机からこちらを見ていた。
「何でもないよ」
カーテンを閉じる。
「そうですか」
アベスは。
それ以上聞かなかった。
アルスは台所へ戻る。
包丁を持つ。
野菜を切る。
一つ。
二つ。
その間にも。
窓の向こうが気になった。
「……ったく」
自分に腹が立つ。
何を怖がってる。
ここへ来て。
もう何か月も経っている。
研究所から誰かが来たことなんてない。
ゴイも。
研究員も。
あの青年も。
誰も。
それなのに。
最近になって。
急に。
「……」
包丁が止まる。
あの日。
街で。
誰かに見られた気がしたことを思い出す。
でも。
それだって。
確証なんかない。
「考えすぎだよ……」
また。
野菜を切った。
*
数日後。
「今日は私一人で行くよ」
アルスが靴を履いた。
アベスが顔を上げる。
「僕は?」
「留守番」
「はい」
「誰か来ても開けるんじゃないよ」
「はい」
「知らない奴に名前聞かれても言うな」
「はい」
「研究所の人間だったら――」
そこまで言って。
止まる。
アベスが待っている。
「……いや」
アルスは立ち上がった。
「何でもない」
「分かりました」
「すぐ戻る」
扉を開ける。
「アルスさん」
「何」
「甘いのは」
アルスの眉が動いた。
「……覚えてたらね」
「はい」
扉を閉めた。
外へ出る。
少しだけ。
笑っていた。
*
買い物を終える。
野菜。
肉。
パン。
そして。
小さな焼き菓子。
「……甘やかしてるね」
自分で呟く。
袋へ入れる。
店を出る。
歩く。
交差点。
一つ。
角を曲がる。
その時。
また。
感じた。
「……」
後ろ。
視線。
振り返ろうとして。
「お姉さん」
横から声がした。
「……?」
若い男が。
すれ違う。
知らない顔。
帽子。
荷物を抱えて。
どこにでもいそうな。
ただの男。
アルスは足を止めかけた。
男は止まらない。
前を向いたまま。
小さな声で言った。
「振り向かない方がいいですよ」
アルスの背中が。
冷たくなった。
「……何だい」
男は歩き続ける。
「後ろ」
一拍。
「さっきから同じ人、ついてます」
アルスの指が。
買い物袋を強く握った。
「誰だい、あんた」
男は止まらない。
ただ。
すれ違う瞬間。
声だけが変わった。
「僕だよ」
「――」
アルスの目が見開く。
その声を。
忘れるはずがなかった。
「……イース?」
知らない顔の男が。
ほんの少しだけ笑った。
「振り向かないで」
「何でそんな顔してんだい」
「仕事中だからね」
「……」
男の手が。
アルスの手へ何かを押し込む。
小さく折られた紙。
「これ、僕の連絡先」
「連絡先?」
「何かあったら、そこに手紙置いといて」
「電話じゃ駄目なのかい」
「僕、どこにいるか分かんないから」
「……役に立たないね」
「ひどいなあ」
いつもの調子。
アルスは。
ようやく確信する。
本当に。
イースだ。
「それより」
アルスが小さく言う。
「こいつら、研究所かい」
イースは答えない。
少しだけ。
笑った。
「だから、振り向かない方がいいって」
それだけ残して。
別人の顔のまま。
人混みへ消えていった。
アルスは。
手の中の紙を見る。
場所が一つ。
それだけ。
「……ったく」
紙を畳み。
ポケットへ入れた。
*
男は。
角を一つ曲がった。
人通りが減る。
帽子を取る。
顔へ手を触れる。
輪郭が。
ゆっくり変わる。
別の顔。
青年は。
何事もなかったように歩いた。
(教えるんだ)
青年の眉が僅かに動く。
「……うるさい」
(まだ何も言ってない)
「言うこと分かるんだよ」
(似てるね)
「黙れ」
少し間。
(今の人)
「追われてたからね」
(だから?)
青年は肩をすくめた。
「見つかったら面倒でしょ」
(誰が?)
「僕が」
(嘘)
「最近そればっかりだね」
(当たるから)
「黙れ」
(捨てたはずの0が、歩いてる)
青年の足が僅かに遅くなる。
「……だから?」
(別に)
声だけが楽しそうに笑った。
(綺麗に片づいてたのにね)
青年は何も返さなかった。
ポケットから小さな紙を取り出す。
別の名前。
別の場所。
今日の仕事。
「さて」
歩く。
「次行こっか」
(仕事熱心だね)
「君に言われても嬉しくない」
そのまま。
青年は別の人間の顔になって。
人混みへ消れた。
*
アルスは。
家へ真っ直ぐ帰らなかった。
一本。
道を変える。
また曲がる。
店へ入る。
買うものなんてない。
棚を見るふりをする。
十分ほど。
そこにいた。
外へ出る。
「……」
いる。
さっき。
遠くにいた男。
別の店先。
こちらを見ていない。
でも。
いる。
喉が乾いた。
また道を変える。
今度は細い道。
角を曲がる。
歩く。
少しして。
ガラスに映る。
後ろ。
同じ影。
「……っ」
心臓が。
強く鳴った。
気のせいじゃない。
見られている。
追われている。
「……誰だよ」
研究所。
頭に浮かんだ。
すぐに。
否定したかった。
でも。
できなかった。
*
家へ戻った頃には。
日が落ちかけていた。
「おかえりなさい」
アベスが言った。
アルスは。
返事をしなかった。
鍵を閉める。
一つ。
もう一つ。
カーテン。
全部閉める。
「アルスさん?」
「アベス」
「はい」
「ちょっと来な」
アベスが近づく。
アルスは。
少年を見る。
名前がある。
好きなものもある。
嫌なものも。
少しずつ。
言えるようになった。
その顔を見て。
研究所を思い出した。
白い部屋。
装置。
右手。
血。
ゴイ。
そして。
あの日。
青年に連れられて。
外へ出てきた0。
「……」
アルスが聞いた。
「研究所」
アベスの目が。
僅かに動く。
「戻りたい?」
沈黙。
長くはなかった。
アベスは。
首を横へ振った。
「戻りたくありません」
アルスは。
目を閉じた。
「……そう」
それだけで。
十分だった。
立ち上がる。
押し入れを開ける。
鞄を引っ張り出す。
「アルスさん?」
「服」
「はい?」
「必要な分だけ持ちな」
「どこへ行くんですか」
「知らない」
アルスは。
自分の服を乱暴に詰める。
金。
薬。
必要そうなもの。
「引っ越すんですか」
「そんな立派なもんじゃないよ」
「では」
アルスの手が止まった。
アベスを見る。
「逃げる」
アベスは黙った。
「怖いですか」
アルスが聞く。
「……少し」
「私もだよ」
初めて。
素直に言った。
「でも」
鞄を閉じる。
「捕まるよりはマシだ」
*
夜。
二人は家を出た。
電気を消す。
食器は残す。
家具も。
寝床も。
アベスが初めて。
好きな食べ物を答えた場所。
名前をもらった場所。
アルスが。
二人分の食事を作るようになった場所。
全部。
置いていく。
玄関で。
アベスが振り返った。
「何」
アルスが聞く。
「……」
「忘れ物?」
「違います」
少し。
考える。
そして。
「ここ」
アベスは。
家の中を見る。
「好きでした」
アルスは。
何も言わなかった。
一度。
家を見る。
「……そう」
扉を閉める。
鍵を掛ける。
「じゃあ」
歩き出す。
「覚えときな」
アベスも。
その後ろを歩いた。
*
それが。
二人にとって。
最初の潜伏だった。
第十一章 潜伏
最初の部屋は。
前の家より、ずっと狭かった。
*
「……狭いですね」
荷物を床へ置きながら。
アベスが言った。
アルスが振り返る。
「文句ある?」
「ありません」
「本当に?」
アベスは部屋を見る。
少し考えて。
「……前の家の方が好きです」
アルスの手が止まった。
それから。
鼻で笑う。
「言うようになったね」
「駄目ですか」
「別に」
カーテンを閉める。
「私も前の方が好きだよ」
「しばらくここ」
「はい」
アベスは。
少し考えて。
「アルスさんは?」
「私?」
「一緒に逃げますか」
アルスが黙った。
「……当たり前だろ」
「そうですか」
アベスは。
ほんの少しだけ。
安心したように見えた。
*
それが。
二人にとって。
最初の潜伏先になった。
最初の数週間。
アルスは。
物音のたびに目を覚ました。
けれど。
やがて。
一か月。
二か月。
何も起きなかった。
研究所の人間は来ない。
あの視線も。
感じなくなった。
それでも。
アルスは住所を誰にも教えなかった。
長く同じ道を使わなかった。
買い物する店も。
少しずつ変えた。
アベスにも。
必要以上のことは話させなかった。
「面倒ですね」
ある日。
アベスが言った。
アルスが見る。
「何が」
「毎回違う道を通ることです」
「嫌?」
アベスは考える。
「……少し」
「そう」
アルスは歩く。
「でも我慢しな」
「はい」
「今はね」
アベスが横へ並ぶ。
「いつまでですか」
「知らないよ」
「……そうですか」
アルスは。
少しだけ。
歩く速度を落とした。
*
季節が変わった。
アベスは。
初めて。
自分から服を選んだ。
「それ?」
アルスが聞く。
「はい」
「昨日もそれ着てたろ」
「好きです」
アルスの口が止まる。
「……そう」
それ以上。
何も言わなかった。
*
また。
季節が変わった。
アベスが風邪を引いた。
最初は。
本人も気づいていなかった。
「アベス」
「はい」
「顔赤くない?」
「分かりません」
アルスが額へ手を当てる。
「熱あるじゃないか!」
「そうですか」
「そうですかじゃないよ!」
布団へ押し込む。
「今日は寝てな」
「でも皿が」
「いい!」
「はい」
「水飲んだ?」
「まだです」
「飲みな!」
水。
薬。
濡らした布。
アルスは。
何度も額を触った。
夜。
アベスが。
毛布の中から言った。
「アルスさん」
「何」
「寒いです」
アルスの動きが止まる。
「……寒い?」
「はい」
「分かった」
毛布をもう一枚。
掛ける。
「そういうの」
アルスが言った。
「ちゃんと言いな」
「言っていいんですか」
「言わなきゃ分からないだろ!」
「……はい」
「痛いとか」
「はい」
「苦しいとか」
「はい」
「食べたくないとか」
「はい」
「そういうのは全部言え」
アベスは。
少し考えた。
「分かりました」
翌朝。
熱は少し下がった。
*
さらに時間が過ぎた。
一つ目の部屋を出た。
見つかったからではない。
向かいの住人が。
何度もアルスへ話しかけるようになったから。
「悪い人ではないと思います」
アベスが言った。
「知ってるよ」
「では、なぜ引っ越すんですか」
「悪い奴じゃないからだよ」
アベスには。
意味が分からなかった。
アルスは説明しなかった。
*
二つ目の町。
アベスは。
少しだけ大きくなった。
声も。
少し変わった。
買い物へ行けば。
欲しいものを一つくらいなら。
自分で選べる。
「どっち」
「……こっち」
「理由は?」
「こっちの方が甘いので」
「そう」
以前なら。
それだけで驚いた。
今は。
アルスも。
普通に籠へ入れるようになった。
*
ある日。
「今日は外に出る?」
アルスが聞いた。
アベスは窓を見る。
雨。
少し考える。
「……今日は、出たくありません」
「そう」
アルスは靴を履く。
「じゃあ留守番」
「アルスさんは行くんですか」
「食べるものないだろ」
「僕も行きます」
「出たくないんじゃなかったの」
「……」
アベスが止まる。
アルスは笑った。
本当に。
ほんの少しだけ。
「どっちだい」
アベスは。
しばらく考えて。
「……一緒に行きます」
「じゃあ傘持ちな」
「はい」
*
また。
冬が来た。
今度の風邪は。
アベス自身が先に言った。
「アルスさん」
「何」
「頭が痛いです」
アルスが振り返る。
「いつから」
「朝から」
「早く言え!」
「今言いました」
「そういう意味じゃない!」
額を触る。
「……熱あるね」
「寝ますか」
「寝な」
「はい」
薬を飲む。
水を飲む。
眠る。
病院には。
行かなかった。
薬はアルスが買ってきた。
それで。
数日後には治った。
*
さらに。
時間が過ぎた。
二つ目の町も離れた。
三つ目。
四つ目。
長くいられた場所もあった。
数週間しかいなかった場所もあった。
理由は。
大したものではない。
近所の人間に顔を覚えられた。
大家が話好きだった。
夜に知らない車が止まった。
アルスが。
なんとなく嫌だった。
それだけ。
「またですか」
アベスが聞いたこともある。
「まただよ」
「ここ、嫌いじゃありません」
「私もだよ」
「では」
「嫌いじゃなくても」
アルスは荷物をまとめた。
「出なきゃいけない時もある」
アベスは。
しばらく。
部屋を見ていた。
「……嫌です」
アルスの手が止まる。
初めて。
引っ越すことを。
はっきり拒んだ。
「……そう」
アルスは。
荷物を詰める。
「私も嫌だよ」
それでも。
二人は出た。
*
季節は。
一度だけではなく。
何度も変わった。
春。
夏。
秋。
冬。
そして。
また春。
アベスは。
知らない天井の下で眠ることにも慣れた。
新しい町に着けば。
最初に窓を見る。
次に。
近くの店を見る。
最後に。
「甘いの売ってますか」
そう聞くようになった。
「まず食料だろ」
「それも必要です」
「それも、ねえ」
アルスは呆れる。
でも。
だいたい。
買った。
*
アベスは。
何度か病気になった。
熱。
腹痛。
風邪。
怪我もした。
転んで膝を擦りむいた時には。
自分から言った。
「痛いです」
「見れば分かるよ」
「言うものだと言われたので」
アルスは。
少し黙った。
「……そうだったね」
傷を洗う。
「染みるよ」
「嫌です」
「我慢しな」
「はい」
「でも嫌って言うのはいい」
「……はい」
*
いつからだったか。
アルスは。
アベスへ。
「帰るよ」
と言うようになっていた。
最初は。
「戻るよ」
だった。
その違いに。
アルス自身は。
気づいていなかった。
*
その間。
遠い場所では。
一人の青年が。
何度も顔を変えていた。
ある街で。
ある人間を見て。
また。
別の場所へ行く。
名前を変える。
声を変える。
誰かの隣へ入り。
誰かを騙し。
誰かの選択を見届ける。
終われば。
次。
また。
次。
身体は。
少しずつ。
遅れ始めていた。
それでも。
青年は。
仕事を続けた。
頭の奥で。
(人間って、みんな同じ?)
「さあね」
(分からないんだ)
「最後まで見てないし」
*
そして。
また。
一年が巡った。
ある朝。
アルスは。
カレンダーを見た。
「……」
指が。
一つの日付で止まる。
アベスが後ろから見る。
「どうしましたか」
「何でもない」
アルスは。
カレンダーを閉じた。
その日は。
もうすぐだった。
夫と。
子どもが。
死んだ日。
アルスは。
何も言わなかった。
ただ。
その夜。
眠る前に。
長い間しまっていた。
二人の写真を。
取り出した。
今回は、アベスとアルスが「逃げながら暮らす」時間を描いた二章です。
第十章でアベスは、
「戻りたくありません」
とはっきり言います。
以前なら、研究所へ戻りたいかと聞かれても、
きっと「分かりません」だったはずです。
さらに、捨てることになった家を見て、
「ここ、好きでした」
とも言えるようになりました。
第十一章では、それがもっと日常になります。
好きな服。
嫌な引っ越し。
痛い。
寒い。
今日は出たくない。
でも、アルスとは一緒に行きたい。
一見すると矛盾しているような答えも出てきます。
でも、人間ならたぶん普通です。
外には出たくない。
それでも一人で残るより、一緒に行きたい。
一つの条件だけでは決まらない。
そして、アルスの言葉もいつの間にか、
「戻るよ」
から、
「帰るよ」
に変わっています。
二人とも、その違いにはまだ気づいていません。
一方で、遠くではイースもまだ人間を見ています。
「人間って、みんな同じ?」
そう聞かれても、
「最後まで見てないし」
としか答えられない。
この言葉も、後で少し大きな意味を持ってきます。




