アベス編⑤ 名前のある日々
アルスとの生活は続いていた。
水を飲む。
皿を洗う。
寒ければ、窓を閉めてもらう。
そして。
「……好きかもしれません」
何を聞かれても「分かりません」と答えていた0に、少しずつ自分の言葉が増えていく。
そんなある日。
アルスは、0が名前ではなく番号で呼ばれていることに気づく。
仮でもいい。
嫌になったら変えてもいい。
そうして少年は、一つの名前をもらう。
――アベス。
それから数か月。
何でもない毎日が積み重なっていく。
だが。
処分されたはずの0が生きていることを、研究所の人間が見つけてしまう。
第八章 名前
次の日。
0が目を覚ますと。
机の上に。
コップが一つ置かれていた。
水が入っている。
0はそれを見る。
アルスを見る。
アルスは台所に立っていた。
「……何」
「これは」
「水だよ」
「僕のですか」
「他に誰がいるんだい」
0はコップを持った。
一口。
飲む。
「ありがとうございます」
「……」
アルスの眉が動く。
0は気づいて。
少し考えた。
「……」
「何だい」
「言わない方がいいですか」
アルスの手が止まった。
「何を」
「ありがとうございます」
「……」
昨日。
礼なんか言うな。
そう言った。
0は覚えている。
アルスは顔をしかめた。
「好きにしな」
「分かりました」
「それもいちいち聞くな」
「はい」
「……」
アルスは深く息を吐いた。
「面倒くさいね、あんた」
0は水を飲んだ。
数日後。
アルスは夕食を作っていた。
鍋。
皿。
一枚。
料理を盛る。
それから。
手が止まった。
「……」
もう一枚。
皿を出す。
自分でも。
出してから気づいた。
「……何やってんだか」
料理を盛る。
二人分。
0はいつもの場所に座っていた。
「食べな」
「はい」
二人で食べる。
会話はない。
ただ。
以前より。
沈黙が少しだけ長く感じなくなっていた。
0が食べ終える。
皿を見る。
アルスを見る。
「何」
「これは、どこへ」
「流し」
「はい」
立つ。
皿を運ぶ。
置く。
アルスが見る。
「それだけ?」
0が振り返る。
「何ですか」
「いや」
アルスは少し考えて。
「……洗える?」
「分かりません」
「でしょうね」
立ち上がる。
「見てな」
水を出す。
洗剤。
スポンジ。
「こう」
皿を洗う。
0は見ている。
「やってみな」
皿を渡す。
0が受け取る。
スポンジを持つ。
「これで」
「そう」
擦る。
「そこも」
「はい」
「力入れすぎ」
「はい」
「割るよ」
「はい」
「返事ばっかりだね」
0は少し手を緩めた。
アルスが横から見る。
「……まあ、そんなもん」
0は皿を見る。
「できました」
「そうだね」
ほんの一瞬。
アルスの口元が動いた。
でも。
すぐ消えた。
また数日。
朝。
アルスが窓を開ける。
冷たい風。
0が少しだけ肩を縮めた。
アルスが見る。
「寒い?」
0は。
前より短く考えた。
「……少し」
「じゃあ閉める?」
「はい」
アルスが閉める。
0はその様子を見る。
「何」
「前も、閉めてもらいました」
「覚えてるよ」
「そうですか」
「私を何だと思ってんだい」
「アルスさんです」
「……そうじゃない」
0は首を傾げた。
アルスは諦めた。
食事。
二つの皿。
いつの間にか。
毎日そうなっていた。
「何が食べたい?」
ある日。
アルスが聞いた。
0の動きが止まった。
「……」
「聞いただけだよ」
「分かりません」
「そう」
それで終わった。
次の日。
「今日は何食べたい?」
「分かりません」
「はいはい」
また次。
「肉と魚なら?」
0は考える。
「……どちらでも」
「じゃあ魚」
「はい」
その次。
「パンと米」
「……」
「どっち」
長い。
アルスは待った。
催促しない。
0は二つを思い浮かべる。
「……パン」
アルスの手が止まる。
「パン?」
「はい」
「そう」
それだけ。
でも。
その日の朝はパンになった。
数週間。
0は。
少しずつ。
答えるようになった。
寒い。
少し。
暑い。
まだ大丈夫。
外に出る?
「……はい」
今日は家にいる?
「……こっちで」
何でもない。
小さなことばかり。
アルスは。
それを褒めなかった。
喜ばなかった。
ただ。
聞いた。
そして。
答えが出るまで。
待った。
ある日。
買い物から帰ったアルスは。
袋を机へ置いた。
「甘いの買ってきたよ」
0が見る。
「甘いの」
「食べる?」
0は少し考える。
「はい」
小さな焼き菓子。
二つ。
アルスが一つ渡す。
0が食べる。
一口。
止まる。
「何」
「……」
もう一口。
「どうした」
0は菓子を見る。
「これ」
「うん」
「……好きかもしれません」
アルスが。
止まった。
「……そう」
「はい」
「じゃあ食べな」
「はい」
0は食べる。
アルスは。
何故か。
少しだけ目を逸らした。
その夜。
アルスは。
ふと。
0を見た。
「ねえ」
「はい」
「いつまで0って呼べばいいんだい」
0が顔を上げる。
「僕は0です」
「それ番号だろ」
「はい」
「名前じゃない」
「名前」
「そう」
0は考える。
「必要ですか」
アルスは言葉に詰まった。
「……人と暮らすなら、呼ぶ時困るだろ」
「0でも呼べます」
「そういう問題じゃない」
「そうですか」
「そうだよ」
アルスは苛立ったように頬杖をつく。
「名前くらい……」
そこで。
止まる。
自分がつけるのか。
この子に。
夫と子どもを殺した。
この子に。
「……」
0は待っている。
「アルスさん」
「何」
「名前は」
少し。
胸が痛んだ。
「……私が決めるのも違うか」
「では誰が決めますか」
「自分で決めな」
0が黙る。
「……」
「また分からない?」
「はい」
「だろうね」
アルスは天井を見る。
しばらく。
考える。
「じゃあ」
一度。
0を見る。
「仮でいい」
「仮」
「嫌になったら変えればいいんだよ」
0の目が僅かに動く。
「変えていいんですか」
「名前なんてね」
アルスは肩をすくめた。
「自分のなんだから、好きにしな」
「一回決めたって、変えていい」
0は。
その言葉を。
しばらく考えた。
「……」
アルスは待つ。
そして。
やがて。
0が聞いた。
「アルスさんが決めるのは、嫌ですか」
アルスの顔が止まった。
「……なんで私なんだい」
「分かりません」
「またそれか」
「でも」
一拍。
「アルスさんが呼ぶので」
アルスは。
何も言えなかった。
視線を逸らす。
「……勝手なこと言うね」
「すみません」
「謝るな」
「はい」
「……」
少し。
長い沈黙。
アルスは。
やがて。
小さく呟いた。
「アベス」
0が顔を上げる。
「……何ですか」
「名前」
「僕の?」
「仮だよ」
アルスは目を合わせない。
「嫌なら変えな」
0は。
その音を。
口の中で確かめる。
「アベス」
「そう」
「……」
しばらく。
黙る。
アルスが横目で見る。
「嫌?」
0は。
ほんの少し。
考えて。
「……嫌ではありません」
アルスは。
小さく鼻を鳴らした。
「じゃあ、とりあえずそれでいい」
「はい」
アルスは立ち上がる。
台所へ向かう。
その背中へ。
「アルスさん」
「何」
新しい名前で。
初めて。
呼ばれるのを待つように。
0――
アベスは。
アルスを見た。
アルスは振り返らない。
ただ。
「何だい、アベス」
そう答えた。
少年は。
ほんの少しだけ。
目を見開いた。
第九章 数か月後
アベスと呼ばれるようになってから。
数か月が過ぎた。
何かが劇的に変わったわけではない。
朝になれば起きる。
食事をする。
皿を洗う。
アルスに言われれば買い物を手伝う。
夜になれば眠る。
そんな日が。
ただ。
何度も繰り返された。
最初の頃。
アルスは何を聞いても。
だいたい同じ答えを返されていた。
――何が食べたい?
分かりません。
――外行く?
分かりません。
――寒い?
分かりません。
それが。
いつからだったか。
少しずつ。
変わった。
――何が食べたい?
長い沈黙のあと。
――……甘いの。
アルスは笑わなかった。
「そう」
それだけ言って。
次の日。
小さな焼き菓子が机に置かれていた。
――今日は外行く?
「……行きたいです」
――寒い?
「少し」
――窓閉める?
「はい」
――こっちと、こっち。
「……こっちで」
まだ。
答えられないことの方が多い。
でも。
全部が「分かりません」ではなくなった。
同じアベスでも、前と同じではなかった。
アルスも。
少し変わった。
パンを投げなくなった。
水を置くことに理由をつけなくなった。
食事は最初から二人分作るようになった。
毛布も。
いつの間にか。
床ではなく。
小さな寝床になった。
それでも。
優しくなったわけではない。
「アベス、皿」
「はい」
「返事する暇あるなら持ってきな」
「はい」
「だから返事じゃなくて」
アルスが睨む。
アベスは少し考えた。
皿を持ってくる。
「……そう。それでいい」
そんな毎日だった。
時々。
アルスは。
アベスの右手を見る。
本人が気づかない時だけ。
あの日。
夫を。
子どもを。
奪った手。
今は。
皿を洗う。
パンを持つ。
買い物袋を持つ。
焼き菓子を少しずつ食べる。
その度に。
胸の奥が。
ぐちゃぐちゃになる。
許したわけではない。
忘れたわけでもない。
たぶん。
一生。
忘れない。
それでも。
「アルスさん」
「何」
「これ、どこですか」
「上の棚」
「届きません」
「椅子使いな」
「はい」
「落ちんなよ」
「はい」
そんなことを。
口にするようになった。
それが。
自分でも。
よく分からなかった。
指輪は。
まだ使われていなかった。
アベスは時々。
それを取り出して眺める。
銀色の輪。
何のためにあるのか。
まだ分からない。
けれど。
捨てもしない。
「それ、まだ持ってんの」
アルスが聞いた。
「はい」
「好きなの?」
アベスは考える。
「……分かりません」
「そこはまだ分かんないのかい」
「はい」
アルスは鼻で笑った。
「まあいいよ」
アベスは指輪を見る。
「アルスさん」
「何」
「好きじゃなくても、持っていていいですか」
アルスは少しだけ止まった。
「いいんじゃない」
「そうですか」
「持ってたいんだろ?」
アベスは。
指輪を見る。
「……はい」
「なら、それでいいよ」
アベスは。
指輪をポケットへ戻した。
その日も。
いつもと変わらないはずだった。
「アベス」
「はい」
「買い物行くよ」
アベスが立ち上がる。
「何を買いますか」
「野菜。あと肉」
「甘いのは?」
アルスの足が止まった。
振り返る。
「……」
アベスも止まる。
「何ですか」
アルスの口元が。
ほんの少しだけ動いた。
「自分から言うようになったね」
「駄目ですか」
「誰も言ってないだろ」
「はい」
「一個だけだよ」
「はい」
「高いのは駄目」
「分かりました」
「それと」
アルスが靴を履く。
「自分で選びな」
アベスは。
少しだけ考えて。
「はい」
答えた。
街は。
研究所とは違った。
人が多い。
音も多い。
匂いも多い。
アベスはアルスの少し後ろを歩く。
「離れんなよ」
「はい」
「迷子になっても知らないからね」
「迷子とは?」
「……そこからかい」
アルスはため息をついた。
「私が見えなくなること」
「では離れません」
「そうしな」
店先。
色の違う菓子が並んでいる。
アベスが止まった。
「どれ」
アルスが聞く。
以前なら。
分かりません。
そう答えていただろう。
アベスは。
一つを見る。
もう一つを見る。
しばらく迷って。
「……こっち」
小さな菓子を指した。
「それ?」
「はい」
「じゃあ持ちな」
アベスが取る。
アルスは先へ進む。
アベスも。
その後を追う。
その時だった。
反対側の通り。
一人の男が。
足を止めた。
「……」
買い物袋を持った女。
その隣。
少年。
男は。
少年の顔を見た。
一度。
通り過ぎようとする。
だが。
止まる。
振り返る。
少年が。
女へ何かを見せていた。
女が。
「それ買うんだろ。落とすなよ」
と。
何でもないように言う。
「……0?」
男が。
小さく呟いた。
アベスには聞こえなかった。
アルスにも。
「何」
アルスが聞いた。
「何でもありません」
「なら行くよ」
「はい」
二人は歩いていく。
男は。
その背中を見ていた。
アベス。
その名前を。
男は知らない。
知っているのは。
一つだけ。
研究所で。
処分されたはずの番号。
その日の夕方。
研究所。
「報告があります」
ゴイは端末から目を上げなかった。
「何だ」
「0を確認しました」
指が。
止まった。
「場所は」
「市街地です」
「単独か」
「いいえ」
研究員は少し迷った。
「女と一緒でした」
ゴイが顔を上げる。
「女?」
「以前、通常環境試験に参加していた――」
ゴイの目が細くなる。
「アルスか」
「はい」
数秒。
沈黙。
「0は?」
「生活しているように見えました」
「……」
「処分しますか」
ゴイは答えなかった。
端末を閉じる。
「女を確保しろ」
「アルスを?」
「ああ」
「0は」
「まだ触るな」
研究員が黙る。
ゴイは。
淡々と言った。
「まず、どこにいるか吐かせろ」
数か月続いた。
何でもない毎日は。
その日。
見つかった。
今回は、「0」が「アベス」になる二章です。
第八章で大きいのは、名前そのものよりも、
「嫌になったら変えていい」
「一回決めたって、変えていい」
という部分だったりします。
一度決めたから。
一度そうだったから。
だから、ずっと同じでなければならない。
そういうものではない。
そして数か月後。
アベスは同じアベスのまま、
少しずつ違う答えを出すようになっています。
「分かりません」だった少年が、
「甘いの」
「行きたいです」
「こっちで」
と答える。
指輪についても、
まだ好きかどうかは分からない。
でも、
「持ってたいんだろ?」
と聞かれれば、
「……はい」
と答えられるようになりました。
アルスも同じです。
許したわけではない。
忘れたわけでもない。
夫と子どもを奪った右手を見れば、今でも苦しい。
それでも、その同じ手が今は皿を洗って、
パンを持って、
買い物袋を持っています。
何でもない毎日の中で、
二人とも少しずつ変わりました。
そして最後。
その何でもない毎日が、研究所に見つかります。




