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『KillerWorld ―七つ目の答え―』  作者: ザクロ
アベス編

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アベス編④ 殺せない

研究所を逃れた0は、家族を失ったアルスの家へついていく。


だが、アルスが0を許したわけではない。


夫を殺した。

子どもを殺した。


そう思えば、憎む理由はいくらでもある。


夜。


眠る0を前に、アルスは包丁を握った。


殺していいはずだった。


それなのに。


振り下ろすことが、できない。


憎しみも。

悲しみも。

許せないという気持ちも。


何一つ消えないまま。


それでも、一つの手が違うことをする。

第七章 殺せない


家に着いても。


アルスは、何も言わなかった。


玄関を開ける。


入る。


0も。


少し遅れて入った。


それだけ。


アルスは振り返らない。


「……」


0は玄関に立ったまま。


どうすればいいのか分からなかった。


靴を脱ぐ。


以前。


ここへ来た時と同じように。


けれど。


家の中は。


以前とは違った。


静かだった。


あまりにも。


テーブル。


三つの椅子。


そのうち二つは。


もう。


誰も使わない。


アルスは見ないようにした。


台所へ行く。


水を飲む。


0へは何も出さない。


食べ物も。


水も。


毛布も。


何も。


0は部屋の隅に立っていた。


「……何してんだい」


「分かりません」


「座れば」


「どこにですか」


アルスの顔が歪んだ。


「知らないよ」


0は少し考えて。


床へ座った。


壁際。


小さく。


膝を抱えるでもなく。


ただ。


座った。


アルスはそれを見て。


また腹が立った。


「……」


何だ。


その顔は。


どうして。


そんな顔でいられる。


夫を殺した。


子どもを殺した。


なのに。


泣かない。


喚かない。


苦しそうな顔もしない。


まるで。


何もなかったみたいに。


「……出てけ」


アルスが呟く。


0が顔を上げる。


「出てけよ」


声が少し大きくなる。


「何でいるんだよ……」


0は答えない。


「お前がいると……」


喉が詰まる。


「思い出すんだよ……!」


夫。


子ども。


白い床。


壁。


音。


0の右手。


――嫌です。


「……っ」


アルスは顔を背けた。


「もう喋るな」


「はい」


「返事もするな!」


0が黙る。


それも。


腹が立った。


「……なんなんだよ」


アルスは自分でも。


もう。


何に怒っているのか分からなかった。


夜。


0は床で横になっていた。


毛布はない。


枕もない。


ただ。


床。


アルスは寝室にいた。


眠れなかった。


目を閉じる。


子どもの声。


目を開ける。


夫の顔。


目を閉じる。


白い壁。


また。


開ける。


「……」


時計の音だけがする。


一定に。


何度も。


何度も。


アルスは起き上がった。


台所へ行く。


引き出しを開ける。


包丁。


一本。


手に取る。


重い。


その重さに。


指が震えた。


「……」


何をしているのか。


分かっていた。


0を。


殺す。


それだけ。


あの子が。


夫を殺した。


あの子が。


子どもを殺した。


なら。


殺していい。


殺して。


いいはずだ。


「……そうだよ」


小さく呟く。


「いいんだよ……」


誰かに。


許可を求めるように。


廊下を歩く。


一歩。


一歩。


足音を立てないように。


0は。


床に寝ていた。


横向き。


眠っている。


呼吸は小さい。


顔は。


いつもと変わらない。


何もない。


人形みたいな顔。


アルスは。


包丁を握る。


「……」


一歩。


近づく。


0は起きない。


こんなに近くに。


人がいるのに。


気づかない。


研究所にいた頃。


ずっと。


命令されれば起きて。


命令されれば眠って。


それだけだったからなのか。


そんなこと。


どうでもいい。


アルスは0の横へ立った。


包丁を。


両手で持つ。


刃先を。


下へ向ける。


胸。


ここへ。


落とせばいい。


刺せばいい。


何度も。


ゴイにしたように。


「……」


腕を上げる。


震える。


「殺してやる……」


声が掠れる。


「お前なんか……」


0は。


眠っている。


「お前さえ……」


腕を。


さらに上げる。


「お前さえいなければ……!」


振り下ろそうとした。


その時。


0の指が。


小さく動いた。


眠ったまま。


手のひらが。


少しだけ開く。


アルスの腕が止まった。


「……」


小さな手。


眠った顔。


閉じた目。


その瞬間。


別の顔が。


重なった。


――母さん。


アルスの息が止まる。


「……っ」


違う。


違う。


目の前にいるのは。


あの子じゃない。


自分の子どもじゃない。


殺した側だ。


「違う……」


包丁を握り直す。


「違うだろ……!」


腕を上げる。


でも。


下ろせない。


0の寝顔を見る。


幼い。


何も知らない顔。


あの日。


子どもが眠っていた時と。


似ていた。


「やめろ……」


誰に言ったのか。


分からない。


「そんな顔するなよ……」


0は起きない。


「お前が……」


腕が震える。


「お前が殺したんだろ……!」


涙が出た。


「なのに……」


刃先が揺れる。


「なんで……」


息が。


うまく吸えない。


「なんで……」


包丁が。


手から落ちた。


床へ。


乾いた音。


0の身体が。


僅かに動いた。


それでも。


目は開かない。


アルスは。


その場に崩れた。


「……なんで」


両手で顔を覆う。


「なんで……」


声が漏れる。


止められない。


「なんで、あんたが生きてるんだい……」


肩が震える。


「なんで……」


夫はいない。


子どももいない。


なのに。


0は。


ここにいる。


「なんで私が……」


息を吸う。


泣く。


「なんで……」


もう。


言葉にならなかった。


床に落ちた包丁の横で。


アルスは。


声を殺すこともできず。


ただ。


泣き崩れた。


朝。


アルスは。


台所の椅子に座っていた。


眠っていない。


泣き疲れて。


いつの間にか。


夜が終わっていただけだった。


床には。


まだ包丁が落ちていた。


拾っていない。


触りたくなかった。


少し離れた場所。


0が目を開ける。


「……」


身体を起こす。


アルスを見る。


次に。


床の包丁を見る。


また。


アルスを見る。


「見るな」


0が視線を外した。


アルスは両手で顔を擦る。


目が痛い。


頭も重い。


「……」


静かだった。


また。


腹が立つくらい。


静かだった。


アルスは立ち上がる。


包丁を拾う。


流しへ放り込む。


金属音。


0の肩が僅かに動いた。


「……何」


「何も」


「なら見んな」


「はい」


また。


静かになる。


昼を過ぎても。


0は何も言わなかった。


アルスも。


何も与えなかった。


水も。


食べ物も。


昨日から。


何も。


それでも。


0は要求しない。


台所にも来ない。


冷蔵庫も開けない。


ただ。


そこにいる。


アルスは何度も。


横目で見た。


その度。


腹が立った。


「……」


夕方。


アルスがパンを取り出す。


一つ。


自分の分だけ。


袋を開ける。


食べようとして。


止まる。


0が見ている。


「何」


「何でもありません」


「欲しいの」


「分かりません」


「……」


アルスはパンを机へ置いた。


「何か食べたのかい」


「いいえ」


眉が動く。


「昨日から?」


「はい」


「腹、減らないの」


0は少し考える。


「分かりません」


「……なんで言わない」


「何をですか」


「腹減ったとか」


「……」


0は本当に分からない顔をしていた。


「言うものなんですか」


アルスの手が止まった。


「……」


一瞬。


研究所が浮かぶ。


食べろ。


座れ。


寝ろ。


止まれ。


来い。


選べ。


ずっと。


誰かに言われて。


それから動いていた。


「……馬鹿」


小さく。


吐き捨てる。


0は何も言わない。


アルスは袋から。


もう一つ。


パンを取り出した。


0の前へ。


投げる。


机の上を滑って止まる。


「食べな」


0がパンを見る。


アルスを見る。


「いいんですか」


「知らないよ」


「……」


「食べるなら食べろ」


0はパンを取った。


袋を開ける。


一口。


食べる。


ゆっくり。


噛む。


「……」


もう一口。


アルスは見ないようにした。


「ありがとうございます」


アルスの顔が歪む。


「礼なんか言うな」


0の手が止まる。


「はい」


「……それもやめろ」


0が黙る。


アルスは額を押さえた。


「もう……」


どうすればいい。


何を言えばいい。


何を言われても。


腹が立つ。


でも。


何も言われなくても。


腹が立つ。


「食べろよ」


0がまたパンを食べる。


アルスも。


自分のパンを口へ運ぶ。


味は。


ほとんど分からなかった。


夜。


0は昨日と同じ場所へ座った。


アルスは寝室へ行こうとして。


止まる。


床を見る。


硬い。


冷たい。


「……」


押し入れを開ける。


毛布。


一枚。


取り出す。


そのまま。


数秒。


立っていた。


そして。


0の方へ投げた。


毛布が顔にかかる。


「……」


0が外す。


「何ですか」


「見れば分かるだろ」


「毛布です」


「じゃあ聞くな」


「はい」


「……」


アルスは苛立ったように舌打ちした。


「寒いんだよ」


0が自分を見る。


「僕がですか」


「知らない」


「……」


「使いたきゃ使え」


0は毛布を見る。


手で触る。


それから。


身体へ掛けた。


「……」


アルスは寝室へ向かう。


背後から。


「アルスさん」


足が止まる。


「呼ぶなって言っただろ」


「……」


0が黙る。


数秒。


「何」


返事はない。


「何なんだよ」


0は迷った。


それから。


「……暖かいです」


アルスの肩が。


ほんの少しだけ揺れた。


「……そう」


それだけ言って。


寝室の扉を閉めた。


暗い部屋。


アルスは布団へ入る。


目を閉じる。


昨日。


包丁を持った手。


眠っていた0。


小さな手。


子どもの顔。


そして。


さっき。


パンを食べる姿。


毛布を掛ける姿。


「……」


涙が出た。


でも。


昨夜みたいには。


泣かなかった。


布団の中で。


小さく。


息を吐く。


「……何やってんだろうね」


誰も。


答えなかった。


昨夜。


包丁を握った手が。


今夜は。


毛布を投げた。


誰も。


答えなかった。

第七章は単独です。


この章で描きたかったのは、「許した」ではありません。


アルスは0を憎んでいます。


夫も子どもも帰ってこない。

0の顔を見るだけで思い出す。

殺したいと思う理由も消えていません。


実際に包丁まで持ちます。


それでも、殺せなかった。


そして翌日。


同じアルスがパンを渡し、

夜には毛布を渡します。


昨夜、包丁を握った手が。

今夜は、毛布を投げた。


人間が一度した選択や、

一度観測された感情だけで、

その次まで決められるのか。


この問いは、まだここでは答えません。


ただ、この一日だけでも。


同じ人間が、同じまま、

違うことをする。


その最初の形になっています。

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