アベス編① 五つと0
五つの記録を前に、ゴイはまだ見つからない「あと二つ」を探していた。
その傍らで、イースは一人の少年を見ている。
名はない。
欲しいものも、嫌いなものも分からない。
何を聞かれても「分かりません」と答える、0と呼ばれる少年。
選べないのか。
それとも、まだ選ぶものを持っていないだけなのか。
白い研究室の中で、0に初めて小さな変化が生まれ始める。
第一章 五つ
リセア共和国。
医療、生体工学、基礎研究への投資を早くから進めてきた国だった。
都市へ行けば、学校があり。
店があり。
住宅街があり。
朝になれば人が仕事へ向かい、夕方には家へ戻る。
他の国と大きく変わらない。
人が暮らすための場所だった。
そのリセア共和国の内陸部に。
一つだけ。
街とは呼ばれない区域があった。
ヘリクス特別研究区。
国の直轄管理下に置かれた、研究のための区画。
外周を囲う壁。
限られた出入口。
まっすぐに引かれた道路。
低い白色の建物。
建物には名前より番号が振られ。
案内板に並ぶのも、店や学校ではなく。
研究棟。
管理棟。
保管棟。
居住棟。
そして。
立入区分。
必要なものだけが配置されていた。
研究区を出れば。
普通の街がある。
パンを売る店も。
家族が暮らす家も。
子どもが通う学校もある。
けれど。
研究区の奥から、それを見ることはできない。
ここは。
人が暮らすためではなく。
結果を出すために作られた場所だった。
その中央部。
白い研究棟の一室で。
報告は、いつも通りだった。
青年は椅子へ浅く腰掛けたまま、机の向こうのゴイへ必要なことだけを話していた。
メリカの状態。
マリが消えたこと。
最後に何を言い、何を選んだのか。
青年自身が何を思ったのかは、一つも混ぜなかった。
「――で、終わり」
ゴイは返事をしない。
手元の記録へ淡々と文字を加えていく。
かり。
かり。
乾いたペン先の音だけが部屋に残る。
青年はその音を聞きながら、右手を持ち上げた。
指を開く。
薬指が、少し遅れた。
握る。
今度は小指が遅れる。
青年はしばらく自分の手を眺めていた。
右脚も同じだった。
声も、ときどき戻るのが遅い。
顔はもっと曖昧になった。
どこからが借り物で、どこまでが自分だったのか。
以前なら考えなくても分かったことを、最近は考えなければならない。
青年は小さく笑った。
「ねえ、先生」
「何だ」
ゴイは記録から目を上げない。
青年は右手を軽く振った。
「あと僕、どれくらい持つかな」
ペンの音が止まった。
ほんの数秒。
「無理だ」
青年の右手が止まる。
それ以上、何も聞かなかった。
顔だけを上げる。
白い天井。
何度も見た灯り。
いつもと何も変わらない研究所の天井。
「……そっか」
少しだけ長く、それを見た。
「終わるのか」
右手を膝へ落とす。
そして。
「なら、仕方ないね」
口元が、ゆっくり上がった。
悲しそうでもない。
怯えてもいない。
諦めた顔ですらなかった。
何か面白いものを見つけた時と同じように。
青年は、不敵に笑った。
ゴイは何も言わない。
青年も、それ以上は聞かなかった。
もう、聞く必要がなかった。
*
青年がフードを拾い、立ち上がろうとした時だった。
机の上で、紙が鳴った。
ゴイが何枚かの記録を乱暴に揃えている。
ほんの僅かな動きだった。
けれど、青年は足を止めた。
ゴイが同じ資料を二度も触る。
珍しい。
「先生」
「何だ」
「機嫌悪い?」
「悪くない」
「そっか」
青年は信じていない顔で笑った。
そのまま机へ近づき、ゴイが押さえていた一番上の紙を勝手に抜き取る。
「触るな」
「もう触った」
一枚目。
ネミティブ。
二枚目。
菅原。
カルロス。
ルウ。
メリカ。
五枚。
青年は立ったまま、一枚ずつ眺めた。
能力。
行動。
欲求。
選択。
何を失い、何へ手を伸ばしたのか。
「……ふーん」
紙を一枚戻す。
また取る。
今度は少しだけゆっくり見る。
「五つ」
「ああ」
ゴイの声は平坦だった。
ただ。
青年には分かった。
五つあることが気に入らないのではない。
「七つあるんだっけ」
「ある」
「でも、五つ」
「確認できているのはな」
青年の口元が少し動いた。
一枚。
二枚。
三枚。
四枚。
五枚。
指先で順番に触れる。
「あと二つ」
「そうだ」
青年は五枚を重ねた。
右手が僅かに遅れ、紙の端がずれた。
左手で直す。
何事もなかったように、もう一度眺める。
「……本当にいないかな」
ゴイの目が上がった。
「何がだ」
青年は五枚の向こうからゴイを見る。
「あと二つ」
「確認できていない」
「うん。聞いた」
「なら何だ」
「別に」
紙を机へ戻す。
「先生が見つけられないなら、相当隠れるの上手なんだろうなって」
「くだらん」
「そうかな」
青年はフードを深く被った。
扉へ向かう。
「イース」
足だけ止める。
「何か気づいたのか」
青年は振り返らなかった。
「まだ」
扉を開く。
一歩外へ出てから、少しだけ笑った。
「でも、本当にいないのかなとは思ってるよ」
扉が閉じた。
*
外は夜だった。
ヘリクス特別研究区には、街のような夜景はない。
低い白色の建物が間隔を空けて並び。
その間を、白い照明が一定の距離で照らしている。
店の看板も。
住宅の窓明かりも。
帰宅する家族の姿もない。
建物の壁にあるのは番号だけだった。
研究所の白い外壁が、暗闇の中で鈍く浮いている。
青年はフードの端を摘み、さらに深く被った。
歩く。
右脚が、ほんの少し遅れる。
気にしない。
また歩く。
しばらくして。
(七つ、か)
「なに」
(昔から、人間は自分たちの悪いところに名前をつけるのが好きだね)
「急にどうしたの」
(並べて)
(分けて)
(それから、数える)
青年の歩幅が、ほんの僅かに小さくなる。
「……それが?」
頭の奥の声が笑った。
(七つくらいに)
青年が止まった。
沈黙。
青年は立ったまま、夜道の先を見た。
五枚の記録が頭の中へ戻ってくる。
ネミティブ。
菅原。
カルロス。
ルウ。
メリカ。
五つ。
青年の目が僅かに動く。
一度、自分の右手を見る。
遅れて閉じる指。
借りた顔。
借りた声。
借りた役割。
まだ。
もう少し。
終われない。
「……は」
(その顔。何か見つけたね)
次に浮かんだのは、白い部屋だった。
何を欲しいと聞いても。
何が嫌いと聞いても。
どちらを選ぶと聞いても。
返ってくるのは、いつも同じ。
分かりません。
青年の口元が歪んだ。
「はは……」
(そこまで可笑しい?)
口元を押さえる。
「ちょっと待って」
肩が揺れた。
「ははは……っ」
もう駄目だった。
青年は声を上げて笑った。
夜道の真ん中で。
身体は壊れ始めている。
あとどれだけ持つかも分からない。
それでも。
可笑しくて仕方がなかった。
青年は研究所を振り返る。
遠くなった白い建物。
そこにいる男を思い浮かべる。
「先生、真面目だなあ」
(探す場所を決めたのは、先生だからね)
「いやいや」
まだ笑っている。
「あれだけ探してたのにね」
(教えてあげる?)
「やだよ」
即答だった。
青年は研究所へ背を向ける。
一歩。
右脚が遅れる。
もう一歩。
今度は合わせる。
「せっかくだし、もう少し探しててもらおうよ」
(見つけたものを黙って隠す。君らしいね)
「今さら?」
青年の笑い声に、頭の奥で小さな笑いが重なった。
研究所は、少しずつ遠ざかっていった。
さらに先。
研究区の外周を示す照明が、暗闇の中に細い線を作っている。
その向こうには。
普通の街がある。
今夜も誰かが家へ帰り。
食事をし。
明日の予定を決めている。
青年はそちらを見なかった。
しばらく歩いて。
ふと空を見た。
終わる。
それはもう分かった。
なら。
残っている時間を、何に使うか。
青年は少しだけ考えた。
そして笑う。
「さて」
「最後くらいは、仕事じゃないことしようか」
(役もないのに、何するの?)
「さあね」
青年は歩き出した。
今度は、迷わなかった。
そして青年は――
最後のピースを取りにいった。
KillerWorld ―七つ目の答え―
アベス編 第二章「0」
ヘリクス特別研究区。
中央研究棟。
そのさらに内側。
窓のない適応試験室。
研究区の外には街があった。
人が朝に起き。
何を食べるかを決め。
着る服を選び。
学校や仕事へ向かう。
帰りに店へ寄る者もいる。
今日は帰りたくないと言う者もいる。
夕食に何が食べたいかで揉める家族もいる。
そういう場所が。
同じ国の中にある。
けれど。
この部屋からは見えない。
ここには窓がない。
時計と。
机と。
装置と。
指示だけがある。
白い部屋だった。
壁も。
床も。
天井も。
置かれている机まで、ほとんど同じ色をしている。
その中央に、少年が座っていた。
「0」
呼ばれる。
少年は顔を上げた。
「はい」
それだけだった。
ゴイは机の向こうに立っている。
その隣。
壁へ背中を預けた青年が、退屈そうに欠伸をした。
「始める」
「はい」
ゴイが机の上へ二枚の紙を置いた。
一枚は白。
もう一枚は青。
「選べ」
0は二枚を見る。
白。
青。
しばらく見ていた。
「どちらをですか」
「好きな方だ」
また見る。
数秒。
「分かりません」
「色は認識できるな」
「はい」
「違いも」
「はい」
「なら選べ」
0は黙った。
青年が横から口を挟む。
「先生」
「何だ」
「それ三回目」
「分かっている」
「じゃあ答えも同じじゃない?」
ゴイは青年を見ない。
「0」
「はい」
「どちらでも構わない。取れ」
少年の右手が動いた。
青い紙を取る。
ゴイが端末へ何かを記録した。
青年が小さく笑う。
「今の無しでしょ」
ゴイの指が止まる。
「何故だ」
「好きな方を選ばせたんでしょ?」
「ああ」
「今のは『どっちでもいいから取れ』って命令しただけじゃん」
「青を取った」
「右に近かったからね」
ゴイが0を見る。
「そうなのか」
「はい」
「何故青を選んだ」
「近かったので」
青年が吹き出した。
「ほら」
ゴイは無言で記録を書き換えた。
青い紙はそのまま0の手の中に残っている。
少年は返せとも言われないので、持ったままだった。
*
次は温度だった。
左手。
冷たい金属。
右手。
温かい金属。
「どちらがいい」
「分かりません」
「嫌な方は」
「分かりません」
温度が上がる。
右。
さらに。
0の指先が僅かに赤くなる。
「嫌か」
「分かりません」
また温度が上がった。
青年の視線だけが動く。
0は手を引かない。
「0」
「はい」
「止めたいなら言え」
「はい」
止めない。
ゴイが数値を見る。
「もう一段――」
「先生」
青年が言った。
「何だ」
「それ以上やったら意味なくない?」
「何がだ」
「選択見たいんでしょ」
「ああ」
青年は0の右手を顎で示した。
「そのうち火傷するよ」
「だから何だ」
「痛みにどこまで耐えるか知りたいなら続ければ?」
青年は笑った。
「でも今やってるの、それじゃないでしょ」
ゴイが青年を見る。
「……」
「僕なら止めるけど」
「お前の意見は聞いていない」
「じゃあ続ければ?」
数秒。
ゴイが装置を止めた。
温度が落ちていく。
青年は何も言わなかった。
ただ、少しだけ口元が上がった。
0は右手を見た。
赤くなっている。
「痛いか」
青年が聞く。
0は考える。
「痛い、とは思います」
「嫌?」
また考える。
「分かりません」
「そっか」
青年はそれ以上聞かなかった。
*
別の日。
0は同じ椅子に座っていた。
ゴイは記録を眺めている。
青年は勝手に机の端へ腰掛けていた。
「身体適応に問題はない」
ゴイが言う。
「因子も安定している」
「優秀じゃん」
「だが結果が出ない」
「結果って?」
「選別だ」
青年は片眉を上げる。
ゴイは記録を置いた。
「刺激に対する拒絶が弱い」
「うん」
「執着もない」
「うん」
「欲求反応も極端に低い」
「それも見てれば分かる」
「何を与えても、何を奪っても、大きな差がない」
青年は0を見る。
少年は二人の会話を聞いている。
聞けと言われたわけではない。
でも、耳を塞げとも言われていない。
「0」
青年が呼ぶ。
「はい」
「ここ出たい?」
ゴイの目が動いた。
0は青年を見る。
「どこへですか」
「どこでも」
「戻りますか」
「戻りたい?」
沈黙。
「分かりません」
「外、見たい?」
「分かりません」
「ここ嫌い?」
「分かりません」
青年は少しだけ考えた。
「先生」
「何だ」
「これさ」
「何だ」
「壊れてるんじゃなくて」
青年は0から目を離さない。
「何も作ってないだけじゃない?」
ゴイの眉が僅かに動いた。
「説明しろ」
「だって」
青年は指を折る。
「起きろ」
一つ。
「食べろ」
二つ。
「座れ」
三つ。
「寝ろ」
四つ。
「ずっとそれでしょ」
「管理に必要だ」
「うん」
「それが何だ」
「自分で何か決める必要、一回でもあった?」
ゴイは黙った。
青年は続ける。
「好きなもの選べって言われてもさ」
机に置かれた青い紙をつまむ。
「好きって何か知らなかったら、無理じゃない?」
0は青い紙を見る。
以前の試験で取ったものだった。
何故かまだ机の端に置かれている。
「推測だ」
ゴイが言う。
「なら試せば?」
「何を」
「普通のところ」
青年は紙をくるくると指先で回した。
「命令する人じゃなくて」
一度止める。
「聞く人」
「意味が分からない」
「何食べたい、とか」
青年は肩をすくめた。
「どっちが好き、とか」
少し考える。
「嫌なら嫌って言っていい、とか」
ゴイは0を見る。
0もゴイを見る。
「通常環境への移行か」
「言い方が先生なんだよなあ」
「条件を変えれば結果が出る可能性はある」
「そうそう」
青年は笑った。
「そういうのでいいよ」
ゴイは既に端末へ何かを入力し始めていた。
「管理者が必要だ」
「管理者じゃない方がいい」
「何?」
「決めてくれる人じゃなくて」
青年は青い紙を0の前へ置いた。
「答えるまで待てる人」
0が紙を見る。
「勝手に正解を渡さない人」
ゴイは青年を見た。
「条件が多い」
「僕の玩具だから」
頭の奥で声がした。
(嘘)
青年の眉がほんの少し動く。
「……うるさい」
「何だ」
「独り言」
ゴイは興味を失ったように端末へ戻った。
*
数日後。
0の部屋に、小さな鞄が置かれた。
中には服が数枚。
見たことのない靴。
歯ブラシ。
青年はそれを見て笑った。
「旅行みたい」
「旅行とは何ですか」
「知らない場所に行くこと」
「戻りますか」
「戻りたい?」
0はまた考えた。
「分かりません」
「知ってた」
青年は笑う。
その日の午後。
部屋の扉が開いた。
ゴイではない。
研究員でもない。
普通の女だった。
ヘリクスの白い制服ではない。
研究員用の識別章もついていない。
研究区の外でなら。
どこにでもいそうな服だった。
片手には紙袋。
そこからパンの匂いがする。
白い部屋の中では。
その匂いだけが妙に場違いだった。
女は部屋へ入ると、まず青年を見た。
「この子?」
「僕じゃないよ」
「見れば分かるよ」
「よかった」
女は呆れたように息を吐いた。
それから。
0を見る。
少年は椅子に座ったまま、女を見返した。
女は少し迷ってから、その前へしゃがんだ。
「私と一緒に来るって聞いてる?」
「はい」
「そう」
一度だけ、0の顔を見る。
「嫌だったら言ってね」
0の目が僅かに動いた。
「嫌と言ったら?」
女も少し驚いた。
青年の目だけが細くなる。
女はしばらく考えた。
それから。
「その時は、その時考えるよ」
「戻れますか」
「戻りたい?」
0は答えない。
女も待つ。
数秒。
十秒。
急かさない。
「……分かりません」
「じゃあ」
女は立ち上がった。
「分かるまででいいんじゃない」
青年は壁へ背を預けたまま、その女を見ていた。
頭の奥も静かだった。
少しして。
青年は口元だけで笑った。
「……へえ」
女が振り返る。
「何?」
「別に」
青年は0を見る。
そして、もう一度女を見る。
この人なら。
そう思った。
この時は、まだ。
それがどんな結果を生むのか。
誰も知らなかった。
*
最初に変わったのは、時間だった。
アルスが来る日は、決まって午後だった。
昼を少し過ぎた頃。
研究所の白い廊下に、紙袋の擦れる音がする。
そして。
「こんにちは」
扉が開く。
0はいつも同じ椅子に座っていた。
「こんにちは」
「今日は寒いね」
「はい」
「寒い?」
0は少し考える。
「分かりません」
「そっか」
アルスはそれ以上聞かなかった。
持ってきた袋を机へ置く。
中にはパンが三つ。
「好きなの取っていいよ」
0は袋を見る。
丸いパン。
細長いパン。
砂糖のついたパン。
しばらく。
「どれでもいいです」
「そう」
アルスは一つ取った。
細長いもの。
「じゃあ私はこれ」
もう一つを自分の隣にいた男へ渡す。
「あなたは?」
「何でも」
「親子そろってそれかい」
「親子じゃない」
男が笑う。
少し離れたところで、子どもが砂糖のついたパンへ手を伸ばした。
「あっ」
アルスが止める。
「それ、この子の分」
子どもが0を見る。
「食べないの?」
「分かりません」
「じゃあ半分こする?」
0は黙る。
子どもは返事を待った。
アルスも。
男も。
誰も急かさない。
「……はい」
子どもが笑った。
「じゃあ半分」
手で割る。
片方が少し大きい。
子どもはそれを見比べると、大きい方を0へ差し出した。
「こっち」
「なぜですか」
「ぼく、さっき食べたから」
0はパンを見る。
受け取る。
「ありがとうございます」
子どもはもう自分の分を食べ始めていた。
0も一口かじる。
「どう?」
アルスが聞く。
0は咀嚼する。
「食べられます」
「そういう意味じゃないんだけどね」
アルスは苦笑した。
壁際。
青年が腕を組んだまま見ていた。
(楽しそう)
「研究だからね」
少し間。
(研究って、笑うんだ)
青年の笑みが、ほんの少し止まった。
「……うるさい」
頭の奥で。
小さく笑う声。
青年は無視した。
*
何度か。
同じような時間が続いた。
アルスが来る。
夫が来る。
子どもが来る。
一緒に座る。
食べる。
話す。
帰る。
0は大きく変わらなかった。
笑わない。
泣かない。
寂しがらない。
けれど。
ある日。
青年は気づいた。
時計の針が午後を指す頃。
0が扉を見ていた。
「誰か来る?」
青年が聞く。
「分かりません」
「じゃあ何見てるの」
「……」
0は扉を見る。
「分かりません」
「そっか」
その数分後。
廊下から紙袋の音がした。
青年は何も言わなかった。
ただ、少し笑った。
*
「変化は?」
ゴイが聞いた。
「あるよ」
「数値は」
「ほとんどない」
「なら無い」
「先生って数字好きだよね」
「観測できないものに意味はない」
青年は机の上へ一枚の紙を置いた。
「じゃあこれは?」
頭の奥で。
声が、小さく笑った。
(あ、見えた)
青年は何も返さない。
ゴイが見る。
「何だ」
「昨日」
「だから何だ」
「いつもより三分早く扉見た」
「偶然だ」
「三回目」
ゴイの指が止まる。
「それから」
青年はもう一枚置く。
「これ」
小さな紙片。
子どもが折っただけの、青い紙。
「何だ」
「もらったやつ」
「それがどうした」
「捨ててない」
ゴイは黙る。
「他の物は?」
「興味ないみたい」
「つまり」
「知らない」
青年は肩をすくめた。
「でも先生の言う 何もない よりは、ちょっと面白くなってきたんじゃない?」
ゴイは青い紙を見る。
「再現性を確認する」
「嫌な言い方」
「必要だ」
「壊さないでね」
「何を」
青年は一瞬だけ0の部屋の方を見る。
「せっかく出てきたもの」
ゴイは返事をしなかった。
*
次の試験は。
少し違った。
0の腕には細い管が繋がれていた。
透明な液体が、ゆっくり身体へ落ちていく。
アルスは部屋の外にいた。
ガラス越し。
夫と子どもも近くにいる。
「これ、必要なのかい」
アルスが聞いた。
「適応値の確認です」
研究員が答える。
「前もやっただろ」
「条件が違います」
「この子、震えてるじゃないか」
研究員は端末を見る。
「正常範囲です」
アルスは0を見る。
少年の手が僅かに震えていた。
顔はいつもと変わらない。
青年は0の横にいた。
「どう?」
「何がですか」
「嫌?」
「分かりません」
「痛い?」
「少し」
「止めたい?」
0は考える。
「……分かりません」
ゴイが数値を見る。
「上げる」
研究員が装置へ手を伸ばした。
青年が先にその手を押さえた。
「待って」
「何だ」
ゴイの声。
「このままでよくない?」
「不足している」
「何が」
「反応だ」
「反応出すために壊したら意味ないでしょ」
「壊れない」
「それ、身体の話?」
ゴイの目が青年へ向く。
青年は笑っていた。
「先生が見たいの、身体じゃないよね」
数秒。
ゴイは0を見る。
0は黙っている。
「……五分維持」
研究員が手を引いた。
青年も離す。
「それでいいよ」
「お前が決めることではない」
「結果同じならいいじゃん」
ゴイは答えなかった。
ガラスの向こう。
アルスは青年を見ていた。
笑っている。
いつも通り。
軽い口調。
ふざけているようにしか見えない。
けれど。
あの青年が口を挟むたび。
実験が少しだけ短くなる。
負荷が少しだけ下がる。
それに。
アルスは、もう気づき始めていた。
*
試験が終わったあと。
0は椅子に座っていた。
アルスが水を差し出す。
「飲みな」
「はい」
受け取る。
少し飲む。
「……あんた」
青年が振り返る。
「僕?」
「そう」
「何?」
「毎回ああなのかい」
「何が?」
「惚けるんじゃないよ」
青年は笑った。
「何の話だろ」
「止めてるだろ」
一瞬。
青年の目だけが動いた。
「僕が?」
「そう見える」
「気のせいじゃない?」
「……」
アルスは睨む。
青年は肩をすくめた。
「先生、無駄な実験嫌いだから」
「そういう顔には見えないけどね」
「怖いよね」
「お前もだよ」
「あ、それは初めて言われた」
「嘘つけ」
青年は少し笑った。
0が二人を見る。
「何の話ですか」
「何でもないよ」
アルスが答えた。
青年も、
「そうそう」
と笑う。
0はそれ以上聞かなかった。
*
その日の帰り。
アルスの子どもが、扉の前で立ち止まった。
「これ」
小さな青い紙。
折り目だらけ。
何かの形にしたかったらしいが、途中で諦めたようなもの。
「何ですか」
「知らない」
「知らないものをくれるんですか」
「うん」
「なぜですか」
子どもは少し考えた。
「いらないから」
アルスが頭を叩く。
「こら」
「痛い!」
「人に物あげる時に言うことじゃないだろ」
「でも本当にいらないし」
「……まったく」
0は紙を見る。
「返しますか」
アルスが聞く。
「どちらでも」
「じゃあ自分で決めな」
0は黙った。
紙を見る。
子どもを見る。
アルスを見る。
最後に。
自分の手を見る。
「……持っておきます」
一拍。
頭の奥で。
(今の、近かったからじゃないね)
青年の目が僅かに動いた。
「へえ」
0が青年を見る。
「何ですか」
「別に」
「そうですか」
「うん」
青年は笑う。
その笑いを。
少し離れた場所から。
ゴイが見ていた。
0の手の中にある青い紙。
その視線が。
ほんの少しだけ長く留まった。




