KillerWorld ―イース編―「僕は押しただけ」
最初に青年が置いたのは、たった一枚の地図だった。
本当に存在した小さな変化。
そこへ、ほんの一つ印を加える。
あとは、見つけた者が考え、信じ、自分で選ぶ。
青年は何も命令しない。
ただ、すでにある不満や嫉妬、不安へ名前をつける。
「ラドとネミティブは揉めているらしい」
曖昧な噂は人から人へ渡り、いつしか青年自身も知らない形へ育っていく。
そして、もともと二人の間にあった小さなズレも、少しずつ表へ現れ始める。
ラドはネミティブを止めようとする。
ネミティブは、自分の判断が正しいと証明しようとする。
青年はそのすべてを見ていた。
まだ観察のつもりだった。
まだ、自分は何もしていないつもりだった。
けれど。
銃を構えたネミティブ。
その前にいるラド。
距離も、角度も、指の位置も。
青年には見えていた。
そして――
青年は、ネミティブの背中を押した。
「僕、撃ってない」
「押しただけ」
ラドを殺したのは誰なのか。
その答えを、青年自身が一番分かっていた。
# 第九章 置いたもの
最初に触ったのは。
人ではなかった。
地図だった。
RATの拠点から少し離れた古い市場跡。
屋根の半分は落ちている。
残った鉄骨には、長い雨染みが黒く走っていた。
昼間でも薄暗い。
荷を運ぶ人間が近道として使う。
その程度の場所。
風が抜けるたび、どこかの薄い板が。
かた。
鳴る。
青年は崩れた壁際へ立っていた。
木箱。
その上。
一枚の地図。
紙そのものは何でもない。
北へ抜ける道。
南の橋。
倉庫街。
見張りが立つ場所。
それだけ。
青年は紙を押さえる左手を離した。
右上。
小さな印。
一つ。
(それだけ?)
「それだけ」
(もっと書かないの)
青年は鉛筆を指の間で回した。
「書いたら嘘になるじゃん」
(もう嘘ついてる)
「違うよ」
鉛筆の先。
印を軽く叩く。
「本当に昨日」
とん。
「あそこに一人増えてた」
(でも今日もいるとは限らない)
「そう」
(じゃあ)
青年は地図を見る。
道。
印。
それ以外。
何も足さない。
「だから」
一拍。
「あとは見る人次第」
紙を畳んだ。
それを。
誰でも拾える場所へ置く。
箱の端。
荷物を持つ人間なら。
少し目を落とせば見える。
隠さない。
目立たせもしない。
気づけば。
それだけ。
気づかなければ。
それまで。
青年はその場を離れた。
靴が。
砕けた石を踏む。
じゃり。
「これだけ?」
(何が起きると思う?)
青年は肩をすくめた。
「知らない」
(嘘)
「本当に」
市場跡を出る。
明るさが。
少しだけ戻る。
「僕」
青年は。
片手を上げる。
「未来見えないし」
(でも期待してる)
青年の口元が。
ほんの少し上がった。
「ちょっとね」
* * *
その日の夕方。
RATの拠点。
ネミティブは地図を見ていた。
指。
右上。
小さな印。
「北」
一拍。
「やめた方がいい」
誰かが聞く。
「何で?」
「昨日、見張り増えてる」
「一人だろ?」
「一人増えるってことは」
ネミティブの目が。
地図から離れない。
「何か変わってる」
「でも南は遠いぞ」
「じゃあ自分で決めろ」
ネミティブはそう言った。
少し離れた場所。
ラド。
聞いている。
「北、通す気だったけどな」
ネミティブが顔を上げる。
「何で」
「昨日までは何もなかった」
「今日も同じとは限らない」
「それ言ったら」
ラドが地図へ近づく。
「どこも通れねえよ」
「見えてる危険避けるだけだろ」
「南なら時間食う」
「死ぬよりマシ」
「死ぬって決まってねえ」
「安全って決まってんの?」
一拍。
周り。
数人。
口を閉じる。
青年は。
そこにはいない。
屋根の上。
少し離れた建物。
割れた窓。
その奥。
しゃがんでいる。
下。
二人。
地図。
人の位置。
距離。
全部。
見える。
(始まった)
「普通の話でしょ」
(君、嬉しそう)
青年の指が。
窓枠の欠けた部分を撫でる。
「観察」
(それ便利な言葉だね)
青年の眉が少し動く。
「ゴイみたいに言うなよ」
下。
ラドが地図を指す。
「じゃあお前が決めろ」
「最初からそう言ってる」
「責任取れよ」
「取るよ」
その返事。
ラドが。
ほんの少し。
黙る。
ネミティブは気づかない。
青年は。
気づく。
ラドの顔。
一瞬。
誇らしい。
苛立つ。
不安。
一つではない。
全部。
薄く。
重なっている。
「……行くか」
ラドが言う。
「南?」
「お前がそう言うなら」
ネミティブは地図を畳む。
「俺がそう言うからじゃない」
ラドの眉。
動く。
「何」
「自分で見ろよ」
青年の口元が。
遠くで。
上がる。
「出た」
(何が)
「本人」
* * *
翌日。
南へ回った連中は。
全員戻った。
荷も。
残っている。
怪我人。
なし。
北では。
小さな揉め事。
待ち伏せだったか。
ただの取引だったか。
そこまでは。
分からない。
でも。
結果だけなら。
ネミティブは正しかった。
「兄貴の言う通りだったじゃん!」
若い男。
笑う。
ネミティブは何も言わない。
けれど。
胸が。
ほんの少し。
前へ出る。
ラドも笑った。
「……大したもんだな」
「何が」
「全部」
「別に」
「俺なら」
ラドは。
鼻で息を吐く。
「北通してたかもな」
ネミティブ。
見る。
ラド。
笑う。
「何だよ」
「認めるんだ」
「結果出てんだろ」
青年は。
離れた場所。
その言葉を拾った。
数日前。
自分が。
ネミティブの顔で。
聞いた言葉。
ほとんど同じ。
(嬉しい?)
「何で」
(君の置いたものが動いた)
青年は。
遠くの二人を見る。
「違うよ」
(何が)
「紙置いただけ」
(それを見つけた)
「向こう」
(信じた)
「向こう」
(南を選んだ)
青年は。
ネミティブを見る。
「ネミティブ」
少し笑う。
「僕じゃない」
頭の奥。
少し。
黙る。
(昔)
「また始まった」
(聞く?)
「短いなら」
(昔、一人いた)
「誰」
(目が良くて、何でも見つける奴)
「神?」
(多分)
青年の眉が上がる。
「多分」
(でもね)
声が。
少し楽しそうになる。
(見える奴ほど)
一拍。
(自分の見たものを信じる)
青年は下を見る。
ネミティブ。
周りの人間。
笑っている。
(だから)
声。
静かに。
(全部を変える必要はない)
一拍。
(見せるものを一つだけ選べばいい)
青年は。
ゆっくり笑った。
「それ」
(何)
「君」
青年は。
窓枠から手を離す。
「昔から性格悪いね」
(君も上手い)
「褒めないで」
(嬉しいくせに)
「うるさい」
* * *
次に触ったのは。
人だった。
ただし。
本人には。
何も言わない。
青年は。
一人の少年を見つけた。
RATの周辺を。
出入りしている。
ラドへ懐いている。
ネミティブも。
少し。
尊敬している。
青年は。
市場の端。
少年の前へ。
紙袋を差し出した。
「これ」
少年。
見る。
「何」
「パン」
「何で」
「余った」
「誰」
「通りすがり」
「怪しい」
青年は。
紙袋を引く。
「じゃあ返して」
少年が。
すぐ掴んだ。
「いや、食う」
青年は笑う。
「素直でいいね」
少年が。
袋を抱える。
青年は歩き出す。
三歩。
四歩。
それから。
思い出したように振り返った。
「あ」
「何」
「ラドってさ」
少年の顔。
少し動く。
「ラド兄?」
「最近忙しい?」
「知らね」
「そっか」
青年は。
それだけで。
帰ろうとする。
「何で」
少年の方から。
聞く。
青年が振り返る。
「何が」
「何でラド兄聞くの」
「前、見たから」
「どこで」
「河原」
「誰と」
青年。
一拍。
「ネミティブ」
少年の目が。
少し。
細くなる。
「何話してた?」
「知らない」
「聞いてたんじゃねえの」
「遠かったし」
青年は肩をすくめる。
「でも」
ほんの少し。
視線を外す。
「何か揉めてたようには見えたかな」
少年。
黙る。
青年は。
すぐに足した。
「違うかも」
最後。
「僕、目悪いし」
少年の指が。
紙袋を握る。
紙。
くしゃ。
小さく鳴る。
青年は。
その音だけ聞いて。
離れた。
(目、悪かったっけ)
「良くはないよ」
(嘘)
「全部嘘にしないでよ」
(揉めてた?)
「話してた」
(揉めては)
「ない」
(じゃあ)
青年は。
笑う。
「僕には」
一拍。
「そう見えた」
* * *
夕方。
少年は。
別の少年へ話した。
「最近ラド兄とネミティブ、やべえらしい」
「何が」
「揉めてるって」
「誰が言ってた」
「知らねえ奴」
「何で信じてんだよ」
「でも河原で二人でいたって」
「それだけ?」
少年は。
少し考えた。
「なんかラド兄」
一拍。
「ネミティブに抜かれてるし」
「まあ」
「気にしてんじゃね?」
「あるかも」
青年は。
少し離れた屋台。
飲み物を口へ運ぶ。
ぬるい。
甘い。
味。
ある。
耳。
全部。
拾う。
(増えた)
青年は。
器を置いた。
「僕、何も言ってないよ」
(揉めてたって言った)
「そう見えたって言っただけ」
(同じ)
「違う」
(どう違うの)
青年は。
もう一度。
器を持つ。
「責任」
声が。
笑った。
(最低)
青年も。
少し笑う。
「知ってる」
* * *
数日。
噂は。
まだ。
噂だった。
誰も。
信じ切っていない。
でも。
言葉になったものは。
見る目を変える。
ラドが。
ネミティブへ。
いつも通り。
少し強い口調で何か言う。
誰かが。
怒ってる?
と思う。
ネミティブが。
いつも通り。
短く返す。
誰かが。
反抗してる?
と思う。
何も変わっていない。
関係も。
言葉も。
同じ。
変わったのは。
見る側。
一つ。
解釈が。
増えた。
青年は。
少し離れた場所から。
それを見ていた。
「面白いね」
(何が)
「人って」
青年の指が。
空中で。
少し動く。
「理由があると」
一拍。
「全部それに見える」
(君が理由を置いた)
青年は。
肩をすくめる。
「僕はパン渡しただけ」
(嘘)
「はいはい」
* * *
その頃。
ゴイは。
研究室で。
青年の報告を聞いていた。
「関係は」
「悪くないよ」
「前回と違うな」
「何が」
「お前は」
ゴイは記録を見る。
「ラドはネミティブを使えると思っていると言った」
「うん」
「ネミティブはラドを邪魔だと」
「言ったね」
「今は悪くない?」
青年は。
椅子を。
ゆっくり。
前後へ揺らす。
「そう見える」
ゴイが見る。
「どちらが正しい」
「どっちだろうね」
「ふざけるな」
青年は。
椅子の揺れを止めない。
「観察でしょ?」
一拍。
「観察って」
後ろ。
前。
「変わるもの見るんじゃないの?」
「お前が変えている」
椅子が。
止まった。
青年は。
ゴイを見る。
「証拠は?」
「ない」
青年は笑う。
「じゃあ」
一拍。
「僕じゃないかも」
「イース」
「何」
「お前は」
ゴイの目。
動かない。
「何を見たい」
青年は。
少し。
考える。
「……分からない」
「嘘だ」
「本当」
「ならやめろ」
「何を」
「介入を」
青年は。
ゴイを見る。
「観察しろって言ったの」
一拍。
「君じゃん」
「観察と介入は違う」
「でも」
青年は。
指先で。
椅子の肘掛けを撫でる。
「触らないと」
一拍。
「見えないものあるよ」
ゴイは。
黙る。
青年は。
笑う。
「君もやってるでしょ」
「私は測っている」
「僕も」
「何を」
青年は。
そこで。
少しだけ。
止まった。
答え。
口に出す前。
自分の中に。
もうあった。
「壊れるかどうか」
言った。
その瞬間。
胸の奥。
嫌なものが。
落ちる。
頭の奥。
声。
何も言わない。
青年は。
笑おうとする。
少し。
弱い。
「……冗談」
「そうか」
「信じた?」
「いや」
青年の眉が。
僅かに上がる。
「何で」
ゴイは。
青年を見る。
「お前が今」
一拍。
「笑えていない」
青年は。
黙った。
右手。
指。
僅かに震える。
膝の影へ。
隠す。
「観察力あるね」
「お前ほどではない」
「それ褒めてる?」
「違う」
* * *
帰り。
弱い雨。
街灯。
濡れた路面。
青年は。
傘を持っていなかった。
雨粒が。
髪。
額。
頬。
少しずつ濡らす。
(昔)
「今?」
(うん)
「長い?」
(短い)
「なら」
青年は歩く。
水溜まり。
靴。
ぱしゃ。
(僕はね)
一拍。
(他人が争うのを見るのが好きだったらしい)
青年は。
歩いたまま。
「らしい」
(そこ、引っかかる?)
「本人の記憶なら」
雨。
額から。
鼻筋。
落ちる。
「好きだった、じゃないの」
(だから分からない)
青年は。
返さない。
(でも)
声が。
少し。
暗くなる。
(争わせる時に)
雨。
(嘘を一から作る必要はなかった気がする)
青年の歩幅が。
少し。
遅くなる。
(もうある不満)
一歩。
(もうある嫉妬)
一歩。
(もうある怖さ)
そして。
(そこへ)
一拍。
(名前をつけるだけ)
青年の足が。
止まった。
雨だけが。
動く。
「それ」
(何)
青年は。
ほんの少し。
笑った。
「今の僕じゃん」
声。
しばらく。
返さない。
(……そうだね)
青年は。
遠くを見る。
小さな灯り。
RATの拠点。
「笑えないな」
(やめる?)
青年は。
雨の向こう。
その灯りを見る。
「……まだ」
一拍。
「見たい」
(何を)
青年は。
答えなかった。
まだ。
自分でも。
分からない。
ただ。
次に。
二人が。
どんな顔をするか。
見たかった。
それだけだった。
# 第十章 押しただけ
噂は。
青年が思っていたより。
長く残った。
誰も。
本気では信じていない。
だから。
消えない。
はっきりした嘘なら。
否定される。
証拠。
一つ。
出れば終わる。
けれど。
「最近ちょっと仲悪いらしい」
「ラドがネミティブを気にしている」
「ネミティブがラドを邪魔に思っている」
その程度。
確かめる価値もない。
人は。
確かめる価値のない話ほど。
簡単に。
持ち歩く。
青年は。
それを知っていた。
昼過ぎ。
市場跡。
荷を運ぶ男が二人。
「昨日また揉めたって?」
「知らねえ。声でかかっただけじゃね」
「ラド兄、最近ネミティブに任せすぎじゃね?」
「でも当たるじゃん」
「そこなんだよな」
青年は。
少し離れた屋台。
薄いスープ。
木の匙。
一口。
塩気。
ある。
(君が言った話、まだ生きてる)
「僕の話じゃないよ」
(じゃあ誰の)
青年は。
匙を置く。
「みんなの」
(便利だね、その言い方)
「本当にそうだよ」
もう一度。
男たちを見る。
「僕が言ったのは」
一拍。
「揉めてるように見えた、だけ」
(それを最初に聞いた子が)
「勝手に足した」
(次の子も)
「勝手に足した」
(今は)
青年は。
少し笑う。
「僕の知らない話まで混ざってる」
遠く。
少年が一人。
走っていく。
RATの拠点。
青年は。
その背中を見る。
追わない。
今日は。
何も置いていない。
それでも。
盤面は。
動いている。
* * *
夕方。
RATの拠点。
荷の振り分け。
少し。
揉めている。
青年は。
崩れかけた二階。
窓。
その暗がり。
中。
ラド。
ネミティブ。
リナ。
カイル。
他。
数人。
中央。
机。
地図。
弾薬箱。
「北は使わねえ」
ネミティブ。
ラド。
すぐ。
「理由」
「見張りが変わった」
「何人」
「二人」
「それだけ?」
「それだけで十分」
ラドの手が。
地図へ置かれる。
「南回したら時間食う」
指。
道。
なぞる。
「明日の荷までずれるぞ」
「だから何」
「だから」
ラドの指が止まる。
「一回見てから決めろって言ってんだ」
「見た」
「いつ」
「昼」
「一人で?」
「そう」
ラドの眉が。
寄る。
「だったら」
一拍。
「なおさら確認させろ」
「誰に」
「俺でも、カイルでもいい」
ネミティブの目が。
細くなる。
「俺が見た」
「分かってる」
「なら何で」
ラドは。
ネミティブを見る。
「お前が間違うこともあるからだよ」
部屋。
静か。
青年は。
暗がり。
瞬き。
一度。
(言った)
「うん」
河原。
自分が。
ネミティブの顔をしていた時。
ラド。
お前が全部見えるわけじゃねえだろ。
今。
本人へ。
同じことを。
言っている。
ネミティブの顔。
僅かに。
変わる。
「俺が間違ってるって?」
「そうは言ってねえ」
「同じだろ」
「違う」
「何が」
「確認しろって言ってんだ」
「何で」
ラドが。
長く息を吐く。
「……お前さ」
青年の指。
窓枠。
とん。
一回。
「最近」
ラドが言う。
「全部自分で決めようとしてるだろ」
(嬉しい?)
「違う」
(君が聞いたこと、そのまま出てきた)
青年は。
下を見る。
「元からあったんだよ」
(君は名前をつけただけ)
「そう」
ネミティブが立つ。
椅子。
少し。
後ろへ擦れる。
「俺が決めた方が」
ラドを見る。
「死人出てねえ」
ラドの顔から。
笑いが消えた。
「それ」
声。
低い。
「俺に言ってんのか」
「事実」
「ネミティブ」
「何」
「今のは違うぞ」
「何が」
「そういう話じゃねえ」
「じゃあ何の話」
周囲。
誰も。
入らない。
青年は。
そこを見る。
カイル。
身体。
僅かに前。
でも。
止まる。
リナ。
二人を。
交互に。
見る。
他の連中。
目。
耳。
全部。
二人。
(群衆)
頭の奥。
少し。
楽しそう。
青年の眉が。
ほんの少し動く。
「何」
(面白いね)
「何が」
(誰も)
一拍。
(何もしてない)
青年は。
返事をしない。
(でも全員が)
部屋の空気。
硬い。
(何か起きると思ってる)
下。
ラド。
机。
ばん。
「俺は!」
乾いた音。
「お前を止めてんだよ!」
ネミティブの手。
腰。
銃。
抜かない。
ただ。
触れた。
青年の目が。
そこへ。
止まる。
頭の奥。
声。
消える。
ネミティブの手。
銃。
ラド。
全員。
見た。
青年も。
ラドも。
周囲も。
ネミティブ自身だけが。
少し遅れて。
気づく。
手を離す。
「違う」
誰へ。
言ったか。
分からない。
ラドの声。
低い。
「何が」
「今のは」
「俺が何した」
「だから」
「俺、銃抜いた?」
「抜いてねえよ」
「じゃあ何」
青年は。
窓から。
離れた。
(行くの)
「ちょっと」
(何する)
青年は。
階段へ向かう。
「見る」
(嘘)
足は。
止まらない。
* * *
外へ出る頃。
二人も。
拠点を出ていた。
人。
ついてくる。
リナ。
カイル。
何人か。
狭い道。
左右。
崩れた壁。
先。
開けた空き地。
夕方。
低い光。
土埃。
一粒。
一粒。
金色。
青年は。
人混みへ混ざった。
顔。
誰でもいい。
若い男。
頬。
傷。
RAT周辺で。
何度か見かけても。
おかしくない。
肩。
少し落とす。
歩幅。
周りへ合わせる。
視線。
目立たせない。
人の流れ。
背中。
隙間。
そこを縫う。
誰も。
青年を見ない。
正確には。
見ても。
覚えない。
(昔)
「今?」
(うん)
「短い?」
(すぐ終わる)
前。
ラドの怒鳴り声。
青年は。
歩きながら。
聞く。
(昔、僕は)
頭の奥の声。
周囲のざわめきへ溶ける。
(誰かに槍を投げさせたことがあったらしい)
「へえ」
(自分では投げなかった)
青年の口元が。
僅かに上がる。
「便利だね」
(うん)
声も。
少し。
笑う。
(だから)
一拍。
(僕は殺してない、って言えた)
青年の足が。
ほんの少し。
遅くなる。
「……性格悪いね」
(君に言われたくない)
前。
ラド。
ネミティブ。
止まっている。
距離。
三歩。
ネミティブ。
腰。
銃。
ラド。
素手。
リナ。
横。
カイル。
後ろ。
人。
左右。
青年の目が。
一瞬で。
全部を拾う。
出口。
壁。
人数。
距離。
ネミティブの右足。
ラドの重心。
リナの位置。
ネミティブの肩。
銃口が出るなら。
角度。
青年の胸。
少し。
速くなる。
(やめる?)
「何を」
(分かってるでしょ)
青年は。
答えない。
ラド。
「お前」
一歩。
「最近おかしいぞ」
「何が」
「何でも自分で見えると思ってる」
「見えてるから言ってる」
「それだよ!」
ラド。
一歩。
出る。
ネミティブ。
反射。
手。
銃。
抜く。
青年の息。
止まる。
まだ。
撃たない。
銃口。
下。
ラド。
止まる。
「……下ろせ」
「近づくな」
「ネミティブ」
「近づくなって言ってる」
リナの顔。
色がない。
「やめて」
誰も。
動かない。
青年の耳。
急に。
全部を拾う。
呼吸。
服。
風。
砂。
銃を握る指の擦れ。
ラドの靴が。
土を踏む音。
その瞬間。
右。
人影。
少年。
走ってくる。
ただの。
RATの人間。
何も知らない。
ラドの後ろへ。
青年の目が。
そこへ動く。
少年。
ラド。
ネミティブ。
銃。
距離。
角度。
頭の中で。
一瞬。
並ぶ。
青年が。
一歩。
出た。
(何する)
「危ないから」
(誰が)
青年は。
もう一歩。
「さあ」
ネミティブの後ろ。
背中。
近い。
手。
届く。
青年が叫ぶ。
「ネミティブ!」
一拍。
「危ねえ!」
ネミティブが。
反応する。
首が。
動く。
振り向く。
その前。
青年の両手。
背中。
触れる。
服。
熱。
肩甲骨。
分かる。
ドンッ。
「っ!」
ネミティブの身体が。
前へ。
出る。
ラド。
近い。
肩。
ぶつかる。
銃を持つ腕。
跳ねる。
指。
引き金。
青年の目が。
開く。
パンッ!
音。
近い。
乾いている。
ラドの目。
見開く。
「……あ」
胸。
赤。
一点。
そこから。
広がる。
青年の両手。
空中。
でも。
掌には。
まだ。
背中がある。
熱。
服。
押した感触。
残っている。
ラドの膝。
落ちる。
土。
青年の耳。
何も。
聞こえない。
違う。
聞こえている。
ネミティブ。
叫んでいる。
リナ。
悲鳴。
人。
走る。
全部。
聞こえる。
意味に。
ならない。
青年は。
一歩。
下がった。
(……イース)
「…………」
(君)
青年は。
自分の手を見る。
血。
ない。
何も。
付いていない。
「僕」
喉。
開かない。
一度。
唾を飲む。
「僕」
もう一度。
「撃ってない」
頭の奥。
声。
返さない。
青年は。
自分の掌を見る。
「押しただけ」
(……)
「危なかったから」
声が。
少し速くなる。
「後ろ」
(何がいたの)
青年は。
止まった。
「…………」
(何が危なかったの)
答え。
出ない。
青年は。
人の間へ。
下がる。
ネミティブ。
ラドの前。
膝。
土。
「……ラド?」
返事。
ない。
「ラド」
ネミティブの手。
胸。
血。
赤。
手のひら。
指。
青年の胸。
どく。
どく。
どく。
「違う」
ネミティブが。
振り返る。
「誰だ!」
声。
割れる。
「誰が押した!」
青年は。
人の後ろ。
立っている。
誰も。
こちらを見ていない。
違う。
一人。
リナ。
青年ではない。
ネミティブを。
見ている。
顔。
真っ白。
青年は。
その表情を。
見た。
そして。
足が。
動いた。
人の間。
抜ける。
リナの横。
頬に傷のある。
知らない少年。
その顔。
青年は。
リナの耳へ。
少し。
近づく。
「見ただろ」
リナ。
動かない。
青年の口が。
次。
動く。
止めようとしたのか。
続けようとしたのか。
自分でも。
分からない。
「ネミティブが殺した」
言った。
胸の奥。
何か。
落ちる。
頭の奥。
声。
ない。
ネミティブ。
「違う!」
「押された!」
リナ。
震える。
「誰に」
ネミティブの口が。
止まる。
「……分からねえ」
その言葉。
青年は。
聞く。
分からない。
誰に。
青年だけが。
知っている。
リナ。
「人殺し」
「リナ」
「人殺し!」
「違う!」
「ラド兄を!」
青年は。
その場を。
離れた。
* * *
吐いたのは。
三本先の路地だった。
壁。
手。
胃。
縮む。
喉。
焼ける。
何も食べていない。
それでも。
何度も。
身体が。
えずく。
「っ……」
顔。
揺れる。
頬に傷のある少年。
次。
別の男。
次。
知らない女。
青年。
また。
少年。
止まらない。
皮膚の下が。
勝手に動く。
頭。
痛い。
視界。
白。
(顔戻して)
「分かってる」
(止めて)
「分かってるって」
爪が。
壁を擦る。
ざ。
「……僕」
一拍。
「撃ってない」
(うん)
初めて。
声が。
返した。
青年の肩から。
ほんの少し。
力が抜ける。
「そうだよね」
(君は撃ってない)
「うん」
(ネミティブが撃った)
「そう」
(君は押した)
青年は。
動かない。
雨。
ぽつ。
一滴。
壁。
肩。
髪。
「……事故だよ」
(うん)
「僕」
息。
「ラド狙ってない」
(うん)
「死ぬと思ってなかった」
声。
すぐには。
返らない。
(それは)
一拍。
(本当?)
青年は。
目を閉じる。
さっき。
見えた。
銃。
ラド。
距離。
角度。
ネミティブの指。
重心。
全部。
青年は。
詐欺師だ。
目。
息。
手。
足。
相手が動く前の。
小さいもの。
見る。
見えていた。
全部ではない。
でも。
十分。
青年の喉が。
動く。
「……知らない」
(嘘)
「黙って」
(君)
「黙ってって言ってる!」
声が。
路地へ響く。
返事。
ない。
人も。
いない。
青年は。
壁へ額をつけた。
冷たい。
分かる。
雨。
少し。
強くなる。
頬。
首。
服。
濡れる。
しばらく。
何も言わない。
頭の奥。
声。
静かに。
(昔)
青年は。
目を閉じたまま。
「……今は聞きたくない」
少し間。
(うん)
それで。
終わった。
* * *
研究所へ戻ったのは。
夜だった。
正面口。
いつもの。
白。
薬品。
金属。
青年は。
濡れたまま。
廊下を歩く。
ゴイ。
青年を見る。
まず。
顔。
次。
歩き方。
右手。
目。
「何があった」
青年は。
止まらない。
「仕事」
「顔が崩れている」
「使いすぎた」
「何に」
「色々」
ゴイの視線。
青年の輪郭を。
追う。
「ラドが死んだ」
青年の足。
止まらない。
「そうなんだ」
「ネミティブが撃った」
「へえ」
「事故らしい」
「怖いね」
ゴイの目が。
細くなる。
「お前はいたか」
青年の足が。
そこで。
止まった。
ゆっくり。
振り返る。
「どこに」
「現場だ」
「何で僕が」
「答えろ」
青年は。
少し。
笑う。
さっき。
路地では。
笑えなかった。
今は。
作れる。
「証拠ある?」
ゴイ。
黙る。
「ない」
青年は肩をすくめる。
「じゃあ」
一拍。
「僕じゃないかもね」
ゴイの目が。
青年の顔から。
右手へ。
落ちる。
震えている。
青年は。
気づいて。
止めようとする。
止まらない。
「イース」
「何」
「お前は」
一拍。
「何をした」
青年は。
笑う。
今度は。
ちゃんと。
笑えている。
「何も」
頭の奥。
(嘘)
青年は。
内側だけで。
返す。
「うん」
そして。
ゴイを見る。
「観察してただけだよ」
青年は。
そのまま。
治療室へ向かった。
背中。
ゴイの視線。
刺さる。
でも。
振り返らない。
白い廊下。
じ。
灯り。
一定。
青年は。
歩きながら。
右手を。
ポケットへ入れた。
見えなくする。
それでも。
掌には。
まだ。
ネミティブの背中があった。
熱。
服。
骨。
押した時の。
あの感触だけが。
消えなかった。
第九章「置いたもの」/第十章「押しただけ」でした。
今回は、これまで青年が使ってきたやり方が、初めて取り返しのつかない結果へつながる話です。
最初に置いたものは、本当に小さなものでした。
地図に印を一つ。
少年へ言葉を一つ。
すでにあった不満や怖さへ、名前を一つ。
青年自身も、
「僕は紙置いただけ」
「僕には、そう見えた」
と、自分はきっかけを置いただけだと考えています。
そして実際、ラドとネミティブの間にあったものを一から作ったわけではありません。
ラドにはラドの不安があり、ネミティブにはネミティブの自負がある。
青年はそこへ触れただけでした。
けれど最後。
青年は本当に、手で背中を押します。
そしてラドが死んだ後も、
「僕、撃ってない」
「押しただけ」
と、自分と結果の間に線を引こうとします。
ただ、青年は見えていました。
銃も。
距離も。
角度も。
ネミティブの指も。
全部ではなくても、十分に。
だからこそ、頭の中の声から、
「死ぬと思ってなかった。それは本当?」
と聞かれた時、答えられません。
「事故だった」のか。
それとも、自分でも認めたくないところで、何が起きるか分かっていたのか。
青年自身にも、もう綺麗には分けられなくなっています。
そして最後まで残ったのは、ラドの血ではなく――
自分の手に残った、背中を押した感触。
ここから青年は、自分が置いた嘘と、その結果から逃げられなくなっていきます。




