KillerWorld ―イース編―「どっちでもいいは禁止」
何も欲しがらず、何も選ばない少年――0。
青年は治療のたびにその部屋へ立ち寄り、赤と青、重い硬貨と軽い硬貨、甘い菓子と塩辛い菓子――小さな選択を何度も0へ渡していく。
「どっちでもいいは禁止」
やがて0は少しずつ、自分の感覚を言葉にし始める。
寒い。
閉めてほしい。
もう一つ食べたい。
そんな小さな変化を、青年は思った以上に嬉しく感じていた。
しかしゴイは、0を「測れない」と判断する。
選別結果が出ない。
残す理由がない。
そして告げられる。
「0を処分する」
青年は笑って「何もしない」と答える。
もちろん、嘘だった。
ゴイが決めた結末が気に入らない。
ただそれだけの理由で、青年は研究所の構造、人間の癖、監視する者が何を信じるかを観察し始める。
命令せず。
誰も攻撃せず。
小さな嘘だけを置いて。
「今は、僕と来る?」
初めて自分の意志で0を連れ出した夜。
それは青年が、与えられた「従う役」から初めて外へ踏み出した瞬間だった。 KillerWorld_イース編_0から脱出まで_改稿版
第五章 0
次にその部屋の前を通ったのは、三日後だった。
治療を終えた右腕には、まだ針を刺された鈍い痛みが残っていた。袖口が触れるたび、小さな傷が思い出したように疼く。研究所の廊下はいつ来ても寒く感じる。実際の気温ではなく、壁に染みついた薬品の匂いと、天井の白い灯りのせいだった。
人が暮らすためではなく、何かを保存するためだけに作られた箱の中を歩いているようだった。
青年は右手を開き、握った。震えはない。足裏も床を踏んでいる。舌先には、さっき飲まされた薬の苦みが残っている。
今日は大丈夫だ。
(確認してる)
「癖になったんだよ」
(昨日も言ってた)
「昨日より今日の方が生きてるでしょ」
頭の奥で声が少し黙った。
廊下の途中、半分だけ開いた扉が見えた。
青年は足を緩めた。
あの部屋。
三日前、赤と青の紙を置いて、何も選ばない子供に無理やり選択をさせた。
(見る?)
「見ない」
そのまま通り過ぎる。一歩。二歩。三歩。
四歩目を出す前に、青年は止まった。
天井の蛍光灯が、じ、と微かな音を立てている。
(見るんだ)
「うるさい」
二歩戻った。
扉の隙間から覗くと、0は前と同じ椅子に座っていた。姿勢が良いわけでも、だらけているわけでもない。ただ、そこへ置かれている。
けれど青年の視線は、0ではなく机の端へ吸われた。
青い紙。
三日前に渡したものが、折れもせず、机の縁と平行に置かれていた。
「……まだ持ってたんだ」
0が顔を上げる。
「こんにちは」
「こんにちは」
青年は部屋へ入り、紙を指した。
「それ。いらないって言ってなかった?」
「言いました」
「じゃあ捨てればいいのに」
0は紙へ目を落とした。
「捨てる理由もありません」
「そっか」
(残念)
「何が」
(大切だから、じゃなかった)
「三日でそこまで育ったら逆に怖いよ」
椅子を引く。脚が床を擦って、ぎい、と長く鳴った。
青年は座ると、上着のポケットを探った。指先に硬いものが二つ触れる。
大きさの違う硬貨を机へ置いた。
ちゃり。
0の目が少しだけ動いた。
「今日はこれ」
「何ですか」
「遊び」
(実験じゃないんだ)
「僕は研究者じゃないからね」
青年は二枚を0の前へ押した。
「どっちが欲しい?」
「必要ありません」
「必要かどうかじゃなくて。選んで」
「どちらでも」
「禁止」
0が首を傾けた。
「前にも言いました」
「覚えてるなら話が早い」
青年は肘を机へ置いた。
「待つから」
部屋の外で、金属器具が触れる音がした。かちゃん、と一度。遠くを誰かが歩き、その足音もすぐ消える。
青年は急かさなかった。
普段なら、人が迷えばその迷いを使う。視線が動いた方向、指の癖、呼吸の変化。相手が決める前に答えを拾い、それを自分の都合のいい形へ押し込む。
けれど今は、それをしなかった。
(君、すごい待つね)
「僕が決めたら意味ないでしょ」
0の指が動いた。
小さい硬貨。
「こちら」
「何で?」
「軽そうなので」
「重いの嫌?」
「分かりません」
「じゃあ持ってみて」
0の掌へ二枚を乗せる。大きい方。小さい方。0は交互に持ち上げ、ほんの少し手首を動かした。
「こちらの方が軽いです」
「うん」
「こちらがいいです」
青年の口元が自然に上がった。
「それ」
「何ですか」
「今の、いいね」
「重さが違ったので」
「理由は何でもいいよ。君がこっちがいいって言った。それでいい」
小さい硬貨を0の前へ置く。
「持ってていいの?」
「いらなくなったら捨てれば?」
0は硬貨へ手を伸ばし、握った。それから青い紙の隣へ置いた。
(嬉しい)
「うるさい」
(否定しないんだ)
「黙れ」
それから青年は、治療のたびにその部屋へ寄った。
本人は毎回ではないと思っていた。実際には、ほとんど毎回だった。
薬を入れられた日は身体が重い。血を多く抜かれた日は足元が揺れる。ゴイに新しい仕事を押しつけられた日は機嫌が悪い。
それでも帰り道になると、いつの間にか半分開いた扉を探していた。
ある日は、外の市場で買った安い菓子を二つ持ってきた。
「甘いのと、塩辛いの」
「どちらでも」
「禁止」
「毎回ですか」
青年は目を丸くした。
「今、文句言った?」
「確認です」
「かなり文句に近い」
「そうですか」
「いいね」
0はますます分からない顔をした。
しばらく迷った末、甘い方を選んだ。青年が袋を開けると、砂糖のついた小さな焼き菓子が現れた。
0が噛む。
さく。
「どう?」
「甘いです」
「それは見れば分かる」
青年も一つ口へ放り込んだ。砂糖の甘さが舌へ広がる。ちゃんと味がする。青年はそのことを無意識に確かめてから、0へ聞いた。
「好き?」
0の咀嚼が止まった。
「好き、というのは」
青年も止まった。
(教える?)
「今だけ黙って」
(君が聞いた)
「分かってる」
青年は菓子を一つ指先で摘んだ。
「もう一個食べたい?」
0は袋を見る。
「はい」
「じゃあ多分、好き」
「そうなんですか」
「多分ね」
もう一つ渡す。
さく。
たった一個、もう一つ欲しがっただけだった。
それだけなのに、青年の胸の奥へ小さな何かが落ちた。
(嬉しい?)
「普通」
(嘘)
「最近それ好きだね」
また別の日、青年は別人の顔で部屋へ入った。
若い女。長い髪。柔らかな声。
「こんにちは」
「こんにちは」
青年は何も言わずに椅子へ座った。
「僕のこと分かる?」
「はい」
返答が早かった。
「誰?」
「前に来た人です」
「顔、違うよ」
「はい」
「声も」
「はい」
「じゃあ、何で分かった」
0は青年を見る。顔、手、首。それから、青年が話す直前に作る、ほんの短い間。
「話し方が同じです」
青年の笑みが止まった。
(へえ)
「それと」
「何」
「話す前の間が同じです」
天井の灯りが、じ、と鳴った。
青年は何も言えなかった。
顔を変える。声を変える。歩き方も、仕草も、姿勢も変える。相手が望む人間へ、何度もなってきた。
それを、顔でも声でもなく、間で見抜かれた。
青年自身ですら意識したことのないものだった。
(君より見るの上手いかも)
「それはない」
(効いた)
「今は本当に黙って」
0が青年を見る。
「怒っていますか」
「違う」
青年は女の顔のまま笑った。
「面白いと思ってる」
「何がですか」
「君」
「そうですか」
「そこ、もう少し喜んでいいよ」
「分かりません」
「まだそこか」
(気に入ってる)
「玩具としてね」
(嘘)
青年の笑いが止まった。
「……何が」
(別に)
「今言っただろ」
(気のせい)
0には聞こえていない。それでも、0は二人の会話が終わるのを待つように、青年を少し長く見ていた。
0は相変わらず、ほとんど何も求めなかった。
食事が変わっても文句を言わない。部屋が暑くても寒くても何も言わない。窓を開ければ開いたまま。閉じれば閉じたまま。服を渡されれば着る。待てと言われれば待つ。
青年は、それが少しずつ気に入らなくなった。
ある日、窓を開けると冷たい風が部屋へ流れ込んだ。白いカーテンがふわりと膨らみ、乾いた葉と遠くの煙の匂いが、研究所の薬品臭へ混ざる。
「寒い?」
「少し」
青年の手が止まった。
「今、寒いって言った?」
「はい」
「閉める?」
「どちらでも」
「それ禁止」
0は少し考えた。
「閉めてください」
青年は数秒、動かなかった。
「……分かった」
窓を閉める。
がたん。
風の音が途切れた。
(嬉しい?)
「ちょっとだけ」
(やっと認めた)
「うるさい」
振り返ると、0はいつもの椅子に座っている。
青年には、その部屋が初めて研究室ではなく、少しだけ人が暮らしている場所に見えた。
その日の帰り、廊下の奥でゴイと会った。
「0」
青年が呼び止めると、ゴイは足を止めた。
「何だ」
「ずっとあそこに置くの?」
「問題があるか」
「人間と暮らした方がよくない?」
ゴイの視線が青年へ向く。
「何故」
青年は0の部屋を見る。閉じた扉。その向こうにある青い紙、小さな硬貨、甘い菓子、閉めてほしいと言った窓。
「選べるようになるかもしれない」
「それに何の価値がある」
「君の実験にはないかもね」
「なら不要だ」
青年の口元が止まった。
「必要かどうか、君が決めるんだ?」
ゴイは冷たい目で青年を見る。
「0は結果を出さない」
「身体は壊れない。因子も安定してる。暴走もしない」
「だから何だ」
「成功じゃないの?」
「技術的にはな」
ゴイは淡々と答えた。
「だが、何を欲し、何を拒み、何を残そうとするか。何も出ない」
青年の胸の奥へ嫌なものが沈む。
「測れないものは選別できない」
測れない。
だから価値がない。
ゴイは言葉にはしなかった。けれど青年には、その先まで聞こえた。
「じゃあ余計に試せばいい」
「何を」
「環境」
青年は笑った。
「命令する人ならもういるでしょ。君」
ゴイの眉がほんの少し動く。
「座れ。待て。食べろ。寝ろ。全部君が決めてる。それしか知らない子が、自分から何か欲しがると思う?」
「推測だ」
「なら実験すれば?」
その一言で、ゴイの目が変わった。
人ではなく、条件を見る目。
「通常環境への移行」
独り言のように呟く。
「選択機会を増やす。命令数を減らす」
「言い方が人間じゃないんだよなあ」
「必要ない」
青年は苦笑した。
「世話する人は?」
「こちらで決める」
「条件は」
「健康。命令遵守。管理能力」
「最後の二つ、逆」
「何?」
「決めてくれる人じゃなくて、聞く人」
ゴイは黙った。
「何を食べたい。どっちが好き。嫌なら嫌って言っていい。そういうことを聞いて、答えが出るまで待てる人」
青年は少し考えて、続けた。
「勝手に正解を渡さない人」
(君、意外と注文多いね)
「僕の玩具だから」
(嘘)
青年は無視した。
数日後、0の部屋には小さな鞄が置かれていた。
世話役の候補が決まったらしい。
青年は、研究所の白い廊下に似つかわしくない普通の女を見た。派手ではない服。買い物帰りのような袋。そこからパンの匂いがした。
女は0の前へしゃがみ、目線を合わせた。
「私と一緒に来るって聞いてる?」
「はい」
「嫌だったら言ってね」
0は女を見る。
「嫌と言ったら?」
青年の呼吸が、ほんの一瞬止まった。
女も目を丸くしたが、すぐに笑った。
「その時は考える」
「戻れますか」
「戻りたい?」
0は黙った。
女は答えを急かさない。
「分かりません」
「じゃあ、分かるまで一緒に考えようか」
青年は壁へ背を預けたまま、何も言わなかった。
頭の奥の声も、静かだった。
この人なら。
そう思った。
ゴイは少し離れた場所から見ている。いつもの観察の目。そこにあるのは、0がどう感じるかではなく、条件を変えたことで何が出るかという興味だけだった。
それでも構わない。
結果として、0が外へ出られるなら。
その時は、そう思っていた。
# 第六章 不要
移送予定日の前夜。
青年はゴイの研究室へ呼ばれた。
外は雨だった。
細い雨粒が高い窓を絶えず叩き、研究室の中では古い換気設備が低く唸っていた。薬品の匂いの奥に、湿った土の匂いがわずかに混じっている。
ゴイは机から顔を上げなかった。
「0を処分する」
青年は、意味を理解するまで数秒かかった。
「……何て?」
「処分する」
机の奥で、何かの機械がかちりと鳴った。
「明日、外へ出すんじゃなかった?」
「中止だ」
「何で」
「結果が出ない」
「出るかどうか見るために環境変えるんじゃないの」
「必要性がなくなった」
青年は笑おうとした。
上手くいかなかった。
「身体は安定してる」
「ああ」
「因子も」
「ああ」
「暴走もしない」
「ああ」
「じゃあ何で」
「測れない」
ゴイの声は平坦だった。
「選別結果が得られない。残す理由がない」
青年の指が机の縁へ触れた。
冷たい。
「君さ」
声が低くなる。
「昔からそれだね」
ゴイの目が上がる。
「何がだ」
「残す。不要」
一拍。
「ずっとそれ」
「何を知っている」
「少しだけ」
青年は薄く笑った。
「黄金さん」
ゴイの目が冷える。
「その呼び方をするな」
「昔、夜になるたび選べって言われてたんでしょ。人を残すか、消すか」
ゴイの手がほんの少し止まる。
「今も同じことしてる」
「違う」
即答だった。
「何が」
「私は選ばされていない」
ゴイは青年を見る。
「私が選んでいる」
青年は何も言えなかった。
その答えが、思っていたより重かった。
(……嫌だね)
青年も同じことを思った。
「いつ」
「明朝」
「方法」
「お前には関係ない」
「そう」
青年は背を向けた。
「じゃあ帰る」
「待て」
青年は止まる。
「余計なことをするな」
振り返った顔には、いつもの笑みが戻っていた。
「僕が?」
「ああ」
「信用ないなあ」
「お前は嘘をつく」
「仕事だからね」
「だから言っている」
青年は肩をすくめた。
「分かった。何もしない」
ゴイは長く青年を見た。
やがて視線を外した。
青年は部屋を出る。
扉が閉じる。
かち。
廊下へ出た瞬間、頭の奥で声がした。
(嘘)
青年の笑顔が消える。
「うん」
(何もしないって)
「嘘」
(助ける?)
青年は歩きながら答えなかった。
角を曲がる。誰もいない。
「ねえ」
(何)
「昔のお前、決められたことに従った?」
少し間があった。
(従った時もある)
「逆らった時は?」
(面倒なことになった)
青年の口元が僅かに上がった。
「いいね」
(何が)
「そっちの方が面白い」
ただし、勢いだけで0を連れ出すつもりはなかった。
青年は詐欺師だった。
相手が一番警戒している瞬間に嘘をつくほど、下手なやり方はない。
必要なのは、先に相手が何を信じているかを知ることだった。
その夜から、青年は研究所を歩いた。
目的地へ直行しない。調べているようにも見せない。
治療の帰りに遠回りする。書類を届けるふりをする。別人の顔で給湯室へ入る。研究員の雑談を聞く。何も知らない患者のように道を尋ねる。
研究所は外から見たより奥行きがあった。
地上部は古い工場を改装したらしく、煉瓦壁の内側へ新しい白壁を重ねている。場所によっては壁と壁の間に古い鉄骨が見え、雨の日になるとどこからか水滴の落ちる音が響く。
中央廊下は十字に伸びていた。北側が診察と処置。東側が保管区画。西側に研究員の作業室。南側の先に搬入口がある。
0の部屋は東寄り。
正面玄関までは近い。だから使わない。
誰でも思いつく道は、最初に塞がれる。
青年が興味を持ったのは地下だった。
階段を下りるにつれ、薬品臭が薄れ、代わりに湿気と金属の臭いが濃くなる。太い配管が天井を這い、床から低い振動が足裏へ伝わる。
ぶううん。
絶えず鳴る設備音。
青年は一度、そこで右足を踏み直した。
感覚はある。
(大丈夫?)
「今日はね」
地下の一角には、建物全体の簡単な設備図が掲示されていた。
青年は立ち止まらない。
通り過ぎながら一度見る。
翌日、別の顔でもう一度見る。
三日目には、ほとんど覚えた。
搬入口。
排気区画。
廃棄路。
最後の文字に、青年の意識が引っかかった。
研究所の外周へ直接抜ける細い通路。
人の出入り用ではない。
だから、普段は誰も見ない。
(使う?)
「何に」
(知らない)
「じゃあ聞くなよ」
青年はそのまま通り過ぎた。
次に見るのは、人だった。
夜間の研究所に常駐している人数は多くない。
ゴイを除けば、目につくのは三人。
一人は搬入口近くの監視卓に長く座る男。記録を細かく確認する。人の顔より手元の表示を信じるタイプ。
一人は地下と処置室を往復する研究員。せっかちで、足音が速い。
もう一人は薬品や試料を運ぶ男。誰かと会うたび短く声をかけるが、相手の返事を最後まで聞かない。
青年はその三人を、何日も見た。
顔だけではない。
癖。
歩幅。
肩の高さ。
物を持つ手。
話し始める前の呼吸。
誰を怖がっているか。
誰の命令なら確認せず動くか。
そして。
何を見て安心するか。
監視卓の男は、人より表示器を見る。
緑なら正常。
赤なら異常。
それだけではない。
壁の小さな画面に、0の部屋が映っている。
青年はそれを見た時、少し笑った。
(何)
「僕なら、あれ信じる」
(君でも?)
「僕だから」
人は、自分が賢いと思うほど、確認した証拠を信じる。
なら、その証拠を嘘にすればいい。
ただし、最初から全部を魔法で塗り替えるつもりはなかった。
青年のやり方は、いつも同じだ。
小さな嘘を一つ置く。
あとは相手に、自分で正解を作らせる。
翌朝。
青年はいつも通りゴイの治療を受けた。
「右手」
「平気」
「味覚」
「ある」
「頭痛」
「少し」
「顔の保持時間は」
「昨日より短い」
ゴイは記録する。
青年は大人しく座っている。
何も企んでいない顔。
(今?)
「まだ」
(いつ)
「見られてない時」
(ずっと見られてる)
青年の口元がほんの少し動いた。
「だから」
一拍。
「見てるものを変える」
夕刻。
青年は0の部屋へ入った。
今日の顔は、薬品を運ぶ研究員のものだった。
眉の角度。
少し丸まった背中。
右手で物を持つ癖。
声。
全部。
0は青年を見るなり言った。
「今日は、もっと違います」
青年の足が止まった。
「何が?」
「顔だけではありません」
0は青年をじっと見る。
「歩き方も」
「へえ」
「でも、あなたです」
「何で」
0は少し考えた。
「待つ時が同じです」
青年は笑った。
「本当に嫌なところ見るね」
「嫌ですか」
「いや。助かる」
青年はしゃがみ、0と目線を合わせた。
「今から外へ行く」
0の目が少し動く。
「どこへ」
「まだ決めてない」
「戻りますか」
青年は答えなかった。
「戻りたい?」
0は長く考える。
「分かりません」
「じゃあ」
青年は手を差し出した。
「今は、僕と来る?」
急かさない。
決めない。
誘導しない。
ただ待つ。
0は青年の手を見る。
それから青年の顔を見る。
指が動いた。
「行きます」
青年は笑った。
「よし」
(嬉しい)
「今は黙って」
部屋を出る前に、青年は一度振り返った。
ベッド。
机。
青い紙。
小さな硬貨。
壁の上にある小さな監視用の目。
青年はそれを見上げる。
頭の奥が、ずき、と痛んだ。
(やる?)
「少しだけ」
何かが世界の表面へ薄く重なる。
部屋そのものは変えない。
空っぽにもしない。
青年が見せたのは、監視している者が一番見たいものだった。
いつもの部屋。
いつもの0。
いつもの静かな呼吸。
そこに異常はない。
青年は扉を閉めた。
廊下を歩く。
0は隣にいる。
監視卓が近づく。
男が顔を上げた。
「おい」
青年は止まる。
「どこへ行く」
借りた研究員の声で、少し面倒そうに答えた。
「処置」
「聞いてない」
「今決まった」
「誰から」
「ゴイ」
男の目が青年から0へ移る。
そして、すぐ手元の表示へ落ちた。
青年はその動きを見逃さない。
緑。
異常なし。
壁の画面。
そこには0がいる。
椅子へ座っている。
静かに。
何も変わっていない。
男の眉が寄った。
青年は先に言う。
「変だね」
「……何が」
「画面にはいる」
隣の0を見る。
「じゃあ、これ誰だろう」
男の顔が固まる。
青年は笑った。
「冗談」
頭の奥が強く痛む。
ずきん。
鼻の奥が熱い。
(やりすぎ)
「知ってる」
監視の男が画面へ近づいた。
自分の目で確かめようとしている。
青年はその瞬間、歩き出した。
相手の知性を消したわけではない。
むしろ逆だった。
確認したくなるように、矛盾だけを一つ置いた。
男は止めるより先に、画面を調べる。
その数秒で十分だった。
角を曲がる。
「走る?」
青年が聞く。
0は廊下の先を見る。
「今は、走ります」
「いい答え」
二人は走った。
足音が白い廊下へ響く。
たたた、と小さな0の足音。青年は速くなりすぎないよう、歩幅を合わせる。
背後で声が上がる。
まだ警報ではない。
まだ。
青年は正面へ行かない。
南でもない。
階段。
地下。
湿った冷気が頬へ当たる。
設備の低い唸りが近づく。
ぶううん。
太い配管の下を走る。
青年は頭の中で、何度も歩いた道をなぞる。
右。
次を左。
細い通路。
けれど角の先から足音がした。
速い。
地下と処置室を往復する、あの研究員。
(来る)
「分かってる」
青年は止まらない。
ここで引き返せば怪しい。
なら、相手の方を変える。
角を曲がる直前、青年の顔が変わった。
ゴイ。
白衣まで同じに見える。
完全な再現ではない。
必要なのは、一瞬だけ信じさせること。
研究員が角から飛び出す。
「先生?」
「上だ」
青年はゴイの声で言った。
「監視映像に異常が出ている。確認しろ」
研究員が0を見る。
ほんの一瞬。
青年は視線を遮るように半歩前へ出る。
「聞こえなかったか」
「いえ」
研究員は反射的に姿勢を正した。
「すぐ行きます」
そして、青年たちが来た方向へ走っていった。
青年は元の研究員の顔へ戻る。
(今の)
「何」
(楽しそうだった)
「人聞き悪いな」
(声、ちょっと笑ってた)
「気のせい」
0が青年を見る。
「嘘ですか」
「どれが?」
「今の人への」
青年は一瞬だけ0を見る。
「うん」
「悪いことですか」
「多分ね」
「じゃあ、やめますか」
青年は前を見る。
廃棄路まで、もう少し。
「やめない」
「何故ですか」
「君が消される方が嫌だから」
言ってから、青年自身が少し驚いた。
頭の奥も静かになった。
0は何も答えなかった。
廃棄路の扉へ着く。
細い鉄扉。
人が通る前提ではないため、取っ手は低く、向こうには狭い保守用通路が続いている。
青年は押す。
開かない。
「……あれ」
(下調べしたんじゃないの)
「したよ」
(開かないよ)
「見えてる」
青年は笑っているが、背中に汗が滲む。
扉の横を見る。
小さな表示。
赤。
昨日までは緑だった。
「変えたな」
(ゴイ?)
「たぶん」
遠くで。
初めて警報が鳴った。
低い音。
うううう、と地下全体へ広がる。
0が肩を揺らした。
「大丈夫」
青年が言う。
自分へ言ったのかもしれない。
廃棄路が塞がれた。
用意した出口は使えない。
なら。
別の出口を作る。
青年は天井を見た。
配管。
換気。
保守扉。
そして思い出す。
薬品を運ぶ男が、毎夕使っていた通路。
正面でも廃棄路でもない。
誰も逃走路だと思わない場所。
「こっち」
二人は走る。
後ろから人の声。
青年の頭痛が強くなる。
ずき。
ずきん。
鼻血が唇まで落ちる。
(もう切ろう)
「まだ」
(身体)
「知ってる」
角の先。
監視の男。
今度は手元の端末を見ず、こちらを直接見た。
「止まれ!」
青年は止まらない。
男の目には、青年が見えている。
0も。
だから、消さない。
青年が変えたのは、意味だった。
次の瞬間、男の視線の先で、青年の姿が地下の研究員へ変わる。
0は、大きな試料ケースに見える。
男の手元の画面には、処置室で異常が出たという表示だけが残る。
全部を作り替えたわけではない。
青年が置いたのは、男が自分で繋げられる材料だけ。
「上の映像だ!」
青年が叫ぶ。
「0がいない!」
監視の男が一瞬、目を見開いた。
「何?」
「先生が呼んでる!」
男は青年の横を通り過ぎる。
自分から。
上へ。
走っていく。
青年は足を止めず、口元だけ笑った。
(嘘を現実にした)
「違うよ」
息を切らしながら答える。
「信じたい方を見せただけ」
保守通路の先に、外気があった。
雨上がりの匂い。
土。
草。
研究所の薬品臭ではない空気。
最後の扉を押す。
ぎい、と錆びた音を立てて開いた。
夜だった。
研究所の外壁に沿って、細い草地が続いている。遠くに街の灯りが見える。雲の切れ間から、淡い月明かりが濡れた地面へ落ちていた。
0が足を止めた。
「……外」
青年も止まる。
「そう」
0はしばらく空を見上げた。
白い天井ではない。
蛍光灯でもない。
暗い。
広い。
どこまで続いているのか分からない。
青年は急かさなかった。
後ろでは警報が鳴っている。
それでも数秒だけ待った。
「どう?」
0は考える。
「分かりません」
青年は笑った。
「知ってた」
遠く。
研究所の別の扉が開く音。
時間切れ。
「行こう」
「どこへ」
青年は、数日前に会った女を思い出す。
答えを待てる人。
嫌なら嫌と言わせる人。
「君に、聞いてくれる人がいるところ」
0は青年を見る。
「あなたは来ますか」
青年の足が止まった。
「僕?」
「はい」
胸の奥。
ほんの小さな場所が、痛む。
「来てほしい?」
0はすぐには答えない。
青年も待つ。
やがて。
「……分かりません」
「だよね」
青年は笑った。
「じゃあ、またね」
頭の奥で声がした。
(嬉しい?)
「別に」
(嘘)
「最近それ好きだね」
(君が分かりやすいから)
「僕、詐欺師なんだけど」
(だから面白い)
青年は0の隣を歩き出した。
背後では、研究所の灯りが雨上がりの夜へ滲んでいる。
青年は一度も振り返らなかった。
この夜、0を救ったつもりはなかった。
世界を変えたつもりもない。
ただ。
ゴイが「不要」と決めた結果へ、小さな穴を開けた。
誰にも攻撃しなかった。
命令もしなかった。
嘘を置き、顔を借り、相手が信じたいものを見せた。
あとは、皆が自分で動いた。
いつものやり方だった。
けれど。
これまでと一つだけ違う。
金のためでも。
仕事のためでも。
生き延びるためでもない。
青年自身が、ゴイの決めた結末を気に入らなかった。
それだけだった。
そして、それが。
青年が与えられた「従う役」から、初めて足を外へ出した夜になった。
第五章「0」/第六章「不要」でした。
今回は、0が少しずつ**「選ぶ」ことを覚えていく話**です。
最初は何を聞いても「どちらでも」と答えていた0。
けれど青年が何度も待ち続けることで、
「軽い方がいい」
「もう一つ食べたい」
「閉めてください」
と、ほんの小さな意思が生まれていきます。
そして同時に、青年の方にも変化が起きています。
普段なら相手の迷いを利用して、自分の欲しい答えへ誘導する男が、0に対してだけは、
「僕が決めたら意味ないでしょ」
と、答えが出るまで待つ。
その一方で、ゴイは0を「測れない」「選別できない」という理由で不要と判断します。
「残す」か「捨てる」か。
ゴイが決めた結末に対して、青年は初めて自分から穴を開けました。
金のためでも。
仕事のためでも。
生き延びるためでもない。
ただ、
「君が消される方が嫌だから」
その理由だけで。
ここから、青年とゴイの関係も少しずつ変わっていきます。




