KillerWorld ―イース編―「壊れながら、生きる」
顔を奪われ、他人の顔や声を使えるようになった青年。
最初は便利な力だった。
けれど、右手の震え、味覚の消失、足の感覚低下、そして自分の意思とは関係なく変わる声――身体は少しずつ壊れ始める。
それでも青年は「まだ使える」と笑い、仕事を続ける。
そんな中、再び現れた少年から告げられる。
使わなくても、身体は壊れる。
治らない。
止まらない。
戻らない。
ただし、壊れる速度を遅らせることはできるという。
そのために青年が向かった先にいたのは、ゴイと呼ばれる男。
人を治し、人を切り、人を選び続けてきた男だった。
生きるために、青年はゴイのもとで働くことを選ぶ。
そしてその先で出会ったのは、
何も欲しがらず、何も選ばない少年――0。
「どっちでもいいは禁止」
青年が投げた小さな問いに、0は初めて一つを選ぶ。
それは、まだ誰も知らない始まりだった。
# 第三章 崩れはじめる
最初におかしくなったのは、指だった。
朝。
宿の狭い部屋には、まだ夜の冷気が残っていた。
薄いカーテンの向こうから差し込む光が、床板の傷を白く浮かせている。
青年は外套を羽織り、扉の前で鍵を掛けようとしていた。
いつもの鍵。
いつもの錠前。
何百回と繰り返してきた動作。
右手を伸ばす。
カチ。
鍵の先端が、穴の縁へ当たった。
「……ん?」
指先を見る。
もう一度。
狙う。
カチ。
入らない。
廊下の向こうで扉が閉まり、誰かの足音が階段を下りていった。
青年だけが、扉の前に残っている。
「…………」
右手を持ち上げる。
人差し指。
僅かに震えていた。
止めようとする。
力を入れる。
震えは一度小さくなり――また戻る。
(寒い?)
頭の奥から声がした。
以前ほど肩は跳ねなくなった。
それでも、声が入った瞬間には眉間の奥がむず痒くなる。
脳の表面を、内側から指でなぞられたような感覚。
「違う」
(じゃあ緊張?)
「誰に」
(僕に聞かれても)
「じゃあ聞くなよ」
青年は左手で右手首を掴んだ。
ぎゅっ。
震えが止まる。
手を離す。
また。
僅かに震えた。
青年の視線だけが、その指先に残る。
「……寝不足かな」
(昨日、寝てたよ)
「お前が夜中に喋らなければもっと寝られた」
(馬の話、途中だったから)
「八本脚の馬を産んだ話を寝る前に続けるな」
(面白かったでしょ)
「気持ち悪かったよ」
(君、顔が変わる話は平気なのに)
「僕が産んだわけじゃない」
(そこ?)
青年は右手を一度握った。
開く。
まだ震えている。
何事もなかったように鍵を左手へ持ち替えた。
今度は一度で入った。
カチ。
「ほら」
(何が)
「左なら平気」
(じゃあ右がおかしいんじゃない?)
青年の指が鍵に掛かったまま止まった。
口元から笑みだけが消える。
ほんの一瞬。
「使いすぎ」
軽く言って、鍵を回す。
「休ませれば戻る」
(そうだといいね)
「縁起悪い言い方するな」
扉を開けた。
朝の光が廊下から差し込む。
青年は右手をポケットへ入れた。
見えなければ。
気にする必要もない。
何事もなかったように宿を出た。
その日の昼。
味が消えた。
露店から肉の焼ける匂いが漂っていた。
脂が鉄板へ落ちるたび、じゅっと音を立てる。
香辛料。
煙。
通りを歩く人間が何人も振り返る程度には、食欲を誘う匂いだった。
青年は紙に包まれた肉を受け取り、一口噛んだ。
「…………」
(不味い?)
「分からない」
(何が)
「味」
もう一口。
噛む。
肉の弾力は分かる。
熱い。
脂が舌へ触れているのも分かる。
それなのに。
塩気がない。
香辛料も。
肉の味も。
何もない。
周囲では誰かが酒を飲み、別の客が店主へ「今日は濃いな」と笑っている。
青年だけが、口の中の肉をゆっくり噛んでいた。
飲み込む。
「……舌噛んだっけ」
(昨日は普通だった)
「疲労」
(便利だね、その言葉)
青年は露店の男を見る。
「これ、味ついてる?」
「は?」
「いや」
肉を持ち上げる。
「薄くした?」
店主が露骨に顔をしかめた。
「昨日と同じだよ」
「そっか」
青年は笑った。
「ごめん」
そのまま歩き出す。
人を避ける。
荷車を避ける。
子供が横を走り抜ける。
いつもの街。
いつもの昼。
数十歩進んでも。
口の中には何も戻ってこない。
(怖い?)
青年の足が一瞬だけ遅くなった。
「何が」
(今)
「別に」
(さっきから舌、何回も触ってる)
青年の指が止まった。
気づけば。
親指で唇の端を押し、舌を歯へ当てている。
無意識だった。
「…………」
(君さ)
「何」
(人の癖見るの上手いけど、自分の癖見られるの嫌いだね)
「頭の中に住んでる奴相手だと不公平なんだよ」
(住みたくて住んでないよ)
「だったら家賃払え」
(何で)
「僕の身体だぞ」
口にした瞬間。
足が止まりかけた。
僕の身体。
右手。
味覚。
顔。
頭の中の声。
全部。
以前とは違う。
青年は人波の中で、舌を上顎へ押しつけた。
何もない。
味は夕方になって戻った。
だから。
問題ないことにした。
三日後。
右足の裏の感覚が消えた。
階段を降りていた。
一段。
二段。
三段。
古い木の階段が体重を受けるたび、ぎし、と鳴る。
次。
床。
あると思った場所に。
なかった。
「っ!」
身体が傾いた。
咄嗟に壁へ手をつく。
ばん。
肩をぶつける。
「……痛っ」
(大丈夫?)
「大丈夫」
すぐ立つ。
誰かに見られていないか。
まず周囲を見る。
誰もいない。
それから足。
靴。
破れていない。
血もない。
右足を地面へ押しつける。
「…………」
踏んでいる。
でも。
遠い。
靴底が一枚。
二枚。
増えたような。
地面までの距離だけが伸びている。
(感覚ない?)
「ある」
一歩。
「ちょっと」
もう一歩。
「薄いだけ」
(それ、あるって言う?)
「歩ける」
(でも)
「歩けるなら使える」
手摺には触れなかった。
触れたら。
頼っているみたいだから。
青年は階段を降りた。
少しゆっくり。
右足を置くたび、視線だけが足元へ落ちる。
それでも止まらない。
(昔ね)
「今その話?」
(足を縛られた話がある)
「誰が」
(ロキ)
青年の眉が動く。
「何したんだよ」
(いろいろ)
「雑」
(神々に捕まった)
「まあ、そうなるだろうね」
(逃げられないように縛られた)
「ふうん」
(でも)
一拍。
(縛られるまで、ずっと逃げてた)
階段の最後。
青年の右足が床へ降りる。
止まった。
「……何それ」
(分からない)
「慰めてる?」
(多分)
「下手だな」
(初めてだから)
青年は少しだけ笑った。
右足を踏み直す。
感覚。
戻らない。
笑みはすぐ消えた。
その夜。
青年は顔を変えなかった。
宿の鏡には、ここ数日で一番長く使っている顔が映っている。
自分の顔ではない。
けれど。
眉の上がり方。
笑った時の口角。
眠そうな瞼。
いつの間にか見慣れていた。
仮の基準。
そんなものになり始めている。
「今日は休む」
(珍しい)
青年は鏡から視線を外した。
「言うと思った」
(偉い)
「子供扱いするな」
ベッドへ倒れ込む。
腕を目の上へ乗せる。
外から馬車の車輪。
遠い人の声。
壁の向こうでは誰かが咳をした。
誰かが生きている音が、薄い壁を通して入ってくる。
「……なあ」
(何)
「お前」
一拍。
「僕から出たらどうなる?」
壁の向こうの咳が止まった。
(分からない)
「消える?」
(分からない)
「元の場所へ戻る?」
(分からない)
「何なら分かるんだよ」
(昔話)
「それも曖昧じゃん」
(うん)
「役立たないな」
(知ってる)
青年は腕を退け、天井を見る。
「慣れたな」
(何が)
「それ言われても怒らなくなった」
(君も)
「何が」
(僕が喋っても吐かなくなった)
「…………」
青年は天井の染みを見つめた。
そうだった。
最初は。
声がするだけで胃が縮んだ。
耳を塞いだ。
眠れなかった。
今は。
同じベッドに寝転びながら。
普通に話している。
「人間ってすごいね」
(君、人間なの?)
青年が顔をしかめる。
「喧嘩売ってる?」
(冗談)
「覚えたな」
(君から)
「悪影響」
(知ってる)
鼻で笑う。
右手を持ち上げる。
指先。
まだ少し震えている。
右足。
感覚は薄い。
舌。
今は味がする。
青年の笑みが消えた。
「…………」
(ねえ)
「何」
(病院)
「行かない」
(まだ言ってない)
「言うと思った」
(何で)
「普通だから」
(行かないの?)
「説明できない」
青年は天井へ右手を伸ばした。
指を一本ずつ動かす。
「顔が変わります」
一拍。
「頭の中に誰かいます」
手首を回す。
「時々味消えます」
手を下ろした。
「頭おかしいと思われて終わり」
(本当に頭おかしい可能性は)
「お前が言うな」
声が少し笑った気がした。
青年も口元だけで笑った。
それから。
青年は毎朝、自分の身体を確認するようになった。
目を覚ます。
まず右手。
指を曲げる。
左右。
同じ。
立つ。
右足を床へ押しつける。
冷たい。
分かる。
食事。
味。
ある。
顔を変える前。
頭痛。
ない。
大丈夫。
まだ使える。
仕事を続ける。
ある日。
三人目の顔へ変えた時だった。
「こちらで――」
低い男の声。
そのはずだった。
「こちらで待っていてください」
途中から。
女の声になった。
青年の目が僅かに開く。
相手もこちらを見る。
「……今」
「何か?」
青年は即座に女の顔へ変えた。
頬骨。
顎。
喉。
輪郭が滑る。
「喉を痛めていまして」
笑う。
「失礼しました」
相手は少し警戒した。
それでも流した。
青年は仕事を終わらせた。
部屋を出る。
角を曲がる。
誰もいない。
そこで初めて壁へ手をついた。
「……っ」
呼吸が速い。
背中を汗が流れる。
冷たい。
(勝手に変わった)
「分かってる」
(君、変えてないよね)
「分かってるって!」
声が廊下へ響いた。
青年自身が驚き、口を閉じる。
遠くで扉が開く音。
誰かが出てくる前に、さらに奥へ歩く。
二つ目の角。
そこで壁へ背をつけた。
(怒ってる?)
「怖いんだよ」
出た。
青年が止まる。
自分が今、何と言ったのか。
頭の奥の声も。
何も言わない。
「…………」
青年は壁へ背をつけたまま、少しずつ身体を落とした。
「僕」
喉が乾く。
「死ぬの嫌なんだよね」
初めて。
ちゃんと言った。
名前も知らない。
頭の中の何かへ。
(うん)
「まだ」
自分の手を見る。
「食べたいものあるし」
一度、息を吸う。
「寝たいし」
笑おうとする。
上手くいかない。
「金も欲しい」
(うん)
「もっと仕事したい」
(うん)
「もっと」
目を閉じる。
「面白い奴も騙したい」
(それはやめた方が)
「そこだけ止めるな」
青年は笑った。
今度は少しだけ。
笑えた。
けれど。
すぐに顔が戻る。
「……まだ終わりたくない」
頭の中の声が、静かに返した。
(じゃあ)
「何」
(終わらなきゃいい)
青年が目を開く。
「簡単に言うね」
(君、いつも言うじゃん)
「何を」
(使えるものは使う)
一拍。
(なら、生きるために使えるものを探せばいい)
青年の目が僅かに変わった。
「……僕の真似?」
(君の中にいるから)
「それ嫌な言い方」
(ごめん)
「いや」
壁から身体を離す。
息を吐く。
「でも」
右足で床を踏む。
感覚。
ある。
「間違ってない」
次の日。
薄い朝の光で目を覚ました青年は、窓枠の違和感に気づいた。
灰色の小石。
「…………」
顔が止まる。
(あ)
「言うな」
ベッドを降りる。
窓へ近づく。
石へ指を触れる。
冷たい。
普通の石。
あの日。
頭へ落ちたものと。
よく似ている。
「……最悪」
(来る?)
「多分」
窓の外。
細い雨。
路地を傘を差した人間が歩いている。
その流れから外れた場所に。
少年が立っていた。
傘はない。
なのに。
雨粒が服へ触れているはずなのに、濡れているという実感だけが妙に薄い。
青年の胃が縮む。
身体が先に覚えている。
頭の中の声。
箱。
顔。
世界。
全部。
「逃げる?」
(君が?)
「聞いただけ」
(逃げたい?)
青年は答えず、上着を取った。
「話聞く」
(嫌いなのに?)
「嫌いだから聞くんだよ」
外へ出る。
雨が頬へ当たる。
ぽつ。
ぽつ。
少年と向かい合う。
今度は。
世界はすぐには変わらなかった。
荷車が通る。
車輪が水を跳ねる。
軒先から雨水が落ちる。
遠くで店主が客を呼んでいる。
色もある。
音もある。
街は普通に動いている。
だからこそ。
青年は少年から目を離せなかった。
「久しぶり」
「そう?」
「僕の感覚ではね」
少年の目が動く。
顔。
喉。
右手。
右足。
上から下まで。
診察でもするように。
「壊れ始めたね」
青年の笑みが消えた。
雨粒が肩へ落ちる。
「知ってた?」
「うん」
「こうなるって?」
「うん」
一歩。
青年が近づく。
「先に言えよ」
少年は変わらない。
「君は使った」
「便利だったからね」
「止めても壊れる」
青年の足が止まる。
「……何」
「使わなくても」
少年は淡々と言った。
「お前の身体は壊れる」
雨の音が。
急に近くなった。
青年の喉が動く。
「治る?」
「治らない」
即答。
「止められる?」
「止まらない」
「戻る?」
「戻らない」
三つ。
短い言葉。
青年の胸へ、順番に落ちる。
(ねえ)
頭の奥の声。
胃が少し縮む。
こんな時でも。
まだ身体は、その声を異物として認識する。
(帰ろう)
青年は少年を見る。
「それ」
一歩。
「お前が入れたんだよな」
頭を指す。
「顔も」
自分の頬へ触れる。
「身体も」
胸を叩く。
「全部」
少年の服を掴んだ。
小さな身体。
簡単に持ち上がりそうだった。
「僕のだ」
指へ力が入る。
「顔も」
「身体も」
「人生も」
声が低くなる。
「勝手に決めるな」
少年は青年を見た。
「死にたくないんだろう?」
指が止まった。
そこ。
いつも。
こいつは。
一番嫌なところを突く。
「……だから何」
「行く場所がある」
「病院?」
「違う」
「じゃあ?」
少年が一つの名前を言った。
「ゴイ」
青年の眉が僅かに動く。
「誰」
「人間」
少年はほんの少しだけ間を置いた。
「昔、自分を黄金だと思っていた男」
「人を治して、人を切って、人を選んだ」
「残すものと、いらないものを分け続けた」
「夜になるたび、選べと言われて」
一拍。
「何百年も」
少年の目が、どこか遠くを見る。
「今も、まだ選んでる」
「珍しいね」
青年は少年を睨む。
「君が人間紹介するなんて」
「役に立つ」
「何に」
「お前を」
一拍。
「長く使うことに」
青年の目が冷える。
「治せる?」
「治せない」
「止める?」
「止められない」
「なら何」
「遅らせる」
青年の呼吸が止まりかける。
「…………」
「壊れる速度を」
少年は続けた。
「遅くできる」
「どれくらい」
「知らない」
「一ヶ月?」
「あるかもしれない」
「一年」
「あるかもしれない」
「十年」
「分からない」
少年の服を掴む指が震えた。
死。
数字になると。
急に近い。
「……条件」
少年が首を傾げる。
「何」
「ただじゃないんでしょ」
青年は笑った。
怖い。
だから考える。
いつもの詐欺師へ戻る。
「ゴイって奴」
一拍。
「僕に何させる」
「従う」
笑みが止まる。
「誰に」
「ゴイ」
「嫌だね」
「なら行かなければいい」
「…………」
「選べるよ」
青年は乾いた笑いを漏らした。
「選ばせてるふりして」
服を掴む指へ力が入る。
「一個しか残してない」
少年は青年を見る。
「君もやるだろう?」
心臓が。
ドクン。
青年は何も言えなかった。
相手が欲しいもの。
弱いところ。
二つの選択肢。
どちらを選んでも、自分が欲しい場所へ。
何度も。
やってきた。
青年は手を離した。
少年の服に皺が残る。
「嫌な奴」
「そう?」
「褒めてない」
「知っている」
少年が背を向ける。
「待って」
止まる。
「ゴイ」
「どこ」
少年が道を教えた。
街の外。
工業区画。
古い建物。
青年は全部覚えた。
「行けば」
一拍。
「生きられる?」
少年は振り返る。
「長くは」
それだけ。
歩いていく。
雨の向こうへ小さな背中が遠ざかる。
青年はその場に残った。
(行く?)
目を閉じる。
「行く」
(嫌なのに?)
「死ぬよりマシ」
(従う?)
目を開く。
「違う」
(何が)
少年が消えた方向を見る。
「生きるために」
一拍。
「頭下げるだけ」
雨が頬を流れる。
「従うんじゃない」
(結果同じじゃない?)
青年は少し笑った。
「それ」
一拍。
「僕が決める」
頭の奥の声が黙る。
(そっか)
歩き出す。
数歩。
(ねえ)
「何」
(君の名前)
青年の足が少し遅くなる。
「僕の?」
(うん)
「何で急に」
(あの子、君ってしか呼ばない)
「別にいいでしょ」
(僕もずっと君って呼んでる)
「好きに呼べば」
(名前で呼びたい)
青年の口元が少し上がる。
「変なの」
答えようとして。
止まった。
「…………」
(どうしたの)
「いや」
名前。
自分の。
生まれた時。
誰かに呼ばれていたはずの音。
探す。
ない。
「……なんだったかな」
軽く笑う。
でも。
胸の奥だけが冷える。
(忘れた?)
「仕事で」
歩き出す。
「名前変えすぎたから」
(本当に?)
青年は答えない。
雨が少し強くなる。
顔。
名前。
声。
身体。
一つずつ。
自分から遠くなっている。
それでも。
青年はゴイのいる場所へ歩いた。
死にたくない。
その一つだけは。
まだ。
自分のものだと信じながら。
# 第四章 ゴイ
街を出る頃には、雨はほとんど止んでいた。
空だけが低い。
厚い雲が街の上へ蓋をして、遠くの建物まで灰色に滲ませている。
青年は濡れた外套の襟を指で摘んだ。
「……最悪」
(雨?)
「全部」
靴の中まで湿っている。
歩くたび。
ぐち。
ぐち。
嫌な感触。
その感触を確かめている自分に気づき、青年は口元を歪めた。
右足。
ある。
地面。
分かる。
一歩。
次。
一瞬だけ。
石畳が遠くなる。
心臓が。
ドク。
小さく跳ねた。
すぐにもう一度踏む。
ある。
歩ける。
大丈夫。
(確認してる?)
「何を」
(身体)
青年は答えない。
指。
握れる。
右足。
動く。
舌。
さっき水を飲んだ時は味がした。
「癖になった」
(昨日まではしてなかった)
「昨日までは壊れてなかったから」
言った瞬間。
胸の内側が重くなる。
自分の口から出すと。
急に現実になる。
壊れている。
少しずつ。
自分の身体が。
(ごめん)
「何でお前が謝るの」
(僕も入ってるから)
足が止まる。
「お前のせい?」
声はすぐに返らなかった。
(分からない)
「またそれ」
(でも)
少し小さくなる。
(僕が入ってから始まった)
青年は歩き出した。
「箱を渡した奴に聞くべきだったな」
(聞いても答えないと思う)
「それは同意」
数歩。
「そもそも」
濡れた道を見ながら言う。
「昔のお前も、人の身体に勝手に入ったりしてた?」
(……そんな話は思い出さない)
「良かった」
(でも姿を借りる話は多い)
「それは知ってる」
(魚とか)
「それも聞いた」
(女とか)
「聞いた」
(馬とか)
青年の顔が露骨に歪んだ。
「それはもういい」
(八本脚)
「数字足すな」
(本当だよ)
「本当かどうかお前も分からないだろ」
(そうだった)
青年は少しだけ笑った。
まだ笑える。
それが妙にありがたかった。
少年から告げられた場所は街の外れだった。
口頭で聞いただけなのに、道順だけは異様なほど鮮明に残っている。
通り。
橋。
曲がり角。
目印。
忘れようとしても消えない。
「こういうのも嫌なんだよな」
(何が)
「勝手に残されてる感じ」
(あの子、そういうの好きそう)
「決めるのが?」
(全部)
青年の眉が僅かに動く。
(君の役も)
一拍。
(君の顔も)
もう一拍。
(君がどこへ行くかも)
「…………」
(僕、あれ嫌い)
「珍しいね」
(何が)
「お前、昔は神側だったんでしょ」
(だったのかな)
「神話だと」
(神様って一枚岩じゃないよ)
「人間みたいだね」
(もっと面倒だった気がする)
青年は橋へ出た。
雨で増えた川が、濁った水を運んでいる。
どろ。
どろ。
欄干へ手を置く。
冷たい。
指先へ伝わる。
感覚。
ある。
握れる。
青年は、そのことを確かめている自分に気づいた。
(昔ね)
「また?」
(神様たちに捕まったあと、岩に縛られた話がある)
「知ってる。前聞いた」
(その時)
青年は川を見る。
(顔に毒が落ち続けた)
「趣味悪いな」
(妻が器で受けてくれた)
「……へえ」
(でも器がいっぱいになると、捨てに行かなきゃいけない)
声が静かになる。
(その間だけ、毒が顔に落ちる)
青年は欄干を握る手へ視線を落とした。
(痛くて暴れる)
(地面が揺れる)
(それが地震になった、って)
「昔話って何でも理由つけるね」
(そうだね)
青年は少しだけ口元を上げる。
「でも」
(何)
「逃げなかったんだ」
(誰が)
「妻」
声が止まった。
「お前じゃないよ」
(分かってる)
青年は欄干から手を離す。
指先に残った冷たさを一度握り込んだ。
「行こ」
(うん)
目的地が見えた頃には、日が落ち始めていた。
古い工業区画。
人家はない。
使われなくなった倉庫。
錆びた鉄柵。
崩れた煉瓦。
遠くに煙突。
風が吹くたび、外れかけた金属板が。
ぎぃ。
ぎぃ。
鳴っている。
「……ここ?」
(嫌な場所)
「同感」
少年が示したのは、その奥。
周囲より一回り大きな建物。
工場に見える。
煉瓦の壁。
高い窓。
鉄製の扉。
看板はない。
名前もない。
「怪しさ満点だな」
(帰る?)
青年は右足で地面を一度踏んだ。
「帰ったら死ぬんでしょ」
(あの子が言っただけ)
「信じてない?」
(信じるとかじゃない)
「じゃあ?」
一拍。
(嫌い)
「誰を」
(あの子)
青年は僅かに笑った。
「僕も」
(勝手に役を決めるから)
「…………」
(そういうの、嫌い)
青年は鉄扉へ手を置いた。
冷たい。
まだ分かる。
「それ」
一拍。
「昔のお前も?」
(たぶん)
「ラグナロクとか?」
声が少し揺れた。
(それは)
間。
(まだ、よく分からない)
青年は眉を上げる。
「珍しく歯切れ悪い」
(そこだけ、遠い)
「記憶?」
(物語かもしれない)
「自分の昔話なのに?」
(自分だったのかも、まだ分からない)
青年は扉を押した。
ぎぃぃ。
重い。
「そのくらいがちょうどいいよ」
(何が)
扉の隙間から、冷たい空気が流れてくる。
「全部分かってる奴より」
青年は中を見る。
「信用できる」
薬品の匂い。
油。
鉄。
湿気。
何か焦げたような臭い。
「研究所?」
(工場じゃない?)
「どっちでも嫌だな」
中へ入る。
扉が。
がん。
背後で閉じた。
「っ」
肩が僅かに跳ねる。
すぐ振り返る。
鍵。
かかっていない。
それでも。
心臓が一度強く鳴った。
(怖い?)
「うるさい」
(聞いただけ)
「分かってる」
長い廊下。
白い壁。
ただし新しくはない。
塗装はところどころ剥がれ、その下の灰色が覗いている。
天井の灯り。
じじ。
一定の間隔で鳴っている。
床には黒い染み。
水ではない。
油にも見えない。
青年は踏まないように避けた。
奥。
カン。
カン。
金属同士が触れる音。
(いる)
「分かってる」
息を一度整える。
表情を作る。
口元を少し上げる。
肩から力を抜く。
余裕があるように見せる。
いつもの仕事。
青年は歩き出した。
白い壁。
番号だけが書かれた扉。
一つ。
二つ。
三つ。
人の声はない。
奥から。
ずる。
何かを引きずる音。
足が止まる。
(何)
「聞かなかったことにする」
(賛成)
また歩く。
突き当たり。
大きな扉が半分開いている。
その先だけ。
明るい。
青年は扉の横から中を覗いた。
男がいた。
白衣。
背中。
机。
器具。
細い金属管。
透明な瓶。
針。
液体。
布。
乱雑に見える。
けれど。
男が右手を伸ばせば針。
左なら布。
半歩で瓶。
必要なものだけが、必要な距離に置かれていた。
青年が入ってきたことには、とっくに気づいているはずだ。
男は振り返らない。
「……ゴイ?」
返事なし。
男は透明な容器を見ている。
液体。
中に何かが沈んでいる。
青年は少し近づいた。
足が止まる。
人の指。
数本。
「…………」
胃が縮む。
(帰ろう)
「早い」
(これ見て残る理由ある?)
「死にたくない」
少し間。
(……そっか)
男が初めて口を開いた。
「遅い」
振り返らない。
青年の眉が寄る。
「……初対面だよね?」
「だから?」
「普通もうちょっと」
青年は周囲を見る。
「誰だ、とか」
「知っている」
笑みが一瞬止まった。
「へえ」
(こいつ嫌い)
口元が僅かに動く。
「奇遇だね」
「何が」
「独り言」
「なら黙れ」
青年のこめかみがぴくりと動いた。
(嫌い)
「分かる」
「何がだ」
「こっちの話」
男がようやく振り返った。
青年は笑顔を作る。
そして。
読む。
顔。
目。
呼吸。
姿勢。
指先。
白衣の汚れ。
視線。
癖。
いつも通り。
相手を部品へ分けていく。
数秒。
青年の笑みが少し薄くなった。
読めないのではない。
違う。
向こうも。
同じことをしている。
目。
口。
喉。
肩。
右手。
右足。
呼吸。
瞬き。
青年がゴイを見るより先に。
ゴイは青年を見終えている。
見下している。
そう感じた。
敵意ではない。
警戒でもない。
興味とも違う。
人間を見る目ではない。
器具。
部品。
材料。
状態を確認する目。
青年はその視線を知っていた。
あの少年と。
少し似ている。
「君がゴイ?」
「ああ」
「僕のこと知ってる?」
「ああ」
「誰から」
「聞いている」
「誰に」
ゴイは答えない。
青年の笑みが僅かに固くなる。
「子供?」
ゴイの目がほんの少し青年へ向く。
それを見逃さない。
「ああ」
青年は笑った。
「やっぱり」
「それがどうした」
「いや」
一歩。
部屋へ入る。
「僕さ」
声は柔らかい。
「勝手に箱開けさせられて」
一歩。
「頭の中に変なの入れられて」
(変なの?)
「今は黙って」
一歩。
「顔まで取られて」
ゴイの前で止まる。
「身体まで壊されてるらしいんだけど」
青年は笑う。
「説明してくれる?」
ゴイの視線が動いた。
目。
鼻。
口。
喉。
腕。
手。
「右手」
「何?」
「出せ」
青年の笑みが消える。
「質問に答えて」
「出せ」
「会話できない?」
「お前が生きたいなら出せ」
心臓が。
ドクン。
青年の目が細くなる。
ずるい。
こいつも知っている。
自分が死にたくないことを。
青年はゆっくり右手を出した。
「はい」
ゴイが手首を掴む。
肩が僅かに硬くなる。
脈。
瞼。
口。
喉。
耳。
顎。
順番に触れていく。
「触るよ」
青年が言う。
「もう触っている」
「そういう意味じゃない」
ゴイは無視した。
顎を持ち上げる。
(殴っていい?)
青年の目が一瞬だけ横へ動く。
「僕が先」
「何だ」
「こっちの話」
ゴイの手が止まった。
「さっきから」
青年を見る。
「何と話している」
青年の目が僅かに動く。
初めて。
ゴイの視線に、測定以外の揺れが入った。
「……聞こえないの?」
「何が」
青年は数秒黙った。
(やめとく?)
口元がゆっくり上がる。
「なるほど」
「何だ」
「君には聞こえないんだ」
ゴイの眉がほんの少し動く。
(今の顔、性格悪い)
「知ってる」
「誰だ」
青年は楽しそうに笑った。
「さあ?」
「答えろ」
「僕も知らない」
(本当だもんね)
「本当に」
ゴイは青年を長く見た。
次に青年の瞳孔。
次に脈。
そして手を離した。
「不純物か」
(は?)
青年の眉がぴくりと動く。
「人の頭の中の相手を不純物って」
「人とは限らない」
笑みが止まった。
「……何?」
ゴイは机へ戻る。
「座れ」
「説明」
「座れ」
「先に説明」
「そのまま立って死にたいなら好きにしろ」
「…………」
(こいつ本当に嫌い)
「僕も」
青年は椅子へ座った。
「座ればいいんでしょ」
ゴイは針を取る。
金属が灯りを反射する。
青年の右手が、無意識に椅子の縁を掴んだ。
「何するの」
「調べる」
「何を」
「どこから壊れているか」
背中に汗が浮く。
「分かるの?」
「見ればな」
一拍。
青年は聞いた。
「治せる?」
ゴイの手が。
ほんの一瞬。
止まった。
青年はその一瞬を見た。
答えが来る前に。
分かった。
「治らない」
胸の奥へ重いものが落ちる。
「止められる?」
「無理だ」
「じゃあ何ができる」
針が腕へ入る。
ちく。
血。
「遅らせる」
青年の呼吸が少し止まる。
「どれくらい」
「お前次第」
「何それ」
「使えば壊れる」
「顔?」
「ああ」
「使わなければ」
「それでも壊れる」
青年は笑った。
「随分いい身体もらったな」
「もらった?」
ゴイが見る。
「違うの?」
「与えられたと思うな」
「じゃあ?」
「埋め込まれた」
呼吸が一瞬止まる。
青年は自分の胸へ指を向ける。
「こいつ?」
(僕?)
ゴイは青年の手を見る。
「一つではない」
「分かるように言って」
「顔を失ったこと」
一つ。
「他者の形を保持すること」
二つ。
「内部に残った何か」
(何かって)
三つ。
「それら全部が」
ゴイは採った血を光へ透かした。
青年ではなく。
血を見る。
「お前を削っている」
薬品の匂い。
灯りの微かな音。
じじ。
青年は自分の呼吸を聞いた。
心臓。
ドク。
ドク。
さっきまでより。
少し遠い。
「……僕」
声が小さくなる。
「どれくらい生きる」
「知らない」
青年は笑いそうになった。
「みんな同じこと言うね」
「誰と比べている」
「あの子」
「そうか」
青年は天井を見る。
白い。
染み一つない。
「一ヶ月?」
「あり得る」
「一年」
「あり得る」
「十年」
「今のままなら可能性は低い」
唾を飲む。
喉が乾いている。
「じゃあ」
ゴイを見る。
「君が診れば」
「延ばせる」
「十年?」
「保証しない」
「五年」
「保証しない」
「一年」
「保証しない」
青年の口元が歪む。
「保証ないなあ」
「欲しいなら他へ行け」
「他にいる?」
「いない」
「だろうね」
青年は笑った。
膝の上では。
手を強く握っていた。
爪が掌へ食い込んでいる。
(怖い?)
「黙って」
(うん)
青年はゴイを見る。
白衣。
冷たい目。
人間として見ていない。
嫌い。
もう完全に嫌い。
でも。
この男しかいない。
「……条件は?」
ゴイの手が止まる。
「何の」
「ただでやるわけないでしょ」
青年は笑顔を戻した。
「僕、人を騙す仕事してるから」
目を細める。
「こういう話に裏があるの知ってるんだ」
「働け」
「ほらね」
「私の指示に従え」
青年の笑顔が一瞬止まる。
「嫌だって言ったら?」
「好きにしろ」
ゴイは針を抜く。
赤い血が一滴。
「次に崩れた時」
布で押さえる。
「ここへ来ても」
青年を見る。
「診ない」
「…………」
「それだけだ」
青年は小さな針跡を見る。
なのに。
首へ何かを巻かれたような感覚がした。
(断ろう)
青年の目が揺れる。
(こいつ嫌い)
「知ってる」
(他探そう)
「いないって」
(こいつが言っただけ)
「でも」
右手を見る。
今は震えていない。
朝。
味。
足。
声。
思い出す。
この先。
もっと消える。
身体。
なくなる。
死ぬ。
怖い。
(……ねえ)
声が静かになる。
(無理しなくていい)
胸が小さく締まった。
「無理じゃない」
(でも)
「生きるだけ」
青年はゴイを見る。
「頭下げるだけで」
一拍。
「生きられるなら」
少し笑った。
「安いでしょ」
誰へ言っているのか。
自分でも分からない。
ゴイへ。
頭の中の誰かへ。
それとも。
自分へ。
「決めたか」
数秒。
青年は黙った。
椅子へ身体を預ける。
「いいよ」
軽く言う。
「働く」
「従え」
「そこ言い方変えない?」
「必要ない」
「本当に嫌いだなあ」
「問題ない」
「僕にはある」
「なら帰れ」
「帰らない」
即答だった。
自分でも嫌になるくらい。
早い。
ゴイは何も言わない。
青年は笑う。
「だって」
肩をすくめる。
「死にたくないし」
初対面の男へ。
あまりにも簡単に言った。
少し前なら。
絶対に言わなかった言葉。
ゴイは慰めない。
笑わない。
蔑まない。
ただ青年を見た。
「なら使える」
それだけ。
青年の胸の奥が冷えた。
「……使える、ね」
(帰ろう)
「帰らない」
(でも)
「大丈夫」
(またそれ)
青年は笑顔を作る。
「今度は」
一拍。
「本当に大丈夫」
頭の中から。
返事はなかった。
その日から。
青年には新しい日常ができた。
一定の間隔でゴイのもとへ戻る。
廊下。
白い壁。
同じ灯り。
じじ。
同じ薬品の匂い。
同じ椅子。
血を抜かれる。
薬を入れられる。
身体を調べられる。
右手。
足。
舌。
目。
喉。
数値。
状態。
そして仕事を与えられる。
名前を変える。
顔を変える。
声を変える。
知らない街へ行く。
知らない人間へ近づく。
噂を流す。
情報を抜く。
誰かへ化ける。
誰かを信じさせる。
最初は。
それでよかった。
金の代わりに。
命が延びる。
報酬が変わっただけ。
青年は。
そう思うことにした。
ある日。
治療を終え、いつもの廊下を歩いていた。
じじ。
灯り。
薬品。
白。
番号。
変わらない。
その中に。
一つだけ。
いつもとは違うものがあった。
扉。
半分。
開いている。
青年は通り過ぎた。
そのはずだった。
三歩。
「…………」
足が止まる。
(何)
「いや」
一歩戻る。
扉を見る。
「今」
一拍。
「人いた?」
(いた)
「患者?」
(分からない)
青年は部屋を覗いた。
白い部屋。
簡素なベッド。
机。
椅子。
そして。
子供。
いや。
少年。
そこに座っている。
「…………」
動かない。
本が置いてある。
読んでいるわけではない。
窓がある。
見ているわけでもない。
ただ。
座っている。
「何あれ」
(人)
「見れば分かる」
青年は部屋へ一歩入った。
「こんにちは」
少年の顔が上がる。
「こんにちは」
返事はする。
ちゃんと。
「名前」
「0」
「…………」
青年の眉が上がる。
「ゼロ?」
「はい」
「それ名前?」
「そう呼ばれています」
(変なの)
「僕も今それ言おうとした」
0の視線が青年へ向く。
青年はその目を見る。
静か。
でも。
違う。
あの少年とは違う。
あの子供の空っぽさとは。
似ているようで。
まるで違う。
あちらは。
奥に何か巨大なものがあるのに。
人間の反応だけがない。
こっちは。
本当に。
まだ何も置かれていないような。
空白。
青年は0の前へ立った。
少し身体を傾ける。
右。
0の目が追う。
左。
追う。
青年の口元が僅かに上がった。
「僕、怖くない?」
「分かりません」
「何が」
「怖いが」
「…………」
青年は少し笑った。
「面白いね、君」
(玩具見つけた顔)
「うるさい」
0が僅かに首を傾げる。
「誰かいますか」
青年の目が止まった。
「……聞こえた?」
「いいえ」
「じゃあ何で」
「誰かに返事をしているように見えました」
青年は数秒。
0を見る。
視線。
口元。
呼吸。
顔。
どこにも怯えはない。
警戒もない。
好奇心すら。
まだ薄い。
青年の口元がゆっくり上がる。
「へえ」
(気に入った?)
「ちょっと」
青年は0の前へしゃがんだ。
同じ高さまで目線を落とす。
「ねえ」
「はい」
机の上。
紙が二枚。
赤。
青。
青年は指先で二枚を少し離した。
「赤と青なら」
0の目が紙へ落ちる。
「どっちが好き?」
赤。
青。
見る。
「どちらでも」
「駄目」
0が青年を見る。
「?」
「今から」
青年は笑った。
「どっちでもいいは禁止」
(勝手なルール)
「選んで」
0は再び紙を見る。
赤。
青。
窓から入る白い光が、二枚へ同じように落ちている。
どちらもただの紙。
青年は何も言わない。
急かさない。
0の目だけが。
赤。
青。
赤。
青。
ゆっくり動く。
長い。
沈黙。
「……青」
青年の目が僅かに開いた。
「何で」
「分かりません」
「いや、選んだでしょ」
「はい」
「じゃあ何かあった」
0は考える。
今度は。
さっきより少し長く。
赤を見る。
青を見る。
そして。
「赤より」
ほんの少し。
間。
「目が痛くなかったので」
青年が止まった。
じじ。
天井の灯り。
廊下の向こうで。
カン。
何かの金属音。
それまで背景だった音だけが、一度耳へ戻ってくる。
(嬉しそう)
「何が」
(君)
「別に」
青年は青い紙を摘まんだ。
0へ放る。
紙は一度空気を受けて。
0の膝へ落ちた。
「それあげる」
「必要ありません」
「返さなくていい」
(玩具扱い)
「そうだよ」
青年は立ち上がった。
口では。
そう言った。
部屋を出る。
白い廊下。
じじ。
薬品の匂い。
番号だけの扉。
青年は数歩進んだ。
右手は。
まだ動く。
右足も。
まだ地面を感じる。
自分の名前は。
思い出せない。
それでも。
背後の部屋には。
今。
青を選んだ奴がいる。
青年は。
少しだけ笑っていた。
理由は。
まだ。
考えなかった。
第三章「崩れはじめる」/第四章「ゴイ」でした。
今回は、青年の身体が本格的に壊れ始める話です。
右手、味覚、足、声。
少しずつ、自分のものだったはずの身体が自分から遠くなっていきます。
それでも青年は、
「歩けるなら使える」
「まだ終わりたくない」
と、止まろうとしません。
そしてようやく登場したゴイ。
青年にとっては最悪の相手ですが、生きるためにはこの男の手を借りるしかない。
「従うんじゃない。僕が決める」
そう言い聞かせながら始まった関係が、この先どう変わっていくのか。
そして最後に登場した0。
何も欲しがらず、何も選ばなかった0が、ほんの小さな理由で「青」を選びます。
青年が少しだけ笑った理由は、まだ本人も分かっていません。
ここから、青年と0の関係も動き始めます。




