KillerWorld ―イース編―「見つけた/顔のない男」
あらすじ
人の欲しい顔を作り、欲しい言葉を与え、信じたい物語へ入り込む。
そんな生き方をしていた、一人の詐欺師。
ある仕事帰り、青年は商店街で奇妙な少年と出会う。
感情が読めない。
恐怖もない。
そして少年は、青年の生き方そのものを知っていた。
「君には、顔はいらないね」
その日、青年は自分の顔を失った。
代わりに手に入れたのは、他人の顔も、声も、姿も借りることのできる異質な力。
さらに頭の中には、名前も正体も分からない“誰か”の声まで住みついてしまう。
顔を奪われた青年は、それでも笑う。
――悩んでも返ってこないなら、使えばいい。
後に数々の悲劇の裏側へ姿を現す、顔のない男。
これは、まだ彼が何者でもなかった頃の物語。
# 第一章 見つけた
ある青年がいた。
顔立ちは整っていた。
鼻筋は通っている。目元も悪くない。髪も肌も、それなりに手入れされている。
街ですれ違えば、少し目を引く。
けれど翌日になれば、どんな顔だったかうまく思い出せない。
目は細かったか。
口元に癖はあったか。
輪郭は丸かったか、それとも細かったか。
会っている最中は確かにそこにいるのに、離れた途端、記憶の中から細部だけが抜け落ちていく。
青年自身は、その顔を気に入っていた。
仕事に都合がよかったからだ。
その日の彼は、三年前に街を出た商家の息子だった。
もちろん、本当にそんな家に生まれたわけではない。
昼過ぎから二時間ほど、古い集合住宅の一室で中年の女と向かい合っていた。
「本当に……帰ってきてくれたのね」
女の目には涙が浮かんでいる。
青年はすぐには答えなかった。
一度、伏し目になる。
唇を僅かに噛む。
言いたいことがあるのに、罪悪感で言葉にできない。
そんな顔を作ってから、ようやく女を見る。
「……遅くなって、ごめん」
それだけだった。
女の肩から力が抜けた。
青年は心の中で三つ数える。
一。
二。
三。
女が泣いた。
予想通りだった。
その後は簡単だ。
青年はほとんど喋らない。
相手が喋る。
青年は聞く。
時折目を伏せ、必要な場所だけで手を握る。
人は、自分で作った物語ほど疑わない。
青年がやることは、その物語に少しだけ形を与えることだった。
最後に女は棚の奥から封筒を出した。
「これ……使って」
「でも」
「いいの。あなたのお父さんも、きっとそうするから」
一度断った。
二度目も迷った。
三度目でようやく、青年は震える手を演じながら受け取った。
「……必ず返す」
返すつもりなどない。
それでも女は笑った。
その笑顔を見届けてから、青年は部屋を出た。
玄関が閉まる。
まだ演技は終わらない。
三階。
二階。
一階。
建物の外へ出て、さらに角を一つ曲がる。
「…………はぁぁ」
ようやく肩が落ちた。
首元のボタンを一つ外し、肺の奥に溜めていた空気を吐き出す。
そのまま欠伸。
「ふぁぁ……疲れた」
さっきまでとは声も違う。
少し低く、気が抜けている。
誰にも聞かせる必要のない声だった。
青年は封筒を上着へ押し込み、両手をポケットへ入れた。
仕事は終わり。
ここからは自分の時間だ。
夕方前の街には、まだ昼の熱が薄く残っていた。
古い商店街。
三、四階ほどの雑居ビルが隙間なく並び、色褪せた看板と雨垂れの黒い筋が続いている。
魚屋の店主がホースで床を流していた。
生臭い水が石畳の窪みへ溜まる。
食堂からは油。
換気扇の低い唸り。
八百屋の木箱。
自転車のベル。
店先で値段を言い合う声。
頭上には何本もの電線。
その隙間から見える空は白く濁っている。
「飯……どうしようかな」
足取りは遅い。
「肉……いや、今日は重いな」
数歩。
「麺……」
欠伸。
「店入るのもめんどくさいな」
自分で言って、少し笑った。
演技ではない。
誰かに好かれるためでもない。
ただの笑いだった。
その時。
――コツン。
「いっ……て」
頭頂部へ小さな衝撃。
青年は反射的に頭へ手を当てる。
足元。
ころ。
ころころ。
灰色の小石が排水溝の縁で止まった。
「石?」
上を見る。
窓。
物干し竿。
室外機。
屋上。
誰もいない。
青年は屈んで小石を拾った。
「いてて……」
頭を擦る。
そして、小石を掌で転がしながら笑った。
「普段の行いかな」
悪いことをしている自覚はある。
「これで済むなら、神様も随分優しいね」
そう言って顔を上げた。
笑顔が止まった。
商店街の先。
路地へ入る手前。
小さな少年が立っていた。
三歳。
大きく見ても、その程度。
薄い色の服。
小さな靴。
汚れていない。
怪我もない。
どこにでもいる子供。
そう見える。
なのに。
青年の胸の奥に引っかかる。
仕事柄、人を見る。
視線。
指。
肩。
足。
呼吸。
顎。
人間は隠そうとしても、身体のどこかで感情を喋る。
子供ならなおさらだ。
知らない大人を見れば固くなる。
親を探せば首が動く。
不安なら服を握る。
興味があれば目が動く。
少年には。
何もなかった。
ただ青年を見ている。
瞬きが少ない。
胸が呼吸で上下しているのかすら分かりづらい。
首筋を汗が流れた。
歩いていたからだ。
そう理由をつける。
青年は笑顔を消した。
「おい」
少年は動かない。
「こんな所で一人で何してる」
問いかけではない。
答えろ。
そういう声。
反応なし。
「名前」
無言。
「親は?」
無言。
「聞こえてるよな?」
青年は距離を縮める。
「迷子なら交番へ行く。違うなら家へ帰れ」
一拍。
「どっちだ」
二択。
本人が選んでいるように見せながら、青年が用意した枠の中でしか選べない。
何百回も使ってきた方法だった。
少年は。
どちらも選ばなかった。
青年を見る。
顔ではない。
皮膚の下。
骨。
頭蓋骨の内側まで。
見られているような。
そんな視線。
青年の背中に汗が浮く。
今度は暑さではない。
緊張だ。
ドクン。
心臓が一度強く鳴る。
「お前、さっき石投げたか?」
少年の口が初めて動いた。
「見つけた」
「……何を?」
言ってから気づく。
相手の言葉に乗った。
青年はすぐ表情を戻した。
「違う。今は僕が聞いてる」
指を向ける。
「名前」
無言。
「誰に言われて来た?」
無言。
「僕を知ってるのか?」
無言。
指先が冷える。
心音が速い。
それでも頭は動く。
薬。
病気。
宗教。
誰かに仕込まれた。
依頼人。
今日の女。
恨み。
一つずつ消す。
拘束痕なし。
怪我なし。
泣いた跡なし。
そして。
恐怖がない。
まるで。
中に何も入っていない。
その考えが浮かんだ瞬間。
ぞわっ。
鳥肌。
少年がもう一度言う。
「見つけた」
「だから、何を」
少年は指を上げた。
青年の顔。
「君」
ドン。
心臓。
「ずっと探してた」
青年は目を細めた。
「…………?」
何かが。
違う。
少年ではない。
その向こう。
商店街。
さっきまで白く濁っていた空が、僅かに暗い。
雲。
そう思った。
けれど。
違う。
暗くなったのは。
空だけだった。
青年の視線が動く。
赤い看板。
その赤が。
端から。
ゆっくり抜けていく。
「……は?」
瞬き。
一度。
二度。
戻らない。
赤かった文字が。
青白い。
魚屋。
店主はまだホースを持っている。
水が。
石畳を流れている。
その水面に映る空だけが。
黒い。
「おい」
少年は動かない。
「何した」
返事はない。
青年は一歩下がった。
靴底。
濡れた石畳を擦る。
その瞬間。
足元から。
ぞわ。
色が反転した。
「――っ」
濡れた石。
靴。
壁。
店先の木箱。
看板。
青年から遠ざかるように。
順番に。
世界が写真のネガのような色へ変わっていく。
速くない。
だから。
見える。
何が。
どの順番で。
壊れているのか。
「……なんだよ、これ」
人影。
横。
青年は反射的に見る。
買い物袋を持った男。
普通に歩いている。
「ちょっと」
止まらない。
「おい!」
肩へ手を伸ばす。
途中で。
止まった。
男の肌。
血色がない。
頬。
唇。
指。
青白い。
なのに。
歩いている。
何も起きていないように。
青年の手が。
ゆっくり下がる。
「…………」
息が浅くなる。
はっ。
はっ。
青年の目だけが忙しく動く。
魚屋。
食堂。
八百屋。
自転車。
通行人。
路地。
出口。
全部ある。
建物の位置も。
道幅も。
人の数も。
何も変わっていない。
だから。
余計に。
おかしい。
知っている街の形をした。
知らない場所。
青年は少年を見る。
そこで。
初めて気づいた。
少年だけ。
変わっていない。
薄い服。
肌。
髪。
小さな靴。
元の色。
「……お前」
ブゥゥン……。
換気扇。
まだ聞こえる。
水。
流れている。
自転車。
ベル。
人の話し声。
ある。
青年の喉が。
僅かに動く。
音がある。
それだけで。
まだ。
現実の側に足を置いている気がした。
次の瞬間。
ブ――
換気扇の音が。
途中で切れた。
「…………」
青年の目が上がる。
羽根。
回っている。
なのに。
音だけがない。
「……は?」
魚屋。
ホース。
水。
流れている。
石畳へ当たっている。
音が。
ない。
青年の首が動く。
自転車。
目の前を横切る。
乗っている男がベルを押す。
指が動いた。
鳴らない。
いや。
ベルそのものは。
震えている。
「待て」
通行人。
口が動く。
笑っている。
何か話している。
聞こえない。
「待てよ」
一つずつ。
音だけが。
世界から剥がれていく。
街は。
まだ動いている。
水も。
人も。
自転車も。
換気扇も。
動いている。
なのに。
音がない。
青年の呼吸。
はっ。
はっ。
それだけ。
心臓。
ドクン。
ドクン。
自分の内側だけが。
うるさい。
青年は。
ゆっくり。
少年へ視線を戻す。
反転した街。
音のない人間。
その中央。
少年だけが。
元の世界に立っている。
「……何した」
少年は。
答えない。
青年の指先。
冷たい。
背中。
汗。
逃げ道はある。
路地。
右。
十数歩。
左。
人が多い。
後ろ。
大通り。
分かる。
全部。
見えている。
なのに。
身体が。
逃げても意味がないと。
先に理解している。
青年は。
少年から目を逸らさなかった。
少年の手。
何もなかった掌。
そこへ。
小さな箱が現れた。
黒。
掌ほど。
木でも。
石でも。
金属でもない。
継ぎ目はある。
鍵穴も蝶番もない。
少年が差し出す。
「贈り物」
「いらない」
「中を見てないよ」
「君からって時点で嫌」
「開けて」
「嫌」
「開けるよ」
青年の眉が寄る。
「何その自信」
「君はそういう人だから」
「決めつけるね」
「観測しただけ」
青年は箱を見る。
その言葉が気に入らない。
だから受け取った。
「爆発?」
「しない」
「毒?」
「違う」
「死ぬ?」
「すぐには」
「返す」
「開けて」
少年は急かさない。
ただ待っている。
青年は箱を見る。
開けなければいい。
それで終わる。
なのに。
何が入っている。
何故自分へ。
少年は何者か。
疑問が増える。
指が縁へ近づく。
「ほら」
「何」
「もう開けるって決めた」
「決めてない」
「決めたよ」
青年は少年を睨む。
そして。
親指を掛けた。
かちり。
存在しなかった継ぎ目が開く。
「……何だこれ」
蓋を上げる。
空。
そう見えた。
「何も――」
箱の底から。
黒いものが立ち上った。
煙ではない。
影でもない。
「っ!」
青年は箱を放った。
黒いものが顔へ飛ぶ。
「待――」
身体のどこから入ったのか分からない。
鼻でも。
口でも。
額でもない。
もっと。
自分そのものへ。
潜り込んでくる。
「――ッ!」
青年は頭を押さえた。
頭蓋骨の内側を。
何かが這う。
「何だよ、これ……!」
胃が持ち上がる。
膝が折れかける。
少年は。
そこで。
昔話を始めた。
「昔」
青年は睨む。
「……何」
「ずっと昔。北の土地に、一つの物語があった」
反転した街。
色を持つ少年。
「そこには、ロキと呼ばれたものがいた」
「ロキ?」
「君に少し似てる」
「会ったことあるみたいに言うね」
「嘘をついた」
一歩。
「姿を変えた」
一歩。
「男にも」
一歩。
「女にも」
少年の目が僅かに細くなる。
「獣にも」
「……変なの」
「そうだね」
「褒めてる?」
「どちらでもない」
少年は続ける。
「決められた役が嫌いだった」
「正しいと言われたものに穴を探した」
「誰かが終わりだと言えば、本当に終わったのか確かめた」
「神にも嘘をついた」
「人にも嘘をついた」
「問題を起こした」
「そして」
一拍。
「その問題を解決したこともある」
青年の頭痛。
ずき。
「どっちなんだよ」
「どちらでもあった」
「最悪じゃん」
「君と似てる」
「失礼だな」
少年は青年を見る。
「一度、女神の髪を切った」
「急に何の話」
「悪戯で」
「子供かよ」
「怒られたから」
少年は淡々と。
「もっと美しい髪を作らせた」
「自分で?」
「他人に」
「本当に僕に似てる?」
「自分で壊して」
一拍。
「他人を使って直した」
「…………」
青年は黙った。
「その途中で」
少年が続ける。
「神々の宝まで増えた」
「結果良ければ全部いいみたいに言うなよ」
「言ってないよ」
青年は頭を押さえる。
「で」
息を吐く。
「何でその話を僕にする」
少年が落ちた箱を見る。
「その残り香を」
青年の目が止まる。
「君へ入れた」
「…………は?」
「本人じゃない」
少年は言う。
「昔の神そのものでもない」
「じゃあ何」
「残ったもの」
「形を変える」
「境界を曖昧にする」
「決められた結果へ穴を作る」
「そういうもの」
青年の喉が乾く。
「勝手に?」
「箱を開けたのは君だよ」
「お前が開けろって言った!」
「でも」
幼い声。
「最後に触ったのは君」
胸の奥がざらつく。
「君の運命への」
少年。
「ささやかな贈り物」
「返品する」
「難しい」
「ふざけんな」
「君たち」
少年の口元。
ほんの少し。
上がる。
「お似合いだと思うよ」
その瞬間。
頭の奥。
自分ではない場所から。
声。
(――聞こえる?)
「――ッ!」
青年の肩が跳ねた。
耳を塞ぐ。
(聞こえてるよね)
「黙れ!」
声を出した瞬間。
青年自身がぞっとした。
少年は口を閉じている。
なのに聞こえる。
頭蓋骨の内側。
自分が考える場所と。
ほとんど同じところ。
「……誰だ」
少年へではない。
(それ、僕も知りたい)
「は?」
胃。
きゅ。
(ここ……どこなんだろう)
「出てけ」
(出方が分からない)
「知らないよ!」
吐き気。
頭蓋の内側を指で撫でられているような感覚。
自分の思考へ他人の指が触れている。
「今の……僕じゃないよな」
少年を見る。
少年は答えない。
(多分)
「お前に聞いてない!」
自分の声だけが響く。
青年は急に怖くなった。
誰もいない相手へ。
自分は喋っている。
「これから」
少年の声。
影が一斉に伸びる。
「人間を選ぶ」
青年が顔を上げる。
「……何?」
「残す人間」
通行人の一部へ色が戻る。
「捨てる人間」
別の人間から輪郭が薄れる。
「自分が正しいと思って、他人の答えまで奪う人間」
「失ったものを、終わった後まで残そうとする人間」
「他人の良いところを集めて、自分が何だったか分からなくなる人間」
「必要とされるために、好きな人から選ぶことを奪う人間」
「悲しいことも。怖いことも。寂しいことも。全部怒りに変えて、生き続ける人間」
「何の話してる」
「何も持たないから、測れない人間」
少年は青年を見る。
「昔から同じ」
「国が変わっても」
「時代が変わっても」
「名前が変わっても」
一歩。
また。
一歩。
「人間は同じところで間違える」
青年は下がらない。
「だから」
少年。
「測る」
街から色が抜ける。
「選ぶ」
一部だけ戻る。
「残す」
その色だけが鮮明になる。
「いらないものは捨てる」
一瞬。
世界が真っ白になる。
「……誰が」
「僕が」
即答。
青年は笑った。
笑うしかなかった。
「随分偉そうだね」
「そうだよ」
「否定しないんだ」
「何故?」
「普通は謙遜する」
「必要ない」
少年の視線が青年の顔へ移る。
「君は誰にでもなるね」
青年の目が細くなる。
「何の話」
「相手が欲しい顔をする」
「欲しい声を出す」
「欲しい言葉を言う」
「誰に聞いた」
声が低くなる。
「答えろ」
青年は少年の腕を掴んだ。
「遊びは終わり」
強く。
「誰の差し金だ」
少年は痛がらない。
「君には」
青年の呼吸が止まる。
「顔はいらないね」
「…………は?」
「誰にでもなる」
「仕事だから」
「誰のふりもする」
「だから何」
「なら」
首を傾げる。
「一つしかない顔は邪魔だろう?」
「違う」
「何が?」
「仕事で誰かのふりをするのと」
ドク。
「僕が僕じゃなくなるのは」
ドク。
「別だろ」
「顔がなくなったら君じゃなくなる?」
「そういう話じゃない」
「じゃあ何?」
「僕のものだ」
青年は顔を指す。
「これは僕のだ」
「だから?」
「使うのも」
息。
「捨てるのも」
少年を見る。
「僕が決める」
沈黙。
少年は青年を長く見た。
「そう」
ほんの少し。
笑う。
「なら、ちょうどいい」
空いている手。
青年の額へ。
頭の奥。
(――触らせない方がいい)
青年の身体が硬直する。
声が入るだけで。
まだ。
吐きそうになる。
「黙ってろ……!」
(僕も嫌な感じがする)
「黙れ!」
少年の指が額へ触れる。
反転していた世界から。
色そのものが消失した。
「離せ」
少年。
「今日から」
青年の指先。
震える。
「君は」
心臓。
ドクン。
「顔を持たない」
「待――」
――ぶち。
頭の奥で。
何かが。
千切れた。
# 第二章 顔のない男
――ぶち。
青年の視界が白く弾けた。
「――ッ……!」
額から温度が消える。
眉間。
目。
頬。
鼻。
唇。
自分の顔に存在していた感覚が、一つずつ切り離される。
顔の内側。
ぐ。
引かれる。
「ぁ……ッ!」
皮膚。
肉。
骨。
自分という輪郭まで。
引き抜かれる。
「やめ……!」
頭の奥。
(逃げ――)
「黙れ!」
青年は両手で耳を塞ぐ。
意味がない。
声は耳から入っていない。
頭の中。
自分しか入れないはずの場所。
そこに。
誰かがいる。
(聞こえる?)
「喋るな!」
吐き気。
胃が持ち上がる。
少年の指。
額。
そこだけ温度がない。
「返せ……!」
顔を押さえる。
皮膚はある。
なのに。
自分のものではない。
「僕の顔……返せ!」
「もういらない」
「僕がいるんだよ!」
声が途中で変わる。
「ぼ、僕が……」
高い。
知らない声。
青年が固まる。
(今、声も変わった)
「言うな……!」
胃がきゅっと縮む。
頭の中に声が入るたび。
身体が異物を吐き出そうとする。
「出てけ」
(僕も出たい)
「嘘つけ」
(分からないんだ)
「じゃあ黙れ!」
少年が言う。
「慣れるよ」
「お前……!」
「そのうち」
「勝手に入れたくせに!」
「箱を開けたのは君だよ」
青年の動きが止まる。
「僕は開けてと言った」
「お前が誘導した!」
「でも」
少年。
「最後に開けたのは君」
青年の奥歯が鳴る。
「それとこれとは違う」
「どう違う?」
「顔は僕が選んでない!」
「そうだね」
あっさり。
少年が認める。
青年の方が一瞬詰まる。
「顔は僕が選んだ」
「……最低だな」
「知っている」
「それも否定しないんだ」
「必要ないから」
腹が立つ。
怖い。
気持ち悪い。
頭の中。
異物。
それでも。
少年は何も変わらない。
「神様ってもう少し優しいと思ってた」
「僕は神じゃない」
「じゃあ何なんだよ」
少年は答えない。
代わりに。
(それ、僕も知りたい)
「――っ」
青年はこめかみを押さえる。
「急に入ってくんな……」
(どこからが急なのか、僕にもまだ分からない)
「何それ」
(君が考えてる場所と僕がいる場所が、近い)
「最悪」
(僕もそう思う)
青年の眉が動く。
「……お前も?」
(君の考えが流れてくる時がある)
青年の顔が止まった。
「聞くな」
(勝手に来る)
「僕だって勝手に聞かされてる!」
(それは、ごめん)
「謝れるんだ」
(多分)
「多分禁止」
(難しいな)
「喋るな」
(分かった)
声が消える。
青年は大きく息を吐いた。
安心。
してしまった。
そのことが一番気持ち悪かった。
世界の色は。
いつの間にか戻っていた。
黒い空。
消えている。
いつもの商店街。
赤い看板。
濡れた石畳。
人。
音。
少年。
いない。
「…………」
青年は立とうとする。
「うっ……」
胃。
逆流。
びちゃ。
道路へ吐いた。
魚屋の水へ胃液が混ざる。
水音。
聞こえる。
換気扇。
唸っている。
自転車のベル。
遠くで鳴った。
さっきまで失われていた音が。
全部。
何事もなかったように戻っている。
「気持ち悪……」
(僕?)
「喋るなって!」
周囲の人間が見る。
青年は固まった。
誰もいない場所へ怒鳴った男。
そんな目。
「……最悪」
早足。
逃げる。
店の窓で。
青年は自分を見つけた。
いや。
違う。
自分ではない。
「……誰」
顔はある。
目。
鼻。
口。
全部。
でも。
知らない。
「僕って……こんな顔だったっけ」
沈黙。
青年は。
嫌なのに。
頭の中へ意識を向けた。
「……聞こえてる?」
少し待つ。
(うん)
ぞわっ。
首筋。
まだ駄目。
声が来ると身体が反応する。
「僕の顔」
一拍。
「覚えてる?」
(何となく)
「教えて」
(上手く言えない)
「嘘」
(嘘じゃない)
青年は窓を見る。
自分の輪郭。
どこか曖昧。
「形が……」
(決まってないのかも)
「人間の顔は決まってる」
(普通は)
「僕も普通だったよ」
(今は?)
「…………」
青年は嫌そうに顔を歪める。
「試す」
(何を)
「顔」
今日騙した女の息子。
形。
目。
鼻。
口。
思い浮かべる。
頬の奥。
ぬる。
「うわっ……!」
ぐに。
骨。
僅かに軋む。
顔の内側を捏ねられている。
「気持ち悪っ……」
(大丈夫?)
「大丈夫に見える?」
変化が止まる。
窓。
青年は目を見開いた。
今日使った男の顔。
「……嘘だろ」
(できた)
「お前?」
(君だと思う)
「思う?」
(僕も初めて)
「役に立たないな」
声。
少し黙る。
「…………」
青年も黙る。
今。
普通に会話した。
頭の中の何かと。
まだ気持ち悪い。
でも。
恐怖だけではない。
青年は顔を触る。
「これ」
目。
変わる。
「めちゃくちゃ便利じゃない?」
長い沈黙。
(……君、本当にそういう人なんだ)
「何が」
(顔を奪われたばかりだよ)
「悩んだら戻る?」
(多分、戻らない)
「じゃあ使う」
(早いなあ)
「使えるものは使う」
(箱を開けた時もそんな感じだった?)
「蒸し返すな」
(僕、あの話少し覚えてる)
青年の指が止まる。
「何」
(北の昔話)
「ロキ?」
(名前だけ、引っかかる)
「自分の名前?」
(分からない)
「本当に?」
(分からないものは分からない)
青年は窓の顔を見る。
「他に何覚えてる」
声。
少し間。
(女の髪を切った)
「それは聞いた」
(怒られた)
「当たり前だろ」
(首を取るって言われた)
「そこまで?」
(だから小さい職人たちのところへ行った)
「謝った?」
(多分してない)
「最低だな」
(君に言われたくない気がする)
「僕は髪切ってないよ」
(もっと高い物取ってる)
「仕事」
(便利な言葉)
「それ、誰に教わった」
(君)
青年。
少し。
笑う。
すぐ。
顔をしかめる。
頭の中から声。
まだ。
笑うほど慣れてはいない。
*
数日。
声は。
突然やってきた。
仕事中。
(右)
「――っ」
青年が反射的に右を見る。
標的。
こちらを見ている。
「急に喋るなよ……」
(見られてたから)
「分かってる」
(分かってなかった)
「うるさい」
頭の内側。
むず痒い。
吐くほどではない。
でも。
馴染まない。
*
別の日。
青年は倉庫の裏で服を着替えていた。
男から。
若い女へ。
顔。
声。
姿勢。
肩を少し内側へ。
歩幅を狭く。
重心を変える。
鏡代わりの窓に映る姿を確認する。
「……これ楽だな」
(昔、女になった話もある)
「そのロキ?」
(多分)
「また髪?」
(馬)
青年の手が止まる。
「何?」
(馬になった)
「何で」
(仕事)
「…………」
(君がよく使うやつ)
「待って。仕事で馬?」
(それで別の馬を誘った)
「嫌な予感するから続きいらない」
(子供ができた)
「いらないって言ったよね?」
(脚が八本あった)
青年が無言になる。
「……神話って何でもありなんだな」
(僕もそう思う)
「お前、それ本当に自分の記憶?」
声。
間。
(分からない)
「便利だな、その答え」
(君の仕事と同じ)
「どういう意味」
(本当と嘘の境目をぼかす)
「…………」
(得意でしょ)
青年は鏡を見る。
今の顔。
知らない女。
「……嫌な奴」
(どっちが?)
「両方」
*
夜はまだ苦手だった。
静かだから。
声が近い。
(起きてる?)
青年の目が開く。
「今喋るな」
(何で)
「寝る」
(僕、寝るのかな)
「知らない」
(昔は宴会でよく寝てた気がする)
「誰の記憶」
(分からない)
「じゃあ黙って」
静か。
青年は目を閉じる。
一分。
二分。
「…………」
(…………)
「…………」
(…………)
「……いる?」
(いる)
「喋るなって言ったよな」
(君が聞いた)
「…………」
布団を頭まで被る。
意味なし。
声は内側。
(布団で防げると思った?)
「思ってない」
(じゃあ何で)
「気分」
(変なの)
「頭の中に住んでる奴に言われたくない」
しばらく。
声。
(昔ね)
「寝ろ」
(雷の神が)
「寝ろ」
(女装したらしい)
青年の目が開いた。
「……何で」
(盗まれた武器を取り返すため)
「急に聞きたくなった」
(綺麗な女神と結婚したいって巨人が言って)
「うん」
(本人の代わりに雷の神を花嫁にした)
「誰が考えた」
間。
(ロキ)
青年は天井を見る。
「性格悪いな」
(でも武器は戻った)
「また結果だけは出すんだ」
(そういう人だったのかも)
「人?」
(分からない)
「またそれ」
青年は鼻から息を吐く。
「……まあ」
少し。
笑う。
「嫌いじゃない」
声。
長い沈黙。
「何」
(僕も)
「何が」
(その話)
「話かよ」
(他に何があるの)
「知らない」
青年は目を閉じる。
この頃には。
声を聞いても。
毎回耳を塞ぐことはなくなっていた。
*
青年が仕事で追われた日。
路地。
背後。
三人。
「しつこいな」
(左)
「分かってる」
(右の塀、低い)
「分かってる」
(昔、魚になって逃げた話がある)
「今?」
(参考になるかなって)
「僕魚になれないよ」
(試してない)
「試さない!」
塀。
乗り越える。
着地。
「っ」
足。
走る。
(網には気をつけて)
「神話の話やめろ!」
(捕まったから)
「縁起悪い!」
青年は。
走りながら。
少し笑っていた。
もう。
頭の中の声は。
ただの異物ではなくなり始めていた。
名前はない。
正体もない。
北の神話の断片だけが。
時折。
自分の記憶のように。
他人事のように。
声の中から落ちてくる。
青年は。
それが本当にロキという者の記憶なのか。
ただ箱に残された物語なのか。
知らない。
声自身も。
知らなかった。
それでよかった。
まだ。
答えを急ぐ理由はなかった。
*
異常に気づいたのは。
少し後。
仕事を終え。
宿へ戻った夜だった。
扉。
鍵。
カチ。
青年は顔を戻そうとした。
「……ん」
頭。
ズキ。
「っ」
こめかみへ手。
(どうした)
「頭痛」
(初めて?)
「多分」
ベッドへ腰を下ろす。
次。
ぽた。
手の甲。
赤。
「……ん?」
鼻血。
青年は指で拭う。
「へえ」
(何その反応)
「珍しい」
(大丈夫?)
「平気」
布。
鼻へ。
「使いすぎたかな」
(じゃあ休もう)
「今日はもう変えない」
少し間。
(珍しく素直)
「死にたいわけじゃないからね」
軽く。
言った。
その時。
頭の奥。
声が。
珍しく。
すぐには返さなかった。
「何」
(昔)
「また神話?」
(うん)
青年は面倒そうに天井を見る。
(どんなに上手く逃げても)
一拍。
(最後には捕まった話がある)
「縁起悪いな」
(僕もそう思う)
「なら話すなよ」
(でも)
声。
少しだけ。
静かになる。
(逃げられるうちは、ずっと逃げてた)
「…………」
青年は鼻血のついた布を見る。
「それ」
一拍。
「励ましてる?」
(分からない)
「相変わらずだな」
青年は。
少し笑った。
まだ。
それを。
ただの疲労だと思っていた。
まだ。
顔を変える力を。
便利な道具だと思っていた。
まだ。
頭の中の声を。
少し変な同居人だと思い始めたばかりだった。
そして。
自分の身体が。
もう。
静かに。
壊れ始めていることを。
知らなかった。




