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『KillerWorld ―七つ目の答え―』  作者: ザクロ
ルウ編

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15/57

ルウ編・後編「怒りのあと」

父を失い、兄を憎みながら生きるルウ。


怒っている間だけ、悲しみも恐怖も考えずに済む。

そして怒りは、彼に力まで与えた。


やがてルウは、父の死に関わった再開発計画の責任者へと辿り着く。


そこで明かされるのは、父ガルドと兄ユーラ、そして集落をめぐる選択の真相だった。


父を殺したのは、本当に兄だったのか。

兄は家族を捨てたのか。

そして、誰がその選択を作ったのか。


復讐の果てに真実へ辿り着いたルウは、ようやく兄へ向き合おうとする。


怒るためではなく。


謝るために。


だが。


その決意は、あまりにも遅かった。

# 第五章 敵


 水が戻ってから三日。


 ルウは、前より忙しくなった。


「ルウ! 南の配水管!」


 工場の奥。


 車体の下から顔を出す。


「昨日直しただろ!」


「別のところ!」


「クソ!」


 レンチを放り込む。


 十二。


 十三。


 十四。


 必要な物を目で拾い、工具箱を閉じる。


 持ち上げる。


 もう。


 重いとは思わなかった。


 口では文句を言う。


 それでも行く。


 父親が死んでから。


 集落のあちこちで同じことが起きていた。


 ポンプ。


 発電機。


 冷却機。


 車。


 井戸。


 砂が噛む。


 軸が削れる。


 油が切れる。


 配管が割れる。


 止まる。


 誰かが困る。


 誰かが呼びに来る。


 全部。


 誰かが直さなければならない。


 以前なら。


『ガルド呼べ』


 それで済んだ。


 今は。


「……なんで俺なんだよ」


 配水管の横へしゃがむ。


 レンチを差し込む。


 ボルトを締める。


「悪いな、ルウ」


「謝るくらいなら新品買え」


「買えるなら買ってる」


「知ってるよ」


 老人が笑った。


「本当に親父そっくりだな」


 レンチが止まる。


「似てねえ」


「そうか?」


「似てねえよ」


 力を入れる。


 ギッ。


 金属が鳴った。


「壊れるぞ」


「分かってる!」


 老人の肩が竦む。


 ルウの目が。


 その動きを追った。


「……」


 息を吐く。


 レンチを少し戻す。


「……悪い」


「最近、それ多いな」


「何が」


「怒ってから謝る」


 ルウの指が。


 レンチの柄を撫でる。


「うるせえ」


 老人はそれ以上言わなかった。


 ルウも。


 何も言わない。


 ボルトを見る。


 締めすぎた。


 戻す。


 適正な位置まで。


 機械なら。


 締めすぎれば分かる。


 戻せる。


 人間は。


 どこまで戻せばいいのか。


 まだ分からなかった。


     *


 怒っている間は楽だった。


 身体が動く。


 頭も冴える。


 余計なことを考えなくていい。


 だから。


 静かな時間が嫌になった。


 仕事がないと。


 音が減る。


 眠る前。


 風が壁へ砂を当てる。


 さら。


 さら。


 父親の声を思い出す。


 食事中。


 スプーンが皿へ当たる。


 空いた席を見る。


 兄を思い出す。


 工場を閉めたあと。


 送風機を切る。


 ゴォォォ……。


 羽根が止まる。


 父親の笑い声がないことに。


 気づく。


 胸の奥に。


 穴が開く。


 その穴を。


 覗きそうになる。


 ルウは拳を握った。


「……クソ兄貴」


 兄へ腹を立てる。


 熱が戻る。


「何してんだよ」


 もう一度。


 拳を握る。


 胸の穴が。


 見えなくなる。


 それでいい。


 怒っていれば。


 何かがある。


 静かになれば。


 何もない。


     *


 変化に最初に気づいたのは。


 妹だった。


「ルウ兄」


 作業台。


 分解した発電機。


 ルウは顔を上げない。


「何」


「最近、怒ってないと落ち着かないの?」


 指が。


 止まった。


「は?」


 顔を上げる。


 妹は入口に立っていた。


 以前のように。


 すぐ近くまでは来ていない。


「ずっと何かに怒ってる」


「周りがムカつくことばっかすんだよ」


「そうかな」


「そうだよ」


「前はもう少し笑ってた」


「……」


 ルウは部品へ目を戻した。


「親父がいた時」


 工具を握る手に。


 力が入る。


 金属が。


 小さく鳴る。


「その話やめろ」


「ルウ兄」


「やめろって」


 妹が黙る。


 ルウの呼吸が速くなる。


 肩。


 指。


 手の甲。


 震える。


「……」


 そのまま。


 何秒か。


 怒りだけを見る。


 父親を考えない。


 いないことも。


 最後の夜も。


 考えない。


 すると。


 震えが。


 止まった。


 呼吸が。


 ゆっくりになる。


 指の力が抜ける。


 ルウは。


 何事もなかったように。


 また部品を触った。


「……今の方が怖い」


 手が止まる。


「何が」


「怒鳴ってる時より」


 妹の声が。


 少し遠かった。


 ルウは答えなかった。


---


# 第六章 残り物


 手掛かりは。


 父親の古い帳簿から出てきた。


 工場の奥。


 油染みのついた棚。


 ガルドが書類を突っ込んでいた場所。


「……汚ねえな」


 紙。


 領収書。


 部品の注文。


 野菜で払われた修理代まで。


 全部一緒だった。


「帳簿くらいちゃんとしろよ」


 誰も笑わない。


 ルウは紙を捲る。


 一枚。


 また一枚。


 再開発企業の名前。


 契約番号。


 何度も同じ署名。


 指が。


 そこで止まる。


 そして。


 一人の男の名前。


     *


 集落の年寄りは。


 その名前を見ると。


 目を細めた。


「こいつ……まだ生きてたのか」


「知ってんの?」


「ああ」


「誰」


 老人は。


 紙を持つ位置を少し下げた。


「昔、この辺にいた」


 ルウが眉を寄せる。


「ここ?」


「ガルドと一緒に井戸掘ってたよ」


 眉が動く。


「親父と?」


「若い頃な」


 老人は工場の外を見る。


 砂に埋もれかけた古い井戸。


「あいつら二人で、何日も穴ん中いたこともあった」


「じゃあなんで企業側にいる」


「出てったんだよ」


「なんで」


「ここが嫌になったんだろ」


「……」


 老人の指が。


 帳簿の端を撫でる。


「母親を病院へ運べなくて亡くしてな」


 ルウの視線が上がる。


「そのあとだった」


「……」


 紙が。


 ルウの手の中で歪む。


「そいつが、親父に土地売れって?」


「そうらしい」


「……ふざけんな」


 老人が。


 ルウの顔を見る。


「会いに行くのか」


「行く」


「やめとけ」


 ルウの目が。


 すぐ老人へ向く。


「なんで」


「今のお前、話聞く顔してねえ」


「聞くよ」


「本当に?」


 ルウは。


 答えなかった。


     *


 再開発区画へ向かう途中。


 砂漠の外れに。


 使われなくなった資材ヤードがある。


 錆びた鉄骨。


 積まれたパイプ。


 砂へ沈んだ機械。


 風が抜けるたび。


 どこかで。


 カァン。


 吊られた金属が鳴る。


 ルウは歩く。


 カァン。


 足が止まる。


 今の音。


 風じゃない。


 金属が。


 擦れた。


「……またか」


 工具箱を下ろす。


 持ち手から。


 ゆっくり指を離す。


 奥を見る。


 影。


 一体。


 前に水利施設で見たものと似ている。


 人間だった何か。


「何でここにいる」


 返事はない。


 その向こう。


 鉄骨の影。


 もう一体。


 さらに。


 パイプの裏。


 三体。


「……クソ」


 以前なら。


 足が震えた。


 今は。


 拳を握る方が先だった。


 一体が走る。


 肩。


 腰。


 脚。


 力の流れ。


 見える。


「邪魔」


 身体が熱くなる。


 腕を避ける。


 腹。


 一発。


 沈む。


 倒れる。


 二体目。


 踏み込み。


 頭が下がる。


 顔。


 拳。


 三体目。


 右脚へ重心。


 来る。


 ルウは横へずれる。


 膝。


 崩れる。


 以前より速い。


 以前より。


 迷わない。


 最後の一体が倒れた。


 ルウは。


 荒い息を吐いた。


「……」


 拳を見る。


 血。


 でも。


 前ほど痛くない。


 違う。


 痛い。


 気にならない。


 背後。


 砂を擦る音。


 振り返る。


 一体が。


 まだ動いていた。


 腕で身体を引きずり。


 逃げようとしている。


 ルウは。


 その背中を見る。


 一歩。


 追う。


 足首を掴む。


 引き戻す。


 身体が砂の上を滑った。


 失敗作が振り返る。


 ルウは跨がる。


 拳を振り上げる。


 その時。


 目が合った。


「……」


 瞳。


 見開いている。


 呼吸。


 速い。


 逃げようとしている。


 恐怖。


 人間の目だった。


 拳が。


 空中で止まる。


「……」


 硬化した皮膚。


 歪んだ身体。


 異常な腕。


 でも。


 目だけは。


 怖がっている。


 こいつも。


 誰かに。


 使われたのかもしれない。


 あの施設にいた奴らも。


 最初から。


 こうだったわけじゃないのかもしれない。


 ルウの拳が。


 少し下がる。


 ほんの一瞬。


 失敗作の手が伸びた。


 ルウの腕を掴む。


「っ!」


 爪が食い込む。


 痛い。


 その瞬間。


 胸へ熱が走った。


「触んな!」


 拳を落とす。


 一度。


 鈍い音。


 二度。


 三度。


 四度目。


 上げかけて。


 止まる。


 もう。


 動いていない。


「……」


 ルウの呼吸だけが。


 資材ヤードへ響く。


 血のついた拳を見る。


 次に。


 動かなくなった顔。


 胸の奥。


 何かが引っかかる。


 拳を開く。


 また。


 握る。


「邪魔した方が悪い」


 声に出す。


 胸の引っかかりが。


 少し遠くなる。


 ルウは工具箱を拾った。


 後ろを。


 見なかった。


     *


 遠く。


 資材の隙間から。


 一人の男が記録を見ていた。


 ルウが去る。


 倒れた三体。


 最後の一体。


 視線が。


 順番に動く。


「対象判断、低下」


 記録。


「出力は上昇」


 声に。


 何も乗らない。


 一体が死んだこと。


 躊躇したこと。


 その躊躇を。


 自分で怒りへ変換したこと。


 命の数ではない。


 変化の記録。


 次の段階へ進めるか。


 それだけだった。


---


# 第七章 正しい土地


 男は。


 思っていたより普通だった。


 年齢は父親より少し上。


 高価な服。


 整った部屋。


 窓の向こうには。


 新しい道路。


 一定間隔で並ぶ灯り。


 砂に埋もれた古い道とは違う。


「ルウか」


 男が立つ。


「俺を知ってんのか」


「ガルドの息子だからな」


 椅子を引く。


「座れ」


「いらねえ」


「そうか」


 男は椅子を戻した。


 その手。


 ルウの視線が止まる。


 指。


 節。


 古い傷。


 爪の横。


 細かな痕。


 昔。


 機械を弄っていた人間の手。


「親父を知ってるんだろ」


「知っている」


「昔一緒に働いてたって」


「働いた」


「じゃあなんで」


 ルウは。


 その手から。


 男の顔へ視線を上げる。


「なんで親父を邪魔者にした」


「邪魔者だからだ」


 ルウの指が動く。


 拳にはならない。


 まだ。


 男は続けた。


「あいつが悪人だったからじゃない」


「……」


「むしろ逆だ」


 男は窓の外を見る。


 遠く。


 新しい道路。


 工事車両。


 整えられた区画。


「ガルドは、人に好かれすぎた」


「何が言いてえ」


「ガルドが売らなければ、周りも売らない」


「当たり前だろ」


「だから計画が進まない」


「進めなきゃいい」


 男が。


 ルウへ顔を戻す。


「それでこの土地はどうなる」


「……」


「五年後」


 指を一つ。


「十年後」


 二つ。


「医者は減る」


「……」


「若者は出ていく」


「……」


「水道は古くなる」


「分かってるよ!」


 ルウの声が部屋へ響く。


 男は動かない。


「分かっていない」


 静かだった。


 ルウの拳が。


 ようやく握られる。


「私はここで母親を亡くした」


 拳が止まる。


「熱が出た」


 男の視線は。


 窓の外。


 遠く。


 昔の集落がある方向。


「車が壊れていた」


「……」


「隣の家も留守だった」


「……」


「病院へ着いた時には手遅れだった」


 ルウの拳が。


 少し緩む。


「だから出た」


「それで?」


「戻ってきた」


「企業の犬になって?」


「そう見えるなら、それでいい」


 男は笑わなかった。


 机へ手を置く。


 傷のある指。


「道路を作った」


「……」


「医療施設を呼んだ」


「……」


「水路を新しくする資金も持ってきた」


「その代わり土地寄越せって?」


「そうだ」


「住んでる奴らどうすんだよ!」


「移住させる」


「嫌だって奴は!」


「残れば衰える」


「勝手に決めんな!」


 怒鳴った声。


 窓ガラスが。


 わずかに震えた。


 男は。


 一度だけ目を閉じた。


「ガルドも同じことを言った」


「……」


「人は一人じゃ生きられない、と」


 ルウの顎に力が入る。


「親父が正しい」


「そうかもしれない」


「……は?」


 拳が。


 また緩む。


「私は、あいつが間違っているとは思っていない」


「じゃあなんで」


 男の指が。


 机の古い傷をなぞる。


「正しいだけでは、救えないからだ」


 部屋が静かになる。


 外。


 工事車両が通る。


 低いエンジン音。


「何十年、助け合った」


 男が言う。


「何十年、壊れたものを直した」


「……」


「それでも人口は減った」


「……」


「病院は近づかなかった」


「……」


「水も増えなかった」


 ルウは。


 答えられない。


 父親が直した。


 また壊れた。


 自分が直した。


 また。


 別の場所が壊れた。


「だから親父を殺したのか」


 男の目が。


 初めて。


 まっすぐルウを見る。


 長い沈黙。


「私が殺したわけではない」


 ルウの拳が。


 震え始める。


「……何」


「だが」


 男は。


 視線を逸らさなかった。


「死んでもらう必要はあった」


 震えが強くなる。


「誰にやらせた」


「……」


「誰に!」


 男の口が動く。


「ユーラだ」


 外を走っていた工事車両の音が。


 遠ざかる。


 空調。


 低い風。


 時計。


 秒針。


 ルウの耳には。


 何も入らなかった。


     *


「……嘘だ」


 口だけが動く。


「本当だ」


「兄貴が勝手にやったんだろ」


「違う」


「黙れ」


「条件を提示した」


「黙れ」


「ガルドが死ねば」


「黙れって!」


 拳が机へ落ちる。


 ドン。


 紙が跳ねる。


「家族の債務を整理する」


「……」


「家族の住居を保証する」


「……」


「弟妹の教育費も」


 ルウの口が。


 わずかに開く。


「……」


「集落には新しい水路と医療施設を」


「やめろ」


「ユーラは悩んだ」


「やめろ!」


「何度も断った」


 ルウの表情が。


 止まる。


「……何?」


「最初から受けたわけじゃない」


 男は机の引き出しを開ける。


 紙を一枚。


 取り出す。


 何度も折られた跡。


 角は擦れている。


「これを返しに来たこともある」


 ルウは。


 見ない。


 見れば。


 何かが変わる。


 そんな気がした。


「父親を説得すると言った」


「……」


「何度も」


「……」


「だがガルドは変わらなかった」


「だから殺した?」


「最後に選んだのはユーラだ」


 ルウの肩が震える。


「兄貴が」


「そうだ」


「家族のために」


「そう言った」


 その言葉。


 ルウは知らない。


 あの夜。


 兄が。


 父親へ言った言葉。


 それでも。


 胸のどこかへ。


 深く刺さった。


 父親。


 兄。


 食卓。


 空いた席。


『帰りてえ時に帰ってくりゃいい』


『家なんだから』


 ルウの呼吸が。


 止まる。


「……兄貴」


 声が小さかった。


 男が続ける。


「私は今でも、計画そのものは間違っていないと思っている」


 ルウが。


 ゆっくり顔を上げる。


「何?」


「この土地には変化が必要だった」


「……」


「ガルド一人が残ることで、大勢が沈むなら」


 震えていた拳が。


 止まった。


「私は」


 呼吸が。


 整っていく。


 一度。


 二度。


「もう一度でも」


 肩が下がる。


 男が。


 初めて言葉を止めた。


 ルウの顔から。


 怒りが消えていた。


「同じ選択をする」


 男は言った。


「そうか」


 低い声。


「ルウ」


「もういい」


「話は――」


「聞いた」


 静かだった。


 怒鳴らない。


 拳も震えない。


 それが。


 男の身体を初めて動かした。


 椅子から。


 半歩。


 離れる。


「お前」


「何」


「怒っているのか」


 ルウは答えない。


 一歩。


 男の目が。


 ルウの肩へ落ちる。


 拳。


 腰。


 足。


 警戒している。


 ルウには。


 それが全部見えた。


 もう一歩。


 男が後ろへ下がる。


「ルウ」


「親父も」


 一歩。


「兄貴も」


 声に抑揚がない。


「お前の計画の数字だったんだな」


「違う」


「同じだよ」


「待て」


 男の重心が。


 後ろへ移る。


 逃げる。


 そう分かる。


「もういい」


 拳。


 最短だった。


 振りかぶらない。


 肩。


 腰。


 脚。


 全部の力が。


 一つへ伝わる。


 鈍い音。


 男の身体が。


 壁へ叩きつけられる。


 机の上の紙が。


 遅れて落ちる。


 一枚。


 また一枚。


 男は。


 動かなかった。


     *


 ルウは。


 しばらく立っていた。


 空調。


 時計。


 外の工事。


 音が。


 少しずつ耳へ戻ってくる。


 自分の呼吸は。


 乱れていない。


 拳を見る。


 震えていない。


「……」


 それが。


 妙に怖かった。


 数分。


 何もせず。


 立っていた。


 やがて。


 身体から熱が引いていく。


 その瞬間。


 胸の奥。


 押し込めていたものが。


 上がってきた。


「……」


 兄貴は。


 何度も断った。


 何度も。


 親父を説得した。


 家族を。


 助けようとしていた。


 間違えた。


 取り返せないほど。


 間違えた。


 でも。


 家族を捨てたわけじゃなかった。


「……俺」


 声が出ない。


 喉が。


 痛い。


「兄貴に」


 今まで。


 何を言った。


『帰る気ねえんだろ』


『クソ兄貴』


『家族ほったらかして』


 ルウの手が。


 ゆっくり開く。


 震えていた。


 さっきまで。


 止まっていたのに。


 今度は。


 止められない。


 怒りではなかった。


「……クソ」


 いつもの言葉。


 でも。


 熱が出ない。


 胸の痛みも。


 消えない。


 ルウは。


 初めて。


 それを怒りへ変えなかった。


「帰ろう」


 掠れた声。


「兄貴に……謝らねえと」


---


# 第八章 帰る場所


 帰り道。


 ルウは何度も。


 口を開いた。


「……ごめん」


 違う。


 軽い。


「悪かった」


 それも。


 違う。


「知らなかった」


 言い訳だ。


「……クソ」


 砂を蹴る。


 でも。


 いつもの「クソ」と違った。


 胸は熱くならない。


 身体も軽くならない。


 ただ。


 困っていた。


 兄に。


 何を言えばいい。


 何を言われる。


 殴られるかもしれない。


「……まあ」


 それは。


 当然だ。


 むしろ。


 殴られた方がいい。


 そう思う。


 でも。


 それを考えた直後。


 少しだけ。


 口元が緩んだ。


 兄の顔が浮かぶ。


『いつも機嫌悪い』


『うるせえ』


 あの時。


 兄が笑った。


 自分も。


 本当は。


 少し嬉しかった。


「帰ったら」


 ルウは歩く。


 風が。


 横から身体を押す。


「ちゃんと話そう」


 初めてだった。


 怒らずに。


 兄のことを考えたのは。


     *


 工場の灯りが見えた。


 暗い砂漠の中。


 小さな灯り。


 家。


 小さい。


 古い。


 砂まみれ。


 壁には補修跡。


 屋根も。


 何度か直している。


 でも。


 家だ。


 ルウの足が。


 少し速くなる。


 工場。


 近づく。


 そこで。


 速度が落ちた。


「……?」


 シャッター。


 開いている。


 この時間なら。


 閉まっている。


 送風機の音。


 ない。


 工具の音。


 ない。


 家の方からも。


 声が聞こえない。


 ルウは。


 工場の前で止まった。


 風が。


 背中から吹く。


 入口の暗がりへ。


 砂が少し入っていく。


「……母さん?」


 返事はない。


 一歩。


 中へ。


 油の匂い。


 鉄。


 砂。


 いつもの工場。


 なのに。


 何か。


 違う。


「おい」


 足元。


 工具。


 一つ。


 落ちている。


 拾わない。


 ルウの視線が。


 奥へ向く。


 何かが。


 倒れている。


 人。


「……」


 足が。


 止まった。


 服。


 見覚えがある。


 身体の大きさ。


 髪。


 肩。


「……兄貴?」


 返事はない。


 一歩。


 足が重い。


 二歩。


「おい」


 床。


 血。


 作業台の脚まで。


 広がっている。


 ルウの呼吸が。


 浅くなる。


「……嘘だろ」


 膝をつく。


 手が。


 肩へ伸びる。


 触れる。


「兄貴」


 揺らす。


 一度。


「おい」


 もう一度。


 返事はない。


 顔を見る。


 ユーラ。


 間違えない。


 兄だ。


「……俺」


 声が震える。


 さっきまで。


 何度も考えていた言葉が。


 全部。


 消えた。


「分かったんだよ」


 返事はない。


「親父のこと」


 兄の手へ。


 自分の手を重ねる。


 冷たい。


 ルウの指が。


 その温度を確かめるように。


 握る。


「全部」


 返事はない。


「俺」


 喉が詰まる。


「ずっと」


 言葉が。


 出ない。


 言え。


 今。


 言え。


「……ごめん」


 やっと。


 出た。


 返事はない。


 ルウの眉が歪む。


「ごめん」


 もう一度。


 兄の手を握る。


「兄貴」


 身体が震える。


 怒りじゃない。


 悲しい。


 怖い。


 嫌だ。


 何で。


 もっと早く。


 どうして。


 兄の手は。


 冷たい。


 その冷たさだけが。


 掌から離れない。


「……」


 ルウは。


 そのまま。


 何秒か。


 耐えた。


 怒らずに。


 悲しいまま。


 怖いまま。


 兄の手を握っていた。


 涙が。


 一滴。


 兄の手へ落ちる。


 そして。


 頭の中へ。


 一つ。


 言葉が入った。


 誰が。


 ルウの目が。


 ゆっくり上がる。


 誰が殺した。


「……誰だ」


 涙が。


 もう一滴。


「誰だよ」


 声が低くなる。


 呼吸が。


 速くなる。


「誰がやった」


 兄の手を握っていた指が。


 離れる。


「誰だよ!」


 拳が。


 床へ落ちる。


 ドン!


 工具が跳ねた。


「ふざけんな!」


 胸の痛みが。


 熱に変わる。


 悲しみが。


 遠くなる。


「返せよ!」


 怖さが。


 遠くなる。


「やっと……!」


 後悔が。


 熱に変わる。


「やっと分かったのに!」


 怒り。


 全部。


 怒りになる。


 涙が。


 止まった。


 呼吸が。


 整う。


「誰だよ……!」


 楽になった。


 さっきまで。


 あれほど痛かったのに。


 悲しくない。


 少しだけ。


 ルウは。


 その変化に。


 気づかなかった。


「……殺す」


 立ち上がる。


 兄の手から。


 自分の手が離れる。


「絶対に殺す」


 一歩。


 兄から離れる。


 もう。


 震えていなかった。


---


# 幕間 問い


 夢を見た。


 何もない場所。


 白い。


 砂もない。


 風もない。


 油の匂いも。


 鉄の冷たさも。


 送風機の音もない。


 壊れている物が。


 一つもない。


 だから。


 ルウには。


 どこを見ればいいのか分からなかった。


 そこに。


 少年がいた。


「誰だ」


 返事はない。


 ルウは。


 少年の手を見る。


 何も持っていない。


 足。


 動かない。


 肩。


 力も入っていない。


「お前も敵か」


 少年は。


 首を横に振る。


「じゃあ何だよ」


 少年は。


 少し考えた。


 そして。


「その人に」


「……」


「何を伝えたかったんですか」


 ルウの顔が歪む。


「何?」


「怒っていることですか」


「黙れ」


「許せないことですか」


「黙れって言ってんだろ」


 少年は。


 ルウを見る。


 逃げない。


 構えない。


 敵になる動きを。


 何もしない。


「では」


 一拍。


「何だったんでしょう」


「……」


 ルウの拳が。


 震える。


 答え。


 分からない。


 でも。


 一つだけ。


 浮かびかける。


 兄の冷たい手。


『……ごめん』


「うるせえ!」


 ルウが踏み込む。


 拳。


 少年へ。


 届かない。


 距離は変わっていないように見える。


 なのに。


 届かない。


 もう一歩。


 届かない。


 少年は避けなかった。


 ただ。


「そうですか」


 それだけ言った。


     *


 目を覚ました。


 暗い天井。


 ルウの拳は。


 強く握られていた。


 爪が。


 掌へ食い込んでいる。


 開く。


 赤い跡。


「……意味分かんねえよ」


 吐き捨てる。


 工場は。


 静かだった。


 胸の奥から。


 また。


 何かが上がってくる。


 悲しい。


 その言葉になる前に。


 ルウは兄を殺した誰かを思い浮かべた。


 拳を握る。


 熱が戻る。


 そして。


 また怒る理由を探した。


---


# 終章 フェイク


 工場が静かになった。


 ルウの足音が。


 遠ざかっていく。


 砂を踏む音。


 一歩。


 また一歩。


 やがて。


 聞こえなくなる。


 一分。


 二分。


 送風機は止まったまま。


 開いたシャッターから。


 風だけが入る。


 床の血へ。


 砂が一粒。


 貼りついた。


 誰も戻らない。


 床に倒れていた死体。


 その指が。


 動いた。


 ほんの少し。


 次に。


 親指。


「……あー」


 声。


 さっきまで。


 冷たかったはずの身体が。


 ゆっくり起き上がる。


 首を傾ける。


 右。


 左。


 コキ。


「痛いなあ」


 ユーラだった顔が。


 揺れた。


 頬。


 輪郭が崩れる。


 顎。


 形が変わる。


 髪。


 色。


 長さ。


 目。


 鼻。


 唇。


 そして。


 声。


 少しずつ。


 別人になる。


 床に広がっていた血。


 服の傷。


 そこにあったはずの死。


 全部。


 嘘だった。


 男は。


 服についた血を摘まむ。


 指で擦る。


「これ、落ちるかな」


 工場の奥。


 暗がりから。


 声。


「結果は」


 男は。


 振り返らない。


「出したよ」


 手についた赤を。


 布へ擦りつける。


「対象は?」


「見た通り」


「処理は」


「してない」


 男の指が。


 止まる。


 沈黙。


「命令と違う」


「結果は同じだろ?」


 男は笑う。


「死んだと思ってくれた」


「……」


「それで十分」


「なぜ殺さなかった」


 男は。


 少しだけ考える。


 さっきまで。


 ルウが握っていた手を見る。


 冷たくしていた手。


 その指を。


 一度。


 開く。


 閉じる。


「僕のポリシーだよ」


 暗がりから。


 返事はない。


「くだらん」


「そう?」


 男は肩を竦める。


「僕は結構気に入ってるんだけどな」


 また。


 沈黙。


 男は工場を見渡す。


 工具。


 作業台。


 止まった送風機。


 空いた場所。


 父親がいなくなった工場。


 兄まで失ったと思い込んだ少年。


 そして。


 床。


 ルウの涙が落ちた跡。


 男の笑みが。


 ほんの少しだけ。


 薄くなる。


「……」


 だが。


 すぐ戻った。


「さて」


 立ち上がる。


 シャッターを跨ぐ。


 外へ出る。


 砂漠の夜。


 風。


 遠く。


 一人分の足跡が続いている。


 男は。


 その方向を見る。


 追わない。


 ただ。


 眺める。


 砂漠の向こうでは。


 悲しみを怒りへ変えた少年が。


 次の敵を探していた。


 風が吹く。


 足跡の端から。


 少しずつ。


 砂が埋めていった。

ルウ編、後編です。


今回描いたのは、怒りが完成する瞬間です。


中編までのルウにとって、怒りは役に立つものでした。


怒れば動ける。

怒れば怖くない。

怒れば人を助けられる。


だから彼は少しずつ、怒りに頼るようになります。


後編では、その関係がさらに一段進みます。


怒りはもう単なる感情ではなく、

悲しみや後悔から逃げるための場所になっていきます。


そして父の死の真相を知った時。


ルウは初めて、兄ユーラへの怒りを失います。


残ったのは、


後悔。

寂しさ。

申し訳なさ。


だからこそ、


「兄貴に謝ろう」


と思えた。


ルウが怒りではなく、別の感情で動こうとした瞬間です。


けれど。


その直後に、兄は死んでいた。


少なくとも、ルウにはそう見えました。


ここで彼は再び怒りへ戻ります。


悲しいから怒る。

後悔しているから怒る。

失いたくなかったから怒る。


そして最後には、


怒る理由そのものを必要とする人間になる。


ルウ編で描きたかった「憤怒」は、単に怒りっぽい人間ではありません。


怒りがないと、自分の感情を支えられなくなってしまった人間です。


そして最後。


ユーラの死さえ、本物ではありませんでした。


事実そのものではなく、

そう信じさせるだけで人は壊れる。


その結果を作った人物は、短くこう言います。


「僕のポリシーだよ」


ルウ編はここで終わります。


怒りは、まだ消えていません。

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