ルウ編・中編「まだ、怒っていれば」
父を失い、兄も帰ってこない。
残されたルウは、砂漠の集落と修理工場を支える日々を送っていた。
文句を言いながら。
苛立ちながら。
それでも困っている人間を放っておけない。
父ガルドと同じように。
けれど、ルウの中にあるものは少しずつ変わり始めていた。
悲しみも。
不安も。
寂しさも。
怒っている間だけ、考えなくて済む。
そんなある日、集落の生命線である水利設備が停止する。
誰も動けない中、ルウは悪態をつきながら現場へ向かう。
そこで待っていたのは、故障した設備だけではなかった。
恐怖。
無力感。
喪失。
そのすべてが一つの感情へ変わった時。
ルウの中で、何かが目を覚ます。
# ルウ編・中編
## 「まだ、怒っていれば」
父親が死んでから、工場は静かになった。
機械の音はする。
送風機も回っている。
工具も同じ場所にある。
朝になればシャッターを上げる。
油の匂い。
焼けた金属。
床へ入り込んだ砂。
何も変わっていない。
なのに。
何かが足りない。
送風機が首を振る。
ゴォォ。
生温い風がルウの髪を揺らす。
戻る。
ゴォォ。
また揺れる。
その間に。
以前なら聞こえていたものがない。
『ルウ!』
呼ぶ声。
『十四!』
間違った工具。
笑い声。
ない。
ルウは作業台の前で、分解した部品を見つめていた。
手にはレンチ。
目の前には緩んだボルト。
直す場所は分かっている。
手順も。
必要な工具も。
全部。
分かる。
なのに。
手が止まっていた。
「ルウ!」
外から声が飛んだ。
肩が跳ねる。
「ポンプ!」
ルウは顔を上げた。
「今行く!」
反射的に返事をしてから。
舌打ちする。
「……なんで俺なんだよ」
レンチを置く。
工具箱を掴む。
持ち上げた瞬間。
腕が少し下がった。
「……重」
中身は変わっていない。
十二。
十三。
十四。
金槌。
ドライバー。
父親が使っていた物も、そのまま入っている。
前より重くなった気がした。
工場を出る。
強い日差しに目を細めた。
女が一人。
頭へ布を巻き、砂まみれになって立っていた。
「悪いねえ」
「別に」
「お父さんなら――」
ルウの指が。
工具箱の取っ手へ食い込んだ。
「親父の話すんな」
思ったより強い声が出た。
女の口が閉じる。
視線が一度。
ルウから工具箱へ落ちた。
「……」
ルウも気づいた。
息を吐く。
視線を逸らす。
「……場所どこ」
「あ、ああ。北の井戸」
「分かった」
歩き出す。
「ルウ」
「何」
「ありがとう」
足が。
一瞬だけ止まる。
「まだ直してねえだろ」
それだけ言って。
振り返らなかった。
*
井戸のポンプは古かった。
錆。
砂。
何度も交換されたボルト。
補修された配管。
軸を支える部分には、昔の溶接痕まで残っている。
ルウはしゃがみ込んだ。
手で外装を押す。
軋む。
「……ひでえな」
父親なら。
見ただけで笑っただろう。
『こりゃいい! まだ使える!』
声まで。
簡単に思い出せた。
ルウなら捨てる。
「……こんなの買い替えろよ」
レンチを差し込む。
回す。
固い。
もう一度。
体重を乗せる。
ギッ。
ようやく動いた。
「金あったら買ってるよ」
「知ってる」
老人が日陰に座っていた。
膝へ手を置き。
ルウの作業を眺めている。
「ガルドはこういうの好きだったな」
カチ。
レンチが止まった。
ルウの目だけが。
老人へ向く。
「直せそう?」
「知らねえ」
「そうか」
ルウはポンプへ視線を戻す。
「……直すけど」
カバーを外す。
砂が落ちた。
「うわ」
指を入れる。
軸。
回らない。
別の角度。
押す。
引く。
「砂噛んでる」
さらに見る。
表面を指でなぞる。
「軸も削れてるじゃねえか」
直すなら。
まず砂を抜く。
軸を見る。
使える。
まだ。
交換しなくても。
削って。
調整して。
父親ならどうする。
その考えが浮かんだ瞬間。
眉間へ力が入った。
「クソ」
「なんだ?」
「何でもない」
金槌を取る。
一度。
カン。
二度。
ガン。
強すぎた。
金属が嫌な音を返す。
ルウの手が止まる。
「ルウ」
「何」
「それ壊さないか?」
「壊さねえよ!」
老人の肩が。
びくりと動いた。
ルウは。
その動きを見た。
弟と同じだった。
奥歯を噛む。
金槌を下ろす。
「……悪い」
「いや」
ルウは視線をポンプへ戻した。
自分の手。
金槌。
老人。
また。
ポンプ。
言った自分にまで腹が立つ。
謝るくらいなら。
最初から怒鳴るな。
分かっている。
分かっているから。
余計に腹が立った。
ルウは一度。
金槌を地面へ置いた。
深く息を吐く。
今度は。
指で軸の位置を確かめる。
少しずつ。
叩く。
カン。
位置を見る。
カン。
回す。
まだ固い。
「……もうちょい」
カン。
回す。
動いた。
ルウの眉が。
ほんの少しだけ上がった。
「そこか」
そこからは早かった。
壊れている場所が分かればいい。
原因が分かれば。
直せる。
*
夕方。
最後のボルトを締める。
「回して」
老人が立ち上がる。
ポンプ。
一度。
動かす。
空振り。
もう一度。
管の奥。
ゴボッ。
ルウの目が上がる。
もう一度。
ゴボ。
水。
濁った水が最初に吐き出され。
続いて。
透明な水が流れた。
「出た!」
近くにいた老人たちが集まってくる。
器。
桶。
笑い声。
水が砂へ落ち。
乾いた地面の色を濃くしていく。
ルウはしゃがんだまま。
工具を布で拭いた。
「助かったよ」
「別に」
「ガルドそっくりだ」
工具箱へ向かっていた手が。
止まった。
「……どこが」
「文句言いながら最後までやるところ」
ルウの視線が。
流れ続ける水へ向く。
「似てねえよ」
「そうか?」
「似てねえ」
レンチを工具箱へ入れる。
十三。
その隣。
十四。
父親が何度も間違えた工具。
蓋を閉める。
持ち上げる。
指が震えていた。
重さのせいじゃなかった。
*
工場へ戻る頃には。
空が赤くなっていた。
シャッターは開いている。
送風機の音。
紙を捲る音。
中へ入ると。
母親が作業台で帳簿を見ていた。
「また来たの?」
「何が」
「取り立て」
母親が頷く。
ページの端を指で押さえる。
「今日は二人」
「何て」
「期限を延ばす代わりに、土地の話をもう一度って」
「断った?」
「もちろん」
「……そう」
ルウは工具箱を置いた。
ガン。
金属音が工場へ響く。
昔なら。
奥から。
『工具は大事にしろ!』
そう言って。
自分が一番雑に扱う男がいた。
何も聞こえない。
「兄ちゃんは?」
弟が聞いた。
ルウの肩が。
固まった。
「知らねえ」
「連絡ない?」
「ない」
「お母さんにも?」
「ないよ」
母親が静かに答える。
「……そう」
弟はそれ以上聞かなかった。
視線を下げる。
ルウは工場の奥へ入った。
棚。
工具。
部品。
全部。
置く場所が決まっている。
壊れれば。
直す。
減れば。
補充する。
兄は。
どこだ。
胸の中に。
何かが溜まっている。
重い。
冷たい。
形がない。
だから。
どこを直せばいいのか分からない。
考えたくなかった。
ルウは曲がったレンチを掴む。
「クソ兄貴」
吐き捨てる。
胸の冷たさへ。
少し熱が混じる。
ほんの少しだけ。
楽になった。
*
数日後。
郵便屋が一通の封筒を持ってきた。
差出人はない。
「兄貴?」
妹が横から覗き込む。
「知らねえ」
ルウが奪うように受け取る。
紙は軽かった。
工具箱より。
部品より。
何より軽い。
なのに。
封を切る指が。
なかなか動かなかった。
破る。
中身は紙一枚。
短い。
――今は戻れない。
それだけだった。
ルウの瞳が。
その一行を追う。
もう一度。
読む。
文字は変わらない。
「……何だよこれ」
妹が覗く。
「兄ちゃん?」
「知らねえよ!」
紙を握る。
「何が戻れないだよ」
指に力が入る。
紙が潰れる。
「何が今はだよ」
呼吸が。
少しずつ速くなる。
「親父殺して」
母親が顔を上げた。
「ルウ」
「家族ほったらかして」
「ルウ」
「何なんだよ!」
拳が机へ落ちた。
ドン。
皿が跳ねる。
妹の肩が竦む。
弟の身体も固まる。
ルウの呼吸が荒くなる。
胸が上下する。
もう一度。
拳が上がる。
机へ。
振り下ろそうとして。
止まった。
妹。
弟。
母親。
三人の目。
「……」
拳が震えている。
握った紙も。
肩も。
息も。
序章の夜を。
ルウは知らない。
それでも。
同じように。
身体だけが震えていた。
「……クソ」
拳を下ろす。
紙を持ったまま。
外へ出た。
*
砂漠は何も答えない。
ルウは歩いた。
家の灯りが後ろへ遠ざかる。
工場の送風機も。
人の声も。
聞こえなくなる。
足元には。
砂。
風。
それだけ。
どこへ行くつもりだったのか。
自分でも分からない。
ただ。
家にいたくなかった。
兄のことを考えたくない。
父親のことも。
母親も。
妹も。
弟も。
全部。
考えたくない。
胸の奥が痛む。
息が詰まる。
怖い。
悲しい。
寂しい。
言葉にした瞬間。
足が止まった。
「……うるせえ」
誰に言ったのか分からない。
風。
砂。
自分。
「うるせえよ」
拳を握る。
爪が掌へ食い込む。
「ふざけんな」
胸の痛みが。
ほんの少し。
遠くなる。
「全部、ふざけんな」
怖い。
腹が立つ。
悲しい。
腹が立つ。
寂しい。
腹が立つ。
一つずつ。
別のものへ置き換わっていく。
冷たかった胸の奥に。
熱が出る。
そっちの方が。
ずっと扱いやすい。
怒っている間は。
泣かなくていい。
怖がらなくていい。
何を失ったのか。
考えなくていい。
ルウは拳を握ったまま。
また歩き出した。
それでよかった。
*
翌朝。
工場の前に。
一台の車が止まった。
エンジン音だけで。
ルウは顔を上げた。
集落の車ではない。
新しい車体。
砂除け。
傷の少ない塗装。
「……またかよ」
降りてきた男を見て。
ルウの顔が歪む。
再開発側の人間だった。
「おはようございます」
「帰れ」
ルウは作業台へ視線を戻す。
「話があります」
「帰れ」
「あなたのお父様の件も含めて――」
カチ。
ルウの手が止まった。
レンチを持ったまま。
顔だけが男へ向く。
「……何」
「ガルドさんが亡くなったことで、契約状況が変わりました」
「それが?」
「この地域の管理権について、改めて話し合いを」
「帰れって言ってんだろ」
「君一人で決めることでは――」
手が動いた。
考えるより。
先だった。
ヒュッ。
男の横を。
工具が抜ける。
ガンッ!
背後の壁へ突き刺さった。
男の瞳が見開かれる。
頬から色が消える。
ルウ自身も。
一瞬だけ。
壁へ刺さった工具を見た。
距離。
角度。
あと少しずれていれば。
当たっていた。
それでも。
顔を戻す。
「次は当てる」
「ルウ!」
母親の声。
ルウは男を睨んだまま。
動かない。
呼吸が荒い。
肩が上下している。
指先だけが。
妙に冷たかった。
「帰れ」
男は何も言わず。
車へ戻った。
ドア。
エンジン。
砂煙。
消えていく。
ルウは。
最後まで見ていた。
母親が。
少し離れた場所に立っている。
ルウは壁へ向かった。
工具を掴む。
抜けない。
「……っ」
一度。
強く引く。
抜けた。
金属部分を見る。
傷。
指でなぞる。
「……怖かった?」
母親が聞き返す。
「何が?」
ルウは。
工具を見たまま。
「俺」
沈黙。
長くはない。
でも。
すぐではなかった。
「少し」
指が止まる。
「……そう」
工具を棚へ戻す。
位置を揃える。
「俺は普通だよ」
母親は。
何も言わなかった。
*
数日後。
北側の集落で。
水が止まった。
最初は一本。
古い蛇口を捻っても。
空気が鳴るだけだった。
次に二本。
昼には。
北側全体の水圧が落ちた。
工場へ人が来る。
一人。
二人。
増える。
「ルウ!」
「今度は何!」
「主ポンプが止まった!」
ルウは作業台から顔を上げる。
「管理所は?」
「誰もいない!」
「企業側の技術員は?」
「連絡つかない!」
「クソ!」
工具箱。
手が伸びる。
持ち上げる。
「待ちなさい」
母親の手が。
ルウの腕を掴んだ。
「何」
「あそこまで一人で行くの?」
「誰かいる?」
工場に集まった人間を見る。
誰も答えない。
老人。
女。
子供。
機械を扱える人間。
いない。
「じゃあ俺だろ!」
「危ないよ」
「水止まってんだろ!」
「でも」
「このままじゃ年寄りから死ぬ!」
口から出た。
ルウ自身が。
止まった。
父親なら。
言う。
たぶん。
同じことを。
工具箱の取っ手が。
軋むほど握られる。
「……クソ親父」
「ルウ?」
「何でもねえ!」
工具箱を肩へ掛ける。
外へ出る。
背中へ。
何人もの視線が刺さる。
「ほんと何で俺なんだよ!」
誰も。
止められなかった。
*
主ポンプ施設は。
集落から少し離れている。
古い。
巨大。
砂に半分埋まっている。
風が壁へ砂を叩きつけていた。
ルウは建物を見上げる。
外壁。
配管。
排気口。
まず。
音を見る。
「……止まってる」
本来なら。
ここまで来れば聞こえる。
低い振動。
水を押し出すポンプ。
それが。
ない。
扉へ手を掛ける。
熱い。
「っ」
一度離し。
服の袖を巻いて握り直す。
押す。
ギィィ。
砂を噛んだ扉が。
重く開いた。
中は暗かった。
外の熱から切り離された空気。
油。
錆。
湿った配管。
止まった機械特有の。
妙な静けさ。
「おい!」
声が施設へ響く。
返事はない。
「誰かいねえのか!」
耳を澄ます。
水音。
ない。
モーター。
ない。
奥。
カン。
金属音。
ルウの目が動く。
「……?」
工具箱を下ろす。
ライトを取る。
点ける。
光が。
配管をなぞる。
壁。
床。
奥。
何か。
動いた。
人影。
「おい」
ライトを向けた。
動かない。
一歩。
近づく。
「管理所の奴か?」
もう一歩。
光が。
顔へ届く。
違う。
人間だったもの。
皮膚の一部が異様に硬化している。
片腕が長い。
肩の高さが違う。
身体の比率がおかしい。
ルウの足が。
止まった。
頭が。
理解を拒む。
目だけが。
勝手に見る。
長い腕。
重心。
右肩。
脚。
関節。
何だ。
これ。
目が合った。
「……何だよ」
そいつが動いた。
速い。
「――っ!」
ルウは工具箱を持ち上げた。
衝撃。
ガンッ!
工具箱が胸へめり込む。
身体が浮く。
背中。
壁。
「ぐっ……!」
肺から空気が抜けた。
工具箱が床へ落ちる。
蓋が開く。
レンチが散らばる。
カラン。
カラン。
何なんだ。
分からない。
怖い。
立て。
逃げろ。
頭では。
そう思う。
指が。
床を掻く。
足へ力が入らない。
奥。
また。
金属音。
一体。
違う。
もう一体。
さらに。
配管の影から。
別の輪郭。
「……嘘だろ」
喉が乾く。
足が震える。
身体が動かない。
最初の一体が。
一歩。
近づく。
長い腕。
硬い皮膚。
ルウの視線は。
そこから離れない。
怖い。
怖い。
その時。
外から声がした。
「ルウ!」
顔が動く。
誰か来た。
「来んな!」
叫ぶ。
一体の首が。
外へ向いた。
身体も。
そちらへ向きを変える。
出口。
集落。
人。
「来んなって言ってんだろ!」
ルウは。
壁へ手をついた。
立つ。
膝が震える。
怖い。
逃げたい。
呼吸が浅い。
でも。
あいつが外へ出る。
誰かが死ぬ。
その瞬間。
恐怖より先に。
別のものが出た。
「……ふざけんなよ」
熱。
一歩。
「こっちは」
また。
一歩。
「水止まってんだよ」
拳を握る。
「人が困ってんだよ」
震えが。
強くなる。
「親父死んで」
呼吸が荒くなる。
「兄貴いなくなって」
視界が狭くなる。
「家まで取られそうで」
一体が。
こちらへ向き直る。
踏み込む。
「その上――」
ルウが顔を上げた。
「てめえらまで邪魔すんのかよ!」
何かが。
弾けた。
*
痛みが。
消えたわけではない。
怖くなくなったわけでもない。
ただ。
遠くなった。
父親。
兄。
借金。
家。
怖い。
悲しい。
寂しい。
全部。
遠い。
代わりに。
目の前だけが。
異様にはっきり見えた。
長い腕。
振り上げる。
肩。
先に動く。
右脚。
体重が乗る。
来る。
ルウの身体が動いた。
横へ。
腕が。
顔の横を抜ける。
「……」
見える。
何で。
考える前に。
拳が出た。
硬い。
骨が軋む。
痛い。
でも。
相手の身体が。
わずかに傾いた。
ルウの目が。
そこへ吸い寄せられる。
傾いた。
なら。
「退け!」
もう一発。
同じ場所。
失敗作の身体が。
横へ吹き飛んだ。
配管へぶつかる。
金属が鳴る。
ルウ自身が。
動きを止めた。
「……は?」
自分の拳を見る。
赤い。
皮が裂けている。
その向こう。
相手が起き上がろうとしている。
次。
横。
空気が動く。
振り向く。
二体目。
腕。
肩。
腰。
脚。
見える。
機械と同じだった。
力が伝わる。
どこから。
どこへ。
何が動けば。
次に何が来る。
ルウは身体を沈めた。
腕が頭上を抜ける。
懐。
拳。
腹。
沈む。
相手が膝をつく。
「……何だこれ」
拳を見る。
震えている。
怖いから。
痛いから。
怒っているから。
分からない。
次の瞬間。
震えが。
止まった。
急に。
呼吸も。
静かになる。
肩も。
指も。
表情が消える。
三体目。
走ってくる。
ルウは。
その身体を見る。
足。
膝。
腰。
肩。
腕。
力が。
順番に伝わっていく。
壊れた機械を見るのと。
同じように。
どこへ力をかければ。
止まる。
分かる。
「邪魔」
声が低い。
一歩。
拳。
一発。
それだけ。
相手が倒れる。
ルウは。
しばらく動かなかった。
床。
三つの身体。
散らばった工具。
止まったポンプ。
目が。
最後に。
ポンプへ向いた。
「……水」
思い出したように。
工具を拾った。
*
ポンプは壊れていた。
いや。
ルウはしゃがみ込む。
カバー。
外れている。
ボルト。
飛んでいる。
配管。
歪み。
傷の方向。
指でなぞる。
「……壊されてる」
血の付いた手で。
レンチを握る。
指が痛い。
腕も。
肋骨も。
呼吸を深くすれば。
身体の横が痛む。
でも。
壊れている場所が分かる。
なら。
やることも分かる。
「……ふざけやがって」
レンチを差す。
回す。
「親父なら」
口から出る。
手が止まる。
「……知らねえよ」
もう一度。
回す。
修理を始める。
一時間。
二時間。
日が落ちる。
施設の入口から入る光が。
少しずつ細くなる。
外から何度も声がする。
「ルウ!」
配管を叩く。
「生きてる!」
ボルトを締める。
「大丈夫か!」
「うるせえ!」
怒鳴り返す。
声を出すたび。
まだ動ける。
ルウは汗を腕で拭った。
血と油が頬へつく。
「あと……」
配管を見る。
「ここ」
調整。
もう一度。
「動け」
スイッチ。
押す。
何もない。
「……」
戻る。
配線。
確認。
砂。
接点。
「これか」
払う。
繋ぐ。
もう一度。
スイッチ。
最初。
何も起きない。
ルウの眉が寄る。
次の瞬間。
施設の奥。
ゴウン。
低い振動。
ルウの瞳が上がる。
ゴウン。
もう一度。
床から。
足の裏へ。
振動が伝わる。
管の中。
ゴボ。
何かが走る。
水。
外。
声。
「出た!」
別の声。
「水だ!」
「戻ったぞ!」
歓声。
ルウは。
その場に座り込んだ。
背中を。
機械へ預ける。
「……やっとかよ」
身体が。
急に重くなった。
拳。
痛い。
肋骨。
痛い。
背中。
痛い。
呼吸が。
また速くなる。
さっきの化け物。
怖い。
父親。
痛い。
兄。
分からない。
全部。
一気に戻ってくる。
「……」
胸が痛い。
ルウは。
目を閉じた。
「クソ」
吐き捨てる。
胸の中へ。
少しだけ。
熱が戻る。
また。
少し楽になった。
*
遠く。
施設の灯りが。
砂漠の中に一つだけ浮かんでいる。
そこから離れた場所。
一人の男が立っていた。
風が吹く。
上着の裾が。
わずかに動く。
男自身は。
動かない。
視線の先。
施設。
水を運び始めた配管。
人が集まっている。
その中心。
包帯もない。
血と油に汚れた少年。
「適応したか」
淡々とした声。
足元には砂。
その横。
拘束具の外れた。
空の輸送容器。
男は手元へ視線を落とす。
記録。
対象。
反応。
出力。
継続時間。
感情変換。
数字。
時間。
変化。
必要なものだけ。
施設から。
歓声が聞こえる。
男は顔を上げない。
水が戻ったことにも。
誰かが助かったことにも。
興味はない。
「次へ進める」
記録を閉じる。
風が吹いた。
砂が輸送容器の底へ溜まっていく。
男はもう。
施設を見なかった。
*
夜。
ルウは工場の外に座っていた。
両手。
腕。
身体。
包帯だらけ。
座る時にも。
肋骨が痛んだ。
「っ……」
顔を歪める。
母親に怒られた。
妹にも。
弟には泣かれた。
「……何で俺が怒られんだよ」
工場の中では。
送風機が回っている。
ゴォォ。
少し離れた場所。
水の入った容器を運ぶ人影が見える。
北側にも。
水は戻った。
誰も死ななかった。
それでいい。
そう思う。
でも。
ルウは。
包帯の巻かれた拳を見る。
握る。
痛い。
開く。
また。
握る。
身体の奥に。
残っている。
熱。
あの時。
怒った瞬間。
身体が動いた。
怖くなくなった。
違う。
怖かった。
でも。
どうでもよくなった。
悲しくなくなった。
違う。
悲しかった。
でも。
遠くなった。
何も考えなくてよかった。
「……楽だったな」
小さく呟く。
その瞬間。
送風機が。
首を振った。
ゴォォ。
風が来る。
髪が動く。
ゴォォ。
向こうへ戻る。
そして。
「昔」
声がした。
ルウの顔が上がる。
工場の入口。
誰もいない。
道。
誰もいない。
「戦い続けた男がいた」
ルウが。
ゆっくり立ち上がる。
痛みで眉が歪む。
「……誰だ」
返事はない。
声だけ。
方向が分からない。
「男は、大切なものを奪われた」
ルウは工場の中を見る。
母親たちは。
気づいていない。
「だから怒った」
「出てこい」
風が砂を運ぶ。
工場の前を。
薄く走る。
「怒れば戦えた」
「……」
「怒れば立てた」
ルウの指が。
ゆっくり拳を作る。
「誰だって聞いてんだよ!」
工場の中。
送風機。
ゴォォ。
ゴォォ。
誰も反応しない。
「やがて男は、奪った者をすべて殺した」
声は淡々としていた。
「それでも」
一拍。
送風機が。
こちらへ向く。
風。
「怒りだけが残った」
ルウの拳に。
さらに力が入る。
「……それが何だよ」
「男は困った」
声は続く。
「もう、敵がいなかったからだ」
「……」
送風機が。
向こうへ向く。
風が消える。
「だから」
その瞬間。
送風機の羽根は回っているのに。
音だけが。
消えた。
ルウの瞳が動く。
工場を見る。
羽根は回っている。
母親が奥を歩く。
妹が何かを話している。
弟が振り返る。
口が動く。
何も聞こえない。
ルウの呼吸だけが。
近い。
「次の敵を探した」
その声だけが。
はっきり聞こえた。
ルウが振り返る。
誰もいない。
道。
砂。
夜。
工場の灯り。
全部。
そこにある。
なのに。
音だけがない。
「……意味分かんねえよ」
返事はなかった。
次の瞬間。
ゴォォォ――。
送風機の音が戻った。
工場から。
弟の声。
「兄ちゃん?」
ルウの肩が。
わずかに跳ねる。
「……何でもねえ」
「誰かいた?」
「いねえよ」
ルウは。
もう一度。
暗い道を見る。
誰もいない。
座る。
肋骨が痛む。
「クソ」
吐き捨てる。
包帯の拳を。
膝へ置く。
胸の奥には。
まだ。
熱が残っていた。
怖い時。
熱くなる。
悲しい時。
熱くなる。
寂しい時。
熱くなる。
怒れば。
全部。
一つになる。
ルウは。
そのことに。
まだ名前をつけなかった。
ルウ編、中編です。
前編では家族と集落を中心に描きましたが、今回はそこから一段進んで、ルウの「怒り」がどうやって役に立つものになってしまうのかを描いています。
ルウは最初から人を嫌っているわけではありません。
むしろ逆です。
困っている人間を放っておけない。
危ないことをしている家族を見れば止める。
水が止まれば、文句を言いながらでも修理へ向かう。
本人は否定するでしょうが、かなり父親譲りです。
ただ、ガルドが笑って人を助けるのに対して、ルウは怒りながら人を助けます。
ここが、彼の大きな違いです。
そして今回、その怒りが初めて明確な「力」になります。
怖い時。
悲しい時。
何もできない時。
怒れば動ける。
怒れば助けられる。
怒れば少しだけ楽になる。
これが成功体験になってしまった。
ルウにとって怒りは、まだ「悪いもの」ではありません。
むしろ、自分と周囲を救ってくれたものです。
だからこそ、この先が厄介になります。
最後に現れた語り手の昔話も、今はただの意味不明な話で構いません。
怒りで立ち上がった男が、やがて何を必要とするようになるのか。
ルウ編はここから、復讐へ向かって進んでいきます。




