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『KillerWorld ―七つ目の答え―』  作者: ザクロ
ルウ編

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14/57

ルウ編・中編「まだ、怒っていれば」

父を失い、兄も帰ってこない。

残されたルウは、砂漠の集落と修理工場を支える日々を送っていた。

文句を言いながら。

苛立ちながら。

それでも困っている人間を放っておけない。

父ガルドと同じように。

けれど、ルウの中にあるものは少しずつ変わり始めていた。

悲しみも。

不安も。

寂しさも。

怒っている間だけ、考えなくて済む。

そんなある日、集落の生命線である水利設備が停止する。

誰も動けない中、ルウは悪態をつきながら現場へ向かう。

そこで待っていたのは、故障した設備だけではなかった。

恐怖。

無力感。

喪失。

そのすべてが一つの感情へ変わった時。

ルウの中で、何かが目を覚ます。

# ルウ編・中編


## 「まだ、怒っていれば」


 父親が死んでから、工場は静かになった。


 機械の音はする。


 送風機も回っている。


 工具も同じ場所にある。


 朝になればシャッターを上げる。


 油の匂い。


 焼けた金属。


 床へ入り込んだ砂。


 何も変わっていない。


 なのに。


 何かが足りない。


 送風機が首を振る。


 ゴォォ。


 生温い風がルウの髪を揺らす。


 戻る。


 ゴォォ。


 また揺れる。


 その間に。


 以前なら聞こえていたものがない。


『ルウ!』


 呼ぶ声。


『十四!』


 間違った工具。


 笑い声。


 ない。


 ルウは作業台の前で、分解した部品を見つめていた。


 手にはレンチ。


 目の前には緩んだボルト。


 直す場所は分かっている。


 手順も。


 必要な工具も。


 全部。


 分かる。


 なのに。


 手が止まっていた。


「ルウ!」


 外から声が飛んだ。


 肩が跳ねる。


「ポンプ!」


 ルウは顔を上げた。


「今行く!」


 反射的に返事をしてから。


 舌打ちする。


「……なんで俺なんだよ」


 レンチを置く。


 工具箱を掴む。


 持ち上げた瞬間。


 腕が少し下がった。


「……重」


 中身は変わっていない。


 十二。


 十三。


 十四。


 金槌。


 ドライバー。


 父親が使っていた物も、そのまま入っている。


 前より重くなった気がした。


 工場を出る。


 強い日差しに目を細めた。


 女が一人。


 頭へ布を巻き、砂まみれになって立っていた。


「悪いねえ」


「別に」


「お父さんなら――」


 ルウの指が。


 工具箱の取っ手へ食い込んだ。


「親父の話すんな」


 思ったより強い声が出た。


 女の口が閉じる。


 視線が一度。


 ルウから工具箱へ落ちた。


「……」


 ルウも気づいた。


 息を吐く。


 視線を逸らす。


「……場所どこ」


「あ、ああ。北の井戸」


「分かった」


 歩き出す。


「ルウ」


「何」


「ありがとう」


 足が。


 一瞬だけ止まる。


「まだ直してねえだろ」


 それだけ言って。


 振り返らなかった。


     *


 井戸のポンプは古かった。


 錆。


 砂。


 何度も交換されたボルト。


 補修された配管。


 軸を支える部分には、昔の溶接痕まで残っている。


 ルウはしゃがみ込んだ。


 手で外装を押す。


 軋む。


「……ひでえな」


 父親なら。


 見ただけで笑っただろう。


『こりゃいい! まだ使える!』


 声まで。


 簡単に思い出せた。


 ルウなら捨てる。


「……こんなの買い替えろよ」


 レンチを差し込む。


 回す。


 固い。


 もう一度。


 体重を乗せる。


 ギッ。


 ようやく動いた。


「金あったら買ってるよ」


「知ってる」


 老人が日陰に座っていた。


 膝へ手を置き。


 ルウの作業を眺めている。


「ガルドはこういうの好きだったな」


 カチ。


 レンチが止まった。


 ルウの目だけが。


 老人へ向く。


「直せそう?」


「知らねえ」


「そうか」


 ルウはポンプへ視線を戻す。


「……直すけど」


 カバーを外す。


 砂が落ちた。


「うわ」


 指を入れる。


 軸。


 回らない。


 別の角度。


 押す。


 引く。


「砂噛んでる」


 さらに見る。


 表面を指でなぞる。


「軸も削れてるじゃねえか」


 直すなら。


 まず砂を抜く。


 軸を見る。


 使える。


 まだ。


 交換しなくても。


 削って。


 調整して。


 父親ならどうする。


 その考えが浮かんだ瞬間。


 眉間へ力が入った。


「クソ」


「なんだ?」


「何でもない」


 金槌を取る。


 一度。


 カン。


 二度。


 ガン。


 強すぎた。


 金属が嫌な音を返す。


 ルウの手が止まる。


「ルウ」


「何」


「それ壊さないか?」


「壊さねえよ!」


 老人の肩が。


 びくりと動いた。


 ルウは。


 その動きを見た。


 弟と同じだった。


 奥歯を噛む。


 金槌を下ろす。


「……悪い」


「いや」


 ルウは視線をポンプへ戻した。


 自分の手。


 金槌。


 老人。


 また。


 ポンプ。


 言った自分にまで腹が立つ。


 謝るくらいなら。


 最初から怒鳴るな。


 分かっている。


 分かっているから。


 余計に腹が立った。


 ルウは一度。


 金槌を地面へ置いた。


 深く息を吐く。


 今度は。


 指で軸の位置を確かめる。


 少しずつ。


 叩く。


 カン。


 位置を見る。


 カン。


 回す。


 まだ固い。


「……もうちょい」


 カン。


 回す。


 動いた。


 ルウの眉が。


 ほんの少しだけ上がった。


「そこか」


 そこからは早かった。


 壊れている場所が分かればいい。


 原因が分かれば。


 直せる。


     *


 夕方。


 最後のボルトを締める。


「回して」


 老人が立ち上がる。


 ポンプ。


 一度。


 動かす。


 空振り。


 もう一度。


 管の奥。


 ゴボッ。


 ルウの目が上がる。


 もう一度。


 ゴボ。


 水。


 濁った水が最初に吐き出され。


 続いて。


 透明な水が流れた。


「出た!」


 近くにいた老人たちが集まってくる。


 器。


 桶。


 笑い声。


 水が砂へ落ち。


 乾いた地面の色を濃くしていく。


 ルウはしゃがんだまま。


 工具を布で拭いた。


「助かったよ」


「別に」


「ガルドそっくりだ」


 工具箱へ向かっていた手が。


 止まった。


「……どこが」


「文句言いながら最後までやるところ」


 ルウの視線が。


 流れ続ける水へ向く。


「似てねえよ」


「そうか?」


「似てねえ」


 レンチを工具箱へ入れる。


 十三。


 その隣。


 十四。


 父親が何度も間違えた工具。


 蓋を閉める。


 持ち上げる。


 指が震えていた。


 重さのせいじゃなかった。


     *


 工場へ戻る頃には。


 空が赤くなっていた。


 シャッターは開いている。


 送風機の音。


 紙を捲る音。


 中へ入ると。


 母親が作業台で帳簿を見ていた。


「また来たの?」


「何が」


「取り立て」


 母親が頷く。


 ページの端を指で押さえる。


「今日は二人」


「何て」


「期限を延ばす代わりに、土地の話をもう一度って」


「断った?」


「もちろん」


「……そう」


 ルウは工具箱を置いた。


 ガン。


 金属音が工場へ響く。


 昔なら。


 奥から。


『工具は大事にしろ!』


 そう言って。


 自分が一番雑に扱う男がいた。


 何も聞こえない。


「兄ちゃんは?」


 弟が聞いた。


 ルウの肩が。


 固まった。


「知らねえ」


「連絡ない?」


「ない」


「お母さんにも?」


「ないよ」


 母親が静かに答える。


「……そう」


 弟はそれ以上聞かなかった。


 視線を下げる。


 ルウは工場の奥へ入った。


 棚。


 工具。


 部品。


 全部。


 置く場所が決まっている。


 壊れれば。


 直す。


 減れば。


 補充する。


 兄は。


 どこだ。


 胸の中に。


 何かが溜まっている。


 重い。


 冷たい。


 形がない。


 だから。


 どこを直せばいいのか分からない。


 考えたくなかった。


 ルウは曲がったレンチを掴む。


「クソ兄貴」


 吐き捨てる。


 胸の冷たさへ。


 少し熱が混じる。


 ほんの少しだけ。


 楽になった。


     *


 数日後。


 郵便屋が一通の封筒を持ってきた。


 差出人はない。


「兄貴?」


 妹が横から覗き込む。


「知らねえ」


 ルウが奪うように受け取る。


 紙は軽かった。


 工具箱より。


 部品より。


 何より軽い。


 なのに。


 封を切る指が。


 なかなか動かなかった。


 破る。


 中身は紙一枚。


 短い。


 ――今は戻れない。


 それだけだった。


 ルウの瞳が。


 その一行を追う。


 もう一度。


 読む。


 文字は変わらない。


「……何だよこれ」


 妹が覗く。


「兄ちゃん?」


「知らねえよ!」


 紙を握る。


「何が戻れないだよ」


 指に力が入る。


 紙が潰れる。


「何が今はだよ」


 呼吸が。


 少しずつ速くなる。


「親父殺して」


 母親が顔を上げた。


「ルウ」


「家族ほったらかして」


「ルウ」


「何なんだよ!」


 拳が机へ落ちた。


 ドン。


 皿が跳ねる。


 妹の肩が竦む。


 弟の身体も固まる。


 ルウの呼吸が荒くなる。


 胸が上下する。


 もう一度。


 拳が上がる。


 机へ。


 振り下ろそうとして。


 止まった。


 妹。


 弟。


 母親。


 三人の目。


「……」


 拳が震えている。


 握った紙も。


 肩も。


 息も。


 序章の夜を。


 ルウは知らない。


 それでも。


 同じように。


 身体だけが震えていた。


「……クソ」


 拳を下ろす。


 紙を持ったまま。


 外へ出た。


     *


 砂漠は何も答えない。


 ルウは歩いた。


 家の灯りが後ろへ遠ざかる。


 工場の送風機も。


 人の声も。


 聞こえなくなる。


 足元には。


 砂。


 風。


 それだけ。


 どこへ行くつもりだったのか。


 自分でも分からない。


 ただ。


 家にいたくなかった。


 兄のことを考えたくない。


 父親のことも。


 母親も。


 妹も。


 弟も。


 全部。


 考えたくない。


 胸の奥が痛む。


 息が詰まる。


 怖い。


 悲しい。


 寂しい。


 言葉にした瞬間。


 足が止まった。


「……うるせえ」


 誰に言ったのか分からない。


 風。


 砂。


 自分。


「うるせえよ」


 拳を握る。


 爪が掌へ食い込む。


「ふざけんな」


 胸の痛みが。


 ほんの少し。


 遠くなる。


「全部、ふざけんな」


 怖い。


 腹が立つ。


 悲しい。


 腹が立つ。


 寂しい。


 腹が立つ。


 一つずつ。


 別のものへ置き換わっていく。


 冷たかった胸の奥に。


 熱が出る。


 そっちの方が。


 ずっと扱いやすい。


 怒っている間は。


 泣かなくていい。


 怖がらなくていい。


 何を失ったのか。


 考えなくていい。


 ルウは拳を握ったまま。


 また歩き出した。


 それでよかった。


     *


 翌朝。


 工場の前に。


 一台の車が止まった。


 エンジン音だけで。


 ルウは顔を上げた。


 集落の車ではない。


 新しい車体。


 砂除け。


 傷の少ない塗装。


「……またかよ」


 降りてきた男を見て。


 ルウの顔が歪む。


 再開発側の人間だった。


「おはようございます」


「帰れ」


 ルウは作業台へ視線を戻す。


「話があります」


「帰れ」


「あなたのお父様の件も含めて――」


 カチ。


 ルウの手が止まった。


 レンチを持ったまま。


 顔だけが男へ向く。


「……何」


「ガルドさんが亡くなったことで、契約状況が変わりました」


「それが?」


「この地域の管理権について、改めて話し合いを」


「帰れって言ってんだろ」


「君一人で決めることでは――」


 手が動いた。


 考えるより。


 先だった。


 ヒュッ。


 男の横を。


 工具が抜ける。


 ガンッ!


 背後の壁へ突き刺さった。


 男の瞳が見開かれる。


 頬から色が消える。


 ルウ自身も。


 一瞬だけ。


 壁へ刺さった工具を見た。


 距離。


 角度。


 あと少しずれていれば。


 当たっていた。


 それでも。


 顔を戻す。


「次は当てる」


「ルウ!」


 母親の声。


 ルウは男を睨んだまま。


 動かない。


 呼吸が荒い。


 肩が上下している。


 指先だけが。


 妙に冷たかった。


「帰れ」


 男は何も言わず。


 車へ戻った。


 ドア。


 エンジン。


 砂煙。


 消えていく。


 ルウは。


 最後まで見ていた。


 母親が。


 少し離れた場所に立っている。


 ルウは壁へ向かった。


 工具を掴む。


 抜けない。


「……っ」


 一度。


 強く引く。


 抜けた。


 金属部分を見る。


 傷。


 指でなぞる。


「……怖かった?」


 母親が聞き返す。


「何が?」


 ルウは。


 工具を見たまま。


「俺」


 沈黙。


 長くはない。


 でも。


 すぐではなかった。


「少し」


 指が止まる。


「……そう」


 工具を棚へ戻す。


 位置を揃える。


「俺は普通だよ」


 母親は。


 何も言わなかった。


     *


 数日後。


 北側の集落で。


 水が止まった。


 最初は一本。


 古い蛇口を捻っても。


 空気が鳴るだけだった。


 次に二本。


 昼には。


 北側全体の水圧が落ちた。


 工場へ人が来る。


 一人。


 二人。


 増える。


「ルウ!」


「今度は何!」


「主ポンプが止まった!」


 ルウは作業台から顔を上げる。


「管理所は?」


「誰もいない!」


「企業側の技術員は?」


「連絡つかない!」


「クソ!」


 工具箱。


 手が伸びる。


 持ち上げる。


「待ちなさい」


 母親の手が。


 ルウの腕を掴んだ。


「何」


「あそこまで一人で行くの?」


「誰かいる?」


 工場に集まった人間を見る。


 誰も答えない。


 老人。


 女。


 子供。


 機械を扱える人間。


 いない。


「じゃあ俺だろ!」


「危ないよ」


「水止まってんだろ!」


「でも」


「このままじゃ年寄りから死ぬ!」


 口から出た。


 ルウ自身が。


 止まった。


 父親なら。


 言う。


 たぶん。


 同じことを。


 工具箱の取っ手が。


 軋むほど握られる。


「……クソ親父」


「ルウ?」


「何でもねえ!」


 工具箱を肩へ掛ける。


 外へ出る。


 背中へ。


 何人もの視線が刺さる。


「ほんと何で俺なんだよ!」


 誰も。


 止められなかった。


     *


 主ポンプ施設は。


 集落から少し離れている。


 古い。


 巨大。


 砂に半分埋まっている。


 風が壁へ砂を叩きつけていた。


 ルウは建物を見上げる。


 外壁。


 配管。


 排気口。


 まず。


 音を見る。


「……止まってる」


 本来なら。


 ここまで来れば聞こえる。


 低い振動。


 水を押し出すポンプ。


 それが。


 ない。


 扉へ手を掛ける。


 熱い。


「っ」


 一度離し。


 服の袖を巻いて握り直す。


 押す。


 ギィィ。


 砂を噛んだ扉が。


 重く開いた。


 中は暗かった。


 外の熱から切り離された空気。


 油。


 錆。


 湿った配管。


 止まった機械特有の。


 妙な静けさ。


「おい!」


 声が施設へ響く。


 返事はない。


「誰かいねえのか!」


 耳を澄ます。


 水音。


 ない。


 モーター。


 ない。


 奥。


 カン。


 金属音。


 ルウの目が動く。


「……?」


 工具箱を下ろす。


 ライトを取る。


 点ける。


 光が。


 配管をなぞる。


 壁。


 床。


 奥。


 何か。


 動いた。


 人影。


「おい」


 ライトを向けた。


 動かない。


 一歩。


 近づく。


「管理所の奴か?」


 もう一歩。


 光が。


 顔へ届く。


 違う。


 人間だったもの。


 皮膚の一部が異様に硬化している。


 片腕が長い。


 肩の高さが違う。


 身体の比率がおかしい。


 ルウの足が。


 止まった。


 頭が。


 理解を拒む。


 目だけが。


 勝手に見る。


 長い腕。


 重心。


 右肩。


 脚。


 関節。


 何だ。


 これ。


 目が合った。


「……何だよ」


 そいつが動いた。


 速い。


「――っ!」


 ルウは工具箱を持ち上げた。


 衝撃。


 ガンッ!


 工具箱が胸へめり込む。


 身体が浮く。


 背中。


 壁。


「ぐっ……!」


 肺から空気が抜けた。


 工具箱が床へ落ちる。


 蓋が開く。


 レンチが散らばる。


 カラン。


 カラン。


 何なんだ。


 分からない。


 怖い。


 立て。


 逃げろ。


 頭では。


 そう思う。


 指が。


 床を掻く。


 足へ力が入らない。


 奥。


 また。


 金属音。


 一体。


 違う。


 もう一体。


 さらに。


 配管の影から。


 別の輪郭。


「……嘘だろ」


 喉が乾く。


 足が震える。


 身体が動かない。


 最初の一体が。


 一歩。


 近づく。


 長い腕。


 硬い皮膚。


 ルウの視線は。


 そこから離れない。


 怖い。


 怖い。


 その時。


 外から声がした。


「ルウ!」


 顔が動く。


 誰か来た。


「来んな!」


 叫ぶ。


 一体の首が。


 外へ向いた。


 身体も。


 そちらへ向きを変える。


 出口。


 集落。


 人。


「来んなって言ってんだろ!」


 ルウは。


 壁へ手をついた。


 立つ。


 膝が震える。


 怖い。


 逃げたい。


 呼吸が浅い。


 でも。


 あいつが外へ出る。


 誰かが死ぬ。


 その瞬間。


 恐怖より先に。


 別のものが出た。


「……ふざけんなよ」


 熱。


 一歩。


「こっちは」


 また。


 一歩。


「水止まってんだよ」


 拳を握る。


「人が困ってんだよ」


 震えが。


 強くなる。


「親父死んで」


 呼吸が荒くなる。


「兄貴いなくなって」


 視界が狭くなる。


「家まで取られそうで」


 一体が。


 こちらへ向き直る。


 踏み込む。


「その上――」


 ルウが顔を上げた。


「てめえらまで邪魔すんのかよ!」


 何かが。


 弾けた。


     *


 痛みが。


 消えたわけではない。


 怖くなくなったわけでもない。


 ただ。


 遠くなった。


 父親。


 兄。


 借金。


 家。


 怖い。


 悲しい。


 寂しい。


 全部。


 遠い。


 代わりに。


 目の前だけが。


 異様にはっきり見えた。


 長い腕。


 振り上げる。


 肩。


 先に動く。


 右脚。


 体重が乗る。


 来る。


 ルウの身体が動いた。


 横へ。


 腕が。


 顔の横を抜ける。


「……」


 見える。


 何で。


 考える前に。


 拳が出た。


 硬い。


 骨が軋む。


 痛い。


 でも。


 相手の身体が。


 わずかに傾いた。


 ルウの目が。


 そこへ吸い寄せられる。


 傾いた。


 なら。


「退け!」


 もう一発。


 同じ場所。


 失敗作の身体が。


 横へ吹き飛んだ。


 配管へぶつかる。


 金属が鳴る。


 ルウ自身が。


 動きを止めた。


「……は?」


 自分の拳を見る。


 赤い。


 皮が裂けている。


 その向こう。


 相手が起き上がろうとしている。


 次。


 横。


 空気が動く。


 振り向く。


 二体目。


 腕。


 肩。


 腰。


 脚。


 見える。


 機械と同じだった。


 力が伝わる。


 どこから。


 どこへ。


 何が動けば。


 次に何が来る。


 ルウは身体を沈めた。


 腕が頭上を抜ける。


 懐。


 拳。


 腹。


 沈む。


 相手が膝をつく。


「……何だこれ」


 拳を見る。


 震えている。


 怖いから。


 痛いから。


 怒っているから。


 分からない。


 次の瞬間。


 震えが。


 止まった。


 急に。


 呼吸も。


 静かになる。


 肩も。


 指も。


 表情が消える。


 三体目。


 走ってくる。


 ルウは。


 その身体を見る。


 足。


 膝。


 腰。


 肩。


 腕。


 力が。


 順番に伝わっていく。


 壊れた機械を見るのと。


 同じように。


 どこへ力をかければ。


 止まる。


 分かる。


「邪魔」


 声が低い。


 一歩。


 拳。


 一発。


 それだけ。


 相手が倒れる。


 ルウは。


 しばらく動かなかった。


 床。


 三つの身体。


 散らばった工具。


 止まったポンプ。


 目が。


 最後に。


 ポンプへ向いた。


「……水」


 思い出したように。


 工具を拾った。


     *


 ポンプは壊れていた。


 いや。


 ルウはしゃがみ込む。


 カバー。


 外れている。


 ボルト。


 飛んでいる。


 配管。


 歪み。


 傷の方向。


 指でなぞる。


「……壊されてる」


 血の付いた手で。


 レンチを握る。


 指が痛い。


 腕も。


 肋骨も。


 呼吸を深くすれば。


 身体の横が痛む。


 でも。


 壊れている場所が分かる。


 なら。


 やることも分かる。


「……ふざけやがって」


 レンチを差す。


 回す。


「親父なら」


 口から出る。


 手が止まる。


「……知らねえよ」


 もう一度。


 回す。


 修理を始める。


 一時間。


 二時間。


 日が落ちる。


 施設の入口から入る光が。


 少しずつ細くなる。


 外から何度も声がする。


「ルウ!」


 配管を叩く。


「生きてる!」


 ボルトを締める。


「大丈夫か!」


「うるせえ!」


 怒鳴り返す。


 声を出すたび。


 まだ動ける。


 ルウは汗を腕で拭った。


 血と油が頬へつく。


「あと……」


 配管を見る。


「ここ」


 調整。


 もう一度。


「動け」


 スイッチ。


 押す。


 何もない。


「……」


 戻る。


 配線。


 確認。


 砂。


 接点。


「これか」


 払う。


 繋ぐ。


 もう一度。


 スイッチ。


 最初。


 何も起きない。


 ルウの眉が寄る。


 次の瞬間。


 施設の奥。


 ゴウン。


 低い振動。


 ルウの瞳が上がる。


 ゴウン。


 もう一度。


 床から。


 足の裏へ。


 振動が伝わる。


 管の中。


 ゴボ。


 何かが走る。


 水。


 外。


 声。


「出た!」


 別の声。


「水だ!」


「戻ったぞ!」


 歓声。


 ルウは。


 その場に座り込んだ。


 背中を。


 機械へ預ける。


「……やっとかよ」


 身体が。


 急に重くなった。


 拳。


 痛い。


 肋骨。


 痛い。


 背中。


 痛い。


 呼吸が。


 また速くなる。


 さっきの化け物。


 怖い。


 父親。


 痛い。


 兄。


 分からない。


 全部。


 一気に戻ってくる。


「……」


 胸が痛い。


 ルウは。


 目を閉じた。


「クソ」


 吐き捨てる。


 胸の中へ。


 少しだけ。


 熱が戻る。


 また。


 少し楽になった。


     *


 遠く。


 施設の灯りが。


 砂漠の中に一つだけ浮かんでいる。


 そこから離れた場所。


 一人の男が立っていた。


 風が吹く。


 上着の裾が。


 わずかに動く。


 男自身は。


 動かない。


 視線の先。


 施設。


 水を運び始めた配管。


 人が集まっている。


 その中心。


 包帯もない。


 血と油に汚れた少年。


「適応したか」


 淡々とした声。


 足元には砂。


 その横。


 拘束具の外れた。


 空の輸送容器。


 男は手元へ視線を落とす。


 記録。


 対象。


 反応。


 出力。


 継続時間。


 感情変換。


 数字。


 時間。


 変化。


 必要なものだけ。


 施設から。


 歓声が聞こえる。


 男は顔を上げない。


 水が戻ったことにも。


 誰かが助かったことにも。


 興味はない。


「次へ進める」


 記録を閉じる。


 風が吹いた。


 砂が輸送容器の底へ溜まっていく。


 男はもう。


 施設を見なかった。


     *


 夜。


 ルウは工場の外に座っていた。


 両手。


 腕。


 身体。


 包帯だらけ。


 座る時にも。


 肋骨が痛んだ。


「っ……」


 顔を歪める。


 母親に怒られた。


 妹にも。


 弟には泣かれた。


「……何で俺が怒られんだよ」


 工場の中では。


 送風機が回っている。


 ゴォォ。


 少し離れた場所。


 水の入った容器を運ぶ人影が見える。


 北側にも。


 水は戻った。


 誰も死ななかった。


 それでいい。


 そう思う。


 でも。


 ルウは。


 包帯の巻かれた拳を見る。


 握る。


 痛い。


 開く。


 また。


 握る。


 身体の奥に。


 残っている。


 熱。


 あの時。


 怒った瞬間。


 身体が動いた。


 怖くなくなった。


 違う。


 怖かった。


 でも。


 どうでもよくなった。


 悲しくなくなった。


 違う。


 悲しかった。


 でも。


 遠くなった。


 何も考えなくてよかった。


「……楽だったな」


 小さく呟く。


 その瞬間。


 送風機が。


 首を振った。


 ゴォォ。


 風が来る。


 髪が動く。


 ゴォォ。


 向こうへ戻る。


 そして。


「昔」


 声がした。


 ルウの顔が上がる。


 工場の入口。


 誰もいない。


 道。


 誰もいない。


「戦い続けた男がいた」


 ルウが。


 ゆっくり立ち上がる。


 痛みで眉が歪む。


「……誰だ」


 返事はない。


 声だけ。


 方向が分からない。


「男は、大切なものを奪われた」


 ルウは工場の中を見る。


 母親たちは。


 気づいていない。


「だから怒った」


「出てこい」


 風が砂を運ぶ。


 工場の前を。


 薄く走る。


「怒れば戦えた」


「……」


「怒れば立てた」


 ルウの指が。


 ゆっくり拳を作る。


「誰だって聞いてんだよ!」


 工場の中。


 送風機。


 ゴォォ。


 ゴォォ。


 誰も反応しない。


「やがて男は、奪った者をすべて殺した」


 声は淡々としていた。


「それでも」


 一拍。


 送風機が。


 こちらへ向く。


 風。


「怒りだけが残った」


 ルウの拳に。


 さらに力が入る。


「……それが何だよ」


「男は困った」


 声は続く。


「もう、敵がいなかったからだ」


「……」


 送風機が。


 向こうへ向く。


 風が消える。


「だから」


 その瞬間。


 送風機の羽根は回っているのに。


 音だけが。


 消えた。


 ルウの瞳が動く。


 工場を見る。


 羽根は回っている。


 母親が奥を歩く。


 妹が何かを話している。


 弟が振り返る。


 口が動く。


 何も聞こえない。


 ルウの呼吸だけが。


 近い。


「次の敵を探した」


 その声だけが。


 はっきり聞こえた。


 ルウが振り返る。


 誰もいない。


 道。


 砂。


 夜。


 工場の灯り。


 全部。


 そこにある。


 なのに。


 音だけがない。


「……意味分かんねえよ」


 返事はなかった。


 次の瞬間。


 ゴォォォ――。


 送風機の音が戻った。


 工場から。


 弟の声。


「兄ちゃん?」


 ルウの肩が。


 わずかに跳ねる。


「……何でもねえ」


「誰かいた?」


「いねえよ」


 ルウは。


 もう一度。


 暗い道を見る。


 誰もいない。


 座る。


 肋骨が痛む。


「クソ」


 吐き捨てる。


 包帯の拳を。


 膝へ置く。


 胸の奥には。


 まだ。


 熱が残っていた。


 怖い時。


 熱くなる。


 悲しい時。


 熱くなる。


 寂しい時。


 熱くなる。


 怒れば。


 全部。


 一つになる。


 ルウは。


 そのことに。


 まだ名前をつけなかった。

ルウ編、中編です。

前編では家族と集落を中心に描きましたが、今回はそこから一段進んで、ルウの「怒り」がどうやって役に立つものになってしまうのかを描いています。

ルウは最初から人を嫌っているわけではありません。

むしろ逆です。

困っている人間を放っておけない。

危ないことをしている家族を見れば止める。

水が止まれば、文句を言いながらでも修理へ向かう。

本人は否定するでしょうが、かなり父親譲りです。

ただ、ガルドが笑って人を助けるのに対して、ルウは怒りながら人を助けます。

ここが、彼の大きな違いです。

そして今回、その怒りが初めて明確な「力」になります。

怖い時。

悲しい時。

何もできない時。

怒れば動ける。

怒れば助けられる。

怒れば少しだけ楽になる。

これが成功体験になってしまった。

ルウにとって怒りは、まだ「悪いもの」ではありません。

むしろ、自分と周囲を救ってくれたものです。

だからこそ、この先が厄介になります。

最後に現れた語り手の昔話も、今はただの意味不明な話で構いません。

怒りで立ち上がった男が、やがて何を必要とするようになるのか。

ルウ編はここから、復讐へ向かって進んでいきます。

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