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『KillerWorld ―七つ目の答え―』  作者: ザクロ
ルウ編

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13/57

ルウ編・前編「砂の家」

砂漠の外れにある、小さな集落。

十七歳のルウは、修理工場を営む父ガルドのもとで働きながら、家族と暮らしていた。

人が良く、頼まれれば採算も考えず機械を直してしまう父。

そんな父に腹を立てながらも、ルウ自身もまた、困っている人間を放っておくことができない。

しかし、過疎化と貧困が進む集落には巨大な再開発計画が迫っていた。

道路。

病院。

安定した水。

新しい仕事。

集落が長年求め続けてきたものと引き換えに、失われるものもある。

そして兄ユーラは、父とは違う方法で家族を守ろうとしていた。

一人を守ること。

大勢を守ること。

その二つが同じ答えになるとは限らない。

やがて、ある夜。

一家の未来を決定的に変える選択が下される。

## 序章


 刃物を握った手が、震えていた。


 細かく、止めようとしても止まらない震えだった。


 乾いた風が砂を薄くさらっていく。


 そのたび、刃先が月明かりを拾った。


 砂の上に倒れた男の腹から、黒く見えるほど濃い血が流れている。


 熱を持った血へ、風が運んだ砂が貼りつく。


 また吹く。


 また積もる。


 倒れた男はまだ息をしていた。


 荒く、短い。


 胸が持ち上がるたび、砂に擦れた服が小さく鳴った。


 それでも声を上げなかった。


 刃物を持った男のほうが、よほど苦しそうな顔をしていた。


「……家族のためなんだ」


 掠れた声だった。


 返事はない。


「これしか……なかったんだ」


 言葉とは裏腹に、刃先が揺れている。


 手だけではない。


 肩も。


 膝も。


 呼吸さえ震えていた。


 風が一度、強く吹いた。


 男の髪が乱れ、頬へ張りつく。


 それを払う余裕もない。


 倒れた男が、ゆっくり顔を上げた。


 その目は、怒っているようには見えなかった。


 ただ、目の前に立つ男を見ていた。


 長い間。


 何かを確かめるように。


 刃物を持つ手。


 震える膝。


 泣きそうに歪んだ顔。


 その全部を見た。


 そして。


 血に濡れた手を伸ばした。


 男の肩が跳ねる。


 一歩、逃げかける。


 だが。


 その手は刃物には向かわなかった。


 震えている手を。


 上から包んだ。


「……」


 何かを言った。


 ちょうど風が吹いた。


 砂が地面を走る音にさらわれて、聞き取れなかった。


「……何?」


 男が身を屈める。


「何て……」


 それでも。


 倒れた男の顔は、なぜか満足そうに笑って見えた。


 握られた手から。


 少しずつ力が抜ける。


 指が離れる。


 砂の上へ落ちた。


 乾いた音すらしなかった。


 もう動かなかった。


 残された男は、しばらくその手を見つめていた。


 自分の手を見る。


 刃物。


 血。


 また。


 倒れた手を見る。


 何をすればいい。


 どこを押さえればいい。


 何をすれば戻る。


 分からない。


 やがて立ち上がる。


 足元がふらついた。


 それでも。


 空を仰いだ。


 雲一つない夜だった。


 星だけが。


 何も知らないように散らばっている。


 肩も。


 指も。


 まだ震えている。


 これでよかったのか。


 これしかなかったのか。


 家族のためだったのか。


 もう。


 本人にも分からなかった。


     *


 ノルディス工業連合。


 広大な乾燥地帯の中に、工業都市と採掘地、その周囲へ無数の小さな集落が散らばる地域だった。


 昼間は、地面から立ち上る熱が空気を歪ませる。


 遠くを走る車は輪郭が揺れ、建物さえ地面から浮いて見える。


 夜になれば気温は一気に落ちる。


 昼間に焼かれた金属は熱を失い、触れれば冷たさが指へ残った。


 風が吹けば細かな砂が道路を覆う。


 車軸へ入る。


 歯車へ入る。


 ポンプへ入る。


 窓の隙間を抜け、家の中にまで入り込む。


 放っておけば。


 何かが止まる。


 だから。


 人は直した。


 それでも人は暮らしている。


 水は貴重だった。


 都市部では新しい給水設備が整えられつつあったが、離れた集落では古い井戸やポンプ、給水車に頼る場所も珍しくない。


 一台の車。


 一基のポンプ。


 一つの井戸。


 どれかが止まるだけで、何軒もの生活が止まる。


 だから古い物でも直す。


 砂を落とす。


 油を差す。


 削れた部品を取り替える。


 代わりがなければ、使える部品を探して組み直す。


 直せるなら使う。


 金がなければ。


 野菜でも。


 肉でも。


 手伝いでも。


 払えるもので払う。


 そうやって暮らしてきた土地だった。


 一方で、大きな都市には人が集まっていた。


 仕事。


 病院。


 新しい道路。


 安定した水。


 若い者ほど、集落を離れていく。


 閉じた家の前へ砂が積もる。


 使われなくなった道具が軒先で錆びる。


 それでも隣では。


 今日も古いポンプが音を立てて水を汲み上げている。


 残された土地へ企業が入り、新しい設備と引き換えに土地を求めることも増えていた。


 便利になる。


 暮らしやすくなる。


 仕事も増える。


 それでも。


 そこで長く暮らしてきた人間にとって、土地は土地だけではなかった。


 誰かが困れば。


 誰かが直す。


 誰かが足りなければ。


 別の誰かが持ってくる。


 そうしなければ、生きていけなかったから。


 砂漠の中に。


 そんな古い集落が一つあった。


 その端に。


 砂に削られた古い看板を掲げた、小さな工場があった。


---


# 第一章 砂の家


「ルウ! 十三!」


 車体の下から太い腕だけが突き出した。


「十三ってなんだよ!」


「十三だ!」


「だから何が十三なんだよ!」


 工場の奥から、豪快な笑い声が返ってきた。


「カッハハ! 分からんなら全部持ってこい!」


「それ工具の名前覚える気ねえだけだろ!」


 ルウはしゃがみ込み、工具箱の取っ手を掴んだ。


 持ち上げる。


 中でレンチ同士がぶつかった。


 ガチャガチャと耳障りな音が工場へ響く。


「うるせえな……」


 額から落ちた汗が眉へ入り、ルウは肩で乱暴に拭った。


 十三ミリのレンチ。


 たぶんそれだ。


 一度手に取る。


 止まる。


「……どうせ間違えてんだろ」


 十二。


 十四。


 それも突っ込んだ。


 砂漠の昼間は、何をしていなくても体力を奪っていく。


 工場の屋根は日差しを遮ってくれるが、熱まで消してくれるわけではない。


 古い送風機が首を振るたび。


 ゴォォ。


 ゴォォ。


 生温い風が工場を横切る。


 ルウの髪が持ち上がる。


 同時に細かな砂が頬へ当たった。


「っ……」


 目を細める。


 数分もすれば。


 髪にも。


 服にも。


 歯の間にまで砂が入り込む。


「ほら!」


 ルウがレンチを放る。


 車体の下から手が出た。


 大柄な男が、見もせず片手で受け止める。


「おう、これこれ」


 ルウが手元を見る。


「十三じゃねえじゃん」


「十四だったな!」


「ぶっ飛ばすぞ親方」


 車体の下から。


 油で汚れた顔が出てくる。


「親父に向かって物騒だなあ!」


「仕事中は親方だろ」


「そうだった!」


「忘れんな!」


 ガルドは腹を抱えて笑った。


 笑うと工場中に響く。


 送風機の唸りより大きい。


 外を歩いていた老人まで、開いた入口から顔を覗かせた。


「今日も元気だな、ガルド」


 ガルドは寝転んだまま手を上げる。


「死にかけてるよ!」


「嘘つけ!」


 老人も笑う。


 ルウは舌打ちした。


 しゃがみ込み、車体の下へ目をやる。


「親方、手止まってる」


「おっと」


 ガルドが再び潜る。


 ルウも横から覗き込んだ。


 目の前にあるのは、集落の西側で使われている古い給水車だった。


 砂で白く曇った車体。


 何度も溶接された跡。


 交換されたボルト。


 新しい部品より、直した痕の方が多い。


 ルウが指で配管をなぞる。


 砂。


 油。


 その下。


「ここも滲んでる」


「お?」


「見ろよ」


 指先についた油をガルドへ見せる。


「これ直しても次こっち来るだろ」


「だな」


「だな、じゃねえよ」


 ルウは車体を軽く叩いた。


 鈍い音。


「これ直す意味あんの?」


「あるぞ」


「買い替えたほうが早いだろ」


「買う金があればな」


 ガルドは車体の下へ潜り込んだ。


 ルウはしゃがんだまま、給水車の後ろを見る。


 タンク。


 配管。


 タイヤ。


 次に壊れそうな場所が、目につく。


「それに、こいつ止まったら西の婆さん連中が水運べねえ」


 ルウの目が一瞬止まった。


 それから。


 また配管へ戻る。


「またタダでやってんだろ」


「タダじゃねえぞ」


「いくら」


「野菜」


 ルウの眉間に皺が寄った。


「金じゃねえじゃん!」


「昨日でっけえ瓜もらったぞ」


「部品代どうすんだよ!」


「まあ何とかなる!」


 ルウはレンチを掴んだ。


 握る。


 金属が手の中で少し滑る。


 握り直す。


「何とかなるって言って、何とかなってねえから借金増えてんだろ」


 車体の下。


 ボルトを回していた音が。


 一瞬。


 止まった。


 ルウの視線がそこへ向く。


 だが。


 カチ。


 また回り始める。


「細けえこと気にすんな」


「細かくねえ」


「十七で借金気にしてたらハゲるぞ」


「誰のせいだよ!」


 怒鳴った声が工場の屋根を叩いた。


 送風機だけが回っている。


 ゴォォ。


 外にいた老人が視線を逸らした。


 ルウは気づいた。


 自分の手。


 レンチを握り締めている。


 指の関節が白くなっていた。


 力を抜く。


 抜けない。


 車体の下から。


 ガルドが顔を出した。


「……ルウ」


「何だよ」


「十四」


「は?」


 ガルドが手を出す。


「今度こそ十四」


 ルウはその手を見る。


 次に。


 ガルドの反対の手。


 そこに。


 十四ミリのレンチ。


「それ持ってんだろ!」


「カッハハ!」


「笑うな!」


 ルウは工具箱を蹴りそうになって。


 足が止まった。


 箱が壊れたら。


 直すのは自分だ。


「……クソ」


 代わりに深く息を吐く。


 レンチを棚へ戻した。


 一本。


 少し曲がっている。


 気づいた瞬間。


 指が動く。


 取り出す。


 目の高さまで持ち上げる。


「これ誰が曲げた」


「俺かな」


「何で普通に使ってんだよ!」


 また。


 ガルドが笑った。


 ルウは曲がったレンチを見つめる。


 足元では。


 空いた方の拳が。


 小さく震えていた。


     *


「兄ちゃん、これ運ぶ」


「やめろ」


 工場の外。


 小柄な弟が両腕で部品箱を抱えていた。


 箱の縁から、小さな金属部品が覗いている。


「持てる」


「落とす」


「落とさない」


「いいから置け」


 ルウは別の部品を拭きながら答えた。


 弟は頬を膨らませる。


「持てるって!」


 一歩。


 箱が傾いた。


 中から金属部品が一つ滑り落ちる。


 ルウの手が動いた。


 考えるより先だった。


 しゃがみ込み。


 落ちた部品を拾う。


 傷。


 欠け。


 歪み。


 指で回す。


 無事。


 その確認が終わって。


 顔が上がった。


「だから言っただろ!」


 弟の肩が。


 びくりと跳ねた。


 箱を抱える腕が縮こまる。


 工場の奥で鳴っていた金属音まで。


 止まった。


「足に落ちたらどうすんだよ! 考えろよ!」


「……ごめん」


 ルウはさらに何か言いかけた。


 弟の目を見る。


 少し潤んでいる。


 視線が落ちる。


 弟の足。


 怪我はない。


 次。


 箱。


 壊れていない。


 部品。


 無事。


 全部。


 問題ない。


 なのに。


 弟だけが。


 まだ固まっている。


「……」


 ルウの右手が上がった。


 弟の肩へ向かう。


 途中で。


 止まった。


 何をする。


 叩く?


 撫でる?


 分からない。


 手を下ろす。


「……貸せ」


 箱を奪うように受け取る。


 重い。


 弟には少し重すぎる。


 ルウはそれを一人で工場へ運んだ。


 後ろから妹の声。


「ルウ兄」


「何」


 振り返らない。


「今ちょっと怖かった」


「は?」


 足が止まる。


「怒りすぎ」


「危ねえことしたから言っただけだろ」


「でも」


「普通だよ」


 返事はなかった。


 ルウは数歩進む。


 それから。


 ほんの少しだけ振り返った。


 弟は妹の横に立っている。


 怪我はない。


 泣いてもいない。


 それを確認すると。


 すぐ前を向いた。


 部品箱を持つ腕には。


 必要以上に力が入っていた。


     *


 夕方。


 日中の熱がまだ地面に残っていた。


 工場では送風機が相変わらず唸っている。


 ガルドが給水車のエンジンをかけた。


 ガガッ。


 ゴウン。


 黒い煙。


 ルウはすぐ耳を澄ませる。


「待て」


「ん?」


「もう一回」


 ガルドがアクセルを踏む。


 ルウはエンジン音を聞く。


 眉を寄せる。


「……まだ変な音する」


「走りゃ馴染む!」


「馴染まねえよ!」


 その時。


 工場の外。


 別のエンジン音。


 一台。


 続いて。


 二台。


 三台。


 ルウが顔を上げる。


 工場の前に三台の車が止まった。


 集落のものではない。


 砂除けの加工がされた新しい車体。


 車高。


 タイヤ。


 吸気口。


 ルウの目が順番に追う。


「……新品かよ」


 砂漠を走ってきたのに。


 車体に目立った軋みもない。


 エンジンを切る。


 すぐ静かになった。


 給水車は。


 まだ後ろで不規則に震えている。


 ゴウン。


 ガッ。


 ゴウン。


 その差だけで。


 ルウは見ただけで機嫌が悪くなった。


「また来た」


「客か?」


 ガルドは呑気に給水車から顔を上げる。


「借金取りだろ」


「そうとも言うな」


「客じゃねえよ!」


 三人の男が降りてくる。


 ドアが。


 軽い音で閉じた。


 先頭の男だけが、砂漠には似合わないほどきれいな服を着ていた。


 靴にもほとんど砂がついていない。


「ガルドさん」


「おう。今日は何壊れた?」


「その話ではありません」


「じゃあ帰っていいぞ」


「返済についてです」


「ああ」


 ガルドは頭を掻く。


 指についた油で、髪に黒い筋がついた。


「今月厳しいな」


「先月も同じことを聞きました」


「先々月もだな」


「笑い事ではありません」


「俺は笑えるぞ」


「親方!」


 ルウが睨む。


 男はルウには目もくれない。


 その視線が。


 工場へ向く。


 給水車。


 工具棚。


 建物。


 土地。


 値踏みするように。


 ルウが一歩動いた。


 男と工場の間へ。


 無意識だった。


「工場用地を含めた担保契約について、改めて――」


「売らんぞ」


 さっきまで笑っていたガルドの声が変わった。


 ルウが横を見る。


 ガルドは工具を持ったまま立っている。


 笑っていない。


 低くもない。


 強くもない。


 ただ。


 はっきりしていた。


「ここは売らん」


「では返済を」


「する」


「いつ?」


「働いて返す」


「現実的ではありません」


「俺は現実に働いてるぞ」


「ガルドさん」


「何だ」


「あなた一人の問題ではないんですよ」


 ガルドの目が。


 少しだけ細くなる。


 工場の外。


 遠くで。


 古いポンプが規則的な音を立てていた。


「それはこっちの台詞だ」


 男は小さく息を吐いた。


「また来ます」


「茶くらい飲んでけ」


「結構です」


 三人が車へ戻る。


 ドア。


 三つ。


 軽い音。


 エンジンがかかる。


 三台の車が砂煙を上げて去っていく。


 ルウはその後ろ姿を睨み続けていた。


 目は車体へ向いている。


 壊れろ。


 エンジン。


 サスペンション。


 車軸。


 何でもいい。


「……ぶっ壊れりゃいいのに」


「車か?」


「全員」


「物騒だなあ」


「親父が呑気すぎんだよ!」


 ガルドは少しだけ笑った。


 そして。


 給水車のボンネットを叩く。


「腹減ったな」


「話そらすな!」


 ルウは怒鳴る。


 それでも。


 ガルドが再び車体へ潜れば。


 自分もしゃがんだ。


 音を聞く。


 油を見る。


 ボルトへ手を伸ばす。


 壊れているなら。


 直せる。


 そこだけは。


 簡単だった。


---


# 第二章 帰ってこない


 食卓には一つ空いた席がある。


 誰もそこを片付けようとはしなかった。


 昔から。


 そこはユーラの席だった。


 椅子は引けるように少しだけ空けてある。


 背もたれに物は掛けない。


 母親が鍋を運んでくる。


 皿。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 手が。


 もう一枚へ伸びかける。


 止まった。


 母親は何も言わず、鍋の蓋へ手を戻した。


「今日も来たの?」


 煮込みから湯気が上がる。


「来た」


 ルウが答える。


 スプーンで具を潰す。


「親父がまた笑って追い返した」


「追い返してねえぞ」


「同じだろ」


 ガルドは煮込みを口へ放り込む。


 熱かったのか、一瞬だけ眉を動かした。


 それでもそのまま食べる。


「あっちも仕事だ」


「こっちは家取られそうなんだけど」


「まだ取られてねえ」


「そういう問題じゃねえ!」


 スプーンが皿に当たる。


 甲高い音。


 妹と弟が同時にルウを見る。


 ルウの指が止まった。


 自分のスプーンを見る。


 次に。


 二人を見る。


 舌打ちして顔を逸らした。


「……兄ちゃんから、連絡ないの?」


 妹が言った。


 ルウの指が。


 一瞬だけ止まる。


「ない」


「いつ帰ってくるのかな」


「知らねえよ」


「でも、帰ってくるって――」


「帰る気ねえんだろ」


 思っていた以上に。


 冷たい声が出た。


 妹の目が下がる。


 母親がルウを見る。


「ルウ」


「何だよ」


「妹に当たらない」


「当たってねえ」


 ガルドは黙って食べていた。


 スプーン。


 皿。


 スプーン。


 皿。


 その一定の音が。


 余計に腹立たしい。


「親父も何とか言えよ」


 ガルドの手が止まる。


「何をだ」


「兄貴のこと」


「何言えばいい」


「帰ってこいって言えよ!」


「言って帰ってくるなら、とっくに帰ってきてる」


「じゃあ放っとくのかよ!」


 ガルドはスプーンを置いた。


 小さな音だった。


 それだけで。


 ルウも黙る。


「……帰りてえ時に帰ってくりゃいい」


「は?」


「家なんだから」


 ルウの目が。


 空いた席へ向く。


「……」


「帰ってきた時に、家がありゃいい」


 ガルドはそれだけ言って。


 またスプーンを取った。


 母親は何も言わない。


 妹も。


 弟も。


 空いた席だけが。


 そのまま残っている。


 ルウは何も言えなかった。


 胸の奥が。


 妙に痛かった。


 機械なら。


 音を聞けば。


 ある程度、壊れた場所が分かる。


 ここは。


 分からない。


 その痛みが何なのか考える前に。


 腹が立った。


「だからその家取られそうなんだろ!」


「カッハハ!」


「笑うな!」


     *


 夜。


 ルウは工場の屋根に座っていた。


 昼間。


 手を置けないほど熱かった金属板は。


 今は冷たい。


 掌をつけば。


 体温を奪われる。


 砂漠は極端だ。


 昼は殺すほど暑く。


 夜は身体の熱を容赦なく奪う。


 風が吹く。


 ルウの前髪が持ち上がる。


 昼間入り込んだ砂が、髪から少し落ちた。


 遠くに集落の灯りが点々と続いている。


 少ない。


 昔より減った。


 都市へ出た家。


 老人が死んで空になった家。


 砂嵐で壊れ、そのままになった家。


 明かりのない家は。


 夜になると形まで分かりづらい。


 ルウは膝を立てる。


 その膝へ腕を乗せた。


 視線は。


 無意識に壊れたものを探していた。


 傾いた屋根。


 止まったままの古い風車。


 砂に半分埋まった柵。


 直せそうなもの。


 直しても。


 誰も戻ってこないもの。


 昔。


 この屋根には二人で座った。


 隣を見る。


 何もない。


『待ってろよ、ルウ』


 兄の声を思い出す。


『面白い土産話、いっぱい持って帰ってくるからな!』


 ルウの手が。


 屋根の金属板を撫でた。


 錆びた場所。


 指先で擦る。


 赤い粉がつく。


 直そうと思えば。


 直せる。


 隣は。


 直せない。


「……嘘つき」


 小さく呟いた。


 風が。


 その声を持っていった。


---


# 第三章 人は一人じゃ生きられねえ


 数年前。


 工場では。


 今より少しだけ多くの音がしていた。


 金属を叩く音。


 エンジン。


 送風機。


 外を通る人間の声。


 その中で。


 ユーラは工場の前に立ち。


 父親と向き合っていた。


「もういいだろ、親父」


「何が」


「土地だよ」


 ガルドはエンジンの部品を磨いている。


 黒く汚れた布を動かし。


 顔すら上げない。


「またその話か」


「またするよ。何回でも」


「売らん」


 布。


 金属。


 擦れる音。


「話くらい聞けよ!」


「聞いた」


「聞いてねえ!」


 ガルドは磨いた部品を光へ翳した。


「道路作る。診療所作る。新しい貯水設備作る。仕事も増える」


 指を折りながら並べる。


「合ってるか?」


「……合ってる」


「じゃあ聞いてる」


 部品を机へ置く。


「だったら!」


「売らん」


 ユーラの拳が握られる。


「なんでだよ!」


 ガルドの手が。


 ようやく止まった。


 布を置く。


 息子を見る。


「お前、あっち見ろ」


「何だよ」


「見ろって」


 顎で工場の外を示す。


 ユーラは苛立ったまま振り返る。


 砂漠の中。


 小さな家がいくつもある。


 家と家の間。


 老人が水の入った容器を運んでいる。


 遠くでは。


 古いポンプの取っ手が上下していた。


「あそこの婆さん、一人暮らしだ」


「知ってる」


「向こうの爺さんは足悪い」


「知ってるよ」


「あっちは去年、息子が都市に出た」


「だから何だよ」


 ガルドが立ち上がる。


「こいつらどうすんだ」


「移住区が用意される」


 ガルドは工場の外へ歩き出す。


 ユーラも。


 少し遅れてついていく。


「誰が連れてく」


「企業がやる」


「十年後も?」


 ユーラの足が。


 少し遅れる。


「二十年後は?」


「……」


 二人の横を。


 古い車が通る。


 荷台の男がガルドへ手を上げる。


 ガルドも上げ返す。


「夜中にポンプ止まったら?」


「新しい設備になる」


「壊れねえ設備なんかあるか?」


「親父!」


 ガルドは歩きながら。


 道の端に置かれた古いポンプへ触れた。


 錆びた金属。


 何度も補修された跡。


「車埋まったら誰が引っ張る」


「……」


「子供が夜中に熱出したら誰が運ぶ」


 ユーラは拳を握る。


「そんなの、今のほうが問題だろ!」


「そうだな」


「病院まで何時間かかると思ってんだよ!」


「遠いな」


「水だっていつ止まるか分からねえ!」


「そうだ」


「若い奴みんな出てくじゃねえか!」


「出てくな」


 ちょうど。


 二人の横にある一軒。


 窓は閉じ。


 入口の前に砂が積もっていた。


「だったら変えろよ!」


 ユーラの声が。


 集落へ響いた。


 遠くで。


 犬が一度吠える。


 ガルドは怒らなかった。


 少しだけ笑った。


「カッ」


「何がおかしい」


「お前、ちゃんと考えてんだな」


「馬鹿にしてんのか」


「してねえよ」


 ガルドはまた歩く。


 ユーラはその背中を追う。


「道路は欲しい」


「……」


「医者も欲しい」


「だったら――」


「水だって安定した方がいい」


「じゃあ!」


「でもな」


 ガルドが止まった。


 ユーラも。


 一歩遅れて止まる。


 父親が見ている方向へ。


 視線を向ける。


 家。


 工場。


 ポンプ。


 道路。


 人。


「ここじゃ、人は一人じゃ生きられねえ」


「またそれかよ」


「まただ」


「綺麗事だろ」


 ガルドが振り返った。


「カッハハ! お前ここで育って、それ言うか?」


「……」


「水止まったら誰かが直す」


 親指で。


 後ろの工場を指す。


「車埋まったら誰かが引く」


 道を指す。


「飯なくなったら隣が持ってくる」


 ちょうど近くの家から。


 女が皿を持って隣家へ歩いていく。


 ユーラの目が。


 ほんの一瞬。


 そちらへ向く。


「それで親父の借金増えてんだろ!」


「増えてんな!」


「笑うところじゃねえ!」


「だが、俺が困った時はあいつらが来る」


「来なかったら?」


「来れねえ時もある」


「意味ねえじゃん!」


 ガルドは。


 少しだけ目を細めた。


 風が吹く。


 足元を砂が走る。


「助けられなかったのと、助けようとしなかったのは違う」


 ユーラは答えなかった。


「ここじゃな」


 ガルドは砂漠を見渡す。


 遠く。


 点々と続く家。


 その向こう。


 都市へ伸びる道。


「一人で生きてる奴なんか、一人もいねえ」


 風が強くなる。


 ユーラの服が鳴る。


「だから、一人だけ切って残りが助かりゃいいなんて話は、俺は嫌いだ」


 ユーラの表情が。


 止まった。


 風に押されて。


 身体だけが。


 ほんの少し揺れた。


「……誰もそんな話してねえよ」


「そうか」


 ガルドは笑った。


「ならいい」


 先に。


 工場へ戻り始める。


 ユーラは。


 その場に残った。


 父親の背中を見る。


 その顔には。


 怒りとも。


 悲しみともつかないものがあった。


「親父」


 ガルドが振り返る。


「ん?」


「もし」


 ユーラの右手が。


 服の脇へ触れた。


 何もない場所。


 握るものもないのに。


 指だけが。


 布を掴む。


「もし何だ」


「……いや」


 手を離す。


 視線を逸らした。


「何でもない」


---


# 第四章 嘘つき


 その夜。


 ユーラは眠れなかった。


 窓の外。


 風が壁へ砂を当てている。


 さら。


 さら。


 時々。


 強く。


 ざっ。


 何度寝返りを打っても。


 父親の声が残っている。


 一人だけ切って。


 残りが助かればいいなんて。


「……」


 目を閉じる。


 家の借金。


 工場。


 母親。


 ルウ。


 妹。


 弟。


 集落。


 道路。


 病院。


 水。


 仕事。


 全部が頭の中を回る。


 何かを残そうとすれば。


 何かを失う。


 全部残そうとすれば。


 全部なくなるかもしれない。


 そして最後に。


 提示された条件を思い出す。


 父親一人。


 たった一人。


 ユーラの右手が。


 布団の上で握られる。


 開く。


 また。


 握る。


 父親一人。


 家族。


 集落。


 未来。


 一人。


 残り。


 ユーラは目を開けた。


「……クソ」


     *


 翌朝。


 工場のシャッターが上がる。


 ガラガラガラ――。


 送風機。


 ゴォォ。


 工具。


 ガチャ。


 金属。


 カン。


 ガルドは。


 いつも通りだった。


「ルウ! 十五!」


 家の方から声が返る。


「まだ寝てるよ!」


「じゃあお前!」


 ユーラが工場の入口で眉を寄せる。


「俺の名前知ってる!?」


「カッハハ!」


 笑い声。


 送風機。


 工具。


 外を通る人の声。


 全部。


 いつもの朝。


 ユーラは工場の入口から。


 その姿を見ていた。


 ガルドが車体へ潜る。


 出てくる。


 工具を探す。


 見つからない。


 別の工具を使おうとする。


「それ合わねえだろ」


 ユーラが言う。


 ガルドが振り返った。


「何だ?」


「いや」


「変な顔してんな」


「親父に言われたくねえ」


 ガルドはユーラの顔を少し見る。


「朝飯食ったか?」


「食った」


「嘘だな」


「なんで分かんだよ」


「父親だからな!」


 ガルドは笑う。


 ユーラも。


 少しだけ笑った。


 右手は。


 ポケットの中で。


 強く握られていた。


     *


 それから数日。


 ユーラは何度か家を出た。


 朝。


 集落を抜ける。


 夕方。


 戻る。


 靴に付いた砂の色が。


 少し違う日もあった。


 どこへ行くのか聞かれても答えなかった。


 帰ってくるたび。


 口数が減っていた。


 食卓でも。


 工場でも。


 以前なら口を挟んだ話へ。


 入らなくなった。


 ガルドは何も聞かなかった。


 ルウだけが苛立っていた。


「兄貴、最近何してんの」


 ルウは分解した部品を布で拭いている。


 ユーラは工場の壁へ背を預けていた。


「仕事」


「何の」


「色々」


「怪しい」


「お前に言われたくねえよ」


「俺は怪しくねえ」


「いつも機嫌悪い」


 ユーラが笑った。


「ほら」


「何だよ!」


 ルウの手が止まる。


 本気で腹を立てた顔。


 でも。


 ユーラが笑っている。


 それを確認すると。


 ほんの少しだけ。


 肩から力が抜けた。


「……意味分かんねえ」


 また部品を磨き始める。


 ユーラは。


 その横顔を見ていた。


 長く。


「何だよ」


「別に」


「気持ち悪い」


「うるせえ」


 ルウが部品へ視線を戻す。


 ユーラの笑みも。


 ゆっくり消えた。


     *


 そして。


 夜。


 風の強い日だった。


 工場では。


 一日の仕事が終わろうとしていた。


 ガルドが送風機のスイッチを切る。


 ゴォォォ……。


 羽根が。


 ゆっくり止まる。


 一つ。


 音が消えた。


 工具を箱へ戻す。


 ガチャ。


 蓋を閉じる。


 金属音が消えた。


 工場の灯りを。


 一つ落とす。


 奥が暗くなる。


 もう一つ。


 作業台だけが残る。


 ガルドは外へ出た。


 シャッターへ手をかける。


「親父」


 手が止まった。


 振り返る。


 ユーラが立っていた。


 工場の明かりを背にして。


 顔の半分が影になっている。


「おう」


 ガルドはシャッターへ手を戻す。


「まだ起きてたのか」


「話ある」


「腹減ったなら残り物あるぞ」


「そうじゃねえ」


「金ならねえぞ」


「違う」


 ガルドの手が。


 止まった。


 息子を見る。


 ユーラの右手。


 服の横。


 一度。


 触れる。


 すぐ離れた。


 ガルドの目が。


 その手を追う。


 だが。


 何も言わない。


 顔を見る。


 少しだけ。


 笑みが消えた。


「……そうか」


「何が」


「いや」


 ガルドは。


 シャッターから手を離した。


「話すか」


 二人は工場を出た。


 背後。


 作業台の灯りだけが残っている。


 ガルドが戻る。


 スイッチを押す。


 消えた。


 最後に。


 シャッター。


 ガラガラガラ。


 下りていく。


 いつも聞いている音。


 地面へ着く。


 ガン。


 工場の音が。


 全部。


 なくなった。


     *


 二人は歩いた。


 最初は。


 まだ家の灯りがあった。


 窓から漏れる明かり。


 食器の音。


 誰かの話し声。


 犬が二人を見て。


 一度吠えた。


 ガルドが手を上げる。


「うるせえぞ」


 犬はもう一度吠えた。


 ユーラは笑わなかった。


 歩く。


 家が減る。


 灯りが減る。


 足元。


 固く踏まれた道。


 その端へ。


 砂が増える。


 また歩く。


 背後の集落から。


 人の声が聞こえなくなる。


 残るのは。


 二人の足音。


 風。


 砂。


 ユーラの右手が。


 また。


 服の脇へ触れた。


 握る。


 離す。


 ガルドは前を歩いている。


 気づいているのか。


 いないのか。


 振り返らない。


 やがて。


 足元から。


 固い感触がなくなった。


 靴が。


 砂へ沈む。


 ざっ。


 ざっ。


 砂漠の夜は静かだった。


 風の音だけが続いている。


「親父」


「ん」


 ガルドは歩いたまま答える。


「まだ考え変わらない?」


「何の」


「土地」


「変わらんな」


「借金も?」


「返す」


「無理だ」


「やってみなきゃ分からん」


「分かるよ」


「そうか」


 二人の間。


 少し距離が開く。


 ユーラが止まったからだ。


 ガルドが数歩先で気づく。


 振り返る。


「親父」


「ん?」


「……何でそんなに平気なんだよ」


 風が。


 二人の間を横切る。


 ガルドが首を傾げる。


「何が」


「全部だよ」


 ユーラの声が震えた。


 右手。


 服の脇。


 今度は。


 離れない。


「借金も」


「うん」


「工場取られるかもしれないのも」


「うん」


「家族が困ってるのも」


「……」


「何で笑ってられんだよ!」


 風に声が乗る。


 遠くへ消える。


 ガルドは黙った。


「俺は怖いよ」


 ユーラが吐き出した。


「全部なくなるのが怖い」


「……そうか」


「母さんも」


「うん」


「ルウも」


「うん」


「あいつらも」


「うん」


「ここにいる奴らも!」


 拳が震えている。


 握っている。


 右手。


 そこだけが。


 身体から離れたように固い。


「なのに親父は、何とかなるって!」


「言ったな」


「何とかならなかったらどうすんだよ!」


 ガルドはしばらく黙っていた。


 風。


 砂。


 それだけ。


 そして。


「その時は、またみんなで考える」


「……」


「俺一人で考えたってしょうがねえ」


 ユーラの表情が歪んだ。


「それじゃ遅いんだよ……」


「ユーラ」


「遅いんだよ!」


 声が裏返った。


 ガルドは怒らない。


 一歩。


 ユーラへ近づく。


「お前、一人で何とかしようとしてんのか」


「……」


「やめとけ」


「……何で」


 もう一歩。


「人は一人じゃ生きられねえ」


「またそれかよ」


「ああ」


 ユーラの右手が。


 ゆっくり動く。


「……親父」


「ん?」


 指が。


 何かを握る。


「ごめん」


 ガルドの眉が。


 少し動いた。


 風。


 砂。


 月明かり。


 次の瞬間。


 ユーラが踏み込んだ。


 身体がぶつかった。


 ガルドの胸が。


 すぐ目の前に来る。


 何かが。


 腹へ沈む。


「……お」


 ガルドが一歩下がった。


 靴が砂を滑る。


 ユーラの手。


 その先。


 刃物。


 赤い。


 風が吹いた。


 刃先が。


 月明かりを拾った。


 ユーラ自身が。


 一番驚いた顔をしていた。


「……」


 ガルドは。


 自分の腹を見る。


 次に。


 ユーラを見る。


「お前……」


 息を吸う。


「何してんだ」


 ユーラの手が。


 震え始める。


 細かく。


 止めようとしても。


 止まらない。


「……家族のためなんだ」


 ガルドは何も言わない。


「これしか……なかったんだ」


 刃先が揺れる。


 手だけではない。


 肩。


 膝。


 呼吸。


 全部。


 ユーラの身体が震えていた。


「親父一人で……」


 声にならない。


「全部……」


 ガルドは腹を押さえながら。


 一歩だけ近づいた。


 ユーラの目が見開く。


 後ろへ。


 一歩。


「来んな……」


 ガルドは止まらない。


「……」


「来んなよ!」


 もう一歩。


「俺……」


 ユーラの呼吸が乱れる。


「俺は……!」


 ガルドの膝が。


 砂へ落ちた。


 ざっ。


 ユーラの目が。


 そこへ落ちる。


 血。


 砂。


 父親。


 何をする。


 傷口を押さえる?


 誰かを呼ぶ?


 工場へ戻る?


 車。


 工具。


 布。


 何か。


 何か。


 何をすれば直る。


 頭の中で。


 いくつも浮かぶ。


 身体は。


 一つも動かない。


 ガルドが。


 ゆっくり顔を上げた。


 その目は。


 怒っているようには見えなかった。


 ただ。


 息子を見ていた。


 長い間。


 何かを確かめるように。


 そして。


 手を伸ばした。


 血に濡れた手だった。


 ユーラの肩が跳ねる。


 刃物を握ったまま。


 動けない。


 ガルドの手は。


 刃物には向かわなかった。


 震えている息子の手を。


 上から包む。


 ユーラが息を呑む。


「……」


 ガルドが何か言った。


 風が。


 強く吹いた。


 砂が走る。


 声をさらっていく。


「……何?」


 ユーラが屈む。


「何て言ったんだよ」


 返事はない。


 それでも。


 ガルドは。


 どこか満足そうに笑って見えた。


「……親父?」


 握られていた手。


 少しずつ。


 力が抜ける。


 指が離れる。


 砂へ落ちる。


「親父」


 返事はない。


「……おい」


 ユーラは。


 父親の手を見る。


 傷を見る。


 血を見る。


 もう一度。


 手を見る。


 動かない。


「……親父」


 自分の手を見る。


 刃物。


 血。


 何をすればいい。


 どこを押さえればいい。


 何をすれば。


 戻る。


 分からない。


 やがて。


 ユーラは立ち上がった。


 足がふらつく。


 空を仰ぐ。


 雲一つない夜だった。


 星だけが。


 何も知らないように散らばっている。


 肩が震えている。


 指も。


 唇も。


 全部。


 これでよかったのか。


 これしかなかったのか。


 家族のためだったのか。


 もう。


 ユーラ自身にも分からなかった。


     *


 その夜。


 工場の送風機は。


 もう回っていなかった。


 工具の音もしない。


 シャッターは閉じたまま。


 家では。


 いつもの時間を過ぎても。


 一つの席が空いていた。


 そして。


 もう一つ。


 誰も座らなかった。


 ガルドは帰ってこなかった。


 ユーラも。


 帰ってこなかった。

ルウ編、前編です。

今回描きたかったのは、まだ「憤怒」そのものではありません。

ルウが、なぜ怒る人間になっていくのか。

そのもっと手前にあるものです。

砂漠の暑さ。

金のない生活。

減っていく人。

壊れれば命に関わる設備。

そして、助け合わなければ暮らしていけない小さな集落。

そんな場所で生きるガルドは、

「人は一人じゃ生きられねえ」

と考えています。

たぶん彼にとってこれは思想でも綺麗事でもなく、ただの生活実感です。

一方でユーラは、その生活を守ろうとするからこそ、別の答えへ進んでいきます。

誰かを守りたいという気持ちは、必ずしも同じ選択には繋がりません。

そしてルウもまた、父親に腹を立てながら、結局は父親とよく似ています。

文句を言う。

怒る。

それでも困っている人間を見れば動いてしまう。

この前編では、そんな彼の中にあるものを置きました。

ここから先、それが「怒り」という形でどう変わっていくのか。

ルウ編は、ここからが本番です。


【KillerWorld ―七つ目の答え― 世界地図】


挿絵(By みてみん)

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